持ち手のアレンジをいろいろ楽しんでみて下さい。
20世紀最大の思想家ジャン=ポール・サルトル。
その代表作「実存主義とは何か」。
そのテーゼの一つが「人間は自由の刑に処せられている」。
人間は自由な存在であるがゆえに孤独や不安から逃れる事はできない。
サルトルの自由とは一体どのようなものなのかを読み解いてゆきます。
(テーマ音楽)「100分de名著」司会の…さあ伊集院さん「実存主義」について私たち学んでおりますが。
何か僕は哲学というのは人間とは何か何であるという話だと思ってたらこの「実存主義」は逆に人間とは何であるなんていうものはないんだという。
何ものでもないから今からちゃんと自分の考えでつくってけみたいな。
またこういうのもあるんだという感じです。
ほんとですね。
さあ今回もサルトルの思想について教えて下さるのはフランス文学者の海老坂武さんです。
先生どうぞよろしくお願いいたします。
さあ今回は「自由」がテーマなのですけれども。
すごい言葉ですね。
「自由の刑に処されている」。
どっきりする言葉が続きますよねこのサルトルさん。
人間にとって逃れられないもの避けられないもの運命のようなものであるという事ですね。
ですから「自由」というのは…「自由」イコール全ていいものなイメージですよね。
世の中言葉の方向性といいますか。
反面「自由」は「自由」という刑であるという。
ちょっとネガティブな「自由」な気もしますけれども。
さあこうした「自由」の発見は「実存主義とは何か」にどう記されているんでしょうか。
自らを規定するものは何もない。
それが人間にかせられた自由です。
しかしそこには常に不安や不条理が付きまといます。
う〜んまあ分かるというか小さい範囲では分かりますね。
僕は高校を途中でやめちゃって学校をやめちゃった次の日ぐらいまですごい「自由」を感じてましたけど。
「次の日ぐらい」。
3日間ぐらい多分「自由」を感じてましたね。
「行かなくていい」とか「行かなきゃいけない」という意識から逃れられるという事で。
そのあとのどうしたらいいか分からないという事と将来への不安みたいな事は。
人間は学校に行くものだこの年齢の人間は行くものだというのに従ってれば考えなくてよかった恐怖なので。
ほんとですね。
そのサルトルの言う「自由」とは一体どういう事なのかちょっとこちらをご覧頂きましょう。
これはまあ非常に極端な例でこの人は何かに追い詰められて飛び込もうか飛び込むまいか迷ってる状態ですね。
それをしかし決めるのは自分なんですよね。
自分の自由で飛び込むのも飛び込まないのもこの人の自由。
落ちるのを決めるのも自由。
落ちないというのを決めるのも自由。
しかしどこにも「こうしろ」という道じるしもないしつえもないわけですね。
だからこそこの人は自分で決めなきゃいけないから不安になってくるわけです。
ここには不安が出てくる。
何か転職をするのもしようかすまいか結婚をしようかすまいか離婚をしようかすまいか全て自分で決めるから同時に不安が付きまとうんでしょうね。
ここまでのところをまとめますとこのような事に。
自由と不安とが隣り合わせになってるわけですね。
不安があるからこそ不安というのはある意味で自由の証明にもなるわけですよ。
全く不安がない人というのはもう決められたとおりに行けばいいのだと。
いやそうなんだよな。
何か自由とは不安であり。
逆に言うとちょっと心強いかもしれないのはあなたが今不安を覚えてるという事は一つ自由であるという事でもまあ逆説的には。
あるんですね。
サルトルの哲学的小説「嘔吐」にも自由の問題が取り上げられています。
ある日あらゆる存在がただの偶然であるという事に気が付いた主人公ロカンタン。
彼は生きてゆく事への不安にさいなまれ元恋人のアニーに会いにパリへ行きます。
アニーは女優で「偶然的でない生き方」を追い求めて生きている女性でした。
そしてアニーはそれを「完璧な瞬間」と呼んでいました。
自分もかつてはそれを信じて世界中を旅していた。
アニーとの久々の再会は当時の自分をよみがえらせてくれるかもしれない。
しかし久しぶりに再会したアニーは「完璧な瞬間」などないと人生を諦め金持ちの愛人として暮らしていました。
絶望したロカンタンは生きる意味を失ってしまいます。
しかし引き換えに自由を手に入れたと気が付くのです。
「私はまだかなり若い。
やり直すだけの力は十分持ってる。
しかし何をやり直すべきなのか」。
「この自由はいくぶん死に似ている」。
問題はそのアニー目指したところの「完璧な」…。
そう「完璧な瞬間」というのは先生これどういう?必然的な存在でありたいという願望があるんですね。
アニーはまずその芝居の役者であるという事です。
俳優であるという事。
芝居の時間というのを考えてみると全部セリフが決まってるわけですよね。
一人の人物はこのセリフをしゃべりながら最終的な幕にまで持っていくというふうに考えてみると…つまりこの時間をどこかでもって何か変えてしまったら全く別のものになってしまう。
そうですね。
決まった必然的な時間を生きている。
ただアニーの場合は現実の世界の中にもそれを求めようとしたんですね。
恋人時代にああしろこうしろというのを。
だからこそロカンタンはこの人なら分かってくれるかもしれないと思った昔の恋人に会いに行って自分が今発見した事はどうなんだろうと考え直そうとしたんですね。
もしアニーがつきあった当時のようにきちんとこうやって生きてて「完璧にできてます」と言われれば取り戻せるかもしれないと思った。
かもしれなかったわけ。
この吐き気が失われるかもしれないと。
心のバランスが何か戻ってくるかもと思ったんだ。
しかし人生には「完璧な瞬間」がないという事をアニーが言って。
そのお金持ちの人の愛人となって。
だらだらと今後は私は生き延びていくんですよとというふうに言うわけですね。
ロカンタンは生きる理由を失ってしまいなんだここにも答えはなかったというか。
それは普通の小説だとそこにあるのは絶望じゃないですか。
絶望なんだけど絶望と同時に手に入れたものは自由だっていう。
これが自由か。
これがすごいですね。
ただその場合の自由というのは非常に高揚感のある自由ではないんですよねやっぱり。
そういうものの後に来たもんだからやっぱりこれは何かしら死に似ているというのはそういうとこから来たんでしょうね。
自由と不安というのはもうほんとに隣り合わせ。
人によっては自分はこれこれこういう人間であると物語を作って自分を正当化してるという事がありますね。
これは先生もしかしてロカンタンもその自由の怖さというものに気付いてそこから逃れようとしてたんでしょうか?現実逃避である事は事実ですね。
旅をしたりロルボン侯爵について書く事でそういう自由というか実存の不安から逃れようとしてた。
結果結局挫折をしてロカンタンは挫折をした事を「勝負に負けた」と言ってるんですね。
そしてロカンタンはブーヴィルの町を去る事になるんですね。
「私の全生涯は背後にある。
それがそっくり眼に見える。
その形や私をここまで連れてきたゆったりとした動きが眼に見える。
それについて言うべきことはほとんどない」。
ブーヴィルの町を去る前にロカンタンは行きつけのカフェに立ち寄ります。
そこでウエイトレスがお別れにとかけてくれたお気に入りのレコード。
この曲を聴くといつも吐き気が消えるのでした。
「私もやってみることは出来ないだろうか?もちろんそれは一曲の歌ではないだろう。
そうではなく別のジャンルでやってみることは出来ないだろうか?それは一冊の本でなければなるまい。
他には何も出来ないのだから」。
ふ〜ん。
え〜どういう事?最後のちょっと音楽が理解できないとだね。
音楽を聴いてるとなぜ吐き気がなくなるのかというと結局音楽の世界というのも必然的な世界なんですね。
つまり一つの音符というのはそれまでの音符によって規定されてるしそのあとの音符によっても規定されてる。
全ての音符が規定されていて徐々に徐々に最後に向かっていくというその在り方です。
全く現実の偶然的な時間とは違う時間。
だからこそロカンタンはそれを聴いてるとその中に入るような気がして吐き気がなくなるんですね。
それによって彼は自分のそれまでしてきた事の意味をはっきりと悟るわけですね。
これはじゃあすばらしい小説を書く事で人がそれに没頭してくれれば何かちょっとよすがというか頼りにはなるんだという。
結局実存の世界を去る事はできない。
その中にどうしてもいなければいけない。
しかしそこで一編の物語を作る書く。
その中に入り込む事はできなくても作る事はできる。
それが最後のサルトルのメッセージでしょうね。
となると要するに誰かの作った物語に沿うとかなる事はできないけれども自分が物語を作るという人生はあるだろうと。
それによって新しく人生の意味を自分でつくっていく事はできるかもしれないと。
ここは難しいね。
理解がとても難しいね。
テーマ自体は「実存主義とは何か」を4夜でやってるんだけどやっぱり「嘔吐」をこうやって取り上げて「嘔吐」を読んでみたいと思うのはよくできてるなと。
はしょって聞いてもよくできてるなと思うのはアニーは役者だったじゃないですか。
役者で台本の中を演じるという事で結局満たされてないじゃないですか。
その拡大版の人生を生きようとしてできてない。
だけどロカンタンは作る側。
その物語誰かの物語を演じるんでもなければ。
もともと伝記を書いてるって事は誰かの物語誰かの人生を書き写すだけだけどでもこれは違うじゃないですか。
ここからやろうとしてる事は違う。
ここから動くここから作るという事にならできるじゃんって。
「嘔吐」はロカンタンの自分探しの旅という事なんでしょうか。
自分のまあ「在り方探し」という事ですね。
だって自分探しで言う「本質」はないんだから見つからないんですもんね。
ああそうかそうか。
自分探しと言うと何か昔の方に戻っていく感じでしょ。
そうじゃなくて未来に向かって自分を探すというのは自分をつくるという事ですよ。
在り方を探すこれからの。
面白いです。
いや今ね思ったの。
先生が自分探しを言いかえたじゃないですか。
あれ何で言いかえたんだろうと思ってそうですよね。
自分探しって今使われてる自分探しは俺はもともと何をするべきで何のために生まれたかを探すけどそれを否定してるわけだから見つからないですもんね。
ルックバックするんじゃなくてもっとルックフォワードして前を向いて。
そんなものは自分探しの結果自分探しなんてないって事を発見して今後の自分の生き方に関して見つけるという。
この後どうなるのかというか。
この「嘔吐」という小説はアントワーヌ・ロカンタンの日記が後に発見されたという構造になってるんですよね実は。
そうなんです。
じゃあロカンタンはどうなったのかというとどこかで野たれ死にしたのかもしれないしもしかしたら精神病院に入れられたのかもしれない。
分かんないんですよ。
じゃあこれは「後にすごい小説家になったロカンタンの日記が発見された」で始まってれば分かりやすいじゃないですか。
そうじゃない。
じゃあロカンタンはこの決意をしたとこで日記はもう終わってるというか。
だから彼は果たして書き終わったのか。
ここまでしか日記は書いてない。
これはしかし作品とは言えない。
でも少なくともロカンタンは最後に何かを書こうとした生き方を選んだというふうに言う事はできるでしょうね。
なるほど。
サルトルの自由な生き方を象徴するバートナーボーヴォワールとの関係。
彼女はフェミニズムの先駆者とも言われ「第二の性」の作者でもあります。
2人は生涯にわたり制度にとらわれない自由な男女関係を貫きました。
恋人同士になってすぐのボーヴォワールにサルトルはこう提案します。
籍を入れず別々に暮らしながら他の人とも恋をしてそれをお互いに受け入れる。
2人の関係は新しい時代の男女関係として世界中に大きな影響を与えたのです。
いや〜…本人やっぱりぶっ飛んでますね。
そうですよね。
ここで必然と偶然を持ってきますか。
要するに結婚の本質なんていうのは一度添い遂げたらずっと一緒に一人の人とみたいな事だけどまあまあそれは取っ払って考えましょうよと。
好きだから一緒にいましょうよ。
ただ偶発的な恋もいいでしょうよっていう。
2人とも偶然の恋も楽しんでいたという事なんですか。
そうですね。
初めはサルトルだけかと思ったら実はそうではなかったと。
ボーヴォワール自身もさまざまな偶然的な恋をしているししかもボーヴォワールの場合には男も好きだし女も好きだという事もあったんですね。
バイセクシャルだったんですか。
という事が死後分かったんですね。
もうほんとに自由ですね。
そうです。
これは世界中の人たちにすごく大きな影響…。
この2人の関係というのはインパクト強かったでしょうね。
現代の別姓婚それから別居婚こういうものに大きな影響を与えた先取りしてたと言えるかもしれませんね。
2人で寄っかかって生きるのではなくて…。
でも最後の最後まで2人はパートナーだったんですね。
そうですねお互いに最も信頼ができるパートナーという事ですね。
そして晩年のサルトルはねお昼御飯はいつも女の人と食べる。
しかし夜は必ずそれぞれ別に住んでましたけどボーヴォワールのうちに行って夕食を食べてお話しをしてそれで帰ってくるというそういう生活で。
それからサルトルが亡くなった時もボーヴォワールが最期までみとってるんですね。
まさに実存のパートナーですね。
婚姻届けは出てるけども全然一緒に話す事もなければという状態になっちゃって終わっていく夫婦だっているじゃないですか。
それぞれがまあ自由にまたそれと同時に孤独。
そういう中で自分たちの関係を最後まで結んでいったという事ですね。
孤独と自由の間を行き来しながらそこを受け入れる。
不安も。
誰かに取られちゃうかもという事だってなくはないわけで。
他にもねサルトルの生き方ちょっとまとめてみました。
全然こういう事には興味ない。
ほんとに生き方として物や制度にとらわれない生き方というのを貫いた人なんですね。
ノーベル文学賞というのはもらえば一種の制度の中に入る制度化されてしまうというそれが嫌だったんですね。
家や財産というのはこれは持たないしいつも彼は2DKぐらいの所にしか住んでないんですよ。
ほとんど物を置いてない。
本は読むと全部人にあげちゃうんです。
あの人は恐らくものすごく生涯にわたって印税をもらった人だと思いますよものすごい。
そうですよねそんなに売れてるんですもんね。
世界中でそれこそ何百万か何千万か売れてるわけでしょ。
だからものすごくお金持ったのに亡くなった時にはほとんど一文無しというかじゃあお金はどうしたのかと。
そうですよね。
みんな人にあげて。
特にあの人は何人かの世界中からの亡命した人たちにねお金を毎月あげた。
それもすごいのは亡命してきた人たちってそういう意味では自由だけども一番不安な人たちじゃないですか。
そこにあげるというのもまあ何か…。
何か涙出そうになりますね。
すごい…。
だからほんとに結婚のくだりあたりからちょっとさ羨ましい自由の面があるじゃない。
それは確かに。
だけど最終的に自由って事は不安定だしという事も実践してまあ亡くなっていくわけだよね。
でもサルトルはほんとに私たちが思ってる既成の価値観とかというもの無縁というかわざとそこは目を向けてなかった。
それを否定するところから出発してるわけですよね。
ああそうかそうか。
そうするとそれはしばしば孤立を招くわけですよ。
世の中から「何だお前はルートに従ってないじゃないか」という事が出てくる。
しかしサルトルの考えによればそういう孤立を恐れずに自分の生き方を模索するんだよ君というふうな呼びかけを僕は書物から感じるわけですね。
いやほんとに今どういう状況でこの番組を見て下さってるかにもよると思うんだけども孤独とは自由なんだって言われてすごくうれしかったりとか不安というのは今君が自由だからだって言われて元気が出る人もいるし。
今日から自由って言葉の感じ方はとても不安定になったよ。
いや〜哲学面白い。
今日は海老坂さんありがとうございました。
次回もよろしくお願いいたします。
2015/11/11(水) 22:00〜22:25
NHKEテレ1大阪
100分de名著 サルトル実存主義とは何か2▽人間は自由の刑に処せられている[解][字]
人間の「自由」には絶対的な孤独と責任が伴う。その状況をサルトルは「我々は自由の刑に処せられている」と表現した。「自由」を本当の意味で生かしきる方法を読み解く。
詳細情報
番組内容
人間の「自由」には絶対的な孤独と責任が伴う。その状況をサルトルは「我々は自由の刑に処せられている」と表現した。人間はともするとこの「自由」に耐え切れず「自己欺瞞(まん)」に陥ってしまう。第二回は、「実存主義とは何か」や小説「嘔吐」から、人間にとっての「自由」の意味を読み解き、どうしたらその「自由」を本当の意味で生かしきることができるかを考える。
出演者
【講師】フランス文学者…海老坂武,【司会】伊集院光,武内陶子,【朗読】川口覚,【語り】小口貴子
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ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
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