た。
(賀集)これはブラジル・サンパウロで行われている今注目の美人コンテスト。
エントリーできるのはなんと日本にルーツを持つ女性だけ。
そう。
彼女たちは全員ブラジルの日系人。
日系美女たちは今女優やモデルとしても大活躍しているんです。
祖父が日本人です。
この喜びをブラジル中に伝えたいです。
美女だけじゃありませんよ。
なんと今ブラジルでは日系人が絶大な評価を得ているんです。
何だか地球の裏側ですごい事になっているようですが日系人のルーツはかつてブラジルに渡っていった移民たち。
彼らはまだ手付かずだった未開のジャングルを切り開き土地を改良してブラジルに次々と新しい作物をもたらしていきました。
その功績から日系人は農業の神様とまで呼ばれているんです。
ああ。
これはすごいですね。
やっぱりね。
ブラジル社会で高い評価を受けた日系人たちは今や政界や経済界そして芸能界でも大活躍。
更には今年2月日系人を巡るこんなニュースが駆け巡りました。
101歳まで生きたある日系人の死がブラジル全土に報じられたのです。
その日系人は戦前の移民でブラジルの国民的芸術家となった…その死にブラジルのルセフ大統領は「ブラジル文化は偉大な芸術家を失った」と追悼文を出し国中が悲しみに包まれました。
国民的芸術家にまで上り詰めた日系人大竹富江とは一体どんな人物なのか。
あっそうなんだ。
何か恥ずかしいな。
日本人なのに恥ずかしい。
実は今年2015年は日本とブラジルが外交関係を結んで120年という記念の年。
ブラジルはお祝いムードで盛り上がっていました。
すごいね。
120年という時を経て日系人はいかにブラジルで高い評価を獲得してきたのか。
その壮大な物語に迫ります。
日本からおよそ2万キロ。
ブラジル最大の都市サンパウロです。
お〜何だ?すごい人。
日系人活躍の秘密を探るのは…30歳で大学に通い直し神道や「古事記」を学んで日本人のルーツを探ってきました。
押したけど日本みたいに何かあれがない。
大丈夫かな。
「次止まります」みたいなやつが出ないから分からない。
大丈夫だと思います。
ハハハ。
OK?ハハハハハ!まず賀集さんが向かったのは中国人や韓国人に交じって日本人が商店を連ねる東洋人街。
鳥居があります鳥居が。
すごい立派な鳥居じゃないですか。
まさかブラジルに鳥居があるとは思わなかった。
すごいね。
ブラジルの東洋人街では中国や韓国を抑えて日本が圧倒的な存在感を放っているようです。
今川焼きですよ。
すごいもう…。
これなんかお祭りの出店で見る今川焼き。
熱い熱い!あっもっちもち。
街で人気を誇るのはやっぱり日本の雑貨や食料品です。
あ〜お米売ってるよ。
こんにゃく〜!思いっきり日本語ですもんね書いてるのがね。
「お料理簡単」とか書いて。
何食べてるんですか?ああヤキソバ。
バイバイ。
サンキュー。
やっぱり日本の食材とか日本の食事とかっていうのはすごい人気があるんだね。
本当に。
せんべいばっか買ってるじゃないですか。
ああ!
(通訳)日本の男は嫌だって。
ああそらそらそらね。
どうです?ブラジル。
僕もあちこち海外に行きましたけど日本がこんなに愛されてる国ってほかにはないと実感しました。
ああ〜やっぱすごいなブラジルって。
それだけこうやって日本の何かこういうふうに言われるぐらいの勝ちえたっていうのがすごいなって思いますよ。
日本とブラジルの深〜い関係。
僕が知っているのは明治時代以降多くの日本人がブラジルに移民として渡っていったという事です。
これは戦前の移民たちを撮影したフィルムです。
実はこのころブラジルは奴隷制を廃止したばかりで移民の多くは奴隷代わりの労働力として受け入れられたんだそうです。
日本からの移民は奥地の農場で契約労働者として働き始めました。
ただ連日炎天下で働いても賃金は安く食事に雑草を食べていたという記録もありました。
だから僕にとってブラジル移民というと今でもその過酷な歴史ばかりがイメージとして定着しているんです。
ブラジル・リオデジャネイロ。
来年のオリンピックを控え今最もホットな町です。
このリオにあるブラジルを代表する写真アーカイブス。
賀集さんの持っている移民のイメージを覆す作品が新たに見つかりました。
当初は奴隷同然の労働者でしかなかった日系移民。
しかしこの写真には移民たちが苦難を乗り越えブラジルの大地で見いだした喜びや感動が表現されていました。
写真を残したのは大原治雄。
戦前日本からブラジルへ渡った農業移民でした。
大原治雄は1909年高知県中央部の山深い村で生まれました。
耕作面積は狭く戦前ここで生活を成り立たせていくには限界があったといいます。
恐らく戦前の日本というのはやっぱりもっとやはりこう貧しい所もあっただろうし。
だからそういう中で自分の故郷を出て海外に行って暮らすというそういう冒険的な選択をすると。
こうして1927年ブラジルに渡った大原治雄。
当初は彼も農場の労働者として厳しい生活を送っていました。
ところが当時苦汁をなめていた大原治雄たち日系移民は大きな賭けに出ます。
奴隷同然の生活から逃れようとブラジルの奥地に広がっていた未開のジャングルを借金をして購入。
自ら開墾に挑んだのです。
高さ40メートルを超える大木を切り倒す伐採作業。
大けがや死亡事故が続出しマラリアに苦しみながらも日系移民たちは自立した農家を目指しました。
わお。
おお〜!何だ?ここは。
開墾に挑んだ大原治雄はどんな光景を見つめていたのか。
僕は当時開墾された場所を訪ねてみました。
うわ〜。
こっちもこっちもあっちも全部一緒だ。
全然違うな〜。
大原治雄が切り開いたのはサンパウロから内陸に500キロのロンドリーナ。
当時はここにも未開のジャングルが広がっていました。
大木の伐採作業から始まり木の根を自らの手で一つ一つ掘り起こしながら何年もかけて広大な農場を築いていったそうです。
移民というと過酷なイメージしかありませんでしたが開墾の苦労とともに大原治雄はふるさとにないような広大な土地を手に入れていたんです。
治雄の長女のトモコさんは当時の事を語る父の姿をよく覚えています。
自ら切り開いた大地の全てに感動していたという大原治雄。
彼はカメラを手に入れ自らの生活を次々と切り取っていったといいます。
これは大原治雄が種まきをする自分自身を収めた一枚。
彼にとってブラジルの大地で生きる自分自身の姿すら貴重な題材でした。
こうした写真の裏にある治雄の思いが日記に残されていました。
僕にとって過酷なイメージしかなかった移民がなぜブラジルの大地に根づき大きな成功を収めていったのか。
大原治雄の写真はその理由のようなものを僕に投げかけてくれました。
広大な土地を開墾した日系移民たち。
彼らはその後土壌の整備や作物の品種改良など地道な努力を積み重ねていきました。
こうして日系移民はブラジルにそれまでなかった野菜や果物を次々もたらしていきます。
彼らはいつしか農業の神様と呼ばれるようになりました。
やっと来たねビーチって感じですね。
ハハハハッサッカー俺ね…サッカーは俺こんな所じゃできないわ。
ブラジルで大人気のものといえばやっぱりサッカーですよね。
でも実はまだあるんだと地元の方が教えてくれました。
それがこちら。
何やら見えてきたこの赤いオブジェ。
いやいやいやいや大きいなこのオブジェ。
これは何だ?高さ15メートル。
この町のランドマークにもなっているというのですが…。
そんなに有名な人なんですね。
え〜そうなんだ。
あ〜そうなんだ。
何か恥ずかしいな。
日本人なのに恥ずかしい。
巨大な作品を制作したのは戦前の移民…多くの日系移民が農業で活躍する中富江は芸術という全く異なる分野に踏み出していきました。
今年101歳で亡くなるまでに制作した作品はおよそ2,000点。
国民的芸術家として知られるまでになりました。
大竹富江は京都で3代続く材木商の家に生まれました。
若い頃から型にはまる事を嫌う勝ち気な女性だったといいます。
富江が京都で青春時代を過ごしたのは昭和の初め。
女性は選挙権が認められないなど社会的地位は低いものでした。
23歳の時富江は思い切った行動に出ます。
商売のためブラジルに渡っていた兄を頼り移民船に乗り込んだのです。
富江が来た頃のブラジルは既に20か国以上からの移民を受け入れほとんどの国民が移民やその子孫でした。
ブラジル憲法は国籍や性別を問わず全ての居住者に対して平等を保証していました。
自由を求めてブラジルへ渡った大竹富江。
ところが程なく思いもしなかった事態に直面します。
戦時中ブラジルはアメリカと協力関係にありました。
このため日系人によって育まれてきた日本とブラジルの友好関係に亀裂が生じます。
戦時中ブラジルは日本との国交を断絶し日系人にもさまざまな規制を加えました。
(玉音放送)「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」。
しかし日系人たちが決定的な危機に陥るのは1945年日本が敗戦を迎えたあとの事でした。
その発端となったのは当時多くの日系人たちがブラジルで報じられた日本の敗戦を信じられずデマだと考えた事でした。
戦時中日系人たちが祖国の戦況を知る手段は日本からの短波放送。
しかしそれは日本の勝利ばかりを伝える大本営発表でした。
日本の敗戦を信じられないなんて事が本当にあったんだろうか?僕は当時の事を知る日系2世の方を訪ねました。
その情報としてって事ですね。
でも取材を続けてみると日系人の全員が敗戦を信じなかった訳ではなく大竹富江は正しい情報をつかんでいました。
日系人の中には大竹一家のように敗戦を事実として受け止めている人もいましたが驚いた事にこうした人々の事を国賊だと敗戦をデマだと思い込んだ人々は糾弾し始めたんです。
そしてそれはついに大きな事件に発展してしまいます。
敗戦をデマだと思い込んだ日系人が敗戦の事実を広めようとした人物を次々と殺害し1年足らずで23人もの命が奪われてしまいました。
この事件はブラジル全土で大きく報じられ日系人たちが築いてきた信頼が大きく揺らいでいきました。
1946年8月。
この事態を受けてブラジル連邦議会が動きます。
日系移民の入国全面禁止を憲法に盛り込む案が提出され議論が始まったのです。
それに対し日本人だけを標的にした弾圧を批判する声も上がりました。
議論は膠着し多数決による投票に持ち込まれました。
結果は賛成99票反対99票。
決着は議長の持つ最後の一票に委ねられました。
日系移民の命運がかかった最後の一票。
議長が投票したのは憲法修正案を退ける反対の票でした。
どんな人種にも法の下の平等を保証するというブラジル憲法の精神は守られたのです。
たった一票の差とはいえさすが自由の国ブラジル。
とはいえ日系人への信頼は大きく傷ついたままです。
戦後の日系人たちはどのようにその信頼を回復していったんだろうか。
それを知るために僕は国民的芸術家となった大竹富江の戦後をたどる事にしました。
これです。
これがね…大竹富江が芸術家を志したのは戦後の事。
しかも子育てが一段落した39歳の時でした。
そんな遅いスタートでしかもブラジルという異国の地でどうやって成功をつかんでいったのか。
そのヒントを息子のルイさんが語ってくれました。
成功の秘けつはブラジル社会に飛び込む事。
駆け出しの大竹富江は積極的にブラジル人芸術家の輪に加わっていったといいます。
こうした抽象画もその時の交流を通じて学び彼女のものにしていきました。
そんな中富江が独特の手法を駆使し高い評価を得た作品があります。
富江はブラジルで学んだ技法だけでなく日本の禅の思想や書の技法も熱心に研究しそれらをうまく混ぜ合わせてこうした独特な作品を生み出していったといいます。
ブラジル芸術界で知られるようになった富江は更にブラジル社会に深く飛び込む事で国民的芸術家にまで上り詰めていきます。
あれだ。
その鍵となったのが巨大モニュメントの制作です。
そこには富江の強い思いが込められていました。
仕事の行き帰りで目にするとなるともうブラジルの人たちの生活の一部に溶け込んじゃってる感じしますね。
しかしその巨大モニュメントがブラジル社会に受け入れられるまでには険しい道のりがありました。
1985年に制作した全長20メートル重さ17トンの巨大作品。
造船所に協力を仰がなければならない大がかりなものでした。
作品は多くのブラジル人の手を借りてリオデジャネイロ市民の憩いの場である湖に設置されました。
ところがようやく完成したこの作品に一部の市民や芸術家たちから批判の声が上がります。
「まるでクモのようだ」。
「この悪趣味な作品を撤去するべきだ」。
更に追い打ちをかける事態が起こります。
自らの作品がスクラップになるという屈辱を味わった大竹富江。
しかし巨大モニュメントを通して「ブラジル社会にもっと飛び込んでいきたい」。
その思いは変わる事はありませんでした。
富江はサンパウロの空の玄関である国際空港の入り口や首都ブラジリアの高級ホテルなどブラジル各地におよそ40もの巨大作品を作り続けていきました。
ええ。
もうともかく前に前にっていうそういう信念の方だから人がいろんな事言っても馬耳東風だと思いますよ。
いろんな事が耳に入ってくるはずだと思いますけどね。
ただ我が道を行くというそういう気持ちがやっぱりすごいなと思います。
ええ。
粘り強く作られ続けた作品は多様な文化が交錯するブラジル社会に次第に受け入れられていきました。
ブラジル社会に深く飛び込む事を目指した大竹富江。
彼女は生涯全てのモニュメントに題名を付けませんでした。
今年2月。
大竹富江は101歳でその生涯を終えました。
国民的芸術家の死にブラジル大統領が贈った追悼の言葉です。
戦後その信頼を高めていった日系人たち。
彼らがこのブラジル社会で成功を収めていったもう一つの秘密を僕はこのロンドリーナの町で見つけました。
その秘密を教えてくれたのはこの町を開墾した日系人の一人大原治雄と彼が授かった日系2世の子どもたちでした。
大原治雄は戦後なんとあの自ら開墾した土地を手放して町の中心部へと引っ越していました。
ここに1軒家が…。
苦労して開墾した土地を手放した大原治雄。
一体何があったのだろう。
ボンジーア。
どうもこんにちは。
ボンジーア。
ボンジーア。
その家には現在治雄の次男スナオさん一家が暮らしていました。
どうぞ。
あ大丈夫ですか?はい。
すみません。
突然。
早速スナオさんたちになぜ都会に引っ越したのか聞いてみると…。
あ教育のためにという事ですか?あ〜そうだったんですね。
そう。
引っ越しの理由はズバリ教育。
次の世代を担う子どもたちを一人前に育て上げる事だったんです。
確かに戦後大原治雄が残した写真を見てみると子どもたちを題材にした作品が頻繁に登場します。
でも大原治雄の子どもは総勢9人。
彼ら全員に行き届いた教育をするなんて核家族世代の僕にはちょっと想像ができません。
この写真に写っているのは学生時代のスナオさん。
なんとバイオリンも習っていました。
(「荒城の月」)大原治雄が大好きだった「荒城の月」。
スナオさんたち兄弟は親の期待に応えようと勉強や芸術に打ち込んだそうです。
すばらしいじゃないですか。
スナオさんちょっとこちらに来て下さいよ。
ハハハッ。
大原治雄が授かった4人の息子と5人の娘。
この全員がブラジル社会で少しでも役立つ人間になってほしいと治雄はなんと9人全員を大学まで通わせました。
ただその一方で子どもたち日系2世にかかる教育費も桁外れたものになっていました。
治雄は学費のために持っていた土地の多くを売り払い時には借金を重ねていたといいます。
そしたら母が…日系移民1世たちが熱心に取り組んだ2世たちへの教育。
その成果はブラジル最難関のサンパウロ大学でも見る事ができます。
1970年代ブラジルの全人口に占める日系人の割合0.8パーセント。
しかしこの大学ではなんと15パーセントも日系人が占めました。
その傾向は今なお続いています。
全員が大学まで卒業した大原治雄の9人の子どもたち。
彼らはその後教師や建築技師などブラジル社会で活躍を果たします。
そしてあの大竹富江。
長男は世界的建築家次男はサンパウロ州の文化長官となり2人ともブラジルで大きく羽ばたきました。
戦後都会に引っ越し今も残る大原治雄の家。
治雄は1999年16年前にこの世を去りましたが一族は今も毎週集まって昼食会を開いています。
治雄には孫が21人。
ひ孫が24人生まれました。
今やその7割がさまざまな国から来た移民たちとのハーフやクオーターです。
大原治雄の家で僕はこの旅で最も心に残る言葉を見つけました。
それは子どもたちに残したアルバムの中にありました。
開拓農民としてブラジルの大地に根づきそして2世たちを懸命に育て上げた大原治雄たち日系人。
彼らの思いが深く伝わってきました。
新天地ブラジルに挑みそれぞれの花を咲かせていった移民たち。
(シャッター音)彼らが紡いできた日本とブラジルの関係は今年で120年。
ブラジルの大地に深く根づいた日系人たちはさまざまな国の移民とも交ざり合いながらまた新しい時代を築いていこうとしていました。
2015/11/05(木) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
新天地に挑んだ日本人〜日本・ブラジル120年〜[字]
120年前の外交関係樹立をきっかけにブラジルへ渡った日本人の移民たち。国民的芸術家や農業の神様と呼ばれる存在を生み出した移民たちの、知られざる歴史と今を描く。
詳細情報
番組内容
120年前、日本は地球の反対側にあるブラジルと初めて外交関係を結んだ。以来日本人移民たちは人種的偏見や差別に向き合いながらも、新天地ブラジルに深く根ざし名を残していく。その裏にはどんな歴史があったのか?ブラジル文化人最高の勲章を受けた移民の芸術家・大竹富江。従来の移民のイメージを覆す2万枚の写真を残した、農民で写真家の大原治雄。2人の移民の人生から120年の歴史と今を描く。旅人は俳優の賀集利樹さん
出演者
【出演】賀集利樹,【語り】大沼ひろみ
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
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