太地町・大背美流れの子孫 神津島へ御礼参り(写真付)
2015年11月11日 22時30分 ニュース
137年前に太地町沖の海で鯨の漁をしていて遭難し、出漁したおよそ半分の100人以上が犠牲になった大背美流れで、生き残った漁師の子孫がきょう(11/11)、先祖が流れ着いて助けられた東京の離島、神津島を訪れ、現地の人に御礼の言葉を伝えました。
太地町は、古式捕鯨発祥の地で、勢子船と呼ばれる小さな木製の船に15人くらいが乗り込み、勢子船10数艘が船団となって鯨を捕獲していましたが、いまから137年前の1878年、明治11年12月24日に、太地町沖に出た船団が、子持ちの背美鯨を見つけました。
鯨の母性愛は強く、子どもを守ろうとする親鯨の抵抗が激しいことから、当時、「背美の子持ちは夢にも視るな」と言われ、漁の対象としないよう徹底されていました。
しかし、その年は不漁だったため、正月を前に、見つけた獲物をとることになり、漁師は、格闘の末、鯨を捕獲しましたが、港まで持ち帰る力はなく、鯨を逃がしたものの、黒潮に流され、船が転覆するなどして、出漁した200人余りのうち、100人余りが、死んだり行方不明になったりしたとされています。
この遭難事件は大背美流れと呼ばれ、海に投げ出された人のうち8人が、東京の伊豆諸島の一つ、神津島に流れ着き、島民に助けられました。
今回、御礼参りに神津島を訪れたのは、太地町の北洋司(きた・ようじ)さん75歳で、北さんの曽祖父が、大背美流れで神津島に流れ着き、3か月間、現地で療養生活を送り、手厚く看護してもらったことから、20年ほど前から「そのときの御礼をしたい」と思い始め、ついにきょう、神津島を訪れました。
きょう午前10時過ぎに神津島に到着した北さんは、10時間の船旅に疲れた様子を見せながらも、旅館に荷物を置いた後、さっそく神津島村役場を訪れ、石野田(いしのだ)博文教育長らと面会しました。
そして、太地町の宇佐川彰男(うさがわ・あきお)教育長から預かったメッセージを手渡し、現地を案内してくれる関係者に今回のいきさつを説明しました。
曽祖父が流れ着いた前浜海岸を訪れた北さんは、「曽祖父は、この砂浜に打ち上げられて周辺に住む人たちに助けられました。いまは住む人も変わったと聞いていますが、当時、助けてくれた人の子孫がいないものか、今回の訪問で確かめたい」と語りました。
北さんは、あすも神津島で調査し、助かった8人のほかに、力尽きて流れ着いた太地町のほかの漁師がいなかったかなど、寺の台帳などを調べることにしています。