2015-11-09
■[雑記]創作と偽史のあいだ――ある事例に見る歴史修正主義の陥穽

皆様こんにちは。ご無沙汰しております、Rasielです。今回のエントリは声優やアイドルにまつわる話題ではなく、歴史についての(少し堅めの?)話題です。
さて。Googleとは恐ろしいもので、先日「カール大帝 ヒルデガルト」で検索をかけていたら、たまたま次のページを見つけてしまいました。
http://hidexhirax.hatenablog.com/entry/2015/06/29/234249
http://hidexhirax.hatenablog.com/entry/2015/06/30/235531
このブログや筆者が何なのかは存じ上げませんが、少なくともこのエントリには言葉を悪くすればデタラメが数多く含まれています。私はカールの時代の国制や教会、ひいては神学に関心があり、ほんの少しですが勉強しているので、このエントリに書かれていることに対する反証を書かせていただきます。趣旨は「カール大帝」その他で検索をかけた時に、こうしたデタラメが引っ掛かるというのは問題だと感じるので、一介の私ではありますが訂正を試みたいということです。その際、多くの人のアクセスの便宜を考えて、なるべく日本語文献を典拠として挙げたいと思います。
以下、適宜元エントリを引用しつつ議論を進めていきます。まず、カールについては次のような記述から始まっています。
ところでカール1世(=大帝)(742年生)は、5回結婚し、且つ多くの愛妾を持ちました。王の役目は子孫繁栄。子どもや妻、愛妾の多さは一族の争いも招く事も多々ありますが、王の血を継ぐ者が少なければ国家衰亡を招きます。
王の役目に関する(勝手な)想像はご自由にという感じですが、ここで気になるのはカールの生年を742年としていることです。この点に関しては調査不足もやむをえないのかもしれませんが、実は近年になって、カールの生年は747年ないし748年だったのではないかという見解が主流になっています。カールの父ピピンと母ベルトラーダの婚姻は744年ないし749年に成立したと考えられており、カールの出生を742年とすると彼は私生児ということになり、問題が生じます。というのは、ローマ教皇は754年7月にカールとその弟カールマンにフランク王国の継承者としての承認を意味する塗油を施しているからでありまして、ローマ教皇が私生児を次世代の王として聖別するとは考えられないからです。そこでカールの両親は744年に婚姻を結び、747年ないし748年にカールが生まれたと考える見解が有力となったわけです。これについては次に掲げる文献を御覧ください。
- 五十嵐修『地上の夢 キリスト教帝国――カール大帝の<ヨーロッパ>』講談社選書メチエ、2001年、27-30頁。
- Janet L. NELSON, "Charlemagne the Man," in: J. Story (ed.), Charlemagne, Empire and Society, Manchester/New York 2005, pp. 24-27.
その後、カールの息子ピピンについての記述が続きます。
最初の妻は、ブルグント貴族(何家か不明)の娘ヒミルトルーデ。西ローマ皇帝として即位する前年767年頃の結婚で、長女アモードル(768年)と長男ピピン(770年生)を授かりますが、ピピン誕生後に離婚。その後のヒミルトルーデは、アモードルを連れ修道院へ。残されたピピンはその事実を知った時から父カールに対して反抗的になる。ピピンはイタリア王となりますが、父に謀叛。しかし、それは失敗して生涯幽閉の身に。イタリア王位は、同じ名を持つ異母弟ピピンに譲られます。
この記述は端的に誤りです。第一にカールが「西ローマ皇帝」なる称号を少なくとも800年の戴冠以前に用いたことは一度もありません。仮に百歩譲って800年の戴冠を「西ローマ帝国の復活」と看做すにしても(そもそもこうした枠組自体、「古代末期」研究によって覆されているわけですが)、カールを即位当初から「皇帝」と呼ぶ慣行は(教科書レベルですら)存在しません。第二に「同じ名を持つ異母弟ピピン」はもともとカールマンという名前でした。カールと最初の王妃ヒミルトゥルーデとの間に生まれた長男ピピンは「せむしのピピン」と呼ばれる障害児でありました。カールは781年4月の生涯二度目のローマ訪問に際して、三番目の王妃ヒルデガルトとの間に生まれた三男カールマンと四男ルートヴィヒを伴いまして、二人の王子に時の教皇ハドリアヌス1世から洗礼・塗油を受けさせています。そしてこのタイミングで、カールマンはピピンに改名されたのです。これは長男の「せむしのピピン」の事実上の廃嫡を意味すると考えられており、792年に彼が叛乱を起こすのは以上の文脈で理解しなければならない、ということになります。これについては次に掲げる文献を御覧ください。ですので、
- 五十嵐修『地上の夢 キリスト教帝国――カール大帝の<ヨーロッパ>』講談社選書メチエ、2001年、81-85頁。
- 五十嵐修『王国・教会・帝国――カール大帝期の王権と国家』知泉書館、2010年、101-104, 357-358頁。
そして、父カール大帝に謀叛するピピンが実はアデルペルガの子で、三男とされるピピンと同一人物だとすると、全て辻褄が合います。
という想定は全く成り立ちません。また、三男カールマン(=ピピン)は781年4月の段階で教皇ハドリアヌスからイタリア王として聖別を受けており、長男ピピンが叛乱を起こすのは792年ですから、論理的に考えて長男から三男へとイタリア王位が譲渡されたという解釈も成り立ちません。
もう一つのエントリも事実誤認に満ちています。
774年。カール率いるフランク軍(=西ローマ軍)はロンパルディアへ侵攻。王都パヴィーアを占領して、ランゴバルド王国を滅亡に追い込みます。これによって、フランク族はローマ教皇を守護する盟主となり、神聖ローマ帝国を建国する根拠にもなります。
とありますが、このカールの生涯一度目のローマ訪問でいかなる内容の合意が成立したのかは、史料の制約からして何も言うことができません。「フランク族はローマ教皇を守護する盟主とな」ったというのは、後世の歴史家の推測に過ぎませんので注意が必要です。仮にこの点を正当化するにしても、いっそう周到な議論の枠組が必要です。ですからこれが「神聖ローマ帝国を建国する根拠」などにはならないことは明らかでしょう。また、
3年後の777年。恐らくフランクの王と、ローマ教皇、そして所謂ランゴバルド三侯国の公の協議が行われ、カール1世の長男ピピンがランゴバルド王に即位。このピピンに関しては、前回、カール1世とアデルベルガの子どもではないのかな?と考える此方はそういう怪説を致しました。昨日の今日で路線変更など出来ませんから、その流れで話を進めれば、元弟妃アデルベルガ=ピピンの実母の願いを聞き入れて、ピピンをランゴルド王に即位させ、ランゴバルド三侯国の保護存続を認めた。という事になります。
という記述についても、そもそも777年にフランク王とローマ教皇の協議があったという事実はない、とだけコメントしておきます。
そして、こうした数々の事実誤認にもまして問題なのが、次の記述です。
千年以上も昔の真実は今更何も出て来ないでしょうけど、こういう説で書かれている本など我が国には無いみたいですから、全ては此方の勝手な想像。百年後、千年後、こういう話が事実化されていたら面白い。歴史は後からだって創る事が可能です。その事は、支那や韓国に好き勝手に歴史を騙られている我が国の人達が一番理解出来るでしょう。
実際、私がこのエントリを書こうと決意したのも、この記述に対する怒りからであります。筆者が意識的に書いているのかどうかは定かではありませんが、西欧中世を題材にして歴史家ぶりつつも、とうとう馬脚を露わしたものです。「支那や韓国」を引き合いに出す時点でお察しではあるのですが、ここには中国や韓国に対する明らかな差別・侮蔑意識が窺われます。「好き勝手に歴史を騙られている」と一方的に相手を悪者に仕立て上げ、自分は居直って被害者ぶるというのは所謂「ネトウヨ」や歴史修正主義者の常套手段でありますが、この筆者もまさにそのパターンに陥っているということは言うまでもないでしょう。そして、極めつけは「歴史は後からだって創る事が可能」という豪語です。このように従来の歴史学の研究蓄積を全てうっちゃって、ゼロベースで議論したがるのも歴史修正主義者の特徴でありますが、それを地で行っているという印象を受けます。少なくとも、この筆者の説とやらが「事実化」されることは何千年経とうがありえないでしょう。
私は歴史モノの「創作」や「歴史小説」を全否定しているわけではありません。しかし、昨今の『艦これ』や『刀剣乱舞』をめぐる情勢を見ていると、「創作」は一瞬にして「偽史」へと移り変わり、それが歴史修正主義と強固に結びつく事例があまりに多すぎると言わざるを得ません。何の根拠もないデタラメを並べ立てること自体にも問題がありますが、いっそう醜悪なのはそうしたデタラメを撒き散らすことに一切の躊躇いや恥ずかしさを覚えないメンタリティだと思います。上で一つ一つ反証したとおり、少なくともカールに関するこれらのエントリは大半が典拠不明の嘘から成り立っています。このような加工を行える人間が他のエントリでは「歴史的」な思考をしているとは思えませんので、当該ブログ全体が歴史修正主義的な色彩を帯びているのだと考えてよいでしょう。他のエントリについては、私は検証する余裕も能力もありませんが、正しい知識と作法を身につけた良識ある方がそれらを否定してくださることを願っています。歴史修正主義は我々の身近に潜んでおり、様々な局面に忍び寄ってきているのだ、と今回の一件で私は強く感じました。仮に百歩譲って歴史学が「何の意味もない、金にならない学問」なのだとしても、こうした俗悪な歴史修正主義を拒絶するだけの力はあると私は信じております。
最後に、今回のエントリに関連するTogetterまとめを紹介しておきます。ご関心のある方は是非併せてお読みいただければと思います。
- 23 https://t.co/HsaHpsiY7m
- 4 http://d.hatena.ne.jp
- 3 https://t.co/01WYZJHfqh
- 2 http://www.google.co.jp/search?ie=Shift_JIS&q=クイーンズブレイド+レイナ+失禁&btnG=検索
- 1 http://b.hatena.ne.jp/
- 1 http://b.hatena.ne.jp/entrylist?sort=hot
- 1 http://d.hatena.ne.jp/diarylist
- 1 http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=4&ved=0CEwQFjAA&url=http://d.hatena.ne.jp/rasiel9713/20151109/1447063531&ei=qMZAVuWfL7HUggKQDA&usg=AFQjCNGj6U-nvklL8dsZlsMl65JHEhL3rA
- 1 http://www.google.com.hk/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=11&ved=0CBsQFjAAOApqFQoTCPqb29uvg8kCFaItpgod6ZcDAQ&url=http://d.hatena.ne.jp/rasiel9713/20150814/1439548822&usg=AFQjCNGb2GBVhN1T5EsAv7lphxCAvJeXAQ
- 1 http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=3&ved=0CCQQFjAG&url=http://goo.gl/1N2Wv3&ei=h8ZAVrb_KtDukgbkogE&usg=AFQjCNHv9xgD-WNjkxcar_9afnV2DN2LSQ