大阪は晴れ
発達心理をやめたら、急に読者が減った。なんでだろう。私の記す哲学と発達心理は内容はほとんど同じなのに。人はタイトルで興味をもつ度合いが違うらしい。
大阪府知事選
世間では大阪府市のダブル選挙と騒がれる。が、ここ池田では大阪府知事の投票の紙しか届かなかった。大阪市長を選べるのは、大阪市民だけなので。
大阪市が大阪都になって得をするのは、大阪市を除く大阪府の自治体である。市の莫大な財政が、周辺市町村に回るからだ。池田の歳入は23年度で370億円くらいだ。府からは21億円がきている。大阪市の歳入は1.6兆円ほど。大阪都になると、巨大なマネーがこの赤字池田に届く。支援が倍増、いや三倍増という期待もある。だから、大阪府のその他の都市は、特に、財政の苦しい市町村は大阪都構想の実現を待つ。虎視眈々と狙っている。
が、大阪市民はどうなのだろう。大阪市というパリにもひけをとらない大都市(財政だけでは)が、大阪都になると、力を失う。自治の伝統が強い大阪市民が許すだろうか。私は、大阪市の弱体化はまだ早いと思っているから、自民を応援するけども。
今回は、橋下氏がおりた選挙。が、池田でも維新の会は人気を圧倒する。先の統一地方選挙では、元市長倉田薫の息子(無所属)を除いたトップ3はすべて維新の会。大阪の端、池田すら維新の勢いはまったく止まらない。府と市は、維新の楽勝ではないだろうか。
私の母校・大阪市立大学や大阪市民の誇りさえなくならなければ私は当面はかまわないのだが。
哲学の話 -- 理性とは
いきなり難しい話をする。『理性』とはカントが探求した純粋理性のこと。『理性的』という意味の良識的で高度な判断、客観的で科学的な判断ではない。それら『理性的な判断』を人間はどこでするのか、という話である。
デカルトは理性をよくとらえている。理性は、数学の思考だ。感覚や感情ではなく、経験的なものでもないものだ。それは木、森、大地、空、宇宙といった自然世界、物理世界にあるものとは異なるものだ。法則的なものを理解する力なのだ。彼はそんなことを考えた。
カントは理性は誰もがもつものと考えた。彼は理性を純粋につきとめようとした。感覚を理解するのが、『悟性』である。見たものを認識して『それは猫、犬』と区別するのが悟性である。『悟性』で得られた認識を取り扱うのが、理性である。『犬は時速5kmで2時間歩くと10km遠くにゆく。』と。
ヘーゲルは『人生哲学』(岩波文庫)で理性の成長を説いた。それは学問の発展のように理論体系が拡大してゆくことだ。理性とは科学的な思考といえる。最終的には、あらゆる理論は統合され、科学の大統一理論になるのだろう。人間の理性も。ただこの場合は、理性(論理的な部分)と理性が認識するもの(学問や科学法則)とを混同させている。
人間は精神が成長する時、自分の信条を発展させる。学問のように発展する。理性もそのように発展する。ヘーゲルはそれを人生哲学で説いた。
そして、ヘーゲルは最後に、理性の発展をコンパクトにまとめて、小論理学を作った。論理学とは、1+1=2というものや論理演算である。三段論法やそういうものである。
ヘーゲルの結論では、理性とはつまり、論理演算なのである。これは正しい。コンピューターも人間同様の理性があるとされる。PCの知性がいまだ未熟なのはさしおいて。コンピューターは電子回路をもっていて、論理回路をもつ。現代風にいうと、理性は、電子回路=論理回路なのである。
デカルトは『我あるゆえに我有り』と考えた。それには『自己は自然から切り離された存在である。』という前提がある。それを感じた時、デカルトは、自分は自然物とは異なる存在だ、自己は電子の作用だとぼんやり感じたのである。当時、電子などは理解されてはいなかったが。
それはさほど間違ってはいない。が、正確には、理性は、論理回路の機能、論理演算なのである。それができることをもってして、自分が理性だと自覚する。理性が自分の中で働いている時も、それは完全に自然から切り離されて存在でもないのである。電子回路は脳の中・PCの中という物理世界にあるのだから。
要は、ヘーゲルの論文から得られる結論の一つは、純粋な理性が強い人は、計算のしっかりできる人なのである。なお脳が論理回路をもつことは、脳科学で証明されている。それが自己の構成要素の一つであることは疑いの余地がない。理性とは論理演算のできる回路なのである。
さて、ここの読者に『自分は理性だ。』と悟った人はいるだろうか?
おそらくいないだろう。デカルトの時代で、人類が何億人いたか知らないが、気づいて言葉にした人はデカルトのみだった。例えば、ある人はこう言う。『人間には主観と客観があり、主観に惑わされている。客観などもてる人間はいない。』とこれは理性を自己から区別しえていない人である。デカルトやカントの哲学ですら理解していないといえる。
『人間は理性である。法則的なものを理解して、世の中を再構築して、その科学的な視点を心に持ち、それで世界を眺めている。』こう思った人は、デカルトと同じ世界がみえている人だ。理性に依って立つ人間である。ここまで精神が発達した人は現代でもそう多くいない。
あまりに理性的でない人は、少しは理性を自覚して生活したらよい。するとこの世は少しでも、合理的になるだろう。
本日の被害
テレビを見ていると眠らされる。それから朝は顔に刺された感じがある。また頭がやや痛むから頭部を注射されたようだ。
以上