コーダの女の子と家族を巡るハートウォーミングストーリー(だと世間一般には思われている)。
コーダとは
つまり、ろう者の親を持つ聴者のこと。
この映画では、主人公の女の子、ポーラがコーダにあたる。
映画「エール!」公式サイト
なるほど、賛否両論の意味がわかった気がする。
この映画、いいところと「うーん…」なところ、両方あって、一言では感想をまとめきれないのです。
映画を観終わったあと、友人と2時間くらい語っていました(笑)
以下は、彼と語った内容と自分の感想のごちゃまぜ記録。
モロにネタバレですので、映画を見終わった方のみご覧ください。
本当にいいですか? ネタバレしてますよ?(予防線)
まず、よかったところから。
登場人物の手話が自然。
ポーラ両親の役、ろうの役者さんかと思ったら、聴者と知ってびっくり。そして、お父さん(ロドルフ)役の役者さんはわずか3~4ヶ月、お母さん(ジジ)役の役者さんは半年であの手話を身につけたと知って(パンフ記載)、2度ビックリ。
ポーラ役のルアンヌちゃんは、1日4時間×4ヶ月の手話レッスンを受けたそうです。
フランス映画祭オープニング作品『エール!』出演者によるトークショーレポート | シネマズ by 松竹
フランス手話はわからないけれど、とてもろう者らしい手話に見えた。
日本の聴役者さんにありがちな「がんばって手話しました感」がない、自然な手話や振る舞いだと思う。
フランス手話が分かる人から見たら、どうなんだろう?
聞いてみたい。
わたしは普段、ドラマ等で聴役者さんの手話を見て不満を感じることが多い。
でもそれは、 手話や表情、振る舞いに対して「コレジャナイ」感を強く感じることが不満なのであって、役者さん本人がろうか聴か…というのは、実はあまり関係ないのかもしれない。
とは言え、ろうの役者さんは、もっと増えて活躍してほしいけれども。
ろう文化をリアルに描いている。
朝の台所で母親が音に無頓着なところ(ガチャガチャうるさい)。ドアをバッタンバッタン開け閉めするところ(同じくうるさい)。
ベッドルームにいるときお父さんがお母さんをサイドランプ点滅させて呼ぶところ。
お母さんが娘の注意を引くために足を踏み鳴らすところ。
何か話しかけられたらとりあえずニコニコ笑ってごまかしちゃうところ。
コーラス見てる最中によくわかんないから飽きてくるところ(他の両親たちとの対比が如実)。
他にもいろいろ。
「ろうあるあるだ!」と思わず言いたくなってしまうシーンがたくさん。
本当に細かくリアルに描かれている。
DVDが出たら、手話サークルでクイズにしてもいいかもしれない。
ろう文化のいい教材になると思う。
主人公ポーラ役の女の子(ルアンヌ・エメラ)がよい。
適度にイモっぽい(褒めてます)。でもこれ↓見ると、すごく洗練された女優さんオーラ漂ってる感じじゃないですかー。
メイクの力と演技力って、すごいわー。
映画の中のポーラは、とても田舎な感じの女の子なんだけど、時々ハッとするような美しい表情を見せる。
ふてくされた表情もよい。
通訳中の妙に大人びたところと、それ以外の思春期で不安定なところ、揺れ動く演技もすごくよい。
歌の上手さはよくわからないけど、何か伝わってくるものがある。
トマソン先生いい人。
かなり謎な人だけれども。彼の人生で、スピンオフが一本作れるんじゃないだろうか。
無音の演出。
高校のステージ発表でポーラがデュオを歌うシーンが突如、無音になる。ここはろう者には賛否両論あるかもしれないが、わたしはいいと思った。
それまで、観客はどちらかというと聴の両親たちと同じような目線でコーラスの生徒たちを見守るような気分になっている中、突然、無音、つまりろう両親の見方にシフトする。
とてもドラマチックだし、娘の声は聞こえなくとも、娘が生き生きと歌っていること、娘の歌声が周りを感動させていることは伝わってくる。
いい演出だと思った。
次に「うーん…」だったところ。
ちゃんとした手話通訳者の不在。どこに消えた…。
これ、最大の不満点。娘に頼りすぎ…は、まあコーダあるあるだとしても(とはいえ、全てのろう両親がコーダに頼りきっているわけではない)、いくらなんでも公的な手話通訳者の存在がなさすぎる。
病院で、両親の性生活に関する通訳をさせられるポーラ。
いくらおふらんすが性にオープンな国とは言え、引いてしまった。
もしかして、笑うところ?
でも淡々と通訳するポーラが痛々しすぎて全然笑えない。
そして医者も医者だ。通訳させるなよ。
ちゃんとした通訳を手配するよう両親に言えよ…。
このろう両親自身も、情報をきちんと伝えることに関して、考えが浅いと思う。
父親のほうは、「娘に頼りすぎた。これからは娘なしでも生きて行く術を身につける!」と途中で気づくけど、…今さらかーい!
そして選挙演説会(?)でやっとちゃんとした手話通訳者を手配したかと思えば…え、そいつ?
せめて、ここではちゃんとしたプロの通訳者をつけて「どうだ、俺もやればできるんだ!」という姿を示してほしかったよ、とーちゃん…。
いくら田舎とは言え、今のフランスならきちんとした正規の手話通訳者がいるはずだし、制度もあるはず。
そのあたりが全く描かれていないのがとても残念。
通訳の奥深さについて
ポーラの通訳と、演説会での難聴友人(?)のテキトー通訳を見比べて感じさせられたことがある。ひとつは「オブラートに包んで通訳すること」の難しさ。
そして、通訳者の技量ひとつで、ろう者の評価に直結してしまうことの怖さ。
ろう者のストレートな言い回しをそのまま通訳すると、聴者にとっては失礼に感じられたりする場合もあるので、通訳者は場に応じた適切な言葉を選ぶ必要がある。
それ自体は悪いことではなく、むしろ通訳者として求められる技量のひとつでもある。
ろう者が聴者にとって失礼とも感じられるくらいストレートな言い回しを好むのは、別にろう者の人格に問題がある訳ではなく、文化の違いに起因するものだ。
逆も然り。
聴者の曖昧な言い方を曖昧な通りにろう者に伝えたら、ろう者は相手が何を言いたいのか理解できない。
これはろう者に理解力がないわけではなく、ハイコンテクストな聴者の文化とは違う世界に住んでいるだけのこと。
手話通訳者は、双方の文化を理解した上で、今この場に一番相応しい言葉を瞬時に選ぶという、とても高度な頭脳労働をしている。
(だからもっと待遇良くしてあげて欲しい!)
テキトー通訳の人は、選挙演説での父ちゃん(ロドルフ)の手話をそのまんまバカ正直に通訳した結果、父ちゃんは支援者の反感を買ってしまった。
同じことを言うにしても、言葉を選ぶだけで、受け止め方は随分変わってくるはずだ。
自分を正当に評価してもらうためには、きちんとした技術を持つ通訳者に依頼する必要がある。
もし、ポーラが通訳していたら、少なくとも支援者の反感を買うことはなかっただろう。
しかし、彼女は一見うまくやっていたように見えるが、本当にそうだろうか。
適切な言葉の選択は通訳者にとって必要な技術だけれど、オブラートに包みすぎるあまり、ろう者の真意が伝わらないのは良い通訳とは言えないとわたしは思う。
ポーラも両親に恥をかかせたくない(そして自分が恥ずかしい思いをしたくない)あまり、かなりオブラートに包んで読み取り通訳したり、逆に両親の気持ちを思いやり敢えて手話通訳しないところがあったりする。
両親の気持ちとしては、良い情報も、悪い情報も、全て伝えてほしかっただろうにと思う。
そして、トマソン先生と両親との会話の時には、自分の都合のよいように通訳しているような場面さえもあった。
これはポーラが悪いとか、彼女の通訳技術が未熟だとか、そういうことではない。
そもそも、身内に何でもかんでも手話通訳させる事自体が、とても大きな負担なのだ。
普通なら然るべき対価を得て行われるべき通訳という仕事が、全て彼女の小さな肩にのしかかっている。
ポーラ、まだ未成年だよ!
子どもが通訳するということの問題については、ぜひ下記のサイトも読んでほしい。
コーダ研究の専門家である渋谷智子さんが、わかりやすく説明してくれている。
コーダに一切、自分の家庭にまつわる手話通訳をさせてはいけないと言いたいわけではない。
中にはうまく折り合いをつけている家庭もあるだろうし、そこにまで立ち入る気はない。
でも身内が通訳するということは、かなりセンシティブで、慎重にならなければならない問題なんだと感じさせられる。
そして改めてプロの通訳者の凄さを思う。
だからこそ、ちゃんとした通訳者の姿もきちんと描いてもらいたかった。
本当に残念。
母親がエキセントリックすぎ。
ろう両親の撮り方は、ちょっと納得しかねる。コミカルに撮ったつもりかもしれないが、わたしには少し差別的とも思える撮り方に思えた。
特に母親。確かに聴娘の育て方に葛藤した様子もきちんと描かれてはいるけれど、あまりにもバカっぽい。
ろう者がみんなあんな風だと思われたくない。
特に、学校の男友達がいる前で、娘のシミのついたズボン持って初潮をあからさまに喜ぶシーン…「…ねーよ!」と思った。
この母親のデリカシーのなさ(良く言えば天真爛漫だが)がろう者の特徴みたいなことを匂わせるセリフはやめていただきたい。
まあ、障害者をことさら賛美せず、ありのままに撮ったという点ではいいのかもしれないけどね。
基本、コメディタッチだから誇張もあるだろうし、やかましく言うほうが間違っているのかも。
でもやっぱり、聴者目線の撮り方だと思う。
とかく、ろう両親の描き方のせいで、全体的に「この家族、ポーラなしで大丈夫か?」と思わせてしまうのはいかがなものか。
まるでろう者が自立できないみたいな描かれ方…誤解されないか不安。
ポーラの働きがあってこそとは言え、農場を自分で経営しているのはすごいこと。
この農場はポーラが生まれる前に譲られたらしい。
ということは、彼女が生まれるまでや小さい頃は、頼らずにそれなりにやってきた時期があるわけだから、このファミリー、やればできるんだと思うの、うん。
ろう両親の手話のセリフにあまり字幕がつかない。
なぜかポーラが両親の手話を読み取って声に出すことで、両親の手話が分かるという仕組み。全てのシーンでそうというわけではないが、両親の手話に字幕がついたのは、夫婦喧嘩してるシーンと、父ちゃんのTVインタビューをポーラがちゃんと通訳しないシーン、母親が酔っ払って本音を吐露するシーンくらい。
これは恐らく、意図してのことだと思う。
あえてろう両親の立場ではなく、ポーラの立場から共感できるように撮ったのかもしれない。
でもそのせいで、よけいにろう両親が「聴者から見たろう者像」になってしまっている…うーん。
所詮は聴者のための映画と割り切るべきか?
ろうの両親と話すときは、ポーラは声出さないでしょう。
そもそもそこからして不自然。
聴者(コーダ)を強調したかったのだろうか?
すっきりしない。
弟くんの存在感…?
弟くん(カンタン)は、この映画で唯一の聾の役者さん…なのに、いちばん存在感がない。もっと弟くんの手話が見たかったなー。
出番らしい出番と言えば、お父さんの選挙ポスター作ったところと、マチルダに手話を教えたところ、コンドームにアナフィラキシーショック起こしたところくらい?…あんまりだ。
ろう両親も、娘の方をあてにしすぎていて、息子にはあまり期待していない。 なんだかかわいそすぎないか、弟くん。
まあ、めでたくマチルダとラブラブになったみたいだから、いっか。いいのか?
キレイにまとめすぎ。
上記の通りいろんなひっかかりポイントがあるのだが、ラストは「やっぱり素晴らしき家族愛!」と、もろもろなかったことになってる。えええ!?終わりよければ全てよし的な?
そんな「イイハナシダナー」で終わっちゃうの?
確かにポーラの旅立ち=ろう両親と娘双方の自立、だからいいとは思うんだけど。けど…。
うん、やっぱり強引にまとめすぎ。
もうちょっとこう、ポーラと両親のぶつかり合いみたいなのも見たかった。
最後の写真…。
いろいろツッコミたい。トマソン先生ちゃっかり結婚→フィアンセの登場が唐突すぎるんですけど。
父ちゃんはめでたく村長に→きっと娘のこととテキトー通訳の一件でおおいに反省して、きちんとした手話通訳をつけて村長になったんだよね?うん、きっとそうに違いない!
マチルダと弟くんはラブラブ→リア充(ry
ポーラとガブリエルはパリでラブラブ→リア(ry
正直、あれ蛇足だと思う…。
べ、別に幸せをやっかんでるとか、そういうことじゃないんだからね…!!
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以下は、よくわからなかったところ。
理解できた方、教えて下さい!・ポーラに突然初潮がきちゃった後、父ちゃんがポーラを平手打ち。
そしてユダヤのなんとかがどうのこうの。
なんで突然平手打ち?
そしてユダヤにはどんな意味が?
どうもユダヤ教には「月経中に性交渉してはいけない」みたいな戒律があるらしいけど、それと関係ある?
・パリのオーディション会場に一家で駆けつけるシーンで、お母さんの首と顔が発疹?でまっかっか。
あれは何かの伏線?ていうか、回収されていないよね。
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まとめ(?)
いろんな思いが交錯する忙しい映画でした…。見てよかったかどうかと聞かれたら、よかったとは思う。
でも手放しで絶賛というわけではない。
わたしは基本、音楽ものには弱い。
感動的なシーンで素敵な音楽がかかるだけで、うるっときちゃう。
この映画は、確かに「うるっ」ポイントはあった。
今でもポーラがオーディションで歌った「Je vole」を聞くたびに涙腺が緩んでしまう。
でも他でいちいちひっかかる箇所が多すぎて、素直に感動して終わり…では済まなかった。
観なきゃよかった系では決してない。
いろいろ語れる、考えさせられるという意味ではいい映画だったのかもしれない。
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