NHKスペシャル アジア巨大遺跡 第3集「中国 始皇帝陵と兵馬俑」 2015.11.11


こんばんは。
今夜の「NHKスペシャル」は2,000年の時を超えて地下の世界からよみがえった謎の遺跡です。
まるで生きているかのような兵士の像。
それが地下に数千体も埋められていました
中国の兵馬俑。
20世紀最大の考古学的発見といわれます
兵馬俑を作らせたのは紀元前3世紀諸国が乱立する中国を初めて統一した秦の始皇帝
何の目的で膨大な数の像を地下に残したのか。
それは大きな謎でした
しかし今その謎を解く手がかりが始皇帝が眠る墓の周辺から続々と見つかっています
新たに発見された不思議な像の数々
最新の調査から浮かび上がってきたのは巨大な墓に刻まれていた重大な秘密
そこには広大な中国を一つに束ねるという大事業のいわば設計図が眠っていたのです
私杏が古のアジアの叡智を探っていく「シリーズアジア巨大遺跡」
今夜は秦の始皇帝陵に秘められた世界史の奇跡統一国家誕生の秘密を解き明かします

標高1,000メートルほどの切り立った山々が続く中国・陝西省
古来多くの王朝が都を置いた関中平原が見えてきました
山裾のなだらかな丘陵地に秦の始皇帝陵があります
350メートル四方高さ53メートルの墳丘
始皇帝の亡骸はこの真下に眠っているといわれています
始皇帝は紀元前3世紀初めて中国を統一した人物です
巨大な統一国家秦の登場。
それは世界史の中で極めて重要な意味を持つ出来事でした
もともと中国は多くの民族が入り乱れていましたが2,200年前に秦の始皇帝が統一した後ぼぼ国としてまとまってきました
一方ヨーロッパは古代ローマ帝国の崩壊後幾度も統一を目指す動きがありましたが現在まで果たされていません
一体なぜ始皇帝は広大な中国を統一できたのか。
そしてなぜその統一は長く受け継がれる事になったのか
その謎を解く鍵がこの始皇帝陵に秘められているといいます
これまでの調査で始皇帝の墓はこの墳丘にとどまらず7.5キロメートル四方…東京・世田谷区に匹敵する広大な範囲に及ぶ事が分かっています
その敷地の中墳丘の東1.5キロの所に世紀の大発見といわれた遺跡が眠っていました
奥行き230メートル幅62メートルの巨大な空間
そこにびっしりと並んでいるのは土を焼き固めて作った等身大の像兵馬俑です
俑というのは墓に副葬品として埋められた像の事
兵士や馬をかたどっている事から兵馬俑と呼ばれます
現在も発掘は続けられておりその数はおよそ8,000体に上ると見られています
一般公開されていない珍しい像を特別に見せてもらいました
そこにあったのは色のついた像。
もともと兵馬俑は紫や黒赤緑など10色以上で鮮やかに彩られていたのだそうです
しかし発掘して空気に触れると顔料が5分ほどで剥がれてしまいます
近年色を固定する技術が開発され徐々に本来の姿を見る事ができるようになりました
兵馬俑は今から41年前畑で井戸を掘っていた農民が偶然発見
この芸術品のような像は一体何なのか。
世界が騒然となりました
その兵馬俑の一部が今日本に来ています
わあすごい。
何か人がそのまま立ってるみたい。
今回展覧会に合わせて来日した始皇帝陵研究の第一人者張衛星さんです
実物そっくりの兵士の像。
こうしたものを副葬品としてお墓に埋めたという例を私は聞いた事がありません
強大な権力を持った王の墓といえばエジプトのピラミッドや日本の古墳が思い浮かびますがそれらの副葬品は始皇帝陵とは随分違います
例えばエジプトの副葬品は黄金のマスクや豪華に装飾された椅子
日本の古墳から見つかったのは土器や鉄の馬具など
それに対し始皇帝の墓には兵士そっくりの像が8,000体も埋められていたのです。
常識外れのこの墓は一体何のために造られたものなのでしょうか?
広大な面積を持つ始皇帝陵。
その全貌を探る本格的な調査が5年前から始まっています。
その先頭に立っているのが張衛星さんです。
発掘調査から浮かび上がってきたのはそれまでの墓の常識を大きく覆す始皇帝陵の姿でした。
この発掘現場から現れたのは土を四角く盛り上げた土台。
土台の周辺からは瓦などが見つかりここに建物が建っていたと見られています。
調査の範囲を広げてみると土台の跡は墳丘の麓から700メートルにわたって並んでいた事が分かってきました。
最新の研究結果に基づいて当時の様子をコンピューター・グラフィックスで映像化します。
塀に囲まれた木造建築が延々と連なり墳丘に近づくにつれて建物は大きくなっていきます。
こうした配置は当時の宮殿の様式。
皇帝が住む宮殿を再現したものと考えられます。
宮殿だけではありません。
それを取り囲むように全長10キロにわたって二重に張り巡らされた壁がありました。
二重の城壁そのところどころに設けられた門。
この様式から当時の都を再現したものだと思われます。
門からは大きな道が延びていたと見られています。
その傍らに埋められていたのが兵馬俑です。
この位置関係から兵馬俑は都を守る護衛兵を模したものだと考えられています。
8,000の兵士だけでなく再現された都まで出現。
これらは一体何の目的で造られたのでしょうか?始皇帝について記した数少ない歴史史料「史記」。
そこに墓の造営は始皇帝が13歳で即位した直後に命じて始めさせたとあります。
そのころ中国は七つの国が並び立ち秦はその西の外れにある一国にすぎませんでした。
始皇帝は即位したあとほかの六国を次々と征服。
39歳で中国全土を統一しました。
墓の造営はその間も行われ50歳で亡くなるまで続きました。
こうした事から専門家たちは始皇帝が自ら築き上げた統一国家の姿を墓に記録したのではないかと考えています。
巨大な墓に記録された中国統一の歩み。
それはどのようなものなのでしょうか?
始皇帝の中国統一は次々とほかの六国を征服する事から始まりました。
その強大な軍隊の実像が兵馬俑の調査から徐々に分かってきました。
例えばその指揮命令系統。
これまで発掘調査が終わっている兵馬俑の配置図を見ると膨大な数の兵士たちの中に馬車が8台あります。
そのほとんどの馬車には特徴のある冠をかぶった像が乗っていました。
二股に分かれた冠。
歴史文献によるとこれは死ぬまで戦いをやめない勇猛なやまどりの尾をかたどっており位の高い将校がかぶるものです。
周辺の100人から200人ほどを束ねる部隊長高級軍吏と考えられています。
高級軍吏に寄り添うようにまた別の特徴ある像が配置されていました。
こちらは平らな冠。
下級軍吏の印です。
この下級軍吏は右手に何かを握っているような姿勢をとっていました。
周囲から見つかったのは太鼓と鐘。
古代の兵法書によれば太鼓は攻撃鐘は退却の合図です。
この下級軍吏は高級軍吏の命令を音で伝える役割を担っていたのです。
更に冠をかぶった軍吏は兵士たちの間にも配置されていました。
こうする事で高級軍吏の命令を全体に徹底していたと考えられます。
武力による中国統一は即位から26年後始皇帝39歳の時でした。
その後巨大な国を建設し運営していくという前例のない挑戦が始まります。
始皇帝はどのようにして巨大な中国をまとめ上げていったのでしょうか。
その足跡が刻まれていると考えられる始皇帝陵。
近年あちこちで不思議な遺跡が見つかっています。
墳丘の東南からは深さ5メートルほどの坑が現れました。
そしてそこには変わった像が埋められていました。
上半身をはだけ片手を高く掲げる姿。
兵馬俑と同じく土を焼いて作った等身大の像ですが兵士ではなさそうです。
この坑からは直径1メートルもある大きな青銅の器鼎も出土しました。
一方墳丘のすぐ西南でも別の坑が見つかりました。
ここから発掘されたのは鎧を着けておらずほっそりとした体つきの像。
顔だちもどことなく繊細で明らかに兵士ではありません。
そばには青銅製の鉞と思われるものが埋められていました。
墳丘の北2キロでも坑が確認されました。
そこから現れたのは足を伸ばし両手で何かをささげ持っているかのような像。
周辺には琴などの楽器の部品が散乱し青銅製の水鳥も埋められていました。
こうした謎の副葬品を埋めた坑はこれまでに始皇帝陵全体で180以上も見つかっています。
この副葬品の謎を研究してきた…段教授はこの副葬品こそが始皇帝がつくり上げた国家の仕組みを表していると考えています。
段教授が注目したのは始皇帝陵の墓の構造です。
それまでの中国の王の墓では副葬品はほとんど墓の主が眠る墓室に一緒に納められていました。
しかし始皇帝陵では墳丘の周辺に大量の坑が掘られそこにも副葬品が埋められています。
こうした坑を大量に備えた墓は始皇帝陵以外ではほぼ見られません。
ところが同じような様式の墓が秦に続く漢の時代に僅かに造られていました。
その発掘の様子です。
この坑にも人形の像が埋められておりそこから同時に小さな印が出土しました。
それらの印一つ一つに彫られていたのは…そこから段教授はこの形式の墓では副葬品が国家の官僚機構を表していると考えるようになったのです。
そこで始皇帝陵で見つかった謎の像がどんな組織を表しているのか探っていきました。
鉞と一緒に見つかった細身の像。
段教授は鉞に意味があると考えました。
秦の官僚組織には廷尉という法律や裁判など司法を担当する部署がありました。
この像はそれを表していると読み解きました。
次に青銅の鼎と共に埋められていたこの像。
段教授は「史記」に残されたある記述に注目しました。
この「角抵」とは力くらべという意味です。
この像は皇帝の前で鼎を持ち上げ力くらべを披露する芸人だと推理。
官僚機構の中で宮廷の娯楽をつかさどる少府という組織の一部門を表すと見ました。
そして楽器の部品や水鳥と一緒に出土したこの像。
段教授は古代中国では鶴などの鳥を飼いならし音楽で踊らせたという文献を見つけ出しました。
そこからこれは水鳥を操る芸人と考えました。
これも同じく少府の一部門と見られます。
段教授はあの兵馬俑も軍事を担う組織を表しているのではないかと見ています。
副葬品の発掘調査は現在も続けられています。
段教授はその全てが明らかになれば秦の官僚機構の全体像が鮮明に浮かび上がると考えています。
始皇帝が築いたこの官僚制度は歴史上極めて大きな意味があると今世界の注目が集まっています。
国際的な政治学者として知られる…
世界に先駆けて官僚制度を整えた始皇帝。
しかしそれまでバラバラだった七つの国を一つにまとめるのは容易な事ではなかったはずです
統一事業がいかに大変だったかその一端を物語るものが残されていました
文化や習慣の違いを超えて広大な国土を束ねるという難題に始皇帝はどのようにして立ち向かったのでしょうか
始皇帝の壮大な中国統一事業。
近年その具体的な手だてを伝える大きな発見がありました。
ここには秦の時代地方の役所が置かれていました。
その敷地の一角にある古井戸から貴重な資料が掘り出されたのです。
井戸から出土したのは3万6,000枚もの木の札です。
当時の戸籍や財務の記録など役所の仕事ぶりを克明に伝えるものでした。
その中から一枚の不思議な札が見つかりました。
ほかの札に比べて一回り大きなものです。
そこに書かれていたのは…。
「豚を豬と言ってはいけない。
と言え」。
一体どういう意味でしょうか?これは「文字を統一するように」という始皇帝の命令を受けて役人たちがまとめた言葉の言いかえ表だと見られています。
それまで豚を豬と呼ぶ地域もありましたがそれを「に統一せよ」と書いてあるのです。
漢字の字体もそろえられました。
皇帝の皇の字は上の部分を自由の自と書くのではなく「白に改めよ」とあります。
文字や言葉遣いの統一。
それは中国全土で意思の疎通ができるようにするためのものでした。
見つかった木の札には更に重要なものが含まれていました。
びっしりと書き込まれた文字。
これは「軍事物資を輸送せよ」という命令の文書です。
そして裏にも書き込みがありました。
この「欧」というのは人の名前です。
日付や時刻なども細かく記されています。
専門家の研究を基にこの札がどのように作成されたのかを再現してみます。
札が見つかった井戸のすぐそばには当時地方の行政機関である県の役所がありました。
そこに上級の役所である郡から「軍事物資を輸送せよ」という命令書が届きました。
受け取った県の副長官はそれを各集落に伝えるよう指示を出します。
この時そばにいた書記がその内容を一枚の札に克明に書き留めます。
表には命令の内容。
裏には命令を受け指示を出した副長官の名前。
更に記録した書記自身の名前も書き込まれました。
つまりこれは郡から県更に集落へと確実に命令が伝わった証拠となる控えだったのです。
秦は中央政府の下に郡県という行政単位を設けて全国を統治していた事が分かっています。
中央から全国に命令が発せられるとこうした控えが郡や県の全ての役所で作成されたと考えられます。
もし情報伝達が滞った場合この控えを点検する事で原因や責任者を突き止める事ができるのです。
この控えの札を研究してきた愛媛大学の藤田勝久名誉教授です。
藤田さんはこの控えによって秦は国の隅々まで中央の命令を正確に伝えていたと見ています。
更に広大な中国を一つにまとめるために始皇帝がとった重要な行動を示すものがお墓の一角で見つかったそうです
それは墳丘のすぐそばの坑に納められていました
馬車に乗って全国を回った始皇帝。
そのねらいは何だったのでしょうか
始皇帝がとったこの行為は巡行と呼ばれています。
歴史史料によると始皇帝は統一の翌年から5回にわたって巡行を行っています。
黄河の上流から東シナ海まで走行距離は推定1万5,000キロ。
一度都を離れると1年近く戻れない過酷な旅でした。
しかも行く先はつい先日までの敵の国。
実際に巡行の途中始皇帝は命を狙われた事が記録に残っています。
身を危険にさらしてまで続けられた巡行。
そこには始皇帝の大きな目的がありました。
山東省の東の果て成山。
都から2,000キロ離れたこの場所にも始皇帝は巡行で訪れています。
ここは戦国時代最後まで秦に抵抗した斉の国があった場所。
民衆の間には秦への不信感が根強く残っていました。
始皇帝の巡行を調査している日本と中国の研究者です。
成山の海を見渡せる小高い丘にやって来ました。
最近ここである発見がありました。
ここで見つかったのは祈りをささげるための道具玉璧と玉圭です。
歴史史料によれば最も東にあるこの地は斉の人々が太陽をあがめる特別な場所でした。
学習院大学の鶴間教授はこうした事から始皇帝がここで極めて重要な行動をとったと見ています。
それは太陽に祈りをささげる事です。
斉の人々があがめてきた太陽。
それを自らも祈る事で今後この地の信仰や風習を尊重する姿勢を示したというのです。
始皇帝は各地でこうした行動をとり反発する民衆の心を和らげようと試みたのです。
始皇帝が巡行先に残した石碑。
そこには次のような言葉がありました。
始皇帝が中国を統一したので戦乱はもう起こらないと訴えたのです。
こうして築き上げられた中国史上初の統一国家秦。
その統一はこのあと長きにわたり中国という国の姿を決定づける事になりました。
政治学者のフランシス・フクヤマ教授はその理由を次のように分析しています。
広大な始皇帝陵には中国統一の足跡が残されていました
兵馬俑に示された強大な軍事力。
不思議な像の数々が伝える世界初の官僚システム。
馬車に乗り戦乱の終わりを告げて回った巡行
こうしてみると始皇帝はこの墓で統一国家のつくり方を後世に教えようとしていたかのようです
中国統一から11年後始皇帝は50歳で亡くなります
すると国内には内乱が勃発。
その3年後に秦は滅亡します
初の中国統一という自らの偉業を墓に刻み込み永遠の眠りについた始皇帝
秦という国は滅びましたが始皇帝が築いた統一国家の仕組みはその後の王朝へと引き継がれ現在まで続く中国文明の礎となっていきました
2015/11/11(水) 00:10〜01:00
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル アジア巨大遺跡 第3集「中国 始皇帝陵と兵馬俑」[字][再]

20世紀最大の考古学的発見といわれる中国の兵馬俑。作らせた始皇帝のねらいは何か?最新研究で浮かび上がったのは広大な墓に秘めた始皇帝の野望…。女優・杏が謎に迫る。

詳細情報
番組内容
41年前、秦の始皇帝の墳丘近くの地下から、まるで生きているかのような兵士の像・兵馬俑が数千体も見つかった。一体何のために埋められたのか?それは大きな謎とされてきた。ところが最新の調査では、兵馬俑以外にも、さまざまな人を模した等身大の像があちこちから出土。さらに豪華絢爛な宮殿の跡や、壮大な都の城壁の痕跡まで…。そこには、初の中国統一という大事業の、いわば設計図が眠っていた…。世界史の謎に杏が挑む。
出演者
【出演】杏,【語り】秋鹿真人

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
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