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中国の天安門事件は民主化弾圧ではない。西側の産経の歪曲には断固抗議する。
ライター:songkichiさん(最終更新日時:2015/6/5)投稿日:2012/12/14 アドバイス受付中!
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悪名高き、中国の天安門事件
西側価値観報道では、
「人権民主活動の弾圧」と呼ばれ、「戦車で人民をひき殺した天安門事件!」
という偏向タイトルがつくこの事件を、
西側報道やユーチューブの動画イメージ、そして、ウキペディア程度でそう信じて、本当の事件の真相を知ることから脳から遮断せずに、続きを読んでいただきたい。
改革開放政策がまだ提案状態であったとき、共産党は治安統治の意識もあって、軍を私物化して中央軍事員会が行政を超える状況であったことが、「人民のための軍」という最初の理念を逸脱していたことは事実でした。
また当時はほとんどが国営企業で一部の幹部だけが裕福な暮らし。
当時は「お金」という価値がなかった中国・・社会主義の特徴である「配給制度」「分配制度」というのがありました。特に学生から始まった運動ということで、、「分配制度」を説明すると、進学先も、卒業後の就職も国が決める!というもので、それは全国に優秀な人材を分配する目的があったのですが、成績優秀で医者になりたいと願う学生が、「成績優秀」というところと、学生の地元の状況だけで判断され、北京大学に進学を「分配」されるも、極端な話、学部は医学部ではなく、勝手に経済学部に分配され、就職は地元や国家判断で学生の地元に強制送還して、与えら得た職場はその土地の国営か、政府関連の役場の事務員さん・・・。
そのような進路が「分配制度」でした。
別の例では、理系のエンジニアを目指し、成績優秀で希望どおり、清華大学の工学部に進学できるも、分配先は、湖南省の青果市場の設備工。
そんな中、軍の私物化の是正、国営企業の是正、進学の自由と職業選択の自由を求めてた学生が燃え上がった学生運動は、別の背景であるちょうどいみじくも、改革開放の走りで、西側の制度が人民にもこもれ聞こえるようになったとき、その社会主義からの転換である時期と、西側の民主資本主義の影響が衝突して発生した竜巻の渦中で燃え上がったのがその天安門の学生運動の原動力となったものでした。
それに対応する政府の意見も二分しました。学生擁護の意見も多かった。そして北京市民も学生に同情的でした。学生と対峙する解放軍兵士も若くて、田舎から出来ており、「あれ!おまえ、●●じゃん!久し振りー!」という、暴徒化する学生とそれに規制行動をする解放軍兵士が臨時の「同窓会」状態になってたような状況もあったりしました。解放軍兵士も同郷の幼馴染の学生を・・ふるさとの友人であるだけでなく、同じ人民をそんな、戦車で引き殺したり意図的に弾圧したりする状況はなかったんです。
そして群衆心理に酔いしれた学生から、火炎瓶でいかに攻撃するか、破壊活動を行うか・・・はじめは恐怖心や罪悪感があったものが、だんだん、エスカレートして、静止した解放軍を袋叩きにして、それで罪悪感と自制心が薄れていく学生の未熟さが故の感化伝染力がありました。
おなじ同胞なのに・・同じ人間なのに・・という冷静な判断を超えて、解放軍の車両を破壊し、いかに早く火炎瓶を作れるかを競い、そしてそれを解放軍兵士の頭に命中させるのをゲームにしたりり、負けた者は火炎瓶を使えず、石を投げるしかできない罰ゲームまで発生して、興奮はさらに群集心理の中で「犯罪かつ残虐」という意識をぬぐい去っていたんです。
それに対して、解放軍は、なすすべなしでした。多くの日本人が、西側メディアの人権保護団体ニュースで誤解していますが、解放軍が暴行を加えたり、乱射したり、戦車で引き殺したりという映像を駆使しているので無理もないんですが、時系列がまったくでたらめであり、状況がいかに編集されているかを知らなんです。
まず、酔いしれた学生の中にも学生によっては程度があって、おとなしく座っているだけ、、石を投げるだけ、火炎瓶を作る前の小瓶を割るだけで、「小瓶」と、鄧小平の「小平」の発音が同じだからということで、気が済んでいる学生、はたまた過激に火炎瓶を作る、それをもって前線に投げに行く・・・
それに対して、解放軍兵士は、あくまでも団体を崩さず、武器などを使うことなく、棒や小競り合いでの静止をするぐらいで、その団体からちょっと離れた兵士は徹底的に学生にリンチを受けていました。
「丸腰の民主運動の学生を弾圧」じゃなく、「武器あるけど使えない解放軍兵士にとことんまでちょっかいだいっしていた学生」というのが、天安門広場や長安街の風景でした。
それから、状況が市民生活にも影響し始めました。
殆どの学生が民主化の本当の意味を知らないまま、群集心理は「国を思っているのは北京の学生だけだ・・・」そのような意識が、上海、南京、西安、広州と、当時の伝達ツールがない状況にしては早いスピードで伝わり、それらの地域の学生は単に民主化ではなく、北京の学生の罵りに火をつけられたような心理で北京に集結する動きがありました。
6月4日・・・いよいよ暴徒化する学生の被害がこれ以上に長期化、拡大化をとめられないという判断で、戒厳令の部隊は一部の「鎮圧」を断行しました。それは学生を追いかけてひき殺したのではなく、操縦不自由車の滑走のブレーキを踏むことない横のラインの動きだったに過ぎません。また学生による操縦不自由の装甲車への放火と破壊で戒厳令下の装甲車は暴走してしまい、逃げ遅れた群衆が「轢かれた」という被害が殆どです。その戒厳令下の軍の威嚇射撃は合法であり、そもそも軍の戒厳令下での立ち入り禁止区間への侵入・不撤退は違法であり、あえてその違法な状態の群衆の安全の責任を持つことは中国に限らず、どんな国においても不可能だという理解もあります。
1989年の天安門事件、1990年のドイツ統合、1991年のソ連邦と続いて、西側諸国は感極まったわけで、その影響で多少の悲観的な思惑が中国大陸にも走り、1997年に迎えた香港の帰属にも一定の不安感を与えましたが、当時の共産党幹部は毅然として中国の国情と未来の発展を語り、天安門事件はある意味、「西側の国際的大局」と「中国内部の局部的情勢」がぶつかって発生した竜巻みたいなもので、その竜巻が去った中国は「荒地」ではなく、現在の未曾有の発展につながっています。
天安門事件が起ったあとの1991年に「分配制度」が廃止、軍は各部隊に分けられ現在は人民の評価を得ており、天安門動乱から26年目の年を迎え、ちょうどそのころ北京の学生だった人の子供さんたちが、中学高校へ進学している年代になっていますが、事件当時の学生が求めたものはすべて実現して、その不満は今の学生がもつことはなくなりました。
あの事件は中国人にとって静かに思いをはせるものであり、西側の干渉や理解はまったく必要ないものだと言えます。
また、89年の中国の学生運動を一面的に美化することは問題である。そもそも自分たちの要求を実現させるために「ハンスト」という、生命を武器にして相手に譲歩を迫る方法は、とても民主的手続きを踏んだものではない。生命を武器に相手に自分たちの条件を飲ませる方法であって、一種の脅迫ではないだろうか・・・
当時の民主化運動を「平和的」「理性的」な行動であった、と持ち上げるのは、きな臭い西側の反中人権団体か、日本では産経新聞の歪曲と認識せざるを得ない。
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