日本の航空機産業はその後も曲折を経験した。YS-11は欧米のジェット旅客機に押され、9年後に生産が中止された。しかし、日本は米国向けの部品供給メーカーに加わる道を選び、着実に技術を蓄積した。戦闘機は1960年代以降、中断することなく開発を続け、ステルス機目前まで到達した。100年前に航空機開発に挑戦しなかったならば、そしてその後軍事的、経済的な難関に屈していたならば、決して今日の結実は不可能だったはずだ。政府が「この道しかない」と開発を推し進め、技術者は魂をささげ、メディアと国民も応援した。
航空・宇宙産業は先進経済国に仲間入りするための最終関門だ。見知らぬ道で誰も技術を教えてくれないとためらっていては韓国は永遠に「二流国家」に甘んじるしかない。自動車、半導体産業で未経験の壁を突破したからこそ、韓国経済をここまでリードできた。100年の執念と粘り強さで成し遂げた日本の航空機の飛翔を眺め、韓国の製造業の現状を振り返った。自信なく周囲を見回してためらっている場合ではない。