法的に有効な遺言書を作成するにあたり、「遺言能力」という言葉を耳にして不安を持つ方も多いのではないでしょうか。
遺言を遺す方の多くは高齢者であり、中には認知症の兆候が見られる方や判断能力が低下し始めている方も少なくありません。
遺言は、被相続人(亡くなった方)の最終の意思を法的に実現しようとする制度ですので、事物に対する一応の判断能力(意思能力)が必要となります。
形式的には何の問題もない遺言も、書いた人に「遺言能力がない」と判断されてしまえば、その遺言は効果がなくなってしまい、揉める元になってしまうかもしれませんね。
また、「物忘れも少しなのでこのくらいなら問題ないだろう」などと思っている方は、遺言能力は主観ではなく、法律できちんと決められた基準があることを知った上で、自分が遺言を遺せる状態にあるかを見極めることが大切です。
ここでは、遺言能力がないと判断されてしまう場合、また遺言能力に争いがある場合とその代表的な判例にについて解説しますので、ぜひ参考にしてみてください。
1. 遺言能力とは
遺言能力とは遺言を作成できる能力のことを言い、具体的には、遺言内容を理解できて、その遺言によって自分が死んだ時にどのような結果になるかを作成時点においてきちんと理解できることを言います。
ここで重要なのは、遺言能力がないと判断された人が作成した遺言書は無効になってしまうということです。
下記に当てはまる人は「遺言能力がない」と判断されます。
2. 遺言能力がないと判断されてしまう場合
15歳未満の人
15歳未満の人は、遺言を書いても無効になってしまいます。
そもそも民法では原則として、契約が発生する行為は未成年のみでは行うことができず、親権者の同意が必要と定めています。
未成年者は、自分が行ったことの結果に対して自分で責任がとれないとされているため、その責任をとることができる親権者の同意を得ることで、未成年者の保護を図っているのです。
それに対して遺言は、未成年であっても15歳に達しているのであれば、遺言を書くことができます。
遺言とは、書いた人が亡くなった後に効力が発揮されるので、未成年を保護するという配慮は必要ありません。
亡くなったら、その人が未成年であっても、権利も義務も消滅するからですね。
それでも、15歳未満ですとさすがに意思能力が低いとみなされ、書くことはできません。
精神障害がある人
精神障害がある人は、障害による判断能力の欠如の程度によって「成年被後見人」「被保佐人」「被補助人」という認定をもらうことができます。
被保佐人、被補助人は原則として遺言能力があると認められているので一人で遺言を書くことができますが、成年被後見人は原則として遺言能力はないとされています。
しかし、一時的に判断能力が回復している場合に、医師2人以上の立会いのもと、一定の方式に従うことで遺言することが可能となっています。
判断に争いがあるケースについては、3以降で具体的に解説していきます。
代理人
遺言は「本人の意思」を尊重するためのものですので、本人が意思表示をしたことが証明できなければいけません。従って、誰かが遺言者の代理人として遺言を作成することはできません。
自筆証書遺言の場合は必ず本人の直筆でなければならず、公正証書遺言の場合は必ず本人が公証人に遺言内容を伝えなければならず、秘密証書遺言の場合は代理人が遺言者の指示によって代筆することはできますが、必ず本人が公証役場で手続きしなくてはいけません。
3. 認知症でも遺言書は有効か
遺言能力は、「遺言を作成する時」にある必要があります。
遺言を作成した時は正常な判断が出来る状態であり、その後認知症になって亡くなった場合、遺言を作成した時点では正常な判断が出来る状態だったため、遺言は有効になります。
逆に、作成した時は認知症で、その後回復して正常な判断が出来るようになっても、遺言を作成した時点では認知症だったため、遺言は無効になるのです。
しかし、最終的な遺言書の効力は裁判によって決まります。
その為、無効であると疑う人が遺言書の効力について訴えを起こさない限り、現実的には無効になりません。当事者同士で争いになっただけでは、効力に影響はないのです。
3-1. 認知症高齢者の割合
80歳以上ではおよそ3人に1人、90歳以上ではおよそ3人に2人は認知症と判断されています。
認知症高齢者の年齢別割合 (2013年厚生労働省より発表)
3-2. 程度
認知症とひとくくりに言っても、軽度から重度まであります。一般的にどういう症状がどの程度に当てはまるのかを下の表にまとめたので参考にしてみてください。
表を見ればわかりますが、軽度~中度の人は症状がでていない時に作成することができるかもしれませんが、重度の人は遺言作成自体が難しいと言えます。
項目 | 軽度 | 中度 | 重度 |
---|---|---|---|
記憶 | ・最近の出来事を忘れる
・日常生活に支障が出始める |
・しっかり学習した事は覚えているが、新しいことはすぐ忘れる | ・重い記憶障害がある
・断片的な記憶のみが残っている |
認識 | ・たまに時間がわからなくなる
・場所や人の認識はできるが、たまに地理的なことがわからなくなる |
・常に時間がわからない
・たまに場所がわからなくなるが、人物の認識はできる |
・人物の認識のみできる |
判断と問題解決 | ・複雑な問題を解決することが難しい
・社会的な判断はできる |
・問題を解決することがかなり難しい
・社会的な判断が難しい |
・判断が全くできない
・問題を解決することができない |
社会適応 | ・仕事・買い物・金銭の管理・ボランティアなどに関わることはできても、一人で行うことはできない | ・家庭外では一人で何か行うことができない | ・家庭外では一人で何か行うことができない |
家庭状況 | ・家庭での生活に少し障害がある
・複雑な家事はできない |
・単純な家事のみ関心がある | ・家庭内でも全体的に適応することができない |
介護状況 | ・時々励ましが必要 | ・着衣や衛生管理など身の回りのことに介助が必要 | ・日常生活に十分な介護が必要
・しばしば失禁がみられる |
主な援助者 | 補助人 | 保佐人 | 成年後見人 |
遺言能力の有無(原則として) | 有り | 有り | 無し |
3-3. 作成する遺言の種類
認知症の人が遺言書を作成する場合は、公正証書遺言がおすすめです。
自筆証書遺言はその人本人が書いたという証明が難しく、また本人の意思によって書いたものであることも証明しにくいので、あまりおすすめではありません。有効か無効かは、最終的には裁判所の判断となりますが、公証人も後に無効となる遺言書を作成することはできませんので、遺言者の状況をしっかりと観察し判断してくれます。
また、公正証書遺言は裁判でも無効となりにくい信頼性がありますので、認知症であるなど、その疑いがある場合はまずは公正証書遺言を検討しましょう。
3-4. 医師の診断
遺言書を作成する時、医師の診断書を添付すると良い場合があります。周りから認知症だと思われているが、本当はそうではないことの証明のためや、軽度であることの証明のためです。この証明は直ちに遺言書の有効を証明するものではありませんが、裁判で争われた時に証拠となります。そのため、自身に不利となる診断書はあえて添付する必要はありません。
ちなみに、診断は「認知症であるかないか」の診断であって、「遺言書が書けるか書けないか」の診断ではありません。前者は医学的診断なので医師が判断することができますが、後者は法務的な判断になるため、医師が判断することはできませんので注意しましょう。
4. 意思能力があるかどうかの基準
意思能力があるかは目に見えないため、判断が非常に難しく、一概にこうとは言えません。ここでは裁判で意思能力がないとされ、遺言書が無効になった裁判例を紹介します。
4-1. 頷くことしかできない人の遺言は無効
(最高裁 昭和51年1月16日判決)
肝臓障害で入院したAさんは、弟であるBさんに対して、内縁の妻との子どもであるYを認知する旨の公正証書遺言を作成したいと伝えました。
Bさんはすぐに公正役場に行き、Aさんの遺言内容を伝え、公証人が遺言の原案を作成しました。
その後、公証人が原案を持ってAさんのもとに行き、「子どものことで遺言するのは本当か」「Yを子どもとして認める公正証書遺言を作ってよいか」と聞きましたが、それに対してAさんは頷いただけで一言も言葉を発しませんでした。
当時、Aさんは切迫昏睡状態にあり、判断力はひどく低下していたため、その応答には信用が置ける状態ではなかったのです。
その後、Aさんは亡くなり、他の相続人により認知無効の訴えが起こされ、それが認められたため、遺言書は無効となりました。
4-2. 各人の供述が整合しておらず無効
(東京地裁 平成18年7月4日判決)
Aさんは公正証書遺言を作成しましたが、作成当時は重度の認知症で、単純な内容の遺言ですら理解できないほどでした。
それにも関わらず公証人は公正証書遺言を作成してしまい、さらに遺言作成時の相続人の供述や証人の供述が、当時の介護記録の生活状況と整合していなかったため、遺言能力がないとみなされ無効になりました。
4-3. 認知症であるにも関わらず、遺言内容が複雑なので無効
(横浜地裁 平成18年9月15日判決)
Aさんは知能機能検査で重度の認知症だと診断をされ、子供の数や病歴などの長期的な記憶についても記憶障害がありました。
また、会話についても話しかければ応答はあるが、簡単な会話のみに応答するのみでした。
それに対してAさんが作成した遺言内容は、多数の不動産等を複数の相続人に相続させ、また一部を共有にしたり、遺言執行者を分けて指定するなど、かなり複雑なものでした。
ここまで重度の認知症の人が、こんなに複雑な遺言内容を理解し遺すのは不可能であると判断され、無効となりました。
4-4. 遺言者が生前大切にしていた財産への配慮が無く無効
(大阪高裁 平成19年4月26日判決)
Aさんは認知症で、度重なる不穏行動などから投薬を受けていました。
遺言作成当日は酸素吸入をしており、その一週間後には危篤状態になり、まもなく亡くなりました。
遺言内容は文案から変更されていましたが、これがAさんの指示であったかは定かではなく、またAさんが生前大切にしていた財産への配慮が全くありませんでした。
相続人間で相続分のばらつきも大きく、決して単純な内容ではないため、無効となりました。
まとめ
遺言は、遺言者が15歳以上で精神障害がなく、本人の意思で書くのであれば原則的に有効になります。
ただ、高齢化社会である現代では、遺言能力の効力で問題になるのはまず高齢者の認知力です。
遺言書の有効無効=認知症であるかないか、であると言っても過言ではありません。
認知症になる前に遺言を書くのが一番良いのですが、認知症になってしまった場合は、症状が出ていないまたは軽いときに、公正証書遺言を遺すことで、少しでも無効になるのを防ぐことができます。
自分はまだ大丈夫、という思い込みが一番危険です。遺言能力がしっかりあるうちに遺言書を遺しましょう。
著者:相続ハウス 彼末彩子(相続診断士)
監修:銀座中央総合法律事務所 清水 保晴(弁護士)
【参考文献】
「論点体系 判例民法 10 相続」 第一法規株式会社
「相続判例ガイド」 株式会社 有斐閣