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サブカル 語る。

サブカルチャーのどマイナーな話題などについて語る日記

「友人の条件」。それはコストに見合うか否かで決める

こんにちは。

 

友人MとS、NでLINEのグループを作った事と

以下のブログから「友人」を考えてみました。

 

goisan.hatenablog.com

 

40近くになり、ふりかえってみると多くの「友人」が僕にはいます。

小学校や中学、高校と大学を経た後は社会人。

それぞれの場面で僕は友人と楽しい時を過ごしましたが

現在も続いている関係を考えた時、友人を友人足らしめるものは

「コスト」ではなかろうかと感じています。

 

その「コスト」とは、金と時間のことをいいます。

イヤな物言いでしょうけど。

 

「コイツ」は時間と金をかけて会う価値のある人間か?

それを考えてそれに見合うと判断できたら友人である。

 

学校や職場などで同じ時を過ごせる時代は「対話」ってカンタンでした。

だけど社会人になり、互いの生活が異なっている現在は

「対話」というよりも関係の前提である「会う」ということが

本当にむずかしい。時間の調整も過程や仕事と調整をつけなきゃいけない。

さらに移動と飲食の「お金」だってかかる。

それだけの手間ひまが必要なのです。

 

だから、僕は「そのコスト」に見合うだけの人間でなきゃいけない。

会って語って皆に満足いただけるだサービスを提供できなきゃいけない。

 

僕の友人達はみんないい人だからそんなことを言わないし

求めていないのはわかっています。

 

なので、これは僕の過剰な自意識なのです。

 

先程も述べたけど、僕には幼稚園や小学校、

中学、高校、大学に友人といえる人たちがいました。

 

だけどもその殆どとは現在、会っていない。

その人たちの顔も思い出せない。酷い場合には

名前さえも思い出せません。そういう意味で

僕はその人たちを消費してきたともいえるのです。

それは逆も然りで、僕もまた消費されてきたのでしょう。

 

だからこそ

 

その手間ひまをかけてまでAMに会いたいとか言ってくれる人が

いる事のありがたさを僕は心から痛感させられるのです。

 

友人に「何か」(有意義な時間とか曖昧だけど)を

提供できない自分のイメージを想像するだけで耐えられない。

 

子どもの頃からそうやって生きてきました。

おそらく今後もそれは続く。

僕にとって人生っていうのはサービス業なのだから。