|
自我と「創価の世界」という妄想・幻想
現象の世界は、自我・自己が浮遊する世界である。この事に気づくと愚考は止む。
いわゆる入会年数が多いと、教学用語・学会用語・池田先生用語の羅列を述べるだけで、思い込
み、信じ込みを自分自身で強化している学会員が多い。愚考の現われである。いつしか思い込
み・信じ込みが押しつけとなり、あらゆる可能性を抑圧する働き作用となって現れているのだ。
体感する身体機能を排除する現代文明の中では愚考が一般的な状態になっているからである。先
般の問いかけに対しても愚考の世界でしか理解できないのだ。「生命感覚」で応えることができ
ない現実があるのだ。
自分自身の都合に合わぬ対象を責めるだけで、自身の本質がまったくわかっていない、相対的世
界に在る、愚考の世界に生息していることに気づけない、わからない、そのまま続く、続いてい
く、妄想・幻想のスパイラルである。
「南無妙法蓮華経」とは何か、
「煩悩即菩提」とは何か、
「即」とは何か、
「宇宙即我」とは何か、
「師弟不二」とは何か、
「即身成仏」とは何か、
「智慧」とは何か、
「法」とは何か、
「理」「事」とは何か、
「生命」とは何か
「人間革命」とは何か、
人間が「わかる」には2つのパターンがある。1つは、いわゆる理解すること、この理解は思考
して「わかる」範疇である。2つは、自分自身の体験を通して「わかる事」であり「了解」するこ
とである。体感することによる「わかる事」である。
思い込み・信じ込みは論理的思考による理解の世界である。「弁はたつが何ももたらせない」
という愚者の生きる世界である。思考による理解には制限があり、感情・理解レベルは個人差が
ある。
「宇宙の法に合致する」「生命感覚」とは、思考によるものではない、思考や教学的論理では理
解はできないのである。自らの体感により了解する以外ないのである。
昨今の教義の変更、会則変更に見られる事項は思考の現われであり、生命感覚の覚知を思考の範
疇で述べているものであり、「生命感覚の覚知」についてのものではない。
「生命感覚の覚知」を述べても「生命感覚を覚知」した者が皆無であるところに、執行部の閉
塞・疲弊状況がある。なぜならば、彼らには「わからない」からである。いや彼らばかりではな
く様々な板に書き込む者たちも同様に「わからない」のである。ゆえに相対的世界での「相互の
言い合い」にしかすぎないのである。思い込み・信じ込みによる愚考のドラマを演じているだけ
なのである。
「成仏・即身成仏の法」といっても「生命感覚の覚知」によって現出される智慧の働き作用なの
である。「生命感覚の覚知」無き、創価は、世俗教団となんらかわりない姿になっていくのであ
る。いやもう既になっている。
「生命感覚の覚知」した者の不在「生命感覚を覚知」することが提示できない現実が、今日のあ
らゆる問題を引き起こしているといえよう。しょうがない現実である。
このようなことは心ある副会長クラスの一部には、なんとなく感じている者が見受けられるが、
残念ながら「覚知者」ではない。「覚知」できないところに身を置いているからである。(世俗
化したリーダー集団)
妄想を言うならば、本来、会長職は「生命感覚の覚知」した者が選出されることが望ましいが、
無理な事、ただ言えることは「生命感覚を覚知」する時代の流れにあることは間違いない。
このように「生命感覚の覚知」について述べても、「誰も真剣に知ろう」という思いは湧いてこ
ない、逆に「こいつ何言ってるんだ、謗法臭いことを言っている」との思いが湧いてくるだけ、
このように湧いてくる「思い」に気づかずに、思い込み・信じ込みの中に安住しているだけなの
だ。自らが選択している現実が続いていくのである。「煩悩即菩提」とはならないのである。
「法華経の智慧」「方便品・寿量品講義」は生命感覚の覚知者への経典なのである。著作として
見るとストーリの理解に留まる。生命のドラマとして了解するのは「生命感覚」なのである。
「21世紀は生命の世紀」との池田先生の指導はとは裏腹に「生命」が「モノ化」する傾向が色濃
く出てきているのが今日の状況なのだ。「生命の世紀」とは、気づいた者が「生命感覚の覚知」
を体感する時代を言うのである。
残念ながら「法華経の智慧」「御書」等も「モノ化」され、一人一人の学会員も「モノ化」され
ている現象が起きているのである。
※この流れは何も創価だけの特権的なものではない、地球上で起こりえる大きな「覚知」の流れ
なのである。従来の宗教的枠組みを超えた大きな流れにある。創価の中でいると見えない世界が
ある。日蓮仏法が流通分に入っている端緒である。個人の「生命感覚」の有無がこれからの地球
上のキーワードである。
|
|