11月は、
毎週なにかしら予定が入っていて、東京に2回ほど行く予定があります。
その東京行きの片方は文フリですが、ここでは「アマチュアで妥協」というサークルで「らくせん」という同人誌を販売したり、「Shiny Books」さんの「アヴァンギャルドでいこうvol.4」に簡単な文章を書かせていただいたりしています。これらはまたあらためて告知をしますので、またよろしくお願いします。
結婚式、
もうひとつの東京行きは大学時代からの友人の結婚式。うちは夫婦で呼ばれていて、結婚式の翌日は東京でふらっと遊んで帰る予定なのだが、嫁氏は春画展に行くことを熱望。べつにいくのはいいのだけど、嫁と一緒にこういうのにいくのはどうもテンションが上がらない。ところで胎教、ということばをすぐに頭におもいうかべ、たまに口にでてしまうことがあるのだけれど、そのたびに嫁に怒られる(いわく、腹の子を理由に行動規制されるのはごめんだとのこと)。
定期健診で経過は聞くというのはあっても、なんだかんだで本当に腹の中のひとが生きているのかどうかは父親予備軍としては気になるもので、胎動の話をきくとほっとするというのはある。ただ、ここ最近活発な動きを見せたのが、ノーベル物理学賞のニュースだったりするので、頼むから学者になりたいとかいわない素直な子どもに育って欲しいとおもう。
そういえば結婚式をする友人(新郎)は、昔フランスに旅行した時に、エロティック博物館に現地で知り合った女の子といったという。パコにはならなかったらしい。
映画の感想は以下です。ネタバレなど嫌な人はご注意ください↓
いわゆる「ここさけ。」を観てきました。
大ヒットアニメ「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。」の製作チーム(監督・長井龍雪、脚本・岡田磨里、キャラクターデザイン・田中将賀)が再結成しての作品ということで注目の作品。ぼくが見に行ったのは先週だったのだけど、その時点ですでに興行収入10億円を突破していました。おめでとうございます。いちアニメファンとして、ここまでヒットしてくれるのはとてもうれしい話です。大ヒットとなるのはどうしてもジブリ作品や細田守になったりするなか、A-1Picturesの作品がこういう快挙を成し遂げたことは、アニメ界的な意味も大きい気がする。めちゃくちゃおもしろかった。
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あらすじはこんな感じ。
小学生のころ、お喋りが災いして両親が離婚した少女・成瀬順が玉子の妖精に「お口をチャック」され、それ以来しゃべるとお腹がいたくなってしまう。それから時間が経って、お話の舞台は高校へ。「地域ふれあい交流会」という地元の人に歌とか劇とか見せる会の実行委員に、純を含む4人が選ばれる。いろいろあってミュージカルをやることになり、みんなでそれに向けていろいろがんばる。
いってしまえば、そういう「フツーの学校もの」みたいな大枠であり、物語の細かい部分も、そのイベントにかかわる人物たちの群像劇で、「いいたいことを、声に出す」というテーマで丁寧に束ねられれた作品だ。こう書いてしまえば、すごくつまらないようにおもえる。
伝える、ということについてはおもうことがたくさんある。
ぼくは小説を書いていて、「なんのために」「なにがいいたくて」「なにを伝えるために」この小説を書いたのかとか、そういうことをよく聞かれたりするけど、「ここさけ。」という作品も、「なにを伝えるか」が明確な作品で、個人的な感情から出発しながら創作についての【根源的な】問題にまで触れている。
ぼくは、順がミュージカルの物語をケータイで書き、坂上君にそれを送るシーンがすきだった。このとき、順は母親とのコミュニケーションの不具合から溢れ出した感情に任せ、物語を猛烈に書き始めるのだけど、それがじぶんの溜め込んだ嫌な思い出やそれと切り離せない感情そのまま、ではなく、寓話的な物語だったということが、この映画の話をするうえでなによりも重要なものにおもえる。順はいう、「わたしのほんとうにしゃべりたいことを歌にしてほしい」。
歌であることの必然は、歌であれば順のお腹が痛くならない、という理由づけがなされていて、ミュージカルという文脈からもそのとき順の頭によぎったものが「物語」であることも違和感はない。しかし、このシーンをそういう見方をしていいものか、とぼくはおもった。この作品は、派手さはないけれども、いたるところに丁寧な物語的な技術が組み込まれているし、その上手さが逆に「人工的すぎる物語」感をつくっているともみれる。が、しかし、「ここさけ。」という物語の文脈から切り離して、このシーンを見たとき、現実とフィクションのあわいが揺らぐ。感情的、あるいは本能的に創作されたものは、創作者にとってのリアルだ。もっといえば、それは創作なんかじゃない。疑いようもなく、現実に存在している(順は玉子の妖精がほんとうに「いる」と信じている)。
この前の情熱大陸で、ダンサー・菅原小春がこんなことをいっていた。
「たとえば、ひとに指さす、という日常的な行為でも、その指に命を注げばその指1本でもダンスになる」
命を注ぐ、という動詞をどう解釈するかはあるけれど、ぼくは「目的意識を特化させる」というとらえ方もできうるとおもった。それだけだ、という絶体絶命を行為に宿らせる。それにより、あらゆるものは「アート」となりえる。たぶん、ぼくはそれを無意識的に「ポエジー」と呼んでいた気がする。
話を順ちゃんに戻すと、「ここさけ。」という映画全体を俯瞰してみてしまうと、順の創作はただの合理的な作中作になってしまうけれど、あのシーンだけを独立させてみれば、あの瞬間に彼女のことばはに生が宿り、ポエジーという形で現実(作品世界)に発露した。そこに大きな感動があった。
もっと話を巻き戻す。
「なんのために」「なにがいいたくて」「なにを伝えるために」小説を書くのか。
そういった問題意識から発せられる絶体絶命は、ことばや物語がポエジーを宿すために必要不可欠なものだとはおもう。しかし、勝手に生まれて勝手に生きてしまったぼくらじたいが、「生きる理由」を持ち合わせてなくて、それゆえにことばや物語もまた、先天的には「なんのために」「なにがいいたくて」「なにを伝えるために」など持ち合わせていないんだとおもう。好きな小説で、こんなことばがある。
"人間と同じで、物にも生まれてから死ぬまでのサイクルがある、とあたしたちは信じていた。ウェディングドレスやフェザーボアやTシャツや靴やハンドバッグのライフサイクルには、〈衣料品街〉が組み込まれている。よい衣服なら、あるいはたとえ悪い衣服でも面白い感じの悪さなら、死ぬと〈衣料品街〉へ行く。死んでいることは匂いでわかる。それを買って、洗って、もう一度着るようになれば、買った人間の匂いがするようになって、服は生まれ変わってもう一度生きる。でも肝心なのは、何かを探してるならとにかく探し続けるしかないってことだ。気合いを入れて探すしかない。"
ケリー・リンク,「妖精のハンドバッグ」
しかし、本番当日に色恋沙汰でブッチするのは本気でありえないし、順ちゃんがかわいくなかったらウルトラ不快な展開である。そういう意味で、かわいいは正義、を証明した作品でもあったとおもう。
*追記
ほかの方の感想ブログを見ていて、
↑はすごい、この作品を丁寧にみたなーとおもいました。オススメです。
他にもこんな記事を書いてます。
bibibi-sasa-1205.hatenablog.com
bibibi-sasa-1205.hatenablog.com
bibibi-sasa-1205.hatenablog.com