・「ミグノン」の友森さんは、これまでに、
行き先というか、生きる先のなくなった犬や猫を
数え切れないほどたくさん保護して、
新しい家族を探して生きていく場所を確保させたり、
そのままボランティアの人たちといっしょに
世話をし続けたり、看取ったりをくりかえしてきている
(あんがい考えるところはしっかり考えている人だから、
ぼくが「数え切れない」とかいう表現したところなども、
実はしっかり数字で記憶しているかもしれないが)。
その友森さん、
そんなふうに言われたくないかもしれないが、
じぶんの命を削るようにして育てた猫や犬を、
「他の家にお届けする」のが、大事な目的である。
つまり、いちばん目的を達成できたよろこびの時は、
同時に、いっしょに生きてきた動物との別れの時なのだ。
いったい、どれだけの別れをくりかえしてきたのだろう。
そして、これからも、別れる日を待ちながら、
ごはんをあげたり、うんちやおしっこの始末をしたり、
散歩をさせたり、治療をしたりを続けていく。
「預かりさん」というボランティアをしている人たちも、
いっしょに暮らしているうちに離れがたくなって、
そのまま飼い犬や飼い猫に迎えるケースも、よくある。
そういう気持ちも、よくわかる。
あえて軽い感じで、友森さんに訊ねたことがある。
「別れるのって、さみしくないの?」
「それはさみしいけど」とかの前書きは一切なしで、
すっと軽く答えが返ってきた。
「わたしは、預かってると思っているから」
その答えにたどり着くまでにどれだけの思いがあったか。
ぼくが勝手に想像するのも失礼なことだろう。
そうか、と思った、「預かっている」のか。
だからこそ、大事にしなきゃとも思っているのか‥‥。
じぶんの家にいる家族も、ほんとうは「預かっている」。
チームとか会社とかも、実は「預かっている」ものだ。
さらに、よく考えればじぶん自身も、「預かっている」。
じぶんだからといって、粗末にあつかってはいけない。
じぶんのものだと思ってるものは、実際には、
みんな「預かっている」ものなのだという気がしてきた。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
じぶんの勝手にしていいものなんて、ないのかもしれない。
行き先というか、生きる先のなくなった犬や猫を
数え切れないほどたくさん保護して、
新しい家族を探して生きていく場所を確保させたり、
そのままボランティアの人たちといっしょに
世話をし続けたり、看取ったりをくりかえしてきている
(あんがい考えるところはしっかり考えている人だから、
ぼくが「数え切れない」とかいう表現したところなども、
実はしっかり数字で記憶しているかもしれないが)。
その友森さん、
そんなふうに言われたくないかもしれないが、
じぶんの命を削るようにして育てた猫や犬を、
「他の家にお届けする」のが、大事な目的である。
つまり、いちばん目的を達成できたよろこびの時は、
同時に、いっしょに生きてきた動物との別れの時なのだ。
いったい、どれだけの別れをくりかえしてきたのだろう。
そして、これからも、別れる日を待ちながら、
ごはんをあげたり、うんちやおしっこの始末をしたり、
散歩をさせたり、治療をしたりを続けていく。
「預かりさん」というボランティアをしている人たちも、
いっしょに暮らしているうちに離れがたくなって、
そのまま飼い犬や飼い猫に迎えるケースも、よくある。
そういう気持ちも、よくわかる。
あえて軽い感じで、友森さんに訊ねたことがある。
「別れるのって、さみしくないの?」
「それはさみしいけど」とかの前書きは一切なしで、
すっと軽く答えが返ってきた。
「わたしは、預かってると思っているから」
その答えにたどり着くまでにどれだけの思いがあったか。
ぼくが勝手に想像するのも失礼なことだろう。
そうか、と思った、「預かっている」のか。
だからこそ、大事にしなきゃとも思っているのか‥‥。
じぶんの家にいる家族も、ほんとうは「預かっている」。
チームとか会社とかも、実は「預かっている」ものだ。
さらに、よく考えればじぶん自身も、「預かっている」。
じぶんだからといって、粗末にあつかってはいけない。
じぶんのものだと思ってるものは、実際には、
みんな「預かっている」ものなのだという気がしてきた。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
じぶんの勝手にしていいものなんて、ないのかもしれない。
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