メンバー -Member-
メンバー紹介
峯松 大治 / Daiji Minematsu
南カルフォルニア大学卒(USC)。親はもとより一族が経営者ばかりの環境に育ったため、言葉を覚えるよりも先に商売を覚えていた。小学1年生の時、夢は昆虫博士だった。小学6年生でパソコンの授業が導入され、それに影響を受け中学1年生、初めてパソコンを購入。OSはTownsOS(MS-DOS)、FM-TOWNSⅡというデスクトップ。確かCPUは16MHz。メモリ2メガ、HDDは100メガバイト程度だったと思う。GUIとPCM音源という当時としては画期的なPCだった。価格は約50万円。1991年インターネットが一般的ではない時代。NIFTY SERVEからインターネットに移行していた時代。AOLでダイヤルアップ接続していたのを覚えている。その後、情報処理系の資格も取り将来はIT系の仕事をしようと考えていた。ちなみに18歳の時には苦楽園にてBARを経営。お酒よりも自分に一番酔っていた気もする。大学を卒業後は、親のコネもあって幸運にも大手総合商社の繊維部門の広報部で勤務することに。でも、内心独立するつもりだったので、長く勤める気はそもそもゼロ。案の定、2年で退職を決意してしまうという問題児っぷりを発揮。そんなときに数多くの起業家を輩出しているリクルートという会社の存在を知る。世の中を斜に構えて見るような冷めた考えのはずの男が、ここで結果も残せへんようやったら、そもそも独立なんてでけへんわ!という熱い思いが芽生えてしまい入社を決意。HR(ヒューマンリソース)事業部にて、大企業~零細企業問わず、1000社近くの人材採用に関わることになる。それまでの安定していた仕事とは違い、働くことの意義、商売の楽しさ、経営者の方の発想などなど、お金にはかえられない貴重な経験を得る。とはいえ、自らの価値をお金にかえる楽しさも知る。MVPで表彰された回数は数知れず。目標数字に対し560%達成という訳のわからない記録も残す。入社して間もない頃、リクルートの制作事業部でひときわ目立っていた寺本と出会う。後にこいつと会社を興すことになるとは予想もしていない。ただ単に個性的な集団であるリクルートの中でも印象に残るくらいのインパクトはあった。そんななか、自分のお客様であった企業からの誘いを受け、生意気ながら執行役員として外資系ITコンサルティングの会社に転職。今までとは逆の立場から中小企業の人材採用の大切さを痛感。人で会社はビックリするくらいに変わる。その逆もしかりで、会社との出会いが一人の人間の人生も変えてしまう。それなのに本当に幸せなマッチングができている企業は少ないんじゃないかと感じる。きっとそれは、企業と人が他でも言えるようなうわべだけの情報で判断をしているから。だったら、俺がそんな世の中を変えてやりたいと本気で思ってしまった。こういう風に書くと、たいそうだが、実はひとりでは御飯も食べに行けないような寂しがりやさん。
@MINEMATSU88
津川 亮 / Ryo Tsugawa
1979年、兵庫県尼崎市に生まれる。小学3年生から大学を卒業するまで野球漬けの日々を送る。高校ではキャプテンとして甲子園を目指すも実現には至らず。しかし、チームを引っ張っていくそのポジションに大きなやりがいを感じる。チーム力とは、個々の最高のパフォーマンスの結束で、無限の力を秘めているということを、野球を通して学ぶ。その力を引き出す環境を与える事で必ず人は成長するというのが信念。
大学を卒業後、営業職を通して営業のノウハウを勉強する。商品力ももちろん大事ではあるが、それを活かすのは人間力であるという事を実感。その後、もともと興味のあった飲食ビジネスにおいて、自分がどこまで出来るのかを試してみたいと転職を決意。しかし、そこで挑戦したのは飲食ビジネスの営業ではなく、現場スタッフとしての勤務。それは、商品力や店の価値観を現場で深く学びたいと感じたから。入社1ヶ月で認められ、新店舗のオープニング店長に就任することに。そこでは、営業経験を活かし、販促・人材育成で手腕を発揮する。初めの1年は右肩上がりにベースを作り、その後すべての月で前年超えの、毎日行列ができる店舗に仕上げる。入社3年で、早くも3店舗統括店長に就任。店の運営も任せられ、炉端からイタリアンまで業種にこだわらず繁盛店を創り上げる。目の前のお客様はもちろん、スタッフマネジメントに重点を置いてきた結果であると自負している。
学んだことは、一営業マンも、一運営者も、大きな差はないということ。独りよがりでは何も出来ないが、組織を大きく動かすのもその人の大きな人間力。人や企業にはそれぞれに個性、『らしさ』がある。これを最大限引き出す事が出来ればきっと明るい未来がやってくるはず。そう信じてディレクトリーへの入社を決意。
妹尾 茉利子 / Mariko Seo
宮崎県宮崎市出身。
テレビのチャンネルが民放2つしかないことになんの疑問も覚えないまま田舎ですくすくと成長。幼いころはかなりのやんちゃっぷりで、ケガの絶えない人生を送っていた。ねんざや打撲は当たり前。靭帯切断したり、頬を自分の歯で噛み切って穴を空けたり。親をハラハラさせること数知れず。もはや病院はお友達状態。小学校高学年から中学生にかけて、バレーボールに熱中。運動は大の苦手にも関わらず、ひたすらボールを追いかける毎日。チームでひとつの目標に向かう楽しさ、面白さを身を持って学ぶ。高校では、ずっと入りたかった放送部でアナウンスの勉強をすることに。理由は単純。幼い頃から【声】を褒められることが多く、その気になってしまったから。声の力を最大限に生かし、NHKが主催する放送コンテストのアナウンス部門で、全国大会に出場したことも。紅白の行われるNHKホールで原稿を読んだのは今でも良い思い出!
大学で京都へ進出し、一人暮らしの自由さを思う存分満喫。持ち前の好奇心を発揮し、あらゆるバイトに手を出す。キッチン・ホールスタッフ、バンケットスタッフやコーヒーメーカー販売、事務処理や宅急便の仕分けまで幅広く。とにかく興味を持ったことはとことん夢中になって取り組む性格。
就職活動を通じ、ディレクトリーメンバーと出会い、この人達と一緒に働きたいと、ディレクトリーへの入社を決意。学ぶことがいっぱいで刺激的な毎日に、日々感謝しながら猪突猛進!!
井寺麻衣 / Mai Idera
山口県長門市出身。海に囲まれた町で、変わった貝殻を集めたり、煮干しでカニを釣ったり、地味な遊びに全神経を費やして過ごす。実家は包装資材全般の小さな卸売業を営み、両親が仕事で家をあけることも多かったため「ひとりで何でもやる」精神は人一倍成長。青春時代は、良くも悪くも“絵に描いたような真面目人間”で、理解不能な言動をする男子たちにイラつきながら、学級委員などの様々な委員長を経験。いま思えば同級生にとって、かなり面倒くさい存在だっただろうと反省…(本当すみません)。高校卒業後は大阪芸術大学へ進学し、広告映像を専攻した後、リクルートの代理店に入社。コピーライターとして制作業務全般を担当する。最初は「広告ってなんかカッコいい♪」という不純な動機ではじめた制作だったが、次第に「採用」という、企業と求職者の将来を担う仕事の魅力にハマっていく。峯松とはその後、転職先の企業で出会い、リクルート出身ということで意気投合。正直、第一印象は「いろんな意味でコワい人…」だったが、彼の、人を大切に想う姿勢に心を打たれ「この人に付いていこう」と決意。現在はディレクトリーの東京支店を担当し、お客様の事業を「採用」という角度からお手伝いしたく、日々奮闘中。自分を一言で表わすと『ノリノリ優等生』!
吉川幸一郎 / Koichiro Yoshikawa
個性豊かなディレクトリーメンバーの中でも、異色の輝きを放っている吉川です。ニックネームは「いったんもめん」。白くて薄いから。電気工事屋の5人兄弟末っ子として、この世に生を受けた。2000年、実家の会社のHPを独学で立ち上げて運営したのがきっかけでWEBの楽しさに目覚める。ホームページビルダー等のソフトを使わず、当時まだ主流だったTableレイアウトを嫌い、メモ帳一つでHTML/CSSをコーディングし、CGIを利用して取引先用発注ページを作ったりなど、それまで眠っていたエンジニア(オタク)っぷりを発揮する。その後コンビニを2件掛け持ちしながら「コンビニの兄ちゃん」というブログでマニアックなファンを掴みつつ、そこで出会った綺麗なお姉さんの「カクテルが好きなの」という一言でバーテンダーに転職。接客業の楽しさ、難しさを肌で感じながらも、ブレまくりな自分の将来像に不安を抱く。超安定優良メーカーの営業職にも着き可愛がられるが、何かが違う。「本当に自分はこの仕事がしたいのか?」自問自答している中、WEBシステムについて勉強する機会を得て、Java、JavaScript、PHP、MySQL、CodeIgniterなど様々なWEBプログラミング技術を習得。その後WordPress、EC-CUBE、Elgg、OpenPNEなどの各種CMSをカスタマイズできるようになった。この知識を活かせるネタを探しながら、本屋でブラブラしていると「Evernote」のコーナーへたまたま辿り着く。
「本屋に専門コーナーがあるくらいなら、解説サイトを立ち上げれば人気が出るはず!」
ヨミが的中し、立ち上げ3日目で2000over/dayアクセスという、意味が分からないサイトへ急成長。連携させていたtwitterやfacebookなどSNSの拡散力、瞬発力を直に感じ、現代流のWEB技法でモノづくりの町大阪をもっともっと多くの人に知ってもらいたい!という想いを抱きディレクトリーへ入社。メーカーを中心にWEBを活用したブランディングをしています。
ちなみに私が(個人的に)運営している解説サイトはコチラからどうぞ。
WEBサイトやクラウド活用についてのご相談は吉川までお気軽に。
日野 匠/ Show Hino
同志社大学経済学部卒業。大阪府堺市出身。小学校時代は授業が退屈でファイルを机に立たせおもちゃで遊び時間をつぶし、学校は遊ぶために行っていた。中学はやんちゃな人達が多く、その中で生意気さを手に入れた。高校では人を笑わせる事に快感を覚え、お笑い芸人になることも少し考えた。小学校から高校までサッカーに打ち込み、チームワークの大切さを学び、色んな人によく怒っていただいたおかげで今の自分がいる。
大学時代に今しかできない大きな事をしたいと思い、海外に行ったことがないので海外に行ってみよう。留学している学生に負けたくないと思う負けず嫌いな性格から、彼らにできないこと。どうせなら初海外世界一周一人旅。今まで周りの人に助けられて生きてきた自分がどこまでできるのか、言葉も文化も違う場所で一人で勝負してみたかった。ルールは「親に頼らず自分が貯めたお金だけでいくこと。それがなくなったら帰ってくること。」
英語も話せない僕からすると、本当に無謀なチャレンジだったのかもしれない。しかし、その中で、文字で表現できないほど様々な経験をし、色んな人に出会い、助けられながら29カ国を周ることができた。楽しいことばかりではなかったけど、日本での人脈も広がり、挑戦して本当によかったと思う。
世界を肌で感じて、生まれ育った日本がより好きになり、この国をもっとよくしたいと思うようになった。
その後ディレクトリーと出会い、この仕事内容、この人達となら一緒に働きたいという思いから入社を決意。今までの縁を大事にしながらこれからの縁も大事にしていきたい。
大事なのはハート。
名古屋大学情報文化学部卒。岡山県出身。
変人と言われ続けて24年、興味の赴くままに人の選ばぬ道を往き続けて気が付いたら頭髪が無かった。中学まで常に学年トップクラスの成績を修め、挫折を知らぬまま地元の工業高等専門学校(高専)に進学。5年制でがっつり理系科目を叩き込まれる学校に身を置きながら、1年次からドイツ語、イタリア語、フランス語を独学するという謎の多才ぶりを発揮。高専2年次から毎年、高専英語弁論大会に学校代表として出場。明けても暮れても語学漬けの数年間を送る。高専3年次の春休み、初めての海外旅行で訪れたイタリアで、独学したイタリア語が現地の人々に通じる感動を体験。4年次には米国ペンシルバニア・カレッジとの交換留学生に選ばれ渡米、さらに中国語を学んで上海研修旅行にも参加。5年次の夏休みには男ばかりでイギリスへ旅行し、級友からあらぬ勘繰りを受ける。また、高専1年次から塾講師や家庭教師としての仕事を開始。自分より年上の高校3年生に受験英語を教え、自分が大学生にならぬ内から有名大学に教え子を送り込むという意味不明な実績を積む。
高専在学中に文系教員から手解きを受け、社会言語学の研究論文を発表。この勢いで将来は言語学者になるのだと意気込み、名古屋大学の文理融合学部に3年次編入で乗り込む。さすがに旧帝大ともなれば己の多才ぶりも通用しなくなるかと思いきや、結局、ここでも会う人会う人から「凄すぎてアタマおかしい」(褒め言葉)と言われ続ける2年間に。好きな授業が定額取り放題という環境を桃源郷のように感じ、週8コマそれぞれ違う言語というアタマおかしい時間割を組み上げて既習言語は12か国語に達する。編入生でありながら主席級の成績で学部を卒業、半年間の大学院在籍を経て、英語の専業講師に転身。大学時代にも続けていた塾講師・家庭教師の経験を活かし、医進専門予備校、大手進学塾などで活躍。「英語の授業だと思ったら何故かドイツ語の知識が身に付いていた」「英単語を習っていたと思ったらキリスト教の歴史が頭に入っていた」など一味違いすぎる授業を展開し続けた結果、どういうわけか各校の看板講師に。延べ2000人以上の生徒と接する中で、人の人生に深く関わる喜び、そして後に出会うディレクトリーのスローガンでもある「知られる快感」を知る。今夏、より多くの世界と関わりたいという思いから、幾度目かの進路転換を決意し、ディレクトリーの門を叩く。
ちなみに現在は語学に代わって法学に興味津々。辞書を六法に持ち替え、行政書士と司法書士のダブルライセンスを目指し独学中。法科大学院制度の枷がなければきっと弁護士を目指していた。
澤 佳奈枝 / Kanae Sawa(homare)
京都府立大学卒1990年京都生まれ、3歳で滋賀県に引っ越し、以降一人暮らしをすることもなく、親の庇護の下ぬくぬくと育つ。4姉妹の末っ子ということもあり、姉たちに異常に可愛がられて育つ。姉と遊ぶことが何よりも好きだったので、友達を作ろうと思ったこともなかった。中学校、高校と3分の2登校するかしないかという生活の中、試験の成績はまずまず。大学もAO入試で簡単にすまそうという策略を見事に成功させ、ゆとり教育のど真ん中をひた走る。大学3回生の時に突如、学校を休みピースボート地球一周の船旅に参加。アジア各国では異常に握手と写真を求められ、日本人って愛されてるなと感じ、フランスではトイレの無さに辟易し、イタリアではジェラートとピッツァの美味しさに感動した。何よりも、ピースボートの乗員乗客との関わりがとても大きな財産になった。友達という言葉に悩み、恐怖することもあったが、そこでの出会いが大きな勇気と希望になっている。大学卒業後、会計事務所へ就職するが、大学時代にきちんと就活をしなかったことを後悔する毎日。理想を抱きつつも行動できない自分に嫌気が差し、転職を決意。そんな中転職サイトでディレクトリーを発見。ただただ「おもしろい!!」と思って入社。新卒だったら、絶対入社できない会社に入った自分に驚愕しながらも、毎日楽しくしんどく面白く泣きながらやっております!!もっともっとみんなに認めてもらえるように精進します!!
■酸素ハウス事業部 株式会社ディレクトリィ※一部のみ
宮本 陽子/Youko MIyamoto
酸素ハウス事業部の総合事務メンバー。
電話応対、事務処理、雑務を一手に引き受ける。
創業当初から在籍しており、その経験から他のスタッフの相談役でもある。
短大卒業後、某企業にて事務、人事を経験。
その後、当社の企業理念に賛同し入社。
高校時代にハムスターを飼育していたが、そのペットロスにより、
以降は動物の飼育はしていない。
日々オーナー様と接する事で、ペットロスの軽減に少しでもお役に立ちたいと、
強い思いで業務にあたっている。
他のメンバーも随時UPします。2014年3月18日現在
南カルフォルニア大学卒(USC)。親はもとより一族が経営者ばかりの環境に育ったため、言葉を覚えるよりも先に商売を覚えていた。小学1年生の時、夢は昆虫博士だった。小学6年生でパソコンの授業が導入され、それに影響を受け中学1年生、初めてパソコンを購入。OSはTownsOS(MS-DOS)、FM-TOWNSⅡというデスクトップ。確かCPUは16MHz。メモリ2メガ、HDDは100メガバイト程度だったと思う。GUIとPCM音源という当時としては画期的なPCだった。価格は約50万円。1991年インターネットが一般的ではない時代。NIFTY SERVEからインターネットに移行していた時代。AOLでダイヤルアップ接続していたのを覚えている。その後、情報処理系の資格も取り将来はIT系の仕事をしようと考えていた。ちなみに18歳の時には苦楽園にてBARを経営。お酒よりも自分に一番酔っていた気もする。大学を卒業後は、親のコネもあって幸運にも大手総合商社の繊維部門の広報部で勤務することに。でも、内心独立するつもりだったので、長く勤める気はそもそもゼロ。案の定、2年で退職を決意してしまうという問題児っぷりを発揮。そんなときに数多くの起業家を輩出しているリクルートという会社の存在を知る。世の中を斜に構えて見るような冷めた考えのはずの男が、ここで結果も残せへんようやったら、そもそも独立なんてでけへんわ!という熱い思いが芽生えてしまい入社を決意。HR(ヒューマンリソース)事業部にて、大企業~零細企業問わず、1000社近くの人材採用に関わることになる。それまでの安定していた仕事とは違い、働くことの意義、商売の楽しさ、経営者の方の発想などなど、お金にはかえられない貴重な経験を得る。とはいえ、自らの価値をお金にかえる楽しさも知る。MVPで表彰された回数は数知れず。目標数字に対し560%達成という訳のわからない記録も残す。入社して間もない頃、リクルートの制作事業部でひときわ目立っていた寺本と出会う。後にこいつと会社を興すことになるとは予想もしていない。ただ単に個性的な集団であるリクルートの中でも印象に残るくらいのインパクトはあった。そんななか、自分のお客様であった企業からの誘いを受け、生意気ながら執行役員として外資系ITコンサルティングの会社に転職。今までとは逆の立場から中小企業の人材採用の大切さを痛感。人で会社はビックリするくらいに変わる。その逆もしかりで、会社との出会いが一人の人間の人生も変えてしまう。それなのに本当に幸せなマッチングができている企業は少ないんじゃないかと感じる。きっとそれは、企業と人が他でも言えるようなうわべだけの情報で判断をしているから。だったら、俺がそんな世の中を変えてやりたいと本気で思ってしまった。こういう風に書くと、たいそうだが、実はひとりでは御飯も食べに行けないような寂しがりやさん。
@MINEMATSU88
津川 亮 / Ryo Tsugawa
1979年、兵庫県尼崎市に生まれる。小学3年生から大学を卒業するまで野球漬けの日々を送る。高校ではキャプテンとして甲子園を目指すも実現には至らず。しかし、チームを引っ張っていくそのポジションに大きなやりがいを感じる。チーム力とは、個々の最高のパフォーマンスの結束で、無限の力を秘めているということを、野球を通して学ぶ。その力を引き出す環境を与える事で必ず人は成長するというのが信念。
大学を卒業後、営業職を通して営業のノウハウを勉強する。商品力ももちろん大事ではあるが、それを活かすのは人間力であるという事を実感。その後、もともと興味のあった飲食ビジネスにおいて、自分がどこまで出来るのかを試してみたいと転職を決意。しかし、そこで挑戦したのは飲食ビジネスの営業ではなく、現場スタッフとしての勤務。それは、商品力や店の価値観を現場で深く学びたいと感じたから。入社1ヶ月で認められ、新店舗のオープニング店長に就任することに。そこでは、営業経験を活かし、販促・人材育成で手腕を発揮する。初めの1年は右肩上がりにベースを作り、その後すべての月で前年超えの、毎日行列ができる店舗に仕上げる。入社3年で、早くも3店舗統括店長に就任。店の運営も任せられ、炉端からイタリアンまで業種にこだわらず繁盛店を創り上げる。目の前のお客様はもちろん、スタッフマネジメントに重点を置いてきた結果であると自負している。
学んだことは、一営業マンも、一運営者も、大きな差はないということ。独りよがりでは何も出来ないが、組織を大きく動かすのもその人の大きな人間力。人や企業にはそれぞれに個性、『らしさ』がある。これを最大限引き出す事が出来ればきっと明るい未来がやってくるはず。そう信じてディレクトリーへの入社を決意。
妹尾 茉利子 / Mariko Seo
宮崎県宮崎市出身。
テレビのチャンネルが民放2つしかないことになんの疑問も覚えないまま田舎ですくすくと成長。幼いころはかなりのやんちゃっぷりで、ケガの絶えない人生を送っていた。ねんざや打撲は当たり前。靭帯切断したり、頬を自分の歯で噛み切って穴を空けたり。親をハラハラさせること数知れず。もはや病院はお友達状態。小学校高学年から中学生にかけて、バレーボールに熱中。運動は大の苦手にも関わらず、ひたすらボールを追いかける毎日。チームでひとつの目標に向かう楽しさ、面白さを身を持って学ぶ。高校では、ずっと入りたかった放送部でアナウンスの勉強をすることに。理由は単純。幼い頃から【声】を褒められることが多く、その気になってしまったから。声の力を最大限に生かし、NHKが主催する放送コンテストのアナウンス部門で、全国大会に出場したことも。紅白の行われるNHKホールで原稿を読んだのは今でも良い思い出!
大学で京都へ進出し、一人暮らしの自由さを思う存分満喫。持ち前の好奇心を発揮し、あらゆるバイトに手を出す。キッチン・ホールスタッフ、バンケットスタッフやコーヒーメーカー販売、事務処理や宅急便の仕分けまで幅広く。とにかく興味を持ったことはとことん夢中になって取り組む性格。
就職活動を通じ、ディレクトリーメンバーと出会い、この人達と一緒に働きたいと、ディレクトリーへの入社を決意。学ぶことがいっぱいで刺激的な毎日に、日々感謝しながら猪突猛進!!
井寺麻衣 / Mai Idera
山口県長門市出身。海に囲まれた町で、変わった貝殻を集めたり、煮干しでカニを釣ったり、地味な遊びに全神経を費やして過ごす。実家は包装資材全般の小さな卸売業を営み、両親が仕事で家をあけることも多かったため「ひとりで何でもやる」精神は人一倍成長。青春時代は、良くも悪くも“絵に描いたような真面目人間”で、理解不能な言動をする男子たちにイラつきながら、学級委員などの様々な委員長を経験。いま思えば同級生にとって、かなり面倒くさい存在だっただろうと反省…(本当すみません)。高校卒業後は大阪芸術大学へ進学し、広告映像を専攻した後、リクルートの代理店に入社。コピーライターとして制作業務全般を担当する。最初は「広告ってなんかカッコいい♪」という不純な動機ではじめた制作だったが、次第に「採用」という、企業と求職者の将来を担う仕事の魅力にハマっていく。峯松とはその後、転職先の企業で出会い、リクルート出身ということで意気投合。正直、第一印象は「いろんな意味でコワい人…」だったが、彼の、人を大切に想う姿勢に心を打たれ「この人に付いていこう」と決意。現在はディレクトリーの東京支店を担当し、お客様の事業を「採用」という角度からお手伝いしたく、日々奮闘中。自分を一言で表わすと『ノリノリ優等生』!
吉川幸一郎 / Koichiro Yoshikawa
個性豊かなディレクトリーメンバーの中でも、異色の輝きを放っている吉川です。ニックネームは「いったんもめん」。白くて薄いから。電気工事屋の5人兄弟末っ子として、この世に生を受けた。2000年、実家の会社のHPを独学で立ち上げて運営したのがきっかけでWEBの楽しさに目覚める。ホームページビルダー等のソフトを使わず、当時まだ主流だったTableレイアウトを嫌い、メモ帳一つでHTML/CSSをコーディングし、CGIを利用して取引先用発注ページを作ったりなど、それまで眠っていたエンジニア(オタク)っぷりを発揮する。その後コンビニを2件掛け持ちしながら「コンビニの兄ちゃん」というブログでマニアックなファンを掴みつつ、そこで出会った綺麗なお姉さんの「カクテルが好きなの」という一言でバーテンダーに転職。接客業の楽しさ、難しさを肌で感じながらも、ブレまくりな自分の将来像に不安を抱く。超安定優良メーカーの営業職にも着き可愛がられるが、何かが違う。「本当に自分はこの仕事がしたいのか?」自問自答している中、WEBシステムについて勉強する機会を得て、Java、JavaScript、PHP、MySQL、CodeIgniterなど様々なWEBプログラミング技術を習得。その後WordPress、EC-CUBE、Elgg、OpenPNEなどの各種CMSをカスタマイズできるようになった。この知識を活かせるネタを探しながら、本屋でブラブラしていると「Evernote」のコーナーへたまたま辿り着く。
「本屋に専門コーナーがあるくらいなら、解説サイトを立ち上げれば人気が出るはず!」
ヨミが的中し、立ち上げ3日目で2000over/dayアクセスという、意味が分からないサイトへ急成長。連携させていたtwitterやfacebookなどSNSの拡散力、瞬発力を直に感じ、現代流のWEB技法でモノづくりの町大阪をもっともっと多くの人に知ってもらいたい!という想いを抱きディレクトリーへ入社。メーカーを中心にWEBを活用したブランディングをしています。
ちなみに私が(個人的に)運営している解説サイトはコチラからどうぞ。
WEBサイトやクラウド活用についてのご相談は吉川までお気軽に。
日野 匠/ Show Hino
同志社大学経済学部卒業。大阪府堺市出身。小学校時代は授業が退屈でファイルを机に立たせおもちゃで遊び時間をつぶし、学校は遊ぶために行っていた。中学はやんちゃな人達が多く、その中で生意気さを手に入れた。高校では人を笑わせる事に快感を覚え、お笑い芸人になることも少し考えた。小学校から高校までサッカーに打ち込み、チームワークの大切さを学び、色んな人によく怒っていただいたおかげで今の自分がいる。
大学時代に今しかできない大きな事をしたいと思い、海外に行ったことがないので海外に行ってみよう。留学している学生に負けたくないと思う負けず嫌いな性格から、彼らにできないこと。どうせなら初海外世界一周一人旅。今まで周りの人に助けられて生きてきた自分がどこまでできるのか、言葉も文化も違う場所で一人で勝負してみたかった。ルールは「親に頼らず自分が貯めたお金だけでいくこと。それがなくなったら帰ってくること。」
英語も話せない僕からすると、本当に無謀なチャレンジだったのかもしれない。しかし、その中で、文字で表現できないほど様々な経験をし、色んな人に出会い、助けられながら29カ国を周ることができた。楽しいことばかりではなかったけど、日本での人脈も広がり、挑戦して本当によかったと思う。
世界を肌で感じて、生まれ育った日本がより好きになり、この国をもっとよくしたいと思うようになった。
その後ディレクトリーと出会い、この仕事内容、この人達となら一緒に働きたいという思いから入社を決意。今までの縁を大事にしながらこれからの縁も大事にしていきたい。
大事なのはハート。
名古屋大学情報文化学部卒。岡山県出身。
変人と言われ続けて24年、興味の赴くままに人の選ばぬ道を往き続けて気が付いたら頭髪が無かった。中学まで常に学年トップクラスの成績を修め、挫折を知らぬまま地元の工業高等専門学校(高専)に進学。5年制でがっつり理系科目を叩き込まれる学校に身を置きながら、1年次からドイツ語、イタリア語、フランス語を独学するという謎の多才ぶりを発揮。高専2年次から毎年、高専英語弁論大会に学校代表として出場。明けても暮れても語学漬けの数年間を送る。高専3年次の春休み、初めての海外旅行で訪れたイタリアで、独学したイタリア語が現地の人々に通じる感動を体験。4年次には米国ペンシルバニア・カレッジとの交換留学生に選ばれ渡米、さらに中国語を学んで上海研修旅行にも参加。5年次の夏休みには男ばかりでイギリスへ旅行し、級友からあらぬ勘繰りを受ける。また、高専1年次から塾講師や家庭教師としての仕事を開始。自分より年上の高校3年生に受験英語を教え、自分が大学生にならぬ内から有名大学に教え子を送り込むという意味不明な実績を積む。
高専在学中に文系教員から手解きを受け、社会言語学の研究論文を発表。この勢いで将来は言語学者になるのだと意気込み、名古屋大学の文理融合学部に3年次編入で乗り込む。さすがに旧帝大ともなれば己の多才ぶりも通用しなくなるかと思いきや、結局、ここでも会う人会う人から「凄すぎてアタマおかしい」(褒め言葉)と言われ続ける2年間に。好きな授業が定額取り放題という環境を桃源郷のように感じ、週8コマそれぞれ違う言語というアタマおかしい時間割を組み上げて既習言語は12か国語に達する。編入生でありながら主席級の成績で学部を卒業、半年間の大学院在籍を経て、英語の専業講師に転身。大学時代にも続けていた塾講師・家庭教師の経験を活かし、医進専門予備校、大手進学塾などで活躍。「英語の授業だと思ったら何故かドイツ語の知識が身に付いていた」「英単語を習っていたと思ったらキリスト教の歴史が頭に入っていた」など一味違いすぎる授業を展開し続けた結果、どういうわけか各校の看板講師に。延べ2000人以上の生徒と接する中で、人の人生に深く関わる喜び、そして後に出会うディレクトリーのスローガンでもある「知られる快感」を知る。今夏、より多くの世界と関わりたいという思いから、幾度目かの進路転換を決意し、ディレクトリーの門を叩く。
ちなみに現在は語学に代わって法学に興味津々。辞書を六法に持ち替え、行政書士と司法書士のダブルライセンスを目指し独学中。法科大学院制度の枷がなければきっと弁護士を目指していた。
澤 佳奈枝 / Kanae Sawa(homare)
京都府立大学卒1990年京都生まれ、3歳で滋賀県に引っ越し、以降一人暮らしをすることもなく、親の庇護の下ぬくぬくと育つ。4姉妹の末っ子ということもあり、姉たちに異常に可愛がられて育つ。姉と遊ぶことが何よりも好きだったので、友達を作ろうと思ったこともなかった。中学校、高校と3分の2登校するかしないかという生活の中、試験の成績はまずまず。大学もAO入試で簡単にすまそうという策略を見事に成功させ、ゆとり教育のど真ん中をひた走る。大学3回生の時に突如、学校を休みピースボート地球一周の船旅に参加。アジア各国では異常に握手と写真を求められ、日本人って愛されてるなと感じ、フランスではトイレの無さに辟易し、イタリアではジェラートとピッツァの美味しさに感動した。何よりも、ピースボートの乗員乗客との関わりがとても大きな財産になった。友達という言葉に悩み、恐怖することもあったが、そこでの出会いが大きな勇気と希望になっている。大学卒業後、会計事務所へ就職するが、大学時代にきちんと就活をしなかったことを後悔する毎日。理想を抱きつつも行動できない自分に嫌気が差し、転職を決意。そんな中転職サイトでディレクトリーを発見。ただただ「おもしろい!!」と思って入社。新卒だったら、絶対入社できない会社に入った自分に驚愕しながらも、毎日楽しくしんどく面白く泣きながらやっております!!もっともっとみんなに認めてもらえるように精進します!!
■酸素ハウス事業部 株式会社ディレクトリィ※一部のみ
宮本 陽子/Youko MIyamoto
酸素ハウス事業部の総合事務メンバー。
電話応対、事務処理、雑務を一手に引き受ける。
創業当初から在籍しており、その経験から他のスタッフの相談役でもある。
短大卒業後、某企業にて事務、人事を経験。
その後、当社の企業理念に賛同し入社。
高校時代にハムスターを飼育していたが、そのペットロスにより、
以降は動物の飼育はしていない。
日々オーナー様と接する事で、ペットロスの軽減に少しでもお役に立ちたいと、
強い思いで業務にあたっている。
他のメンバーも随時UPします。2014年3月18日現在
2013年07月07日 08:08 更新