佐々 淳行
生年月日1930年12月11日(84歳)
出生地東京府東京市麻布区
出身校東京大学法学部
前職警察官
称号勲二等旭日重光章
親族佐々友房(祖父)
佐々弘雄(父)
佐々克明(兄)
紀平悌子(姉)
公式サイト ⇒佐々淳行ホームページ
初代 内閣安全保障室長
在任期間1986年7月1日 - 1989年6月30日
第15代 防衛施設庁長官
在任期間1984年7月1日 - 1986年6月10日
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佐々 淳行(さっさ あつゆき、1930年12月11日 - )は、日本の警察官僚。危機管理評論家。
目次
1 経歴
1.1 生い立ち
1.2 警察官僚として
1.3 初代内閣安全保障室長
1.4 退官後
2 年譜
3 系譜
4 エピソード
5 栄典・受賞歴
6 著書
7 翻訳
8 異名
9 佐々淳行を演じた俳優
10 脚注
10.1 注釈
10.2 出典
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク
熊本県出身の政治学者で、後に参議院議員を務めた佐々弘雄の次男として、東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。戦国武将・佐々成政の末裔の家系でもある。6歳のとき自宅近くで二・二六事件が発生。その戒厳下の体験が危機管理人生の出発点となったという。旧制成蹊高等学校を経て、1954年(昭和29年)3月に東京大学法学部政治学科を卒業。 東京大学在学中は、学生研究会土曜会の中心メンバーとして活動し、若泉敬、粕谷一希らと交流を持った。教授の堀豊彦からは助手として学問の道に進むことを打診されるが、朝鮮戦争や過激化する左翼運動といった世相の中、ウィリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』に感化され、国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁した。若泉は保安研修所(現・防衛研究所)入りし学究の道に入った。粕谷は佐々が学者、若泉が実務家の適性を持っていると思っていたため、それぞれの選択を意外に思ったという[1]。 入庁後は、主に警備警察の分野を歩み、東大安田講堂事件、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件、ひめゆりの塔事件など数多くの学生運動や新左翼のテロに対する警備実施を指揮した。外事も多く手がけた[注釈 1]。 警視庁外事課長代理、大阪府警察外事課長、外務省在香港総領事館領事、警視庁公安部外事第一課長、同警備部警備第一課長、同警務部参事官兼人事第一課長等を経て、警察庁警務局監察官兼警備局付、警備局調査課長、同外事課長、同警備課長、三重県警察本部長、警察庁刑事局参事官を歴任。その後、防衛庁に出向する。防衛庁では同長官官房長などを経て、防衛施設庁長官に就任した。 1986年(昭和61年)7月1日、第3次中曽根康弘内閣で初代の内閣官房内閣安全保障室長(兼総理府安全保障室長)に就任。中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑の3人の内閣総理大臣に仕え、1989年(平成元年)2月に行われた昭和天皇大喪の礼の事務取り仕切りを最後に、同年6月に退官した。 退官後は個人事務所を開設して、各種講演や企業・団体へのアドバイスの他、著作、評論、教育、NGO運営など、幅広い活動を手がける。 1990年(平成2年)の湾岸戦争、1991年(平成3年)のソ連崩壊、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、1996年(平成8年)の在ペルー日本大使公邸占拠事件など、治安・防衛・外交に関わる重大事件が発生した際には、コメンテーターとしてテレビ番組に出演し、『サンデープロジェクト』、『朝まで生テレビ!』、『ズームイン!!SUPER』などのテレビ番組にも随時出演するようになった。 2006年(平成18年)7月には、日本美術刀剣保存協会の第7代会長・刀剣博物館館長に就任した。同年には、祖父に当たる佐々友房が設立した熊本県立済々黌高等学校を訪れ、あさま山荘事件などの自身の体験や佐々友房について語り、同校の図書館に自身の全著書を寄贈した。2007年(平成19年)に行われた東京都知事選挙では、現職都知事で立候補者の石原慎太郎からの要請で、石原の選挙対策本部長を務めた。このときに用いられた「反省しろよ慎太郎、だけどやっぱり慎太郎」のキャッチコピーは、佐々の発案によるものである[2]。結果石原は浅野史郎、吉田万三、黒川紀章らを大差で下し、3選された。 現在は組織における危機管理の専門家として執筆、講演活動をしている。また、インターネットテレビ『超人大陸』のコーナー「 ⇒佐々淳行のガツンと一喝」に月2回のペースで出演している。テレビにコメンテーターとして出演することも多い。 戦国時代の武将・佐々成政[5]。それより下って時代劇『水戸黄門』で知られる助さんのモデルとなった佐々宗淳の兄・佐々勝朗を祖先に持つ。祖父は西南戦争で西郷軍に与し、後に済々黌の創立や衆議院議員を務めた佐々友房。 父は政治学者で参議院議員の佐々弘雄。兄に朝日新聞記者で作家の佐々克明、姉に日本婦人有権者同盟代表で参議院議員の紀平悌子がいる。三男は寝具メーカー西川産業の代表取締役を務める西川康行。 あさま山荘事件の際、犯人達による銃撃で、次々と最前線の警察官を死傷させてしまうという耐えがたい悲劇に見舞われてしまう。この事に対して、内心犯人全員を銃殺したいほどの怒りがあったものの、上司であった後藤田正晴からの「犯人は、必ず生け捕りにしろ」との厳命を守り、犯人逮捕と人質救出を果たす。そして、後にこの事がきっかけで、連合赤軍リンチ事件が明るみになった。 官吏としては曲折の多い人生で、異例の昇進をしたかと思えば左遷されるといった経験を繰り返している。しかし、後藤田正晴たっての指名で初代内閣安全保障室長に任命されるなど、その辣腕ぶりを知る者からは、重用される機会に恵まれた。 [ヘルプ]
経歴
生い立ち
警察官僚として
初代内閣安全保障室長
退官後
年譜
1930年(昭和5年)12月11日:佐々弘雄の次男として、東京市麻布区麻布材木町で生まれる[注釈 2]。
1954年(昭和29年)
3月:東京大学法学部政治学科卒業
4月:国家地方警察本部(現・警察庁)入庁[注釈 3]
10月:警視庁目黒警察署配属[注釈 4]
1955年(昭和30年)10月:警視庁防犯部保安課[注釈 5]
1956年(昭和31年)1月:警察大学校助教授
1957年(昭和32年)
8月:警視庁警備部警備第一課
埼玉県警察本部警務部監察官
1959年(昭和34年)
7月:大分県警察本部警務部長
11月:米国研修
1960年(昭和35年)7月:警視庁公安部外事課[注釈 6]
1962年(昭和37年)4月:大阪府警察本部警備部外事課長
1964年(昭和39年)1月:警察庁警備局付(外務省研修所)[注釈 7]
1965年(昭和40年)
1月:在香港日本国総領事館副領事
4月:在香港日本国総領事館領事[注釈 8]
1968年(昭和43年)
7月:警視庁公安部外事第一課長[注釈 9]
11月:警視庁警備部警備第一課長[注釈 10]
1969年(昭和44年):東大安田講堂事件など一連の第二次安保闘争に対する警備実施を指揮。
1970年(昭和45年)
9月:警視庁警務部参事官兼人事第一課長
11月25日:三島事件発生。三島由紀夫の説得に向かう。
1971年(昭和46年)11月:警察庁警務局監察官
1972年(昭和47年)
2月:あさま山荘事件に派遣される。
5月:警察庁警備局調査課長
7月:警察庁警備局外事課長[注釈 11]
1974年(昭和49年)8月:警察庁警備局警備課長[注釈 12]
1975年(昭和50年)8月:三重県警察本部長
1977年(昭和52年)
1月:警察庁刑事局参事官
8月:防衛庁出向。防衛庁長官官房防衛審議官[注釈 13]
10月:対ハイジャック特殊部隊創設準備のため西ドイツを訪問。同国特殊部隊GSG-9の協力を得る。
1978年(昭和53年)11月:防衛庁教育担当参事官[注釈 14]
1980年(昭和55年)6月:防衛庁人事教育局長
1982年(昭和57年)7月:防衛庁長官官房長[注釈 15]
1984年(昭和59年)7月:防衛施設庁長官[注釈 16]
1986年(昭和61年)
6月:防衛施設庁を退職。
7月:内閣官房に新設された内閣安全保障室の初代室長に就任。安全保障会議事務局長も務める[注釈 17]
1987年(昭和62年):陸上自衛隊習志野演習場において警視庁特殊部隊SAPの訓練を視察。
1989年(平成元年)6月:内閣安全保障室長を辞職。
1990年(平成2年)
2月:後藤田正晴の選挙応援のため、徳島に入る。
3月:台北訪問。李登輝総統、許水徳
8月:湾岸危機につき、首相閣外補佐を担当。
10月:渡米。情報収集の結果、湾岸地区における開戦必至の確信を得る。
1991年(平成3年)
2月:札幌出張中、宿泊先で海部俊樹内閣総理大臣から電話を受ける。
3月:渡米。日本の90億ドル戦費負担額につき、米側高官と交渉。
4月:ボランティア団体・日本国際救援行動委員会(JIRAC)を設立し、理事長に就任[注釈 18]。
5月:北京訪問。中国公安部幹部に機動隊設立のための助言を行う。
1992年(平成4年)
3月:渡米。プルトニウム輸送問題で交渉。
6月:日本新党の議員候補者リストに名が挙がる。
1993年(平成5年)4月:慶應義塾大学法学部政治学科の非常勤講師に就任。同年9月から、「日本の安全保障行政」と題する講義を開始(この後、6年間に及ぶ)。
1994年(平成6年)4月:日米文化教育交流会議(カルコン)日本側パネル委員就任。内外情勢調査会理事と日本国際フォーラム政策委員就任。
1995年(平成7年)
2月:総理大臣公邸において、村山富市内閣総理大臣らに対し、震災対策に関する意見具申。
3月 - 5月:オウム真理教による地下鉄サリン事件関係で多数のテレビ出演。
6月:全日空857便ハイジャック事件発生。滞在中のハワイから全日空幹部に電話でハイジャック対処法を助言。
1996年(平成8年)
3月:新官邸危機管理懇談会メンバーに就任。
4月:平成国際大学法学部政治学科非常勤講師に就任。
12月:ヴィクトル・アリトミ
1997年(平成9年)
7月:アルベルト・フジモリペルー大統領歓迎晩餐会に出席。
8月:建設省河川審議会危機管理小委員会座長に就任。
1998年(平成10年)3月:人道目的地雷除去支援の会(JAHDS)理事に就任。
1999年(平成11年)
2月:日米文化教育交流会議出席のため、沖縄へ出張。稲嶺惠一沖縄県知事から、第26回主要国首脳会議(沖縄サミット)招聘への協力を求められる。
6月:東京都移転問題専門委員会委員に就任。
7月:ハイジャック対策につき、小渕恵三内閣総理大臣、野村吉三郎全日本空輸社長に意見具申。
8月:ハイジャック対策懇談会座長に就任。
2001年(平成13年)
2月:クリストファー・ラフルーア
9月:ワシントンD.C.滞在中に、アメリカ同時多発テロに遭遇。帰国後、安倍晋三内閣官房副長官に意見具申。
10月:石原慎太郎東京都知事による「首都圏FEMA」構想の骨子を立案し、アジア主要都市市長会議で説明。
2002年(平成14年)
5月:自著『連合赤軍「あさま山荘」事件』(1996年)を原作とする映画『突入せよ! あさま山荘事件』が公開される。東映本社に小泉純一郎内閣総理大臣を迎え、特別試写会が行われる。
7月:横浜市専門委員に就任。
9月:アメリカ同時多発テロ1周年取材のため滞米中、小泉純一郎内閣総理大臣の北朝鮮訪問および北朝鮮による日本人拉致問題への対処を支持する立場を表明。帰国後、ハイジャック対策立案への協力の功により、扇千景国土交通大臣から表彰を受け、皇太子夫妻から労をねぎらわれる。
2004年(平成16年)4月:イラク日本人人質事件で「自己責任の原則」を強調、テロリストからの要求を拒否するよう総理大臣官邸に進言。
2007年(平成19年)9月18日:NPO法人総合危機マネジメント協会の会長・理事に就任。
2010年(平成22年):尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件について、映像を公開しなかった菅内閣を批判、投稿した海上保安官一色正春を擁護。
2011年(平成23年)3月:東日本大震災発生。菅直人内閣総理大臣による被災地視察、自衛隊の逐次投入、計画停電の手順等を危機管理上の視点から批判。
系譜
エピソード
栄典・受賞歴
1975年(昭和50年)5月:イギリスCBE勲章(大英勲章=コマンダー・オブ・ブリティッシュ・エンパイア)を受章。
1986年(昭和61年)6月:アメリカ陸軍民間人功労章(U・S・ミリタリー・アウトスタンディング・シビリアン・サービス・メダル)を受章。
1990年(平成2年)5月:ドイツ連邦共和国功労勲章十字章(ダス・グローセ・フェアディーンスト・クロイツ)を受章。
1993年(平成5年):第54回文藝春秋読者賞を受賞。
2000年(平成12年)12月:第48回菊池寛賞を受賞。
2001年(平成13年)11月:勲二等旭日重光章を受章。
2007年(平成19年)2月:第22回正論大賞を受賞。
著書
『新しい監督者論』立花書房 1957
『危機管理のノウハウ I?III』 PHP研究所、1979-81 、のちPHP文庫、合本で文藝春秋
『目黒警察署物語―佐々警部補パトロール日記』 文藝春秋、1989 のち文庫。挿絵は自らの手による。
『目黒署10人の刑事 佐々警部補シリーズ』 文藝春秋 1990.4、改題「美人女優と前科七犯」文庫
『目黒署アベック殺人事件 佐々警部補シリーズ完結篇』 文藝春秋 1990.11
『新・危機管理のノウハウ 平和ボケに挑むリーダーの条件』 文藝春秋 1991.8
『金日成閣下の無線機』 読売新聞社 1992.4 、改題「謎の独裁者・金正日」文春文庫
『危機の政治学 ハンガリー事件から、湾岸戦争、ソ連邦崩壊まで』 新潮社 1992.9、 のち文春文庫
『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』 文藝春秋、1993、のち文庫
『グローバル経営時代の企業の危機管理』 ブライアン・M.ジェンキンズ共著 日本経済新聞社 1994.6
『新・新・危機管理のノウハウ 世紀末の指導原理』 文藝春秋 1994.4
『ポリティコ・ミリタリーのすすめ 日本の安全保障行政の現場から』 慶応義塾大学講義録 都市出版 1994.11
『平時の指揮官 有事の指揮官 人を動かすには、何が必要か』 クレスト社 1995.4 のち文春文庫
『危機管理宰相論』 文藝春秋 1995.12
『日本の危機管理はこれでいいのか 阪神大震災、地下鉄サリン事件の教訓をどう生かすか』 竹村健一と共著 致知出版社 1995.6
『六男二組の約束 戦争と先生と59人の子供たち』 TBSブリタニカ 1995.12
改題「「六男二組」の太平洋戦争」小学館文庫 / 「戦時少年佐々淳行―父と母と伊藤先生」 文春文庫
『連合赤軍「あさま山荘」事件』文藝春秋、1996 のち文庫、※映画『突入せよ! あさま山荘事件』原作
『香港領事動乱日誌 危機管理の原点』 文藝春秋 1997.6 、改題「香港領事佐々淳行 香港マカオ暴動、サイゴン・テト攻勢」文庫
『危機管理』 ぎょうせい 1997.9
『さらば臆病国家ニッポン 指導者よライオンになれ』 文藝春秋 1998.8
『日本の警察?「安全神話」は終わったか』 PHP新書 1999
『わが上司後藤田正晴 決断するペシミスト』 文藝春秋 2000、のち文庫
『自然災害の危機管理―明日の危機を減災(ミティゲート)せよ!』(編著:ぎょうせい、2001)
『仕事の<実例>「危機管理」術』 三笠書房 2001.8、 改題「重大事件に学ぶ「危機管理」」文春文庫
『焼け跡の青春・佐々淳行 ぼくの昭和20年代史』 文藝春秋 2003、のち文庫
『インテリジェンス・アイ―危機管理最前線』 文藝春秋 2005、改題「危機管理最前線」文庫
『後藤田正晴と12人の総理たち―もう鳴らない“ゴット・フォン”』 文藝春秋 2006、のち文庫
『軍師・佐々淳行 反省しろよ慎太郎だけどやっぱり慎太郎 危機管理最前線 2』 文藝春秋 2007、改題「わが「軍師」論」文庫
『一隅を照らす行灯たちの物語 実践的青少年教育のノウハウ』 冨山房インターナショナル、2009
『菊の御紋章と火炎ビン―「ひめゆりの塔」と「伊勢神宮」が燃えた「昭和50年」』 文藝春秋 2009、のち文庫?激動の1975年を回想記
『わが記者会見のノウハウ?スキャンダル克服の秘訣』(文藝春秋、2010.2)、改題「「危機管理・記者会見」のノウハウ」文庫
『ザ・ハイジャック?日本赤軍とのわが「七年戦争」』 (文藝春秋、2010.11)、のち文庫?「よど号事件」ほか
『彼らが日本を滅ぼす』(幻冬舎、2011.2)
『国家の実力 危機管理能力のない国は滅びる』(致知出版社、2011.6)、渡部昇一との共著
『ほんとに彼らが日本を滅ぼす』(幻冬舎、2011.7)
『救国の八策』(幻冬舎、2012.7)
『佐々淳行の危機の心得 名もなき英雄たちの実話物語』(青萠堂、2012.9)
『「国土」喪失。なぜ日本は領土を守れないのか』(PHP研究所、2012.12)
『インテリジェンスのない国家は亡びる 内閣中央情報局を設置せよ!』(海竜社、2013.8)
『私を通りすぎた政治家たち』(文藝春秋、2014.9)。本人曰く『最後の著書』と銘打って刊行した
『定本 危機管理 我が経験とノウハウ』(ぎょうせい、2014.9)
『私を通りすぎたマドンナたち』(文藝春秋、2015.7)
翻訳
『読後焼却 続智慧の戦い』 L.ファラゴー 日刊労働通信社 1963 / 新版「読後焼却」 朝日ソノラマ文庫 1985
『脅かされる大統領』U.E.ボウマン 有紀書房 1964 / 新版「シークレット・サービス」 朝日ソノラマ文庫 1985
異名
事件を呼ぶ男[6]
さすらいのガンマン[6]
ダーティー・ハリー[6]
縦社会を横に生きた男(小松万豊による)[6]
血刀下げて裸馬に乗って単身敵陣に斬り込んでいく奴(後藤田正晴による)[7]
佐々淳行を演じた俳優
役所広司 (突入せよ! あさま山荘事件)
陣内孝則 (日本史サスペンス劇場)
椎名桔平 (スーパーテレビ特別版"佐々淳行極秘メモ")
脚注
注釈^ 佐々はフレデリック・フォーサイスの小説『第四の核』に「日本のスパイキャッチャー」として実名で登場している。
^ 参議院議員・紀平悌子は姉。他に尚子という妹がいたが、1942年(昭和17年)2月に3歳で病死している[3]。
^ 警察三級試験に次席で合格。
^ 警ら係長、捜査係長など歴任。この頃の勤務における体験は、小説『佐々警部補パトロール日記』シリーズにまとめられている。
^ 風紀係長として風俗事件の捜査指揮をとる。
^ 課長代理としてソ連など欧米スパイ事件の捜査指揮をとる。その間、第一次安保闘争末期の警備実施、アナスタス・ミコヤンソ連第一副首相来日の警護なども経験する。
^ ケネディ大統領暗殺事件調査のため渡米。帰国後は東京オリンピックの際の警備や亡命者の処遇を担当した。
^ 1967年(昭和42年)5月、香港暴動の発生に際して、領事として在留邦人保護を担当。1968年(昭和43年)1月、ベトナム出張でサイゴン滞在中、テト攻勢に遭遇し、青木大使のもとで在留邦人保護にあたる。
◇ピンチです!◇
★暇つぶし何某★
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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