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私たちの多くは、池田先生の著作・スピーチを何回も、その都度手にして困難を乗り越えてき
た。また信心の確信を深めてきた。同時に信心年数(入会年数)を重ねることにより、幹部と称
する人々の質の悪さ、組織運営の
自己都合といった姿を垣間見ることにより、信心とは、かけ離れた世俗化の世界を生きている組
織人を見る事になってきた。
組織である以上「人の世界」。尊敬できる先輩もいるが、いつしか尊敬できた先輩のアラを見て
しまうこともある。相対的世界であり、信心と言う絶対的世界が揺れ動き、気づかぬうちに親分
子分の師弟ごっこに入り込んでしまう人が多いのも現実。または組織と距離を持ち、自己都合の
師弟ごっこをしている孤立する選択をしている疲弊・疲労している10年20年30年等と入会年数を
重ねただけの人もいる。
「イマイチ信心」「見かけ信心」「親分子分信心」「師弟ごっこ信心」いろいろな人の姿を見せ
ていただいている。まさに千差万別。百人百様の姿。本来は百人一様であるハズなのでだ
が・・・
獄中体験・悟達・悟りは、時代が変わったとしても「百人一様」誰もが同じ体感・体験をするこ
とを意味する。
残念ながら、こうしたことは別世界と勝手に分け隔てをし、疑問を持たないと言う臆病者の信心
がある。
発迹顕本と言いながら何もしない、何もできない、思い込み・信じ込みという信念体系・知識体
の強化体験のみに依存し期待している方が多い。「今、ここ」という言葉は知っていても「今、
ここ」を思考で避けているのだ。
「法華経の智慧を判りたい」という切実な思いを、「いつするか」が「イマイチ信心」の方々の
課題なのだ。
気づいた人が身読する時期にあり、これは個人のレベル。ということは「どうでもいいことか
も・・・」
「能書き上手の役立たず」愚考者の特徴である。思考をハズせば見えて来る真実を自分自身で検
証すべき時がきているのだ。発迹顕本とは自分自身の課題なのだ。
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