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今、ここに在る
「今ここに在る」ことを、思考し概念で「わかろう」としても「わからない」なぜならば「今こ
こに在る」とは「体感する」世界だからだ。論理で存在しているのではない。(現代人は体感智
が希薄)
ちなみに「今、ここに在る」を自分で見ていけば、「なんにもわからない」という事実に「気づ
く」ハズである。
「気づけば」まだ「ましなほう」、気づけなければ、身体感覚が希薄であることを意味してい
る。自我中心の生活であることだ。愚人の世界である。当然、育ち盛りの子供たちとは上手くは
いかない。反発されるだけである。
子供たちは理屈を生きているのではない、大人になると理屈づけという自我、妄想・幻想に身を
置くがゆえに軋轢が繰り返されるのである。論理的世界を構築しているのが大人の生態なのだ。
いじめによる自殺が毎年繰り返されている現象は理屈ではない、それを愚考の大人たちは思考と
概念という論理・自我を振りかざし「ああだ、こうだ」言っているだけなのだ。体感智の欠落で
ある。
「信心」という世界は理屈ではない。理屈で考えるから歓喜も感動もないのだ。「今、ここに在
る」とは体感する
世界なのだ。歓喜・感動は体感する世界である。思考や概念では体験できない。
「今、ここに在る」とは「瞬間の妙」である。「瞬間、瞬間」を覚知することができないと、わ
からない。当然、教学用語の「煩悩即菩提」の「即」もわからない。「宇宙即我」がわからな
い、いくら思考・概念で信心しても覚知できないのである。覚知・覚醒・解放・発迹顕本等とい
う言葉は、すべて「体感する事」を示している言葉なのだ。酷な言い方をすれば、「わからない
ままの信心」の日々を繰り返しているだけなのだ。
父が生前言っていた「自分の御都合信心」「なんとかなる信心」である。能書き上手の師弟不二
ごっこ、広宣流布ごっこは、化けの皮がスグ剥がれると、まさにその通り、「今、ここに在る」
と思っているだけで「今、ここに在る」ことを回避逃避しているのだ。そういう癖が定着化して
いるからである。
一番、身近でありながら「今ここに在る」ことが「わからない」それだけ現代人は思考・概念に
より作られた「自我」の世界を生きているのである。思い込み・信じ込みの世界である。今日も
明日も続く愚人の日々、
論理学の世界は思考・概念の世界、論理こそ思考のゲームである。数学的なゲームの世界は人間
が自然現象を数学的手法により抽出したものであり、自然現象はそれ以前から既に在ったのであ
る。論理は変化、変換、置き換えなどにより人間の都合にあわせた学問領域であり「事」にはな
らない。ほとんどの人々は論理では生きていない。観察すればスグわかるハズ、しかし、思い込
み・信じ込みの世界に生きている者には「わからない」
論理を言うならば、仏法の生命論理を論理的に探求すればいい。
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