・「幸せは雲の上に」
ブラジルから来た日系人たち
・「あなたが欲しい」
歌うのは日本のメロディーです。
日本とブラジルの友好そして日系人の長い歴史を祝うカラオケ大会
2つの文化を併せ持つ人たち。
その歴史は100年以上前の移民船から始まりました
今年は日本とブラジルが外交関係を樹立してから120年目の年。
各地でさまざまなイベントが開催されています
明治28年移住希望者の多かったブラジルと国交が結ばれ日本は移民ブームに沸きました。
ブラジルへ渡った人の数はこれまでにおよそ24万人。
2つの国の歴史はまさに移民の歴史です。
今も続く両国の深い関わり。
その礎となったのは移民たちの過酷な闘いでした
母ちゃんと元気で行きなあよ。
ね。
はい。
うんともうけてくるぞ!
NHKには日本からブラジルへと渡った移民たちを長年にわたって記録したドキュメンタリー番組があります
小さな船に満載されたアマゾン移住者が暗闇の中を去っていく。
41人の人たちは今どんな人生を送っているのだろうか。
アマゾンの開拓に挑み挫折した人
異国に追った夢を成功させた人
町田嘉三君。
現在ブラジル随一の空手道場主である。
幼児から大人まで男女の別なく町田道場は終日門弟の絶え間がない。
待っていたのは悲喜こもごものドラマでした
はるか地球の裏側へ海を渡った人々。
その歴史を振り返り移民たちがもたらしたものについて考えます
こんにちは。
この11月5日で日本とブラジルが外交関係を樹立してからちょうど120年になりました。
今日はこの2つの国を行き交ってきた移民たちの歴史を振り返りながらそれがそれぞれの国に何をもたらしてきたのかを考えてまいります。
早速ゲストの方をご紹介致しましょう。
歌手のマルシアさんです。
よろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
そして元上智大学教授で社会人類学博士の三田千代子さんです。
よろしくお願い致します。
よろしくお願い致します。
早速ですがマルシアさんはおじいさんの代に日本からブラジルに移住をしてマルシアさんが日系の3世という事になりますね。
はい。
この写真をまずご覧頂きたいと思います。
ブラジルから夢を抱いて来日をして歌手デビューして2年がたった時のお写真だという事ですね。
そうですね。
セカンドシングルの発表会でその時にプレゼントとして母と祖父を呼びました。
おじい様も穏やかな表情でいらっしゃいますがそのおじい様の若い頃の写真がこちらですね。
恐らくこのころはブラジル移民するちょっと前かな。
祖父は1930年代ごろにブラジルに行ったので二十歳ごろですね多分。
三田さん。
マルシアさんのおじい様佐登里さんがブラジルに行かれた1930年ごろというのは日本からブラジルに移住する人がとても多かったというふうに伺っていますが。
最盛期ですからね。
大体毎年1万人とか2万人とか。
でその前まではポルトガル人の移民が多かったんですけどそのポルトガル人を超えて日本移民が実はブラジルに入った外国人移民としては一番多くなったのがそのころなんです。
そうですか。
その先人たちが命を懸けて経験した事というのが今の私たちにもいろんなメッセージとして伝わってきそうですね。
今日これからご覧頂きますのはマルシアさんのおじいさんがブラジルに渡られた30年代より更に後の時代1968年にブラジルに渡った移民たちの人生を追ったドキュメンタリー番組です。
昭和63年6月18日。
南米ブラジルは移民80年の記念行事に沸いた。
日本人が最初に上陸したサントス14番埠頭では移民第1船笠戸丸到着の場面が再現され1万の観衆が押しかけた。
笠戸丸が165家族791人の日本人を乗せてサントス港に入港したのは明治41年6月18日の夕刻。
ブラジルはサンジョアキン祭りの最中であった。
(花火の音)花火が空を染め人々の歓声がこだました。
笠戸丸の移住者はそれを自分たちへの歓迎行事と錯覚し狂喜した。
だが彼らを待ち受けていた境遇は奴隷のような暮らしであった。
19世紀末。
奴隷制度を廃止したブラジルは労働力を移民に求めた。
しかしそのあまりの悲惨さにヨーロッパ各国は国民のブラジル移住を禁止。
そのあとを受けて開始されたのが日本からの移民であった。
笠戸丸から80年。
日本の移住者総数24万。
現在の日系人55万。
奴隷に近い境遇から出発した日系社会は今この国の重要な担い手になっている。
笠戸丸から60年目の昭和43年春。
私たちは移住船あるぜんちな丸の旅を記録した。
時に日本は明治100年に沸いていた。
昭和43年3月2日午後3時。
南米定期船あるぜんちな丸1万900トン。
乗客総数300。
北米から南米諸国を巡り最終港アルゼンチンのブエノスアイレスまで49日という長い航海につくのである。
九州の開拓地から一族12人でアマゾンに入植する久保田さん一家。
大学出の移住者大場さん夫妻。
7年前ドミニカ移住で失敗。
この度再起を期してアマゾンに入る高原さん一家。
母ちゃんと元気で行きなあよ。
ね。
はい。
うんともうけてくるぞ!伊藤勇雄さんとその一家。
69歳にして人生最後の夢をジャングルの開拓に懸けた。
3月2日午後4時。
あるぜんちな丸は定時出帆。
日本の春はまだ浅く気温7度の寒い日であった。
(汽笛)乗客総数300人。
船内には2つの集団が出来上がる。
一つは観光ビザを持った学生たちなど北米行き集団66人。
もう一つは南米移住者集団136人。
その内訳。
家族ぐるみの農業移住者17家族65人。
独身の農業雇用労働者27人。
技術移住者11人。
移住花嫁16人。
船が南下するにつれ波は静まり船酔いにも慣れて乗客は自分を取り戻していく。
船はようやく活気にあふれてきた。
あの〜アメリカは観光です。
金稼ぎに行く訳ですねアメリカには。
でアメリカで金稼いで単車でも買ってでまあアメリカをぐるっと回って中米からできたら南米に行きたいなと思って。
僕もやっぱロスだけどねまあ留学できたらしてくるけど。
いや違います。
技術移民です。
だから僕の場合旅行者といってやってますからね就職もはっきり決まってないです。
だから向こうで自分でまた探さないといけないからね。
日本ではもう限られてるやろ。
学歴とかそういう事がやっぱな。
いくら実力なくても…大学出とかより高校出の方が。
まあレジャーね。
まあ人生もうちょっといい事あんじゃないかな〜って行く訳よね。
四十いくつでもってね素人から始めて成功して…。
45歳だよ私は開墾したの。
完全に成功しましたな。
まだ約10年…。
大いにやんなさい。
やってくれ。
90ヘクタールまで我々の方はいい言われたんですよ。
しかし90ヘクタール以上に能力があればですね3戸分…3×927で270ヘクタールもやれると…。
15年か20年ぐらいまでには300頭を飼いたいと思って…。
いいわね。
あなたが大きくなった頃パパ300頭ですって牛を。
すごいわね。
目的もさまざまなら生きてきた道もそれぞれ違う多くの人たちが一つの船に乗り合わせた。
ある人は互いの境遇に同情しある人は互いの生き方に共感を覚える。
ある人は同じ趣味ゆえに意気投合し誰もがこれから降り立つ異国の地に夢をはせた。
(笑い声)
(拍手)昭和43年当時南米移住のブームは既に去り移住船は観光船に改装されていた。
僅かなドルで海外に遊ぶ若者。
金と暇を持て余す有閑マダム。
船内は一見華やかな雰囲気に包まれた。
しかし船の3等フロアでは移住者たちの夢と不安が交錯していた。
移住のブームは去っていたが南米はまだ日本人にとって夢多き希望の大陸であった。
20年目の今年。
私たちは彼らを南米に訪ねて3度目の旅をした。
1度目は移住7年目の昭和50年。
2度目は移住10年目の昭和53年。
そして3度目の今年。
船で知り合った人々への忘れえぬ思い出の数々が私たちを取材へと駆り立てた。
ブラジルの大都市サンパウロ。
そこは日本人にとって憩いの町であり人のうわさの交差点である。
私たちの旅はいつもこの町から始まった。
今年10年ぶりに訪れたブラジルは想像以上に激しく変わっていた。
この一年の物価の値上がりは8倍と予想され失業者が国中にあふれ悪質な犯罪が激増した。
東京より小さな都市サンパウロで毎月起きる犯罪が強盗4,000件殺人400件車の盗難5,000件。
インフレに強いお金を日本で稼ぎませんかと口入れ屋の広告が毎日の新聞紙面で誘いかける。
これはこの20年間に発行されたブラジル通貨の数々である。
これは20年前に使われていた最高額紙幣である。
この1万クルゼイロが激しいインフレで10クルゼイロに切り下げられるが新しい紙幣の発行が間に合わず数字の10を印刷しただけで流通させた。
その10年後。
つまり今から10年前に訪れた時はこれが最も高額な紙幣であった。
10万クルゼイロ。
これがすぐに下3桁切り落とされ名称もクルゼイロからクルザードに変えられた。
10万クルゼイロ変じて100クルザード。
この放送直前の値打ちが円にして20円である。
この20年間の物価上昇は少なく見積もっても1万倍を超えている。
この激しいインフレの下であるぜんちな丸の乗船者は一体どんな人生を送っているのだろうか。
私たちは20年前の乗船名簿を手がかりに南米各地を駆け巡る8,000キロの旅に出た。
今年の5月の事である。
10年前は広大な国土の隅々まで立派な道路が張り巡らされどの車も高速で走っていた。
ブラジルは強引な高度成長経済をとり農業国から工業国への道をばく進していた。
しかしその直後石油危機が世界を襲い経済は悪化し国民の生活も激変する。
今年20年目を迎えるあるぜんちな丸の皆さんはこの困難を乗り越えただろうか。
私たちは最初の訪問地アマゾンへと急いだ。
(汽笛)日本を出てひとつき目。
あるぜんちな丸はブラジル北部アマゾン河口のベレンに着いた。
アマゾンは雨季であった。
ここでは大きな船は港に接岸できない。
乗る人も降りる人もガイオラ船という小舟を利用するしかない。
河口に到着後間もなく2隻の小舟がやって来た。
そのどれにも坊やの父は乗っていない。
最後の小舟で日本へ帰る一組の夫婦が着いた。
帰りの航路はこの港に立ち寄らないから日本へ帰る乗客は行きの船に乗るしかない。
(取材者)帰られるのはどういうふうな…。
病気がちでね2人とも。
それで生活能力が非常に乏しくなったんです。
(取材者)率直にお尋ねしますがお金の方はどれぐらいお持ちなんでしょうか。
旅券番号35678。
昭和28年7月31日。
神戸乗船。
船名あふりか丸。
同年9月。
ベレン下船。
昭和28年7月のあふりか丸乗船者は戦後初めての大計画移民である。
アマゾン奥地でのゴム耕作移民として76家族476人が日本をたった。
シブヤさんたち23家族はベレンからベラビスタ移住地へ向かった。
ベラビスタ移住地はベレンから1,400キロ。
小舟で更にひとつきもアマゾン河を遡った奥地にあった。
シブヤさんたち第一陣の到着後一年足らずのうちに後続移住者が次々と送り込まれてきた。
その数120所帯700人。
9割までが復員軍人かあるいは大陸からの引き揚げ者であった。
1戸当たり4ヘクタールの土地に2,000本のゴムノキが植えられた。
7年目には採液ができ生活は安定するといわれたゴムノキが直径7センチにも満たない。
たちまち営農資金は食い果たし加えて折から訪れた爆発的胡椒景気にあおられて1/4の人々が次々と脱耕し胡椒を求めて下流へ流れた。
シブヤさんもベラビスタを離れた。
大場さん!大場さ〜ん頑張れよ〜!アマゾンに入植する人たちの上陸は夜になった。
小さな船に満載されたアマゾン移住者が暗闇の中を去っていく。
12人の独身青年1人の花嫁1組の若夫婦そして4組の大家族。
雨季のアマゾンに降り立っていった41人の人たちは今どんな人生を送っているのだろうか。
アマゾン河口の町ベレン。
人口80万。
16世紀から交通の要衝として栄え常にアマゾン流域への出入り口であった。
20年前も移住者はここに上陸しここから奥地に散っていった。
この町に20年前独身で移住した青年が住んでいた。
元全日本学生空手選手権保持者町田嘉三君。
今年42歳。
現在ブラジル随一の空手道場主である。
門弟の数500人。
えい!船の中では一日も練習を欠かした事がなかった。
そして今2人の息子が父と共に演技する。
彼らはつい最近黒帯を取り話題となった。
続々と詰めかけるちびっこたち。
息子たちの黒帯が子どもたちの間に爆発的な空手ブームを巻き起こした。
幼児から大人まで男女の別なく町田道場は終日門弟の絶え間がない。
1!2!3!4!私たちは10年前にも彼の道場を訪ね移住10年目の感想を聞いている。
名前だけですね町田っていう名前だけ。
なんとかここ10年で名前を覚えられるようになりました。
今年私たちが町田道場を訪ねた日ブラジルのテレビが息子の黒帯を取り上げていた。
この放送でまた門弟が激増するに違いない。
500人の門弟は全て彼の人脈である。
医者弁護士に裁判官軍人警官教授に学生。
いずれも町田道場の陰の力である。
(取材者)町田君さ馬主だ。
馬主って訳じゃないですけどね。
好きだからやってんです。
(取材者)会員ってどういう人たちが会員なの?ほとんどお金持ちですね。
建設会社の社長とか重役とか。
(取材者)それじゃ君もお金持ちじゃない。
金持ち…一番貧乏人は自分ですよ。
胡椒の産地トメアスはベレンから2つの川を渡り継いで200キロ。
20年前は川を伝わってしか行けない陸の孤島であった。
今世界的胡椒の産地としてにぎわう町トメアス。
戦前ここに入植した日本人325家族2,104人。
しかし悪性マラリアの流行での人たちが耕地を捨てて逃げ出した。
貧しさと病の地獄に取り残された人たちにやがてばく大な富をもたらしたのは移住の途中シンガポールで買い求めた僅か2本の胡椒の苗であった。
1つ2つ3つ4つ5つ。
寝室が5つ。
これな自家発電だ。
第2次大戦と続く戦乱でアジアの胡椒は激減しトメアスにブームが訪れた。
最盛期の昭和29年には40万本の胡椒が当時の金で300億円の現ナマをもたらした。
かき集めた胡椒で日本に往復。
飛行機で行って何か月か遊んできた。
(取材者)かき集めたってどこから?畑に落ちてたの?畑に落ちた。
かき集めた…。
落ちたやつを集めた金で日本に3人連れて飛行機で往復して約2か月半おってきて…。
(笑い声)金の使いようないもん。
組合はね組合の金庫にいっぱいなって。
束になった封印のしたやつがね。
で責任負えねえから皆持って帰ってくれと。
現ナマが舞うトメアスでは人々が競って家を建てばく大なドルを懐に貧しい日本に旅をした。
しかしやがて夢のような時代が去ってゆく。
10年前に訪れた時かつては果てしなく広がっていた胡椒畑は添え木の支柱だけが墓標のように立ち並んでいた。
このトメアスに入植したのが11人の青年と4組の家族であった。
石にかじりついても自分はやり通すという意志があるんですかね。
考えていますから。
まあ向こうよりいいと思って行くようなつもりですけどね私としてもね。
あのドミニカに行ってる時よりもね。
高原一家はドミニカからの帰国者であった。
ドミニカは水もなく石ころだらけの荒れ地であった。
万策尽きた移住者595人は集団で入植地を脱走し帰国した。
昭和36年の事である。
アマゾンで2度目の開拓に挑戦する高原夫妻。
この一家がまたもや不運に見舞われる。
えたいの知れない胡椒の病気が高原さんの畑を襲うのである。
13年前移住7年目の年に訪れた時高原夫妻は胡椒を引き抜き支柱を倒す最中であった。
緑の葉が赤く変色して立ち枯れる胴枯病。
葉が縮れて畑全体が丸坊主になるフザリウム。
ちょうど今頃やったんですよね。
かつては前庭から見渡す限りの胡椒畑が広がっていた。
(ツキ)これはベレンから見えられて…。
(信義)うちは2人のあれよりも思い出を残したいてな。
(信義)ここへ来て3年ぐらいの時…。
(ツキ)3年目ぐらいでしょピメンタがそこにある時ですからな。
(ツキ)これが正彦や。
義彦やろ?正彦ですこれが。
(取材者)2番目の息子さん?今…?今日本に行っています。
(取材者)は?日本に?はい。
働きに行ってる訳ですよ。
3年ぐらい前から行く行くって言ったんですよね。
それでまあ待て待てって言ってですね。
それから「俺はもう金取りに行く」って出てった事があるんですよ。
金掘りに行った事があるんですよ。
(取材者)金を掘りに?ゴールド?はあ。
一家の窮状を見かねた次男正彦は金掘りの群れに身を投じた。
そこには一獲千金を夢みる命知らずがアリのようにひしめいていた。
人々は疲労とマラリアで次々と倒れ僅かな事で殺し合った。
少しの砂金を手にした正彦は2か月後に山を出た。
1か月ぐらいして帰ってきたですよね。
でマッチ箱の…これちょうど半分これぐらいですね。
持ってきたんですよ。
あのころで…まだだいぶクルゼイロの高い時期やったから90万ぐらい…。
(取材者)90万クルゼイロ?クルゼイロ。
(取材者)クルザード?クルゼイロ。
(取材者)クルゼイロ。
(信義)もう5年ぐらい前ですから。
(取材者)それ何に使いました?うちに帰ってきたんですよ。
(取材者)あっお兄さんが。
長男がですね義彦が。
生活に困ったんでしょうと思うんだな。
兄弟だから「兄さんもかわいそうだから」って言って…。
(取材者)そのご長男のご家族っていうのは…。
(信義)子どもが3人。
(取材者)ご長男の奥様は?ブラジル人でマリアという名前なんです。
(取材者)息子さん…子どもさんたちは?子どもは…。
(取材者)名前は何て言うんですか?ちょっと思い出せないですよ今。
(取材者)お孫さんの名前を?
(2人)はい。
(取材者)お孫さんの名前?時にしか来ないもんだから。
1年に1回ぐらいしか来ないもんですから。
ちょっと…今ハッと思い出さんですよな。
トメアス第3耕地。
ここには久保田一族が3家族13人で入植していた。
兄弟の家族に父と母。
船の中では父の実老人が家長であった。
失敗したらしょうがなかですけどそのままじゃなかろうと思うんですが。
満州引き揚げですわ。
満州行っちょって終戦になって引き揚げて帰ってきてさ。
子どもも3人死んで…3人生きて帰ったんです。
それでまああっこが生活ができるならよかったですけど終戦でしょうがなかったですわ。
ほいでお母さんの里の方に何年ぐらいだったかな。
おとうさんは22年の9月でしたか帰ってきましてですね。
そしてまあいいところがあるからっちゅうふうで開拓に入ったんですが。
高冷地やった訳ですよ。
ほいでやっぱもう物作ってんですね生産にやっぱ合わんとですよ。
それじゃなんぼ働いても価値がなかったですよな。
本当こっちは気候がず〜っと一定でしょうが。
すると子どもでも何でも着るもんの心配いらんですな。
そういう面から考えてもやっぱこっちの方が生活しよかろうと思います。
20年目の久保田農場はどっしりとした落ち着きを見せていた。
20年前密林の中でぼう然とたたずむ事の多かった実老人は胡椒の植え付けが終わるのを見届けて世を去った。
弟の幸信さん49歳。
こっちも壊さないかんのだけど…。
兄の忍さん53歳。
やっぱ最初住んだところだでさ。
ばあちゃん!
(取材者)おばあちゃん!お元気じゃったですか?
(取材者)全然元気で。
ますます若くなっちゃって。
年ばっか取って駄目ですよ。
(取材者)いや〜どうもその節は。
3度目10年ぶりの再会であった。
(取材者)すっかりこれ立派なうちになっちゃってね。
本当家を造ろうっちゅうて準備だけはしちょるけどまだ出来んとこです。
(取材者)またうち造るの!?ええ。
まだあんたほら長男次男ちゅうておりますからね。
(取材者)なるほど。
次々とね。
息子がおるからさ。
次から次へ。
畑から戻ってくる2人の息子。
そしてこれが10年前の悟少年。
当時12歳。
回転上げ回転。
悟!12歳の少年に父の忍さんはトラクターの扱いを厳しくたたき込んでいく。
後ろからバックでこう行ってね。
そのままず〜っと行って。
営農が成功するも失敗するも跡継ぎ次第と考える父は子どもたちを容赦なく鍛え上げた。
(忍)子ども遊ばしとったら怠けてしまうから。
まあ昔とは違うんじゃけどな。
やっぱり子どももこまい時から鍛えんと大きくなってから何させても駄目だ。
入植当時の自己資金は僅かに30万円。
今久保田忍家の耕地は全部で10か所。
その総面積は250ヘクタール。
10耕地…10耕地ですね。
(取材者)全部借金?違うです。
(取材者)借金じゃないの?借金じゃないです。
もう皆自分のもの。
(取材者)全部自己資金で?ええ。
広大な農園に植えられている胡椒7万本。
その管理は息子たちの手に任されている。
(取材者)お父さんの代わり?ええ。
もう今息子がこれだけになったらあまりしごかんでも分かるでしょ。
こっちのブラジル人はあんまりむちゃに使うとあいつらもう嫌うから。
すぐ刃物で…。
(取材者)刃物!?ええ。
(取材者)おばあちゃん何取りに行くの?ザボン取りです。
(取材者)ザボン?はい。
久保田スミエさん77歳。
ご主人が亡くなったあと彼女が一族の要であった。
いろいろ出来ていいですよ本当。
果物がねたくさん出来て何でも今ありますもんね。
こんなのしてジュース作って飲むのにいいですよこれ。
(取材者)おばあちゃんやっぱしブラジル来てよかった?よかったですね〜。
(取材者)おじいちゃんもこれだけ見りゃ本望だ。
はあ〜やっぱしね。
もう本当自分の耕地を一年中回ってみない事が多いですよ。
入植当時一家はなけなしの資金を全て胡椒畑に注ぎ込んだ。
(取材者)忍さんこれがピメンタ?そう。
これが…。
(取材者)これが胡椒。
これ胡椒。
これ大きい粒の。
(取材者)去年いくらなったの?
(忍)去年全部で…。
人か胡椒かそのどちらがやられても悲惨な結末になったに違いない。
だが運は一家に味方した。
去年よりも量は多いと思うよ。
取れる量が。
(取材者)取れる量が。
値段がよけりゃいいね。
値段がいいのをこっちは期待しとるんです。
そしたらもうね左うちわでいいだろうって。
船の中ではいつも長男を抱いていた父忍さん。
そして次女ノリコさん当時7歳。
ここがノリコさんの嫁ぎ先である。
トラクター3台にブルドーザートラック5台に4台の乗用車。
耕作面積2,500ヘクタール胡椒の栽培本数は10万本。
トメアスで一二を競う胡椒王新屋敷一族の四男がノリコさんの主人であった。
おばあちゃんを中心に孫13人の大家族。
兄弟4人がそれぞれ邸宅を構えて住んでいる。
子ども13人です。
13人。
子ども…孫が。
(取材者)ノリコさん恋愛ですってね?ご主人そうだよね?そうです。
あ〜うちの母親がよかったです。
わしもね最高に喜んでます。
こういうところに来て。
(取材者)幸せだね。
だからまああれと…長女よりもこっちはまだ幸せ。
あとはもう長男の嫁さん次第です。
まあ子どもがそのうち探すんじゃないですか。
(取材者)でもブラジル人だったらどうする?ブラジル人やったら破門せないかんですね。
(取材者)何をせな?破門せないかんよ。
(取材者)破門?息子を?息子はもう…おやじは知らん顔しとるから。
(取材者)どうしてブラジル人具合悪いの?どうして具合が悪い…。
とにかくもうこまいとこ話せんし。
自分では何か家の中が面白くないですよ。
確かに。
…と思うですねわしは。
自分の親の考えは。
やっぱり働かないですねもう食べさせたら。
あんまり。
日本人のようではないです。
(取材者)嫁さんが?嫁さんは働かないですよ。
(取材者)嫁さん働かない?それはしかし大変だねこれからいよいよ久保田家も。
でもそういうふうにならんようにしていかなしょうがないです。
もう子どもなるたけ日本人の嫁さんをな探してもらわんと。
1974年昭和49年のアマゾンは異常な長雨に襲われた。
連日激しい雨が繰り返し降り続き川はあふれ都市も密林も水浸しになった。
10年に1度の大水害であった。
翌年の昭和50年私たちはトメアスの山下満秋さん一家を訪ねた。
山下家の胡椒畑は前年の大豪雨で壊滅的な打撃を受けていた。
やがて一家は離農して都会に出山下さんは日本に出稼ぎに行く。
これは13年前に訪ねた時の録音である。
でもあれだよね結構ブラジル時代失敗してもまた立ち上がる事ができるっていうんですか割と簡単に…。
山下さんは今栃木県足利市の工場で働いている。
2万ドルぐらいためると向こうでもある程度の商売できますから資金稼ぎに来とるんですよ。
克子!克子!トメアスに移住した11人の独身青年の中で今もここに残るのは彼一人である。
そして奥さんの克子さん。
2歳の時ブラジルに渡ってきた1世である。
(取材者)このお嬢さんが?
(克子)はい一番上です。
(取材者)お名前何だっけ?
(克子)サヨコ。
(取材者)サヨコさん。
年いくつ?16。
(取材者)16歳。
おかあさんこのお嬢さんは?
(克子)一番下ですの。
リナ!パウロ!まあ今のところ商売…死ななくていいような状態だから。
(取材者)それでここに来てよかったと思いますか?どうですか?よかったといえばよかったけど結局よかったと言わなきゃしかたない。
駄目だなんたって…。
私たちはもうここがいいと思うからね私はね。
パウロ!お前おるんでないか。
今日学校行ってないよ。
アマゾン河の中流域に密林の中の大都市マナウスがある。
河口の町ベレンから上流に2,000キロかつてゴムの集散地として栄え現在はアマゾン開発の前線基地である。
この町に入植したのが農大出たての大場夫妻であった。
小学校の時から向こうに行こうと思って大学もわざわざ農大に入って海外移住研究部から。
(取材者)新婚旅行ですね?そうですね。
船では熱帯農業への夢を情熱的に語っていた大場さんであった。
しかし移住7年目に訪ねてみると夫妻は入植地から町に出て八百屋の主人になっていた。
小さな坊やと3人暮らし。
入植地でみごもった最初の子どもは流産で失っていた。
今晩ご主人は寝られませんよ。
船の中では下船間際に奥さんが急病になった。
すぐ医者なんか呼ぶっていう時どうするの?まあ戸板みたいなのに乗せて車に積んで町の病院までね。
これは大場夫妻が最初に建てた家である。
貧しい医療への不安は入植地で的中した。
若い夫婦はうっそうとした密林を切り開き家を建て井戸を掘り果物の木を植えた。
やがて奥さんは最初の子どもをみごもって家の中で家事に専念するようになった。
大場さんが町に外出したある日数人のブラジル人が音も立てずに部屋に入ってきた。
恐怖のあまりショックを受けた奥さんは予定よりはるかに早い陣痛に襲われた。
外から駆けつけた大場さんが町の病院に担ぎ込んだ時おなかの子どもはこと切れていた。
この事が原因で大場夫妻は入植地から町に出た。
その3年後移住10年目に訪ねた時奥さんは忙しくて蒸発したくなると嘆いていた。
店は一段と整備され大場さんは事業の拡張に熱中していた。
子どもは2人に増え長男の坊やが店を走り回っていた。
(大場)まあ苦しかったですね。
本当もうそれだけですよね。
夢中であっという間に過ぎたっていうような感じですね。
ここまでくればあとは半年もすればね全部商品もそろうし。
(取材者)これからの10年計画は?
(大場)もう一つこのくらいの店が欲しいんですよね。
店が軌道に乗ってしまえば熱帯魚の輸出からフルーツパーラーの開店までやりたい事が山ほどあると語っていた。
大場さん!大場さん!大場さん!頑張れよ!頑張ってこいよ!体に気を付けてな!
(大場)どうもありがとう!大場さ〜ん!大場さ〜ん頑張れよ!その大場さんがこれからという時に世を去った。
7年前の2月外出先から帰宅した大場さんはシャワーを浴びている最中に倒れた。
ウイルスによる突発性糖尿病。
奥さんがみとる間もないショック死であった。
衝撃と悲しみのあまり奥さんは部屋に引きこもり遺体の埋葬には幼い息子が立ち会った。
1年後大場さんの父が日本からやって来た。
父は遺体を火葬にして遺骨を日本に持ち帰った。
大場健一郎無念の帰国であった。
その大場さんが生前ひそかに進めていた計画があった。
大場植民地の建設。
(取材者)どの辺ですか?入植以来大場さんが信頼したブラジル人ペードロさん。
彼が語る大場さんの知られざる活躍。
(通訳)ものすごい大きな木があって動力のこで引いたりねブルで押したりして倒して開いたそうです。
(ポルトガル語)
(通訳)橋だけで10個架けた。
(取材者)10個も?
(通訳)10本架けた。
(ポルトガル語)
(通訳)大場さんはものすごく働く人で…。
(ポルトガル語)
(通訳)だから大場さんが亡くなってからこちらのコロニー植民地の方はほとんど止まってるっていうんですね。
大場植民地の計画をある人は熱帯農業の壮大な実験場だったと言いある人は単なる水浴び場だと言う。
真相を知る奥さんは全てを投げ出し帰国した。
度重なる取材の申し入れを彼女は疲れた声で断り続けた。
「ブラジルの事は忘れようと努めていますので」。
あるじのいなくなった植民地は再生林に埋もれホエザルの鳴き声だけがこだましていた。
(汽笛)雨季のアマゾンどしゃ降りの雨。
デッキでは1組の親子が先に移住したご主人の出迎えを待っていた。
春代さんと長男の耕一君当時満1歳。
その耕一君はホテルのコック見習いになっていた。
やがては自分の店を持つのが夢だという。
(取材者)それ何作ってんの?今。
スパゲッティです。
(取材者)難しい?いやそうでもないです。
コーンスープとコンソメ出てないよ。
(取材者)どんな料理を勉強したいの?やっぱりフランス料理を。
母ちゃんと元気で行きなあよ。
ね。
よそ見…。
耕一君こら。
こら耕一君。
帰ってくるね?ばあちゃんの元気なうちにね。
ね?移住7年目私たちがトメアスに耕一君を訪ねた時坊やは既に日本に帰国し壁には日本で暮らす耕一坊やの写真が掛かっていた。
(取材者)ついに耕一君取り戻しちゃったんだ?アハハハハ私がね。
だからあの子たちも帰らにゃせなんごとなっとる。
(取材者)連れ戻しに行っちゃったの?はい。
出港の時孫の姿をどこまでも追いかけたおばあちゃん。
彼女はやがてアマゾンまで旅をして孫を連れ帰った。
数年後夫婦もブラジル永住を断念し帰国した。
ありがとうございました。
お疲れさまでした。
今キャディーとして働く春代さんは別れ際にこう語った。
「ブラジルは夢の尽きない国でした。
今日悪くても明日はきっとよい事がある」。
アマゾンの苛烈な風土を生きた人々。
その歳月に思いをはせながら私たちは熱帯を後にした。
日本からブラジルに渡った移民の方々の20年間でしたけれども。
ちょうど私生まれた頃だから大体同じぐらいのお子様もいらっしゃるでしょうしそれぞれの何か思い夢を抱いて何日も何日も船で行ってすごくご苦労もいっぱいしたでしょうし今幸せでいてほしいなとすごく思います。
1968年というと私自身がぶらじる丸という船でブラジルの最南端の州に勉強に行かせて頂いたんですね。
船の中でいろんな人たちと移民していく同じぐらいの年代の人たちと会って当時の私も含めてそうですけど20歳前後の人たちっていうのは何かすごく海外に憧れてそこで何か新しい自分の夢を見つけて何かしたいなっていうそういう気概っていうんでしょうかねそういうものを持ってたような気がしますね。
何家族かだけなんですけれどもちょっと最近の写真をご覧頂きたいと思います。
まずはですねブラジルに向かう船の中でも黙々と練習をしてらっしゃいましたよね。
空手家の町田嘉三さん。
現在の町田さんがこちら。
お隣は奥さん。
町田さん70歳になった今も空手の練習を毎朝1時間半欠かさず続けていらっしゃいます。
現在の町田さんのご家族。
おお〜。
お子さん4人そしてお孫さんが6人の大家族です。
で4人の息子さん番組でも印象的でしたよね。
今は道場は上の3人のお兄さんたちがこの並んでいるこの3人が今道場の経営をしていらっしゃる。
そして四男。
お父さんに抱えられているケンゾーさん。
テレビ局で有名アナウンサーになっていらっしゃるという事です。
ブラジルで?はい。
あら〜うれしいですね。
何かもう大成功ですね。
そしてもう一方これ江口さんのご夫妻です。
江口さん江口厚さんあるぜんちな丸の12人の独身青年のお一人でしたけれども江口さんは番組が放送されたあとご家族と一緒に日本に帰国されて日本のメーカーの工場などで働いて4人のお子さんを育て上げました。
去年75歳で亡くなりました。
奥様の克子さんですけれども「ブラジルにいた頃はお金がなくて砂糖も買えずに生活が大変だった。
日本に来て本当によかった」というふうに今話していらっしゃいます。
もう一枚ご覧頂きましょう。
このつぶらな黒い瞳がね印象的でしたよね。
おばあちゃんに抱かれている…20年後…。
コックさんを目指していましたよね。
その耕一さんの現在なんですが兵庫県で水道設備会社を経営する社長としてお忙しい毎日。
あら全然違う方向にいかれた。
ええ。
自分で会社を立ち上げたという事ですね。
それもすばらしいですね。
はい。
お母さんの春代さんはご病気で53歳という若さで亡くなりました。
生前春代さんは耕一さんに「ブラジルは夢の国。
またいつか行ってみたい」と話していらしたそうです。
でもそれ救われますね。
その方が生きた人生ブラジルでの人生をすごく前向きに捉えてらっしゃるから救われます。
いつかまたブラジルにも行きたいとおっしゃってるという。
まさにこの皆さんがあるぜんちな丸でブラジルに行った時がマルシアさんもブラジルで少女の時代を過ごしていた頃ですよね。
そうですね。
日系3世としての暮らしというのはいかがでしたか?ブラジルで生まれたのでやっぱり強くブラジル人というのがございましたね。
というのは向こうにいるとクラスの中っていろんな世界の移民された方々のお孫さんとかいるので私は…ジャポネースジャポネッサっていうんです。
私はジャポネじゃないいやブラジル人だっていう時期が強くございました。
ちょっとだけその時期は日本の文化から遠ざかろうとしましたね。
逆にうちの祖父は引っ張ろうとするという。
この駆け引きがございました。
マルシアさんが日本に来るチャンスがあった時にその時にはおじい様の日本への思いみたいなものがお分かりになったんじゃないんですか?祖父母たちは静岡県なので富士山の近くで住んでいたのでうちのブラジルの家に大きい富士山の写真があったんですね。
「これは日本の神だ」ってすごく誇りを持って言ってて「そうなの?」みたいなぐらいしか思ってなかったんですけど実際祖父のふるさとを見ると鳥肌立ちましたね。
「あっこれか」って。
「ずっとおじいちゃんが言ってたのはこれか」って。
その当時の日本移民の1世の人たちの典型的な生き方っていうのか生活のしかただなって思いましたね。
その日本との絆を絶対的に離さないで日本の移民の人たちっていうのは生活してたというふうに言えるんだろうと思いますね。
一方でお孫さんの代にマルシアさんの世代になりますと自分はブラジル人だっていうふうに思っていらっしゃる?ブラジルという社会の中で要するに日本人のおじいちゃんおばあちゃんとご両親の中で育つけれどもそれは日本の日本人とは違うっていうのを認識されてたんじゃないかと思いますね。
ご自身たちもブラジルの社会の中にだんだん慣れていかれて最終的には多分マルシアさんがもうブラジル人なんだっていう事は受け入れられていらしたんだと思います。
そうやって日本からブラジルに渡っていった移民の方々もいらっしゃる一方でブラジルから日本に来られた方々やはり同じようにいろいろな経験苦労をされてきてますよね。
さっきマルシアさんが自分のアイデンティティーですよね日本人なのかブラジル人なのか。
向こうからいらして今日本でここで暮らしている方たちもそういう葛藤に遭われてるんですよね。
自分が実は日本の日本人とは違うんだっていうそういう発見もしていくんですよね。
それを個人差はあるでしょうけど受け入れていくっていう事になるんだと思います。
逆に今度日本の方があなたたちブラジル人じゃない?っていうふうに扱いながらもその人たちがやっている事を日本と違うじゃないのっていう見方もするんだけれどもそこをなんとか折り合いをつけていこうかなっていうのが日本の社会の中で今出てきてるんじゃないでしょうかね。
また一方で地域紛争で難民の問題も出てきている。
その中で今日本はどうやって外国の方々を受け入れていこうかっていう事をこれが新たにまたクローズアップされていますよね。
そうですね。
人が国境を越えて移動する時っていうのは認識してなきゃいけないのは摩擦緊張というネガティブな事とそれからもう一つは新しい文化がそこで創造される可能性があるんだっていうポジティブな可能性も秘めてるんだってやっぱり両面を見ていく必要があるんですね。
ともすると前者の方にいきがちなんですけれどもそうじゃなくて私たちは時間をかけていくと今まで持っていなかったものを手にする事ができるんだというそういうちょっとうれしい気持ちでそういうのを受け入れていくっていう事が大事なんじゃないかと思いますけれども。
今日本でもブラジルの食がすごくはやっているんですね。
お肉もそうですけどもお豆料理も「え〜何で小豆みたいなのが普通にごはんにかける?」って言う方も…。
食べるとめちゃくちゃおいしいんです。
違う文化が混ざり始めましたね最近。
そうそうそうそう。
だから勇気持ってやるっていう事と好奇心とそれは前に進む事拒絶する事じゃないんだよというのが大事なんだろうと思いますね。
これからの2つの国の未来どうなっていってほしいというふうにお考えですか?ちょうど去年もワールドカップもあって来年はリオのオリンピック4年後は日本のオリンピック。
つながってます。
この全てがつながってるんだなこの日本とブラジルが。
こんなに遠い国なんですよ。
本当に遠いんですブラジルは。
でもこんな120年もつながっている訳ですから是非今後とももっともっとすばらしい枝が出来るような日本とブラジルになってほしいなと思います。
今日はどうもありがとうございました。
(2人)ありがとうございました。
2015/11/08(日) 13:50〜15:00
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「海を渡った移民たち〜日本ブラジル外交関係樹立120年〜」[字]
日本とブラジルの外交関係樹立から120年。多くの移民が両国を行き交ってきた。彼らの人生を記録し続けた番組から移民たちが残したものと今学び取れるメッセージを考える
詳細情報
番組内容
11月5日は日本とブラジルの外交関係樹立120周年。長い歴史で大きな位置を占めているのは移民。戦前の国策移民から、戦後夢を追い渡った人々まで多くの移民が海を渡ったことで、ブラジルの日系人は海外で最大の約160万人、日本に住むブラジル人も約18万人と様々な分野で交流が続く。移民たちの人生を記録し続けたNHK特集「移住 20年目の乗船名簿」を見ながら、彼らの苦闘と学び取れるメッセージとはなにか考える。
出演者
【出演】マルシア,上智大学非常勤講師…三田千代子,【キャスター】森田美由紀
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ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
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