銅鑼湾書店は銅鑼湾(コーズウェイベイ)の崇光(そごう)デパートの裏にある。書店の袋には「崇光背後地鐡D1出口對正」つまり「そごう裏地下鉄D1出口正面」と書いてある。
ここを覗くようになってどれくらいたつのだろうか。もう14、5年かそれ以上になるのではないかと思う。特に最近5、6年は香港サイドにホテルをとるようになったから、1度の滞在に3回ぐらいは入ってみるようになった。
書店主は眼鏡をかけた痩せ型の、どちらかといえば風采の上がらない感じのちょっと背の高い親父さんである。
もっとも、こんな風に言うと、私だって50代半ばだから親父さんと呼ぶのは失礼なような気もするし、こちとらも別段風采が上がるわけでもないから、この点でも失礼に当たりそうだ。まぁとにかく外見の形容がそういう感じなのであって、悪意はないことを念のため申し添えておかなければならない。
私はもう10数年この店に通っている。かといって、私たちの間に何らかの交友があるわけではない。第一、クリスマスあたりに2、3度顔を出し何冊か本を買うだけだから向こうもおぼえてすらいないだろうと思う。
親父さんは大体寡黙に仕事をしている。アルバイトらしき店員さんや奥さんとおぼしき女性と声を交わしたりすることもあるが、それも店内の静寂を乱したくないかのように低くぼそぼそとした声だ。
本を買う時もさして愛想がいいわけでもない。かといって怒っているわけでもないが、私が黙って本をカウンターに置くと、親父さんも黙って頷き、電卓を叩き、値段だけを言う。
「一百三十五(やっばーっさーあーんー)」
てな具合である。
私が150ドルを渡すと、レジスターからお釣を取り出す。
「十五蚊(さっんーまん)」(15ドル)
そして本をビニール袋に入れて渡してくれる。
「多謝(どーちぇ)」(ありがとうございます)
つぶやくようにそう言ってくれるが、その間笑顔はなしである。
しかし、どの書店でも笑顔はないので、特別この親父さんが愛想がないわけではない。
こんな風に本の購入は淡々と進む。
だが、まぁそれでいいのだ。私だって別に友達を作りに本屋に来るわけではない。読みたい本が手に入ればそれでいいのであり、その点で銅鑼湾書店は私の需要をよく満たしてくれる。
香港の小さな本屋さんは健闘していると書いたが、それは品揃えの点からいえる。それぞれの店がそれなりに個性を持っているような気がするのである。
そして、これは個人の好みの問題だが、小さな本屋の方が私の好みに合った本を置いてある。
銅鑼湾書店の場合ではドアを開けるとすぐ目の前に棚があり、その一角がすべて中国の社会や政治などに関する評論や読み物のコーナーになっていて、中国の社会問題に関係する話題書が棚にびっしりと揃えられている。
しかも、もともと大きくはない書店なのに、書店主の親父さんのポリシーでその種の著作を充実させる方針を採っているのか、数年前と較べるとこのコーナーが心なしか大きくなったような気がする。
私は政治人間ではないけれど、文革時代に中国語を勉強したせいか、今に至るも中国の社会問題を扱った読み物に食指が動いてしまう。だからその分野のノンフィクションには条件反射的に手が出てしまうのである。
その種の本で他の大手の書店になかったのにここで手に入ったという本がこれまでにも結構あった。
例えば、文革時代の「労改」つまり強制収容所を描写したことではナンバーワンの作品だと私が評価する楊曦光の「牛鬼蛇神録」も他の書店では見つからず、銅鑼湾書店でようやく手に入った。
楊曦光は19歳で反革命分子として10年の懲役刑を宣告されて服役し、収容所の中で強制労働に従事しながら、同じ囚人の知識人たちに教えを請い独学し、釈放後紆余曲折を経てアメリカに留学してオーストラリアで経済学教授になった人である。
そんな風に自分が読みたいと思う本にこの店でよく出会えたのは、ある面この本屋と私の相性が合うということになるのだろう。人間何にでも相性というものがあるが、本屋の場合も例外ではないといえるだろう。