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「無明との戦い」

 投稿者:多様性万歳  投稿日:2015年11月 6日(金)14時13分51秒
  通報 編集済
  創価学会と公明党の執行部が、すでに「創立の精神」を失いかけている現状を見て、
いよいよ第二ステージである「無明との戦い」が始まったと実感している。
この「無明との戦い」こそが、学会員一人ひとり、
ひいては学会総体の「発迹顕本」の本番ステージではないだろうか。

では第一ステージとは何であったか。
それは、各自が仏(地涌の菩薩)であるとの自覚をするステージであったと考える。
自身の悩みに直面し、祈り、行動し、結果を出す中で、少しずつ自身の仏界を固め、
組織活動の中で仏界の軌道に乗り、その確信を深めてきた。
それは各自、大変な戦いではあったが、日蓮大聖人の御金言によれば、
自身の仏界を涌現することは、「やすやすと」実現できると仰せである。
裏を返せば、個人の幸福を実現することは、
世界平和や人類全体の幸福を実現していくことに比べれば、
たやすいことだと仰せだとも受け取れる。

日蓮仏法においては、自身の仏界涌現はゴールではなく、
そこから人々の中、社会の中に飛び込んで変革していくスタート地点であり、
そこでは、「個人の幸福」は当然、実現可能なものとして、
その先の「世界平和と人類の幸福」を実現するために、
社会全体の「無明」と戦い続け、勝利するための方途を教えているのではないだろうか。
ここに、九界から仏界を目指す(従因至果の)釈迦仏法(月の仏法)と、
逆に仏界から九界に向かう(従果向因の)日蓮仏法(太陽の仏法)との違いがあると思われる。

この「月の仏法」と「太陽の仏法」の違い、そして「無明との戦い」について、
池田先生の言葉から学んでみたい。
(以下、「 」内の池田先生の言葉は全て『御書の世界』第三巻から引用)

<仏界の涌現は「やすやすと」実現できる>
「太陽の仏法は、万人を無作三身、本来ありのままの仏として開いていく。ゆえに「やすやすと仏になるべし」(御書P.554)と仰せです。
大聖人は、釈尊ほどの仏になること自体は簡単なことだと仰せです。
「如我等無異とて釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり」(御書P.817)
「如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」(同P.1443)
それが御本尊の功力です。末法の一切衆生を救う大良薬であるが故に、誰人も成仏することができる。」
「南無妙法蓮華経の大良薬があり、受持即観心の御本尊があれば、確かに、誰人も仏界を涌現する。そこまでは「信」があれば、やすやすと実現することは確かです。
しかし問題は、どう「持(たも)っていくか」「持ち続けるか」という「持つ」ことの内容です」(P.139)

<「持(たも)つ」とは、どういうことか>
「私たちで言えば、信心し、御本尊を受持して、仏勅の和合団体である創価学会のなかで広宣流布の実践を貫き通すことです。
この広宣流布の実践とは、言い換えれば、胸中の仏界の太陽の輝きを、より多くの人に伝えていくことにほかならない。
自身の胸中に仏界の太陽を昇らせた人は、その太陽の光を万人に注いでいく。それが「持つ」ことです。
そのために「語りに語る」ことです。
そこには「持ち続ける」という持続の困難さもあれば、光明を嫌う障魔の妨害もある。人々の無明の反発は想像を絶する労苦を生むこともあるでしょう。
それでも、自らが太陽として輝き続けることが、「持つ」ことの本質です。」(P.140)

<「無明」とは、何か>
「無明というのは、ある意味で光を吸い取っていくような力をもっている。人間の善性をあざけり笑い、善の人を人間不信の奈落の底に突き落とすことは日常茶飯事とも言える。」
「だからといって、「平和への意思」を放棄したら、それこそ無明の勢力の思う壺です。
もちろん、安易な善意などでは難局は乗り越えられません。千人のうちに九百九十九人が人間不信の穴に転落しても、「それでも私は、人間を信じる」と言い切る強靭な魂のバネを輝かせていく。
仏界の太陽とは、そうした根源の精神性の力です。追い詰められれば追いつめられるほど、はね返していくバネがなければ、生命が濁りゆく末法で人間としての輝きを発揮することなどできません。」(P.141)

<「月の仏法」から「太陽の仏法」へ>
「いかなる事態になっても、「にもかかわらず」「それでも」「だからこそ」とはじき返す強き心。それが即ち仏界の力です。末法という濁世のなかで、仏界の輝きを持続するための「信力」は、誓願の力によって強化されていくといえます。
瞬時に仏界を涌現することは、日蓮大聖人の仏法では簡単なことです。そうした仏界涌現の確かな軌道を大聖人が築いてくださったからです。その軌道に乗れば、仏界を胸中から涌現することまでは「やすやすと」できるのです。
大事なことは、それを現実のただ中で貫いていくことです。仏界を覆わんとする無明の闇に包囲されても、仏界の太陽の輝きを失わずに絶えず進んでいく。それが、日蓮仏法の仏道修行であり、広宣流布の実践です。」
「仏になることはたやすく、仏の生命を輝かせ続けることは難しい。仏の生命の輝きを持ち続けてこそ、真の仏道修行であるとも言えます。」(P.142)
「「月の仏法」は、目覚めた仏が衆生をその光で照らそうとした。
また、仏道修行者は、月の光に照らされて、六道から二乗、二乗から菩薩へ、そして仏へと遥かな山道を登っていった。
しかし、末法の無明の時代を照らすためには、根本的には信仰を自覚した一人ひとりが胸中に法性の太陽を昇らせるしかない。
万人が太陽と輝く以外に、末法の深き闇を晴らすことはできない。
そして、目覚めた民衆が、万人の胸中に赫々と昇らせていこうと立ち上がる。その目覚めた民衆のスクラムが広がってこそ、点から線、線から面へと慈悲の光明が拡大していく。
太陽の光明で百花が繚乱と咲き誇るように、仏法の光明は、人々の慈悲と智慧をはぐくみ、人間性の開花をもたらします。その「人間の善性のスクラム」が地球上に広がれば、人類の境涯が変革されていく。
日蓮仏法には、現実変革へ無限の可能性がある。万人の生命に仏や菩薩の境涯を確立し、真の平和を実現していくことが日蓮仏法の目的です。」(P.143)

<「無明」との戦いについて>
「一言で言えば、「万人の平和」を目指す「善性の触発」であり、「善性の連帯」です。無明を破り、法性を開いていく一人ひとりの生命変革を基盤にしつつ、対話と理解の輪を忍耐強く拡大していくことです。
大聖人は「地涌」について、「一人立てば、二人、三人、そして百人と次第に広がっていく。これが地涌の義である」(御書P.1360)と言われています。
また「地とは我ら衆生の心である。涌出とは、広宣流布のときに全世界の一切衆生が法華経の行者になることを言うのである」(同P.834)とも仰せです。
だれもが心の大地に妙法蓮華の花を咲かせることができる。そして、だれもが法華経の行者となりうるのです。
そう信じて、語りかけていく「開かれた心」「開かれた行動」が大切です。
無明の闇に太陽の仏法を―これが私たちの使命です。あらゆる人が生命の奥底では太陽の仏法を待ち焦がれているのです。」(P.144)
(以上、引用終わり)

「無明との戦い」については、以下の御金言にもある通りである。
「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵 を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし、しかりと・いえども弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり」(同P.1224)

現在の状況を嘆くのみではなく、自身の成仏を目標としてきた迹化の菩薩から、
自身の誓願を思い出し、すでに仏(地涌の菩薩)として、
現実の人々の中、組織の中、社会の中に飛び込み、
「とられじ・うばはんと・あらそう」無明(第六天の魔王)との戦いを開始していくのが
我らの第二ステージではないでしょうか。

今、待ち望まれている「真実の弟子」について、
同書の中で池田先生は以下のように述べられている。

「仏が求めるのは、真実の弟子です。
いわば、「偉大な仏に守られる」ことを請い願うような弟子ではなく、「仏とともに戦い抜く」弟子の出現を仏は待ち望んでいる。
師匠に守ってもらおうというのでは、まだまだ本当の境地には至っていない。師匠と同じく民衆を守ってこそ、真実の師子の弟子です。」(P.158)

一部の不甲斐ない創価学会と公明党の執行部のおかげで、
これから戦うべき「無明」とは何か、そして、その闇の深さを知ることができ、
日蓮大聖人、池田先生と心を合わせ、その万分の一でも共に戦えることの幸せを、
逆に感謝しています。
創価学会と公明党を、その本来の存在意義である「創立の精神」に立ち戻らせ、
我ら民衆の手に再び取り戻すために、「組織」の中で戦い続けます。

以上
 
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