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先般、「残念ながら『法華経の智慧』『御書』等も『モノ化』され、一人一人の学会員も「モノ
化」されている現象が起きているのである」と述べたが、一番の「モノ化」は気づかないうちに
自分自身が勝手に「モノ化」に陥っていることである。
「モノ化」された自分自身は、広布の活動はスケジュールをこなすだけの自動信心になり歓喜も
無い体験も無い、組織活動の「モノ化」の中にある。そして家庭では親父や母親・子供を演じて
いるだけの、そこそこの一家和楽という妄想・幻想に身を置いている。これらの現象は全て「愚
考」優位の意識の使い方である。仏法の「人間主義」どころではない愚考の「人間主義」であ
る。世間を含む世俗化・腐敗・堕落は広く蔓延している。「モノ化」に陥った「人間」は、他者
の痛みに鈍感となり、状況判断は常に自己都合優先となり、マネーエネルギーのとりことなり世
法の者といつしか同化した人生を生きている。
末端の学会員の素直さ正直さという姿からほど遠い世界を生きている。この落差・温度差に気づ
けない傲慢さ、うぬぼれ等は、身体感覚無き愚者の生態である。
このように問題を提示しても「わからない」のである。なぜなら愚考と言う自己都合により思い
込み・信じ込みの日々を送っているからである。
彼らの「気づく時」は自分自身が痛みを伴うことになり、始めて「気づく」のである。身体感覚
の希薄化ゆえの現象である。同苦することができないのである。なぜならば自己都合により、い
つしか苦悩・苦しみを避けているからである。しかし「身体的な痛み、苦しみはごまかせない」
事実としての反応である。本性が露わになるのである。古くは「アジャセ王の如く」である。
「懺悔」する時とは、自分自身の生命(いのち)におよぶ痛み、苦しみの中でもたらされるので
ある。
身体的感覚を意識した日常生活は、いざという時「地獄の苦しみぱっと消え」となる。末端の会
員は身体的感覚が優位なのである。「死ぬ瞬間」のキューボラ・ロスは初期の研究でホワイトカ
ラーとスラムの黒人と「死ぬ瞬間」の在り様を観察しスラムの黒人は死の受容がスムーズにでき
自らの死を比較的に受容できていた。ホワイトカラーの高学歴者は「死の受容」が容易ではな
く、後悔と怒りと恨みの渦中にあったと報告している。
愚考の世界を生きる者と身体的感覚を通した世界を生きる者との、どうにもならない差なのであ
る。思い込み・信じ込みという虚構を生きる者と現実を生きる者との差でもある。地位や役職で
はない。
創価の世界に生きている会員を見ても同様の結果がみられている。この峻厳な事実は何を物語っ
ているか言うまでもない。
他人事に一喜一憂している暇があるうちは常に愚考の世界にあることを忘れてはならない。全て
の現れが自分自身の事であることに気づけないのが愚考なのである。
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