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体感・体験

 投稿者:アルベアメール  投稿日:2015年11月 9日(月)07時08分21秒
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  今は、仏法の本質を体感する時である。

 人間が「わかる」には2つのパターンがある。1つは、いわゆる理解すること、この理解は思考

して「わかる」範疇である。2つは、自分自身の体験を通して「わかる事」であり「了解」するこ

とである。体感することによる「わかる事」である。

 日蓮仏法の醍醐味は、体感・体験する事により、自己と他者の救済である。理屈で理解しても

体感しない限り物語である。

体感する現象は「気づく」という現象ということである。理屈での気づきは、思考操作によるも

のであり限界がある。一方では智慧としての「気づき」がある。体感する気づきとは、智慧によ

る働き作用によるものである。

「身読する」「身口意の三業で読む」とは、身体感覚を通しての読み方である。

現代人は鎌倉時代の人々と比べ日常生活の身体運動量は1/10以下である。思考による理解と身体

的理解との差が大きい。現代は身体感覚が希薄な状況にある。つまり「身読」の仕方が「わから

ない」「できない」状況にあり、思考による読み方が先行しているのである。

牧口先生・戸田先生・池田先生の著作・スピーチをいくら読んでも師匠の真実に肉薄できないの

である。直接、指導をされても真意がくみ取れない状況にある。このような状況は戸で先生の出

獄後の創価の再建当時以前からある事実である。54年問題云々する以前から見られていた内部

的現象なのである。師弟を語り、叫んでも、師匠の真意がわからないという現象があるというこ

とである。一念のズレによるものである。一念のズレに魔が付け込むからである。

個人の信心、師弟とは、思い込み・信じ込みではない。感応道交の働き作用によるものである。

弟子の働き作用によるものである。

板でいろいろ語られていることは、思い込み・信じ込みによる範疇にすぎない。なぜならば、何

も変わらない現実があるからである。それは体感・体験の希薄さがあるからである。体感・体験

が在るならば変わるからである。

どうして、そういう現象があるのか、それは一人一人の体感する時期にあるからこのような状況

がもたらされているのである。

「実践」という言葉をいくら自分に言い聞かせても、しょせん自分自身の思考の世界、言葉は本

来、体感により裏打ちされたものであるが、身体感覚の希薄化されている現代では、裏打ち無き

言葉が勝手に浮遊し生滅を繰り返しているゆえに「響かない」のである。

日常生活で日々報道されている不正、腐敗のニュースは身体感覚の希薄化に伴う自己都合の優先

が人間の内部に定着化しているからである。創価の組織にあっても、当たり前になっている状況

も同じなのである。

「日蓮仏法は太陽の如く」「なぜ太陽なのか」深く思索することもしない、できない、「ああそ

うか太陽なんだ」程度の言葉の理解に留まっている。自分自身が太陽の役割、働き作用があると

身体的に気づけない、体感なきゆえの現実である。

先般も述べたが、体感・体験による目覚めが無い限り腐敗・世俗化は続くのである。生命論的に

言うならば「善悪」を超える事ができないからである。「悪」という働き作用ですら「救済」を

求めているのである。体感することにより「悪」は冥伏するのだ。それが太陽の働き作用なの

だ。

虹と創価家族 様の11月8日の「4.2」の池田先生のスピーチを引用させていただくと、

投稿日:2015年11月 8日(日)00時32分6秒 池田SGI会長の指針

「4・2」記念各部代表懇談会でのスピーチから(1993年4月3日、東京)

 どんな宗教も「本尊」がいちばん大切である。それでは、日蓮大聖人の仏法における「本尊」

の本義はどこにあるのか。大聖人御自身が、こう仰せである。

 「此の御本尊全く余所《よそ》に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持《たも》ちて南無

妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(御書1244㌻)──この御本尊は、まった

く、よそに求めてはならない。ただ、われわれ衆生が、法華経を持《たも》って南無妙法蓮華経

と唱える胸中の肉団にいらっしやるのである──。

 この御文を拝して、戸田先生は、このように講義された。(昭和31年3月6日、「日女御前御返

事」講義。『戸田城聖全集』第6巻)

 「大御本尊様は向こうにあると思って拝んでおりますが、じつはあの三大秘法の御本尊様を、

即南無妙法蓮華経と唱え、信じたてまつるところのわれらの命のなかにお住みになっていらっし

やるのです。これはありがたい仰せです。

 この信心をしない者は、仏性がかすかにあるようにみえてひとつも働かない、理即の凡夫で

す。われわれは御本尊を拝んだのですから、名字即の位です。名字即の位になりますと、もうこ

のなかに赫々として御本尊様が光っているのです。

 ただし光り方は信心の厚薄による。電球と同じです。大きい電球は光るし、小さい電球はうす

い。さらにこの電球の例でいえば、信心しない者は電球が線につながっていないようなもので、

われわれは信心したから大御本尊という電灯がついている。ですから、われわれの命はこうこう

と輝いている。

 信心が強いかどうかである。信心が強ければ、自分自身が功徳聚(功徳の集まり)となってい

く。大聖人は御本尊のことを「功徳聚」と仰せである。そして「此の御本尊も只信心の二字にを

さまれり」(御書1244㌻)──この御本尊も、ただ信心の二字に収まっているのである──と。
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この指導を、体感する・体験することが、今気が付いた者の課題なのだ。

虹と創価家族 様、有難うございました。
 
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