
「府中愛宕山古墳」は、茨城県石岡市北根本に所在する、茨城県の史跡に指定されている前方後円墳です。画像はこの府中愛宕山古墳を西から見たところです。
この古墳について、現地に立てられている説明板には次のように書かれています。
県指定史跡 府中愛宕山古墳
所 在 地 石岡市北根本六九四番地外
指定年月日 昭和四十六年十二月二日
府中愛宕山古墳は、舟塚山古墳の北東約300メートルに
位置する前方後円墳である。霞ヶ浦に舟を乗り出す形なので
出舟といわれ、舟塚山古墳は入舟と呼ばれる。明治三十年東
京大学の坪井正五郎が発掘調査し、無文素焼の壺七個を発見
したといわれる。
昭和五十四年の周溝確認発掘調査により、全長九六・六メ
ートル、後円部径五七メートル、前方部幅五七メートル、後
円部高八・五メートル、前方部高七・五メートルの規模を持
つことが明らかにされた。その墳形は応神天皇陵(大阪府)に
類似している。かつて、墳丘から形象埴輪が出土したといわ
れるが、詳細については不明である。
この古墳は、舟塚山古墳群の中でも規模が大きく、築造年
代は、六世紀初め頃に位置づけられる。
平成二十六年三月 石岡市教育委員会
後円部周辺のようすです。周溝の形状に沿うようにあぜ道がカーブしています。

前方部から後円部を見たところ。「舟塚山古墳」を見学した後にこの古墳を見学すると小さく感じてしまいますが、全長96.6メートルと決して小さくない古墳です。

後円部から前方部を見たところです。前方部の南西側が削られているようすが確認できます。
この日は暗くなってきてしまったのでこの古墳で探訪は終了。他にもいくつか見学した古墳はあるのですが、それは後ほどということにして、次回からはまた本編である東京編に戻ります。
<参考文献>
現地説明版
人気ブログランキングへ
- 2015/11/12(木) 00:07:40|
- 茨城県の古墳
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

「舟塚山古墳」は、茨城県石岡市北根本に所在する前方後円墳です。茨城県内で最大、東日本でも2番目の規模を誇るこの古墳は、墳丘の長さが186m、前方部幅100m、後円部径90m、前方部高10m、後円部高11mという巨大前方後円墳です。この地域の大豪族の墳墓と考えられており、昭和47年の周溝確認発掘調査で円筒埴輪が出土していることから、5世紀前半に築造された古墳であると推定されています。
前回紹介した「虎塚古墳」の彩色壁画を見学した後、どうしても見学したくて車を飛ばして訪れた古墳ですが、印象はとにかくデカイ!まるで畑の中にぽっかりと戦艦が浮かんでいるような感じで、「舟塚山古墳」の名称も納得です。

画像は北西から見たところです。右手前が前方部、左奥が後円部です。
東日本最大とされる群馬県太田市の「天神山古墳」は墳丘一面を木が覆っていて形状が把握し難い印象でしたが、この「舟塚山古墳」は見通しが良く、墳丘全体を観察することが出来ます。また、「天神山古墳」の表面には葺石がゴロゴロと転がっていて、埴輪片も観察できた記憶があるのですが、この「舟塚山古墳」には葺石は存在しないようです。

後円部から前方部を見るとこんな感じ。
芝生が植えられて整備されており、三段に構築された墳丘の形状がはっきり見て取れます。

前方部から後円部を見たところ。後円部径よりも前方部が長いことは仁徳仁徳天皇陵(大仙陵古墳)などに共通する特徴であるそうです。

後円部西側に建立されている鹿島神社です。この神社の造営のために墳丘西側がが削平されています。

現地説明版に掲載されていた舟塚山古墳の空中写真です。やっぱりデカイ!という印象ですね。舟塚山古墳の陪墳と見られる付近の円墳からは木棺が発見され、短甲、直刀、盾などの副葬品が出土しているそうです。
<参考文献>
現地説明版
人気ブログランキングへ
- 2015/11/10(火) 02:47:45|
- 茨城県の古墳
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

那珂川の支流、本郷川左岸の崖面に幅1.5kmにわたって築かれているのが「十五郎穴横穴墓群」です。その存在はすでに江戸時代から知られており、文化4年(18,7)に刊行された地誌『水府志料』などにも紹介されているそうです。
昭和51年から55年にかけて行われた発掘調査では115基の横穴が検出されましたが、残念ながらそのほとんどは盗掘を受けていたそうです。未発掘のものも含めると、その広がりから判断して300基を超えるものと考えられています。
画像は「指渋支群」を南東から見たところです。発掘調査が実施されている場所はテントにより被覆して保護されているとのことですが、かなり劣化して横穴が露出しています。。。

画像は「館出支群」を南東から見たところです。この場所には、茨城県教育委員会とひたちなか市教育委員会による標柱と説明板が設置されています。説明板には次のように書かれています。
茨城県指定史跡 十五郎穴
指定年月日 昭和十五年三月十一日
所 在 地 ひたちなか市中根三四九〇−イ
所 有 者 西野茂行
十五郎穴横穴墓群は奈良時代(今から千二•三百年前)に作られたお墓です。
十五郎穴横穴墓群のように台地の崖の所に横から穴を掘り、つくられているも
のを横穴墓といい、群集していることが多くあります。
横穴墓は玄室・玄門・羨道・前庭部などから構成されており、古墳の横穴式
石室と類似した構造になっています。
十五郎穴横穴墓群は、館出・指渋地区などの崖の凝灰岩にいくつかに分かれ
て分布していますが、このうち館出に群集している三十四基が茨城県の史跡に
指定されています。横穴墓からは須恵器・直刀・装飾品など多くの副葬品が出
土しています。
虎塚古墳のある台地(指渋)の南側の崖では、約百二十基が発掘調査で確認
されています。十五郎穴横穴墓群全体では数百基の横穴墓が存在していると考
えられ、わが国を代表する貴重な史跡です。
十五郎穴の名称の由来は、この地に十郎、五郎なる人物が住んでいたという
伝承から生まれたということです。
平成十七年三月
茨城県教育委員会
ひたちなか市教育委員会 この「館出支群」の崖の直上には「虎塚古墳群第2号墳」のマウンドが残存しています。この古墳には埋葬施設が存在せず、墳丘や周溝の形状や立地から、十五郎穴横穴墓群「館出支群の象徴としての墳丘」ではないかと考えられているそうです。
<参考文献>
ひたちなか市埋蔵文化財調査センター『ひたちなか埋文だより 第33号』
人気ブログランキングへ
- 2015/11/09(月) 01:38:20|
- 茨城県の古墳
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

「虎塚古墳群」は、茨城県ひたちなか市の東中根台地の縁辺部に存在しています。「虎塚古墳(第1号墳)」を盟主墳として、現在は第6号墳までが確認されているようですが、本来の古墳群の構成数については明確には把握されていないようです。画像は虎塚古墳群第1号墳である「虎塚古墳」を西から見たところです。石碑の奥に見えるのが虎塚古墳で、左手前が前方部、右奥が後円部です。埴輪や葺石は存在せず、前方部墳頂からは須恵器の大甕の破片が出土しているそうです。

「第2号墳」は、「十五郎穴横穴墓群」の館出支群が存在する崖面の直上の台地の縁辺に残存します。この古墳は平成19年(2007)に調査が行われており、規模は南北約15.5m、東西約14m、高さ1.6mで、周溝が検出されています。埋葬施設がまったく存在せず、墳丘や周溝の形状や立地から、この第2号墳は「館出支群の象徴としての墳丘」ではないかと考えられているようです。

画像は「第3号墳」です。墳形は方墳で、埋葬施設は凝灰岩の切石を用いて構築した横穴式石室であるそうです。

「第4号墳」は畑地の中に石室のみが残存しています。昭和61年(1986)から翌年にかけて調査が行われており、一片約22mの方墳であることがわかっています。埋葬施設は半地下式の単室構造の横穴式石室で、奥壁、左右側壁、天井石、床石すべてが一枚石で箱形に構築されています。玄門部は、一枚石の板石の中央が幅50cm、長さ1mに刳り抜かれているそうですが、石室は土砂に埋まって確認出来ませんでした。
近所で農作業をしていたおばあちゃんに聞いたのですが、子どもの頃はまだ大木の立つ大きな墳丘が残されていたそうです。おそらく戦後ぐらいまでは残されていたのではないでしょうか。

画像は「第5号墳」の跡地のようすです。畑地の中に石室の残骸のようなものが残されるのみで、墳丘を見ることは出来ません。

仕事柄、古墳の探訪は日帰りで行ける範囲に限られてしまうのですが、この日は高速を飛ばしてひたちなかを訪れました。装飾古墳を生で見学できる機会はなかなかありませんので楽しい一日でした。茨城県は古墳の多い場所ですので、今後も足を運ぼうと思っています。。。
<参考文献>
茨城県ひたちなか市教育委員会『史跡 虎塚古墳 -発掘調査の概要-』
ひたちなか市埋蔵文化財調査センター『ひたちなか埋文だより 第42号』
人気ブログランキングへ
- 2015/11/07(土) 04:39:12|
- 茨城県の古墳
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

装飾古墳として有名な国指定史跡「虎塚古墳」は茨城県ひたちなか市に所在する前方後円墳です。この古墳は、昭和48年(1973)に開始された発掘調査により良好な状態の彩色壁画が発見されて話題になりました、古墳は常時無料で見学ができますが石室内は通常非公開となっており、毎年春と秋に一般公開されています。今回は、平成27年の秋季一般公開ということで、この「虎塚古墳」の見学に行ってきました。
画像は、整備された虎塚古墳へ向かう入口のあたりのようすです。年に2回の一般公開とあって入口には幟や看板が立てられていて華やかな感じです。大勢のボランティアとみられる学生たちの姿も見られましたが、「虎塚古墳入口→」の看板は学生たちの手作りなのでしょうか。。。
この奥に、虎塚古墳群1号墳である「虎塚古墳」が保存されています。

画像は後円部を南西から見たところです。石室は午前9時に公開というところで、私が現地についたのは10時近かったと思います。整理番号はちょうど40番でした。1番乗りしようと張り切って出掛けたのですが、高速の出口のあたりで「十五郎穴(横穴墓群)」が視界に入って、ついついこの横穴墓に先に向かってしまいました。笑。お天気も快晴でしたので、綺麗な写真が撮れました。

「虎塚古墳」は、本郷川右岸の東中根台地上に築造された古墳です。周辺地域では古くから知られていたといわれており、江戸時代の地誌『水府志料』には「とらが塚」という名称で紹介されているそうです。古墳の規模は、全長56.5m,後円部直径32.5m,高さ5.5m,前方部幅38.5m,高さ5mで、発達した前方部は後円部より大きく開き、前方部と後円部の高さの差があまりない、典型的な古墳時代後期の特徴を持っています。築造は7世紀後半と推定されています。

画像はくびれ部を南西から見たところです。画像の左側が前方部、右側が後円部です。今回は古墳の大きさを感じられるように人が写っている画像を選んでみました。高さがある古墳であるのがわかると思います。

画像は、墳丘南側の周溝のようすです。この古墳の周溝は左右対称ではないのが特徴で、墳丘の北側はほぼ一直線になっているのに対して南側はくびれ部あたりで墳丘に沿う形となっています。画像を見ると周溝がくの時に曲がっているようすがわかります。

後円部から前方部を見たところです。
石室内部には、頭部を北向きにした人骨一体があり、遺骸の左側には青銅製責金具を装着した刀子1口が1本添えてあったそうです。人骨は身長160cm前後の成人男性であったそうですが、ほとんど腐朽しており、人の形に骨粉の分布が認められる状態であったようです。一体どんな人物が埋葬されていたのでしょうか。

前方部から後円部を見たところ。
この古墳の第一次調査は昭和48年8月16日から行われたそうです。9月11日に石室閉塞部の礫がすべて取り除かれ、翌12日に多くの見学者や報道関係者の見守る中、現門の扉が開かれた際に先頭の調査員より「壁画だ!」という第一声がおこったそうです。あの奈良県明日香村の「高松塚古墳」が発掘された翌年の出来事ですから、最初に発見した調査員はさぞかし驚いたことでしょうね。

さて、残念ながら石室の撮影はNGだったのですが、併設されている埋蔵文化財調査センター内に公開されている原寸大のレプリカを見学することが出来ました。画像はこのレプリカのようすです。
石室内部の壁画は、玄門部と玄室内に描かれた幾何学文と玄室の奥壁、東壁、西壁にある具象的な図文から構成されています。凝灰岩の表面に白色粘土を塗り、ベンガラ(酸化第二鉄)で描かれたというこの壁画は、呪術的な性格を有した魔除のためのものであると考えられているようですが、東国において類例が殆ど見られない連続三角文などの図柄は九州の装飾古墳壁画には多く見られるようです。当時、遠く離れたこの地に移住して来た人がいたのでしょうか?それとも古墳を作る技術者が移住して来たのでしょうか。とてもとても興味深いと思います。。。

昭和55年に公開保存施設が完成し公開施設は鉄筋コンクリートで作られていて内部は三部屋に別れています。施設内部の天井や壁は防水、断熱材が使用されており、断熱材を使用したステンレス製の扉に区切られています。画像はその、入口の部分の扉です。ここから奥は撮影は出来ませんでしたが、見学者の出入りや外気の影響を軽減するための仕組みになっているそうです。
この入口をくぐって一番奥の部屋に入るとそこには閉塞石が置かれていて、この閉塞石は生で見ることが出来ます。その右側に観察窓が設置されていて、その窓越しに壁画を見学するようになっています。関東で暮らしていると装飾古墳を見学する機会は限られていますので、なかなか貴重な体験でした。
次回、「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」へ続く。。。
<参考文献>
茨城県ひたちなか市教育委員会『史跡 虎塚古墳 −発掘調査の概要−』
人気ブログランキングへ
- 2015/11/04(水) 23:59:42|
- 茨城県の古墳
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2