(3)三層構造のなかのムスリム
こうしてアラカン王国期からのムスリム居住者を基盤に、英領期のベンガルからの流入移民がその上に重なり、さらにアジア・太平洋戦争後の旧東パキスタンからの新規流入移民の層が形成され、いわば「三重の層」から成るムスリムがこの地域に堆積したわけであるが、彼らが実際にどの程度混ざりあい、いかなる理由で「ロヒンギャ・アイデンティティ」を主張するようになったのかについては、いまだ明らかになっていない。
この「謎」が解明されていないことこそ、ビルマ国内の多数派世論は「ロヒンギャは存在せず、彼らはベンガルからの不法移民である」という言説を信じきっているのだといえよう。
国民の多くは、上述のムスリム移民の三重の層のうち、戦後すぐの3回目の「ムスリム移民の層」にだけ注目する。あたかも、それ以前にムスリム移民はいなかったかのような記憶をつくりあげているのである。
よって、もしラカイン州における「三重の層からなる堆積ムスリム」が、どのようにまざって「ロヒンギャ・アイデンティティ」が形成されたのかが説明できるようになれば、ある程度ビルマ国内の世論を排他的なものから包摂的なものへ変えることが可能となるかもしれない。
独立後のビルマ政府は興味深いことに、一時期ではあるが、ロヒンギャを自国の一民族として受け入れようとしていた事実がある。これは忘れられがちである(特に多数派仏教徒ビルマ人はほぼ忘れている)。
独立後のビルマ議会(下院)には、ラカイン北部のアキャブ北選挙区から当選した2名のムスリム議員が存在した。名前はスルタン・アフメドとアブドゥル・ガファールといい、独立後の与党である反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)の議員として活動した実績がある。
彼らは与党の議員だったため、政府は両名の主張に配慮し、ラカイン北西部のムスリムを保護すべく、ロヒンギャが多く住むブーティーダウン市やマウンドー市が含まれるマユ(Mayu)地方を中央政府の直轄支配地に変更して、仏教徒ラカイン人が干渉できないようにすることを考えた(ラカイン人には別途ラカイン州を付与しようとした)。
また、1950年代後半には、ロヒンギャ語(正確にはベンガル語チッタゴン方言の一部)による短波放送も時間限定で許可していた。
こうしたロヒンギャへの配慮は、1962年にビルマ国軍がクーデターでウー・ヌ首相から権力を奪うと、あっという間に姿を消してしまう。「ビルマ式社会主義」の名前で強引な中央集権化を推し進めた新政権は、ロヒンギャに対する排除の論理を強めた。上述のマユ地方を特別に保護する案は否定された。
国内多数派のビルマ人仏教徒は、英領期に台頭したこの国のナショナリズムの強い影響を受け、政府が推し進める「ビルマ化」に事実上協力した。英領期の1920年代から台頭したビルマ・ナショナリズムは、ビルマ民族の中間層に担われ、そこでは「ビルマ語」と「上座仏教」が強調され、それは独立後も政府によって受け継がれた。
そのため、「ビルマ語」や「上座仏教」と縁のない人々は、多数派のビルマ人仏教徒から軽視され、時に排除の対象とされる雰囲気が国内できあがった。とりわけ、移民のムスリムから成るロヒンギャに対する排斥感情は強まり、このことがロヒンギャ問題の解決をいっそう困難にしていった。
写真:Foreign and Commonwealth Office「Displaced Rohingya people in Rakhine State」
3 解決への道
ビルマ国内のロヒンギャ排斥の世論は、英領植民地期の20世紀初頭から強まったインド人移民への歴史的な排斥感情を基に成り立っている。英領期の終わりである1939年後半には、ビルマ人仏教徒女性を保護するという名目で、彼女らが外国人と結婚する際にさまざまな制限を課す法律が、ビルマ人ナショナリストが多数を占める植民地議会を通過し、英人総督の承認を得て施行されている。これは実質的にビルマ人仏教徒女性とインド系ムスリム男性の結婚を国家が制限しようとしたものである。
ほぼ同時に、結婚によって仏教からムスリムに改宗した(させられた)ビルマ人女性が夫へ離婚申し出をおこなう権利を保持していることを認める法律も、植民地議会を通過し施行されている。
こうした反インド人(ムスリム)感情を基盤に、独立後はムスリムがビルマで人口を増やそうとしているのではないかとみなす仏教徒側の恐怖心が重なり、さらにロヒンギャの場合は前述のように肌の色や顔つきの異なりを理由とする人種差別的な感情も覆いかぶさったのである。
こうした恐れや感情を、ビルマ国内から短時日に消去することは不可能であろう。複雑に絡まった糸をていねいにほぐしていくような、時間のかかる地道な作業が必要とされる。
皮肉なことではあるが、ビルマの政治体制が2011年3月に軍政から民政に変化した後、この国では言論の自由が認められるようになり、それにつれ宗教的な言説も「自由化」され、一部の過激な仏教僧侶が宗教としてのイスラムと国内のムスリムを激しく攻撃する説法を行うようになった。それは典型的なヘイトスピーチである。
この種の説法は軍事政権期(1988-2011)には治安を乱すものとされ、たとえ僧侶であっても投獄された。しかし、いまはそのようなことはない。宗教の政治利用は憲法で禁じられているにもかかわらず、ヘイトスピーチ同然の反イスラム説法への取り締まりは殆どおこなわれていないのが現状である。
一般仏教徒の中には、悪意に満ちたこのような説法の影響を受け、ムスリムを襲うような行為に走る事態も国内で生じている。国内メディアもビルマ人の多数派世論を意識し、僧侶らの反イスラム説法の問題を批判的にとりあげることを躊躇している。
現実を知れば知るほど、ロヒンギャ問題の解決への道はみつからなくなる。この問題を人権問題として認識するUNHCRやいくつかの国際NGOが、彼らに対する物質的な支援を長期的におこなっているが、そのような援助行為すら、ビルマ国内の仏教徒から反発を受けているのが現実である。
一方で、この国では政党政治の活動とは異なる次元で、市民社会形成に向けた地道な動きも始まっている。それはまだ、暗闇にかすかな光をもたらすロウソクの炎のようなものにすぎないが、それでも民族間や宗教間の対話や、相互の対立の融和に向けた動きが、少しずつではあるが、市民の間で広がりをみせている。それはこの国を覆う閉鎖的な(排斥的な)ナショナリズムから、市民が中心となって国民を解放しようとする動きでもある。
たとえば、元学生運動指導者で政治囚として長期にわたる獄中生活を強いられたミンコーナインが展開する運動がある。彼は1988年に生じた全土的民主化運動の際、学生運動のカリスマ的指導者として活躍し、アウンサンスーチーに次ぐ国民的人気を誇った人物だった。それだけに軍事政権による封じ込めは徹底的で、通算20年も政治囚として投獄された。
しかし、2012年に刑務所から最終的に解放されると、彼は政党政治にいっさい関わることなく、市民活動家としてビルマの市民社会形成のために、多くの人々とゆるやかに連携し、国軍の権限を非常に強く認めた現行憲法の改正を求める国民運動の展開や、宗教間・民族間の対話の試み、幅広い文化的活動に力を入れ、現在に至っている。
少数民族カチンの女性であるラーパイ・センローが率いる活動も注目に値しよう。彼女はビルマ最大のNGO「ミッター開発財団」の創始者であり、軍事政権の時から国境地帯の少数民族を対象に、職業訓練や幼稚園の運営に尽力したほか、国内避難民(IDP)や難民の支援に積極的に関わってきた。2013年にはアジアのノーベル賞にあたるマグサイサイ賞を受賞している。彼女も政党政治から距離を置いてビルマにおける市民社会形成に地道に力を注いでいる活動家の一人である。
アウンサンスーチーが敢えて政党政治の世界に入って活動するなかで、ミンコーナインやラーパイ・センローのような人物がその外側で市民社会形成を目指し、市民の目線に基づく地道な努力を日々続けている姿は、現代ビルマの注目すべき「ひとこま」である。
私たちはそこにロヒンギャ問題の解決の糸口が、時間がかかるにせよ、いずれ見えてくることに期待したい。ビルマ国民が閉鎖的なナショナリズムから解放されない限り、ロヒンギャ問題は解決に向かわないからである。
知のネットワーク – S Y N O D O S -
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