湾岸危機(開戦までの経緯)
イラクとクウェートの摩擦
1988年8月20日、イスラム原理主義国家イランとサッダーム・フセイン大統領独裁の世俗国家イラクとの、8年間に及ぶイラン・イラク戦争が一応の停戦を迎えた。戦争中にアメリカ合衆国、ソビエト連邦などの大国や、ペルシャ湾岸のアラブ諸国に援助された軍事力は、イスラエルをのぞいた中東では最大となったが、イラクは600億ドルもの膨大な戦時債務を抱えることとなり、戦災によって経済の回復も遅れていた。イラクが外貨を獲得する手段は石油輸出しかなかったが、当時の原油価格は1バーレル15から16ドルの安値を推移し、イラク経済は行き詰っていた。
イラクが戦時債務を返済できないことから、アメリカは余剰農作物の輸出を制限し始めた。食料をアメリカに頼っていたイラクはすぐに困窮してしまった。また、アメリカが工業部品などの輸出も拒み始めたことで、石油採掘やその輸送系統についても劣化が始まり、フセイン大統領は追い詰められた。
一方、サウジアラビアとクウェートがOPECの割当量を超えた石油の増産を行なっていた。サウジアラビアは表向きOPECの指示に従っていたが、国有油田とは別にサウド家の私有物として石油を採掘し、海外に売りさばいていた。クウェートはOPECを完全に無視して大量に採掘し、原油価格は値崩れを起こした。こうして石油価格は大きく下がり、石油輸出に依存していたイラク経済に打撃を与えていた。
クウェートはルメイラ油田から大量採掘を行ったが、この油田については、イラクも領有を主張しており(地下でイラク・クウェートの油田が繋がっていると考えられた)、クウェートの行為は盗掘だと非難した。また、クウェート国内では石油利益の配分を巡って対立が起こっており、政府がイラクに無償援助した約100億ドルを返済させる運動が起こったため、クウェートはイラクに返済を働きかけたが、当然ながらイラクには返せる財産はなく、反対に更なる援助を要求され、両国は外交的衝突に至った。
フセイン大統領はOPECに対し、原油価格を1バーレル25ドルまで引き上げるよう要請していた。しかし、OPECは聞き入れず、クウェートやサウジアラビアはなおも増産を続けたため、ついにイラク軍が動いた。7月27日にはクウェート北部国境に機甲師団を集結しているところを米軍事衛星が発見した。集結した戦車隊は砲門を南側へ向け、威嚇していた。
アメリカはこれを周辺アラブ諸国に通知したが、湾岸諸国はまるで相手にしなかった。エジプトは仲介のため動き、OPECはフセインを懐柔する為に、原油価格をそれまでの18ドルから21ドルに引き上げたが、フセインは不満だった。一方、クウェートは金銭により解決できると考えたのか、充分な防衛体制を敷かなかった上、7月31日の両国会談ではイラクを激しく侮辱した。
8月1日、両国を仲介していたエジプトのムバラク大統領とパレスチナ解放機構のアラファト議長は「イラクのクウェート侵攻は無い」とクウェートに明言し、自国のテレビで断言した。イラクとクウェートの武力衝突は避けられると思われた。
イラク軍クウェート侵攻
1990年8月2日午前2時(現地時間)、戦車350両を中心とするイラク軍機甲師団10万人はクウェートに侵攻を開始した。ムバラクとアラファトを完全に出し抜いた格好だった。エジプトは中東戦争で敵だったイスラエルと単独で和平を結んでおり、フセインとしてはエジプトに国際的な恥をかかせておこうと仕組んだと見られる。アラファトはレバノン内戦などを経てアラブの懸念材料でしかなかった。
クウェート軍の50倍の兵力を持っての奇襲により、午前8時にはクウェート全土を占領した。同時に革命評議会はクウェート政権が打倒されたと宣言し、同日夕刻にイラク国営放送が、クウェート暫定自由政府(ほぼ全員がクウェート人の知らないイラク軍人だったと見られる)の成立を報じた。一方、クウェート首長はサウジアラビアに亡命した。
これに対し、同日中に国連安全保障理事会は即時無条件撤退を求める国連決議第660号を決議、さらに8月6日には全加盟国に対してイラクへの全面禁輸の経済制裁を行う国連決議第661号も決議した。この間に石油価格は一挙に高まったものの、661号の経済制裁によって、イラクは恩恵にあずかることができなかった。
ここでフセインの誤算が生じた。8月7日、アメリカ合衆国のブッシュ大統領はサウジアラビアへ圧力をかけて、米軍駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決定してしまったのである。アメリカはイラン・イラク戦争の際にイラクを支援しており、サウジアラビアも国内に聖地を抱え、外国人に対して入国を厳しくしている国であるため、異教徒の軍隊の進駐を認めることは、多くのイスラム国家にとって予想外の出来事であった。しかし、サウジアラビアとしても、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていたのであり(石油の過剰輸出もある)、バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦、といった主要産油国も次々にアメリカに同調した。
しかし、国連軍の編制は政治的に出来ないため、アメリカは有志を募るという形での多国籍軍での攻撃を決め、イギリス・フランスなどもこれに続いた。エジプト、サウジアラビアをはじめとするアラブ各国もアラブ合同軍を結成してこれに参加した。さらに、米国と敵対関係にあったシリアも参戦を決定したが、これはレバノン内戦に関する取引であった。アメリカはバーレーン国内に軍司令部を置き、延べ50万人の多国籍軍がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐を開始した(「砂漠の盾」作戦 operation desert shield )。
イラクは国連の決議を無視、さらに態度を硬化させ、8月8日に「クウェート暫定自由政府が母なるイラクへの帰属を求めた」として、イラク第19番目の州であると併合を宣言した。8月10日にアラブ諸国は首脳会談を開いて共同歩調をとろうとしたが、いくつかの国がアメリカに反発してイラク寄りの姿勢を採ったので、取りあえずイラクを非難するという、まとまりのないものとなった。
8月12日にイラクは、イスラエルのパレスチナからの退去などを条件に撤退すると発表したが、到底実現可能性のあるものではなかった(なお、10月8日にエルサレムで、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという、中東戦争以後最大の流血事件が起こり、フセインは激しく非難したが、これを機にパレスチナ問題が国際社会で大きく取り上げられるようになった)。
さらにイラクは8月18日、一般外国人を「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表した(のちに人質は各国からの働きかけで12月に全員解放された)。その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日に翌1991年1月15日を撤退期限とした「対イラク武力行使容認決議」を国連は決議した。
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