数百万人というユダヤ人の命を奪ったナチス政権下のホロコースト。
強制収容所には一度に大量の人を殺すためのガス室がありました。
このガス室にユダヤ人たちはぎゅうぎゅう詰めに押し込まれ殺されました。
しかし実はナチス政権最初のガス室はユダヤ人を殺すためのものではありませんでした。
ホロコーストが始まる数年前からこうした精神病院にガス室が造られ回復の見込みがないとされた病人や障害者が殺されていたのです。
彼らは「生きる価値がない」とされ殺害には多くの医療者が関わっていました。
積極的に自国の過去と向き合ってきたドイツでもあまり注目されてこなかったこの歴史。
ようやく5年前ドイツの精神医学会が初めて謝罪。
自分たち医師が率先して殺害していた事を認めました。
学会は歴史家たちに調査を依頼。
真実の究明を約束しました。
その報告書がこの秋完成。
明らかになったのは医師たちの殺害の動機です。
それを利用した時の権力者ヒトラー。
そして気付きながらも見逃した国民。
人々は毎日病院から出る黒い煙を不審に思いながらも声をあげる事ができませんでした。
(歓声)虐殺された障害者たちは20万人以上。
悲劇はなぜ起きたのでしょうか。
第2次世界大戦中ユダヤ人たちより前に障害者が殺されていた。
「そのつらい過去とじかに向き合いたい」とガス室のある現場を訪ねた一人の日本人がいました。
長年障害者の人権問題に取り組んできた第一人者です。
藤井さん自身目が見えません。
ここはドイツ中西部にある精神科病院。
この階段を下りた地下にガス室がありました。
(藤井)ドアがね…ええ。
大きさはどれくらいあるんですか?え〜っとですねそんなに大きくはないです。
シャワー室に見せかけた12m^2ほどのこの部屋がガス室でした。
一度に50人が押し込まれ殺されました。
その多くが自分の意思を主張しづらい精神障害者や知的障害者だったといいます。
これですか?これ穴。
う〜ん…まあ何ともね言えない。
まさに同じこの場所で今から七十数年前にガスを吸わされたわけですから。
目の前で倒れていく人を見ながら最後まできっとあがいて生きよう!というふうな事をした人もきっといるんじゃないかな。
なぜ人々は殺されなくてはならなかったのか。
藤井さんが訪れたのはドイツ南部の町ギーンゲン。
戦時中障害者の父を殺された遺族です。
父親のマーティンさんは脳神経系の難病パーキンソン病でした。
その治療のための入院中ガス室に送られ殺されました。
ヘルムートさんが子供の頃父親と一緒に住んでいた家を案内してくれました。
手足の震えが止まらず仕事も手につかなくなったのはヘルムートさんが5歳の時。
1938年マーティンさんは家から遠く離れた大きな州立病院へ入院します。
それはかかりつけの医師に半ば強要された入院だったといいます。
入院中マーティンさんは家族と手紙のやり取りを続けていました。
ヘルムートさんの母親はこれらの手紙をずっと大切に保管していました。
入院が長引く中第2次世界大戦が始まりました。
マーティンさんは家に帰れない悔しさを記していました。
しかしこの手紙には医師の注釈が加えられていました。
「マーティンさんは退院したら働けると思い込んでいるようだがうまくいくわけがない」といった内容でした。
ずっとシミがあります。
あぁ…。
毎月のようにやり取りしていた手紙が途絶えたのは1940年3月。
3か月後。
入院していたはずの病院ではなく別の施設から一通の手紙が届きます。
それはマーティンさんの死亡を知らせる通知でした。
死因は「脳卒中」と書かれていました。
…というのが率直な今日の印象でしたね。
戦後70年積極的に過去と向き合ってきたドイツ。
しかしユダヤ人大虐殺に比べて障害者の虐殺はあまり注目されてきませんでした。
その理由の一つが殺害に加担した医療者が沈黙してきた事でした。
5年前ドイツの精神医学会は初めて自分たちが組織的に殺害に関与していたと認め謝罪しました。
学会は過去にあった事を伝えるため世界中を巡回する移動展覧会を行ってきました。
今年6月には日本精神神経学会の総会にも出向き精神科医たちに向けて反省を込めて伝えました。
第三者による調査委員会の報告書はこの秋まとまりました。
明らかになったのは医師たちがナチスに強制されたわけではなかったという事実でした。
これまで学会は数十年にわたり起きた事を遺憾としながらも自分たちとは関係がないと言い続けてきました。
しかし患者殺害の動機は政治側からの要請ではなく医師や学者からのものだったのです。
なぜ命を救うはずの医師たちが殺害を実行してしまったのでしょうか。
ヒトラーが政権を取る70年以上も前に出版されたダーウィンの「種の起源」。
強いものが生き残り弱いものは消えていくという自然界の摂理を説いたものでした。
これを人間にも当てはめ劣等な人間は淘汰されるとしたのが社会ダーウィニズムでした。
こうした思想は優秀な遺伝的素質を持つ人間だけを残していこうとする優生学と結び付き世界中に広がります。
20世紀ドイツで優生学の研究を進めたのは精神医学会のトップだったエルンスト・リューディンでした。
このころ精神医学の分野では新しい治療法が開発され治る患者も出始めていました。
医師たちはもっと治る患者を増やしたいと思えば思うほどあるジレンマに陥っていきました。
医師たちはそれまで治らないと思っていた精神病が治るようになってきたという幸福感に包まれていました。
ただし同時に精神病院は大変な状況でした。
根本的に何の治療もできない患者であふれていました。
そういう患者は邪魔になっていったのです。
1917年に設立されたドイツ精神医学研究所。
リューディンらはここでドイツ人全員の家系図を調べ一人一人の「遺伝的価値」を明らかにしようとしました。
遺伝的価値が低い人を増やさないようにコントロールしたいと考えたのです。
そうした中ある精神科医と法律家が一冊の本を出版します。
この本では「生きるに値しない障害者などを生かしてきた事は行き過ぎの行為であった。
彼らの排除つまり殺害は決して犯罪ではない。
むしろ社会にとって有益なのだ」と結論づけました。
ある種の理想主義でした。
社会をうまく操作すれば健康な社会がつくれるという幻想です。
国民全体を健康にするために患者は殺してもいいという考えが浸透していったのです。
こうした思想に目をつけたのがヒトラーでした。
政権を取る7年も前著書「我が闘争」にこのような言葉を残しています。
(歓声)ヒトラーはついに念願の政権を取ります。
この時国民は新しいリーダー誕生を熱烈に歓迎しました。
当時ドイツは第1次世界大戦の敗戦で巨額の賠償金を課せられ国民に屈辱的な気分が広がっていました。
それに追い打ちをかけたのが1929年の世界恐慌。
国民の実に3分の1もが仕事を失っていました。
ドイツ民族の優位性を強調しドイツ帝国の復権を約束したヒトラーは自信をなくしていた国民の心を捉えるのです。
(歓声)政権を掌握するとヒトラー率いるナチス党はユダヤ系商店のボイコット運動を行うなどユダヤ人排除を堂々と行います。
同時に遺伝病や障害者をなくす事を目的とした法律も整備します。
「遺伝病の子孫の出生を予防する法律」。
通称「断種法」です。
当時は遺伝すると思われていた知的障害者や精神障害者などが次の世代への「配慮」として子供ができないよう手術を受けなければならないとされました。
断種法をスムーズに施行するための手引書も用意されました。
これを書いたのがあのドイツ精神医学研究所のリューディンでした。
ある集まりで話した彼の言葉が残っています。
健康な「国民」をつくるための強制的な断種。
その該当者たちはどのような扱いを受けたのか。
藤井さんはミュンヘンを訪ねました。
戦後多くの断種被害者を支援してきた弁護士のヘルベルト・デムメルさんです。
デムメルさんも視覚に障害があります。
ただ一つ断種から逃れる方法があったといいます。
デムメルさんが案内してくれたのは長い歴史を持つ視覚障害者のための施設です。
MynameisKatsunoriFujii.FromJapan.Hello.Nicetomeetyou.Hello.施設長のメルケルさんが当時の資料を見せてくれました。
1930年代この施設に暮らしていた視覚障害者はおよそ200人。
このうち断種手術の対象となった人でも「一歩も外に出ない」と約束すれば手術を免れたといいます。
そのため施設には高い塀が設けられました。
当時ここで暮らしていたペーターさんの記録です。
裁判書からの通知に対する本人の返事は手術は受けず外には出ないというものでした。
しかし…。
生殖能力を諦めるか家族と会う事を諦めるか。
ペーターさんは結局半年後に手術を受けました。
ペーターさん同様強制断種手術を受けさせられた人はドイツ全土で40万にも上りました。
「強い民族をつくりドイツの復国を図る」。
ヒトラーはそのため軍備の拡張を進めました。
同時にアウトバーン建設など大々的な公共事業で失業者を雇用。
経済の復興をアピール。
国民の支持を集めます。
1936年にはベルリンオリンピックを開催。
ドイツ民族の優秀さを国内外に誇示する絶好の機会として利用しました。
一方福祉や社会保障にかかる費用は大幅に削減。
障害者は生きているだけで金ばかりかかる「価値のない存在」だと国民にすり込んでいきます。
これはナチスが教育用に作ったポスターです。
遺伝性とされた障害者を支えるのにどれだけの費用がかかりそれが国民の負担になっているかを訴えています。
更に全国にある5,300全ての映画館でもプロパガンダ映画を上映しました。
そしてついに障害者の殺害計画が動きだします。
第2次世界大戦勃発の前の年ヒトラーの側近は全国の権威ある精神科医たちを招集。
殺害の対象とすべき人は誰か苦しませずに殺す方法は何かなど話し合いを重ねました。
ドイツ軍はポーランドに侵攻し第2次世界大戦が始まります。
その混乱に乗じてヒトラーはある命令書にサインをします。
側近に宛てた極秘命令書。
「病気の状態が深刻で治癒できない患者を安楽死させる権限を与える」。
日付はあえて戦争開始日の9月1日としました。
実行本部がティーアガルテン通りの4番地に置かれると「T4作戦」と呼ばれるようになります。
まず殺害の対象者を選ぶため全国の病院や施設に患者一人一人についての調査票が送られました。
病名や症状を聞くほか「退院の見込みはあるか」。
「労働者として使えるか」などの質問もありました。
この結果を基に本部の医師たちが生きる価値があるかを判断。
「殺してもいい」と思った場合は判定欄に+マークを書き込みました。
統合失調症だったこの女性の場合4人の鑑定人全員が「殺してよい」と判断しています。
殺害には人目につきにくいへんぴな場所にある病院や施設などが選ばれました。
その一つがあのパーキンソン病だったマーティン・バーデルさんが殺された南ドイツのグラーフェネックでした。
各地の病院や施設にいた精神障害者や知的障害者回復の見込みのないとされた患者などが連日バスに乗せられ運ばれていました。
計画は極秘に進められました。
バスの窓は塗り潰されたりカーテンが掛けられたりしていました。
マーティンさんたち患者はバスで到着したその日にガス室に連れていかれ殺されたと考えられています。
殺害施設では医師のほか看護師運転手遺体を焼却する人など多い時には100人近くが働いていました。
事前に仕事の説明を受けここに来た人たちでした。
当時精神病院で働いていた看護師や介護士は無条件で医師の指示に従う時代でした。
また…グラーフェネックで働いていたある看護師の戦後の証言です。
仕事が生きがいだったというエマー・ベリン。
看護師になって12年目31歳の時にベルリンで緊急業務命令を受けました。
その際こんな説明を受けたといいます。
施設から離れた空き地にガス室が造られていました。
エマーの仕事はバスで到着した患者を受付まで連れていく事でした。
患者たちは医師の診察のあとシャワーを浴びると伝えられガス室に連れていかれました。
ガス栓を開けたのは医師たちでした。
「最終的医学措置」と呼んでいました。
供述の最後にエマーはこう述べています。
T4作戦が始まって1年。
毎日殺害は続き新たに別の地域にも施設が造られていました。
その一つがドイツ中西部の町ハダマーにあります。
ガス室が造られた精神病院は今もそのまま残っています。
藤井さんは当時の様子を覚えている人がいると知り会いに行きました。
ハダマーで生まれ育った…殺害が行われていた頃は7〜8歳の少年でした。
ドゥフシエーラさんが強烈に覚えている事があります。
それは戦争から帰ってきた兵士が言った言葉でした。
その住民の良心としてそれを止めようというそういう住民のまとまった動きっていうのはやはり難しかったんでしょうか?大勢の医療者近隣の住民たち。
たくさんの人が気付いていながら止められなかった殺害。
藤井さんハダマーでもう一人遺族に会いました。
数か月に1回ガス室に花を手向けるために訪れているというギーゼラさん。
父の妹である叔母がてんかんのためハダマーで殺されました。
父と一緒に写る叔母ヘルガさんの子供時代の写真が残っています。
父より3歳年下だったヘルガさんが殺されたのは17歳の時でした。
しかしギーゼラさんは最近までヘルガさんが存在していた事すら知りませんでした。
その後も父は一度も妹の事を話題にしなかったといいます。
しかし父のいとこが80歳を過ぎてからハダマーの施設に問い合わせるよう言ってきました。
そこでギーゼラさんは初めて叔母ヘルガが殺されていた事を知りました。
障害者たちの殺害は「恵みの死」であり社会そして家族の負担を減らすものだと国民に言い続けたヒトラー。
ギーゼラさんはいつしか家族までもがそう考えるようになっていったのではと疑っていました。
家庭内差別の背景に…そこに問題の一つの本質があるんじゃないかな。
こうして人々が沈黙する中進んでいった障害者の虐殺。
そんな中ついにある人が声をあげます。
それはドイツ北西部の町ミュンスターの司教だったフォン・ガーレンでした。
フォン・ガーレンの耳にも信者たちの家族が殺されているといううわさは入っていました。
1941年夏ついに教会の説教の中で「行われている事は障害者を救済する『恵みの死』ではなく単なる殺害だ」と明言したのです。
ナチスの秘密警察は説教の原稿を没収しようとしたといいます。
しかし…。
フォン・ガーレンの説教は特別でした。
数多くの書き写しが作られどこまでも流れていったのです。
文章がとても上手で率直で攻撃的でした。
人々を感電させるような力があったのです。
信者たちの心に響いた説教は彼らの手で拡散されていきました。
説教をした教会の一つ聖ランベルティ教会では今もその言葉が大切に残されています。
書き写された言葉は郵便で全国のキリスト教団体に発信されていました。
それが更に複写され教会だけでなく空爆から避難して防空壕の中にいた市民にまで届けられていたといいます。
司教の説教から僅か20日後の1941年8月24日。
ヒトラーはT4作戦の中止を命令します。
中止のきっかけは司教が公然と患者殺害の事実を述べ「それは法律上殺人だ」と正しく言ったからです。
この事で分かるのは市民として勇気を出して公然と声をあげれば政府の行動を阻止する余地があったという事です。
ナチスのような政権も国民の感情をとても気にしていたのです。
しかし悲劇は終わりませんでした。
T4中止命令の1941年ドイツはソ連にも侵攻。
戦争は激しさを増していきます。
1942年ナチスは迫害を続けてきたユダヤ人問題の「最終的解決」を決定。
ヨーロッパ中のユダヤ人を根絶するとして収容所へ移送します。
この時T4のガス室で働いていた医師やスタッフの一部を収容所に送り込み障害者虐殺で培ったノウハウを生かした大規模な殺害を実行しました。
ユダヤ人大虐殺においてT4作戦の意義は極めて大きいと言えます。
1941年ごろゲットーや東部の収容所は抑留したユダヤ人たちがあふれ大変な事態になっていました。
この時……と私は考えています。
1945年ソ連軍によってベルリンを包囲され追い込まれたヒトラーは自殺。
ドイツは敗戦しました。
度重なる連合国による空襲などで都市部は焼け野原となり多くの市民が命を落としていました。
ユダヤ人が移送されていた強制収容所は遺体であふれかえっていました。
ヨーロッパ全土で犠牲になったユダヤ人は600万人と見られます。
そしてもう一つの驚くべき事実が明らかになりました。
米軍がハダマーの施設を差し押さえた時の映像です。
ハダマーではT4作戦の中止命令後も薬の過剰投与計画的餓死などの形で殺害は続いていたのです。
戦場でトラウマを負った兵士ユダヤ人との間に生まれた子供なども殺されていました。
殺害の対象者は障害者だけでなく大きく広がっていたのです。
T4中止命令後の「野生化した殺害」と言われるこの行為。
ハダマーだけでなく各地で行われていました。
最終的に犠牲者は全国で20万人以上に上っていました。
医師たちはT4作戦の最中に中止に遭い不満を感じていました。
どうすれば人目をひかずにまた政治に振り回されずにやり続けられるか。
悲劇的にもその体制は既に出来上がっていました。
もはや組織のコントロールがなくても排水口に人が流れていくような状態でした。
障害者の断種から始まり誰も止める事なくエスカレートしていった虐殺の歴史。
70年以上の時を経て今私たちに何を問いかけているのでしょうか。
こんな事を感じましたね。
パーキンソン病だった父を殺された…頻繁に父親のお墓を訪れています。
遺灰は死亡通知を受け取ったあと母親が取り寄せました。
本当に父親のものか分かりませんが大切に守っています。
叔母のヘルガを知らずに育った…ギーゼラさんは新聞広告にあるメッセージを載せました。
ギーゼラさんが亡き叔母に宛てたメッセージです。
2015/11/07(土) 23:00〜00:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集▽それはホロコーストのリハーサルだった〜障害者虐殺70年目の真実[解][字]
ナチス・ドイツは、ユダヤ人虐殺「ホロコースト」の前に、障害者や病人たちを大量に殺害していた。そこにはいったい何があったのか。資料と遺族たちの証言でたどる。
詳細情報
番組内容
ユダヤ人大虐殺に比べて、表だって語られてこなかった障害者の虐殺。終戦から70年たち、事実に向き合う動きが始まっている。きっかけの一つは5年前、ドイツ精神医学精神療法神経学会が長年の沈黙を破り、過去に患者の殺害に関わったと謝罪したこと。学会は専門家に調査を依頼、この秋、報告書がまとまった。何があったのか。日本の障害者運動を率いてきた藤井克徳さん(自身は視覚障害)が現場を訪ねる。語りは大竹しのぶさん。
出演者
【語り】大竹しのぶ
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
福祉 – 障害者
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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