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異世界転生騒動記 作者:高見 梁川
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第七話 王女の病 書籍化該当部分2

 「まったく陛下にも困ったものだ。成り上がりや野蛮人の権利など気にする必要はなかろうに……」
 「このままダウディング商会が成長すれば公正な競争市場が失われかねませんな!」

 口ぐちに王都の新たな変革への不満を口にするのは財務省の官僚と、その利権のおこぼれにあずかっている貴族たちである。
 彼らにとって、商会の規模は同レベルで官僚の口利きで勝敗が決する程度に拮抗していることが望ましい。
 ダウディング商会が飛びぬけてしまっては恩を売ることも難しくなり、賄賂を要求する機会も減ってしまうのである。ただえさえダウディング商会はパイプ役であったクラン部長が事故死してほとんど彼らの利権にならない存在となっていた。
 その商会がこのまま巨大化を続ければ、財務省の利益誘導を必要としない国際商会として手が付けられなくなる可能性があったのである。
 
 「辺境の田舎者が力をつければ王国の土台が揺らぎかねん。一刻も早く道を正さねば」

 同様に財務省と辺境貴族の口利き役である大貴族としても、現在の事態は愉快なものではなかった。
 基本的に辺境貴族は貧しい。肥沃な土地を持つ裕福な貴族もなかにはいるが、ほとんどの貴族は軍役を背負っているうえ、大消費地である王都に商売の主導権を奪われていた。
 そのため有利な値段で売るためには商会とのパイプや大貴族の口利きが不可欠であり、また不便な田舎から王都で職を探そうとする二男、三男の面倒見てやることも、重要な利権の一つであった。
 地方の景気が活性化し、地産地消が定着するようなことがあれば、従来の利権で莫大な利益を吸い上げていた彼らは破滅するほかはない。
 収入に見合った慎ましい生活をする気など最初から彼らにはないのだから。

 「ダウディング商会の独占を禁止する法律をつくりましょうか?」
 「しかしダウディング商会の取り扱い品は多すぎる。下手に独占を禁止してとばっちりを食うのは御免だぞ?」

 いくらなんでもダウディング商会の商品だけに課税することは不可能である。
 しかし例えば砂糖の独占を禁止した場合、その他の独占市場まで開放を迫られる可能性があった。その結果利権を失うことになっては本末転倒というものであろう。
 
 「低利で資金を融資することも出来ますが……」
 「現状は金さえ投入すれば解決するものでもあるまい。要するに奴らが取り扱っているものが真似できないことが問題なのだ」
 「あの洗髪料はまずいぞ、あれでかなりの貴族がダウディング商会の顔を窺いだしたからな」

 数に限りがある以上、売り手の立場が強くなるのは自明の理である。
 需要と供給の関係はこの世界でもなんら変わるところがない。
 上級貴族の婦人を虜にしたことで、ダウディング商会の立場は先日とは比べ物にならないほど強化されている。
 それがわかるだけに額を寄せ合った男たちは苦々しかった。

 「やはり―――――弱いところから崩していくのが定石だろうな」
 「弱いところ、というと?」

 真正面から相手をするには敵は大きくなりすぎた。
 今やランドルフ侯爵家の後見すらついたダウディング商会をあからさまな手段で陥れれば下手をすればこちらが反撃で痛い目に会う。

 「ダウディング商会と提携しているちっぽけな商会があったろう。しかも一人娘が会頭という都合のいい話だったはずだ」

 理由はわからないがサバラン商会が何らかの情報を握っているのは、ダウディング商会が下部組織ではなく、対等の提携相手とみなしていることを見ても明らかである。
 たかが一人娘を籠絡する手段などいくらでもある。
 男は同じことを考えたクランという男の末路がどうなったのか知るはずもなかった。

 「今度はいったい何をやってるんだ?」
 「ちょっとセイ姉の手間をはぶいてあげられないか、と思いましてね」

 そう言いながらバルドはゴートに頼んで用意した青銅の釣鐘のような置物を弄んでいた。
 水の都であるキャメロンは大抵の場所で数メートルも掘れば水が湧き出す地域だが、その水はもっぱら人力で釣瓶を利用しているのが一般的であった。
 女性や子供にとって、重い水を釣瓶でくみ上げるのは重労働であり、騎士学校で勤めることになったセイルーンはコルネリアスの屋敷にいたころとは違い、朝も早くから水を汲む必要に迫られていた。
 その事実にバルドが気づいたのはつい先日のことである。
 相変わらずセイルーンにセクハラを働いていたテレサが、赤く荒れ果てたセイルーンの手のひらに気づいたのだ。
 コルネリアスにいたころは白魚のように白くしなやかだったセイルーンの手は、慣れぬ力仕事と水仕事で見るも無惨に変わり果てていた。

 「お気になさらないでください………これが私の仕事ですし」

 屋敷にいたころは下男やほかの侍女がやっていた仕事である。
 たまたまバルドのお付であったから任されなかっただけで、それが侍女の仕事のうちであるとセイルーンはごく当たり前に受け入れていた。
 しかしそれをバルドが受け入れられるかは全くの別問題である。

 「現代知識なめんな」

 そこでバルドが用意したのが、今でも稀に田舎で見かけることのできる手押し式のポンプというわけだ。
 手押し式ポンプは構造的にはそれほど難しいものではない大気圧を利用したもので、ハンドルを上下してポンプ内を真空にしようとすることにより、井戸の水にかかる大気圧が水を吸い上げる揚水の原理を使用している。
 これならハンドルの上下操作だけで水を汲みあげることができ、釣瓶の荒縄で重い桶を苦労して引き上げる必要はなくなるはずだ。
 さらに桶に満杯に汲まれた重い水を運ぶために、運搬用の一輪車も準備するという念の入れようであった。
 現代日本でも作業現場で使用されている一輪車、通称ネコとも呼ばれるこの運搬用の一輪車の歴史は意外に浅く、一般に知られる形になって大量生産されたのは近代になってからと言われている。
 非常に簡便で持ち運びに適しているのは現代でも重宝されているという事実が雄弁に物語っていると言えよう。

 「これは魔法か?」

 勢いよく蛇口から吹き出す水を見てウィリアムは呆れたように呟いた。
 水は人間の生活に絶対に必要でありながら、容積の割に重く、これを運ぶのは地位の低い使用人にとって何よりも重労働であると言われている。
 なかには午前中を全て水運びに費やし、疲労困憊してしまう使用人がいることをウィリアムは承知していた。
 それでも各家庭に井戸があるマウリシア王国は恵まれているほうで、水資源の乏しい国では井戸が村にひとつしかないようなことも多く、その運搬手段は常に問題となってきた。

 「ただの仕掛けですから誰にでも使えますよ」
 「―――――そうだろうと思ったよ」

 本当にバルドは問題の本質がわかっているのか?
 まだまだ年若い少年でしかないウィリアムでも、この発明が世界を変えかねないことを理解していた。
 これまで人海戦術でしか解決できなかった水の大量輸送すら可能とするポンプと手押し車は毎日の重労働から人々を解放し、別の仕事を行う余裕をもたらすだろう。
 すなわち稼働労働人口が増加する。
 新たな生産需要が拡大している王都にとって労働人口の拡大は決して無視しえぬ結果をもたらすに違いなかった。
 もちろん、重労働から解放された平民がどんな心象を抱くかなど想像するに難くない。
 王家の一員として教育を受けてきたウィリアムにはその効果が容易に想像することが出来た。
 このまま放置してよい問題では断じてなかった。

 「この絡繰り、作るのは難しいのか?」
 「構造自体は単純ですからね……すぐに量産できると思いますよ」

 ウィリアムが何を考え、どういう結論に達したか、バルドも当然のように理解していた。
 あまり金儲けにはなりそうにないから放置していただけで、政治的、経済的見地から大局に立つものならのどから手が出るほどに欲しい装置だ。
 特許という概念はこの世界にはないが、もし特許使用料が請求できるなら国家間の戦略商品になる可能性すらある。
 実際にやり手のウェルキン国王なら、情報が漏えいする前にこれを交渉カードとして使うだろう。
 要するにバルドは王族であるウィリアムを利用して、王室に恩を売る機会を狙っていたのである。
 もちろん、セイルーンの負担軽減がもっとも大きな理由ではあるが。

 「父上には俺から話をつけておく。出来るだけ多く作ってくれ」

 現在王家と貴族の力関係は微妙だ。
 戦役後力をつけた新興貴族と、古参貴族、そして辺境貴族に官僚貴族がそれぞれの利害で対立し、王家はそのバランサーの役を担っていた。
 貴族の反乱で滅亡したトリストヴィー王国のように、全面的に貴族と対立するほどウェルキン国王は愚かではない。
 貴族間の対立を煽り、決してその力を王家に集中させないだけの政治的工作は初歩であるとさえ言える。
 さらに王家の力を確固とするためには民衆の支持があることが望ましい。
 ポンプはその格好の材料になる可能性があった。
 ウィリアムがそう正しく判断していることに、バルドは新鮮な驚きを隠せずにいた。
 腕自慢の暴れん坊と思いきや、この王子なかなかどうして―――――。

 「私が作るわけではございませんので、聞いてまいりましょう」

 知識はあっても技術のないバルドは、もっぱら製造に関してはゴートに、そして流通と資材の確保はセリーナに頼っている。
 最近は生産拠点をダウディング商会の工房に移しているとはいえ、独立したひとつの商会でもあるサバラン商会にとって、コルネリアスのゴートの工房の存在はなくてはならぬものであった。
 この二人の意見を聞かずしては、さすがのバルドも迂闊な返事は出来なかったのである。

 「バルドが気を使う相手か。是非俺も紹介してもらいたいものだな」

 バルドとサバラン商会の関係はウィリアムも知っているが、セリーナがただの傀儡なのか、それともバルドの手綱をとれるほどの女傑なのかはこれからのウィリアムにとっても決して無関係なものではない。

 「失礼ながら騎士より宰相を目指すべきだったのではございませんか?殿下」
 「ふん、お前にだけは言われたくない」

 見かけとは明らかに生まれ持った才覚の違う二人は、互いに皮肉気な笑みを浮かべるとシルクとブルックスを伴ってサバラン商会へと出発した。


 「坊っちゃま!お願いします!置いて行かないで!」
 「さあさあ、さっさと水を運んでしまおうじゃないか!君の柔肌のためなら僕はいくらでも水を汲むつもりさ!」




 「セリーナ会頭はいるか?」

 きらびやかな衣装に身を包んだ場違いな男たちがサバラン商会を訪れていた。
 その様子にきなくささを感じた受付はすみやかにグリムルをはじめとする護衛に通じる秘密の呼び鈴を鳴らす。

 「どういったご用件でしょうか?」
 「貴様ごときが余計な口を聞くな。早く会頭を呼べばよいのだ!」

 荒々しく一際目立った衣装の若い男が、受付の机を叩いた。
 顔立ちは悪くはないが、受付の女性を見下しきったその瞳は、彼がひとりよがりな虚構の世界に生きている住人であることを告げていた。

 「用件を言っていただかなければお取次ぎできません。規則ですので」
 「無礼な!私がネヴィス男爵ポールと知ってのことか!」
 「大変申し訳ございませんが貴族様でも当商会の規則は遵守していただきます」

 メイブルという受付に採用された女性は、すでに数十回こうした無法者に対応していたために淀みなく口上を述べた。
 そのくらい肝が太くなければ一流商会の受付は務まらない。

 「ふざけるな!平民の分際でこの私を侮辱するか!」

 本気で断られるとは思っていなかったらしいポールはますます激昂する。
 爵位のない平貴族ならばともかく、男爵家の当主ともなれば社会的な地位は比べ物にならないほど高くなる。
 まして男には黙って引き下がることのできない事情が存在した。
 ネヴィス男爵家は比較的マウリシア王国では家柄の古い名門と言ってよい一家である。
 しかし戦役により当主が戦死し、さらに後を継いだポールが領地経営に無能であったために、今では借金に次ぐ借金で、いつ破産してもおかしくない状況にある。
 そこに降ってわいたかのようにポールに依頼されたのがセリーナとの婚姻であった。
 平民ごときと結婚するのは貴族の誇りを穢すものだが、商会を経営するセリーナの財産は確かに魅力的であり、財産を奪ったあとは適当に殺しておけば新たに良家から妻を迎え入れることも可能である。
 知り合いの大貴族からこの話を聞いたポールは一も二もなく飛びついた。
 貴族でありながら食事や衣料に気を使わねばならない生活などまっぴら御免だった。
 だから気が進まぬながらもセリーナという平民を娶ってやろうというのに、会うこともできないでは自分を救おうとしてくれたマロリー公爵にあわす顔がない。

 「早くセリーナという小娘を連れてまいれ。四の五のぬかすと貴様の命はないぞ!」

 腰に差していた剣を引き抜き、恫喝するようにその刃を見せつけるポールの前に、巨体の傭兵が進み出た。

 「こんなところで抜き身を見せちゃいけませんぜ………」

 本来ならグリムルはこのようなところで用心棒に甘んじている男ではない。
 戦場では10人力として恐れられた歴戦の傭兵なのである。
 今こうしてセリーナに雇われているのは、大きな戦場が大陸の外縁部にしかないことと、何よりバルドたちが目指す変革に興味をそそられているからだ。
 ――――――断じてマゴットが怖いからではない。大事なことだからもう一度いうと、マゴットが怖いからではないのだ。

 「なっ!高位貴族たる私を脅してただで済むと思っているのか!?」

 明らかに腕利きの傭兵であるグリムルの登場に、声を震わせてポールは後ずさった。
 もともと戦闘経験のないポールでは実力ではグリムルどころか街の少年にすら敵うかどうか怪しいのである。
 ポールが引き連れてきた郎党たちも、すぐにグリムルの実力に気づいたのか、いつものように強気に出れない。弱いとみればいくらでも凶暴な口を聞く彼らだが、強いとわかる人間に対してはお飾りも同然の役立たずである。
 グリムルはそんな虎の威を狩るチンピラをこれまで何度も見てきた。
 恐るべきものなど何もない。

 「なんや、物騒なことになっとるなあ………」

 胡乱そうな目でセリーナが現れたのはそのときだった。



 自分が何をしに来たのかを思い出してポールは値踏みするようにセリーナを見つめた。
 なるほど色香の高い女だ。獣人族であるというところが気にくわぬが、犬として飼いならしてみるのも悪くなさそうな気がする。
 何よりそこらの令嬢など及びもつかぬほど美しいところがよい。
 気の強そうなセリーナをあられもなく凌辱することを夢想してポールは機嫌を直した。
 豊かな胸も雪のように白い肌も、何とも言えずいたぶり甲斐がありそうだ。

 「ちょうどよいところに来た。セリーナよ、栄えある王国男爵たるこのネヴィス男爵ポールがおぬしを妻として迎えてつかわすぞ」
 「お断りや、はよう帰り」

 その間、0.02秒。まさに音速を超える速さの拒否っぷりにポールは完全に石化した。
 財力で完全に詰んだ状態にありながら、ポールはなぜか平民が貴族の座を得ることをこのうえない名誉と考えていると信じていたのである。
 貴族の誇りという最後に残されたよりどころを否定されて、ポールは頭が真っ白になった。
 この女はなんと言った?
 許せない
  許せない
 こんな扱いを私が受けることを認めることはできない!

 「この売女がああああああ!」

 男とみればすぐ尻を振る淫売でありながら、王国男爵である自分を拒否することなどあってはならない。この女には制裁が必要だ。この屈辱は絶対に晴らさなくてはならない。
 本能の命ずるままにポールはセリーナに向かって斬りかかる。

 「おいおい、それはちょっと洒落にならんぜ」

 そんな素人の衝動的な攻撃を見過ごすグリムルではない。
 無造作に素手でポールの剣をはたき落すと、手加減しつつ顔面に拳を叩き込んだ。

 「へぶっ!」

 無防備に一発もらったポールは、鼻血を噴き上げながらゴロゴロと床を転がって3mほども吹き飛ばされた。
 さすがに主人を殴られては黙っていることも出来ず、剣を抜こうとした郎党ゴロツキたちも、セルやミランダにあっという間に無力化され、サバラン商会の窓口には若い男たちが死屍累々と横たわる惨状となったのである。
 セリーナに求婚にやってきた身の程知らずはこれが初めてではない。
 そのいずれもがいささか過剰なほどの護衛戦力によって撃退されてきた。
 本気で力づくでセリーナをものにする気なら、正規の王国騎士団が一個小隊は必要なはずであった。

 「――――――なんと非道な。王国貴族に対してかかる振る舞い、覚悟のほどは出来ておろうな?」

 法服に身を包んだ初老の貴族がニヤニヤと笑みを浮かべてやってきたのはそのときだった。

 「正当防衛や、何も後ろ暗いところはないで」

 男の法服は、彼が司法省の人間であることを告げている。
 セリーナはおそらくは先ほどの男爵は、この男のための前座であったことに気づいた。
 案の定、したり顔で男は演説するかのようにセリーナを糾弾し始めた。

 「わざわざ頭を低くして求婚に訪れた男爵に対し、平民の身分もわきまえず暴行を加えて恥をかかせるとは言語道断。王国法に基づき不敬罪にて逮捕いたします」
 「ちょいと待ちや!うちは殺されかかったんやで!」
 「何を世迷言を。男爵はあれほど頭を低くして礼を尽くしたではありませんか」
 「―――――夢は寝て見るんやな」

 王国法は貴族によって平民が恣意的に害されないよう、平民の権利を保障しているが、税制や各種の特権で貴族の身分は守られており、そして平民が貴族を侮辱することを禁じる王国法第六条が存在した。

 「法の番人たる私が証言しているのですよ!その発言は新たな不敬罪と看做さざるを得ません!」

 司法省の法服貴族には、自らの証言をもとに逮捕権限が与えられている。そうした意味で男がしようとしているのはあくまでも合法なものであった。

 「王国法第六条に基づき、司法権限第四条によりセリーナ・サバランを逮捕します!」

 男は勝利を確信した。
 逮捕さえしてしまえばサバラン商会の資産を差し押さえることは難しくない。
 その後で司法取引を行うなり、捜査にかこつけて商品の秘密を暴くことも出来る。
 自分の縄張りに引きずり込んでしまえば、たとえ十大貴族が相手でも対抗できるだけの自信が男にはあった。

 「―――――司法権限第一条第二項、汝偽証するなかれ。これにより司法官の証言に異議を唱えます」

 勝ち誇る男の笑みを止めたのは、侮蔑もあらわに口元を歪めたバルド・コルネリアスの姿であった。
 バルドの全身から漂う鬼気に思わず腰が引けてしまった男であるが、サバラン商会とコルネリアス伯爵家との関係を知っていた男にとって想定の範囲内ではある。
 気を取り直した男は虚勢を張るように声を荒げた。

 「法を守る我が証言を疑うとは!司法官の証言を誹謗すれば貴様もただではすまぬぞ!伯爵家の嫡男とはいえ、特別扱いされるとは思わぬことだ」
 「ネヴィス男爵が抜刀してセリーナに襲いかかったことは私が証言しますよ。王国法第十条により貴族の証言には真実の推定が働くことはご存じのはず」
 「ふん!話にならぬな。位階も持たぬ小僧の証言と司法官である私の証言のどちらが正しいのか、など考える余地もあるまい」
 「私の証言だけではありませんよ。どれだけの人間が目撃したと思ってるんです」
 「何人目撃者がいようと私が証言すればそれは正しいのだ。司法官の判断が間違うことなどありえないのだよ」

 バルドがイグニス伯爵に泣きついて告訴したとしても、バルドと平民の証言で裁判の判断が覆ることはありえない。
 たとえ裁判長が男の証言に疑問を抱いたとしても、司法官より平民の証言を信じるという前例が生まれることは司法省の存在意義に関わる問題だ。
 自らの組織を守るために、彼らは不本意でも男を擁護せざるをえない。
 まして強力な後ろ盾がついていることを考えれば万に一つも負けるはずがなかった。

 「司法権限第一条第一項、汝良心を裏切ることなかれ。己の良心に恥じるところはありませんか?司法官殿」

 バルドの言葉は男にとって負け犬の遠吠え以外の何物でもなかった。
 良心?そんなもの犬にでも食わせてしまえばよい。
 世の中は金と権力がすべてなのだから。

 「悔しいか?小僧。貴様がどれだけ腕自慢で槍働きを鼻にかけようと、私が黒と言えばそこの娘は黒であり、真実などというものは決して誰も助けることはできない。そうだ、土下座して許しを乞えば娘の罪を軽くしてやらんでもないぞ?何といってもここでは私こそが法なのだからな」

 もちろん土下座されてもセリーナを許すつもりなど欠片もなかったが、男は派閥の利権を大幅に縮小させたバルドに対する加虐心の命ずるままに嗤った。
 正義などというものを信じている世間知らずの心をへし折り凌辱することが、男にとっては何にも代えがたい快楽なのだ。

 「世間知らずはあんただろう。真実は時として何より鋭利な刃となる。自分の狭い世界が世界のすべてと勘違いしている低能に下げる頭はないよ」
 「何だと?貴様!」

 万策尽きて屈服するかと思った獲物が突然剥き出した牙に男は憤怒と同時に違和感を覚えた。
 バルドの様子が敗北を認めたようには思えなかったからである。いや、むしろ罠にかかった獲物を蔑んでいるかのような――――――。

 「王国法の擁護者である父を差し置いて自らが法であると言ってのけるとは、司法官の質も地に落ちたものだな」
 「……………最低」

 セリーナの背後から現れた二つの小さな影を見た男は、思ってもみなかったその姿に雷に打たれたようにのけぞって痙攣した。
 喉が痛いほどに枯れて主に水分の補給を訴える。
 ウィリアムとシルクという存在は、バルドと違い男が無視するには相手が悪すぎた。

 「―――――真実が誰も助けない、か。お前の一言一句を父に伝えておくからその言葉が正しいかどうか確かめてみるんだな」
 「そ、そんな……どうして殿下がここに!」
 「お前のような馬鹿の動きを監視するために、ここは先日から宰相府が網を張っていたんだよ」


 サバラン商会へと向かうウィリアムたちのもとへ、宰相府の情報官を名乗る男が現れたのは数十分前のことである。
 陰ながらサバラン商会を警護していた彼らは、己の手に余る貴族と司法官に対抗するためウィリアムに助けを求めたのである。
 宰相ハロルドが直接動けば相手も警戒して巣穴にこもってしまう可能性が高い。
 彼らに襤褸を出させるためには目立たぬ学生というウィリアムの立場を利用することが望ましかった。

 「癪ではあるがバルドの友人のためなら仕方あるまい」 
 「ありがとうございます。殿下」


 騒ぎを聞きつけたセリーナが受付に姿を現した時点で、すでに罠は完了していたのである。
 そうとも知らずに得意顔で一席打った男はいい面の皮であった。

 「そこの馬鹿男爵といっしょに黒幕を話してもらうとしようか」

 ようやく男はことが最初から黒幕たる後ろ盾の失脚を狙った罠に自分がまんまと飛び込んでしまったことを悟った。
 がっくりと項垂れた男と意識のない男爵が宰相府の男たちによって連れ出されていく。


 後日バルドたちのもとに、王家とも遠いつながりのあるマロリー公爵家の当主が隠居し、2,3の男爵家と子爵家が取り潰されたという知らせが届けられた。
 どうやらあの頭の悪い男爵が頼まれもしないのにベラベラとしゃべったらしい。

 「まあ、助かるけど王国の行政府がこれで大丈夫なのか心配になるね………」
 「それを言うな……」



 十大貴族に準じる大貴族にまで及んだ追求は王室の対応の厳しさを何よりも雄弁に物語っていた。
 擁護しようにも捕まった男爵の自白や王子の証言など状況があまりにも悪すぎる。
 下手に庇い建てしようものなら自分が失脚する可能性すらある以上、危険を押してまで庇うものなどいるはずがなかったのである。
 それでも組織の利権だけは守り抜こうと気炎をあげる人間はいたが、本腰を上げて追及された場合叩けば埃の出る人間はかつてのように反抗を続けるだけの気力は持ちえないようであった。
 今回の陰謀劇の概要は、政治感覚に多少なりとも通じているものなら容易に理解できるものである。
 すなわち、国王の構造改革に反対する人間には容赦しないぞ、という国王からの無言のメッセージだ。
 その気になれば芋づる式に財務官僚の首を斬れるはずなのに、明らかに見せしめの人間しか粛清されていないのがその証拠であった。
 不法な行為を慎み、多少利権が減っても国王に表だって反抗しなければすわり心地の良い椅子は保障してやる。
 そう言外に言われてなお反国王の立場を貫ける人間は少なかった。
 中にはクーデターまで画策する真性の馬鹿もいるが、そうした人間はおそらくまともに処罰されることすらなく、事故死や行方不明になる可能性が高いことを自分たちも同じことをしていただけに彼らは容易に想像することが出来たのだった。
 結局財務省の反国王派は勢力を大幅に減じて、改革派が中心勢力として台頭した。
 そのほぼ半数以上が反国王派からの鞍替えではあるが、以前から真摯に国家経済と向き合ってきた人間が主流派のトップにたったという事実は大きい。
 すでにある程度の軍事予算が認められ、久々の軍事費増額に軍務省では予算の使い道で激論が戦わせられている。
 予算が無限ではない以上、これまでたまりにたまっていた軍事計画にも優先順位をつけることは絶対に必要であったからだ。
 さらに抜け目のない国王はそればかりでなく、バルドの持ち込んだ手押し式ポンプを国内に普及する前提として取水税を新設した。
 代わりに手押し式ポンプの設置とメンテナンスは王国が全面的に面倒を見る。
 最初は税金が増えることに難色を示していた国民も、手押し式ポンプを見た瞬間に手のひらを返し、今では早く設置してくれと王都から遠く離れた村までもが陳情に訪れる状態で、ポンプの供給元となったダウディング商会とサバラン商会は殺人的なスケジュールに忙殺されていた。
 ―――――当然のことながら税の新設と予算の増額は財務省の影響力と利権の拡大でもある。
 予算が大きく、そして仕組みが複雑になるほどに行政機関の権力は増す。
 もはや国王と宰相に刃向う輩は、ごくわずかな抵抗勢力と呼んで差し支えはなかった。
 とある政治の格言として、優れた政治家は官僚をうまく使い、愚かな政治家は官僚と対決するという言葉がある。
 完成した官僚機構というものは停滞を許されない。その官僚と敵対する政治家は結果として国民生活に支障をきたすことになる。
 そうした意味でウェルキンは間違いなく優秀な政治家に分類されるに違いなかった。

 「ぐははははっはははっ!計画通り!」

 その後国王ウェルキンは高笑いのしすぎで喉を傷め、呆れたハロルドにきつい叱責を受けたと伝えられる。




 「なのに僕はどうしてこんなところで書類を手伝っているのでしょうか?」

 山積みされた大量の書類に囲まれて遠い目をして呟くバルドがいた。
 おかしい。今日は8日に一度の休日で、命の洗濯にみんなで街に繰り出す計画であったはずなのに………。

 「自業自得や。うちにこんな厄介なもんつかませといて自分だけ遊ぼうとか許さへん!」
 「だったら後にすればいいのに……」
 「こないな便利なもん、いつやるの?今でしょ!」
 「セリーナ、口調変わってるよ……」


 これほどセリーナが興奮するのには訳がある。
 きっかけは手押し式ポンプの発注を受け、在庫管理の手伝いをしていたバルドがふと呟いた一言だった。

 「そういやここって複式簿記は普及してるのかなあ………」
 「なんや?そのフクシキボキっていうんは?」
 「―――――知らないのか?なんて説明したらいいかなあ………」

 どうやら大陸で一般的な帳簿は江戸時代よろしく大福帳であるらしい。
 複式簿記とは、資産、負債、純資産、収益、費用の増減を伴う全ての取引活動を、帳簿の貸方、借方の二つの側面から分解し、可視化したものである。
 現代でも使用される貸借対照表や損益計算書はこの複式簿記の考え方なしには成立しないものであり、書面で表現しづらかった財務統計を誰にでもわかりやすい形で数値化するという革命的なものであった。
 基本的に売掛台帳である大福帳でも資産管理は出来るが、複式簿記のように総合的な財務状況を数値化するには向いておらず、それは長く商人の勘と経験にゆだねられる部分が大きかった。
 簡単な説明をバルドに聞いただけで、その有用性と先進性を理解したセリーナも只者ではなかった。
 サバラン商会が発展途上である今だからこそ、複式簿記を導入するチャンスである、と迷いもなく決断したのである。

 ドイツの文豪ゲーテが「複式簿記は人間が生んだ最高の発明の一つである」といった。
 特に親会社、子会社の存在や企業のグループ化などで財務管理が複雑になっても複式簿記は実に簡単な形でその資産価値を表現する。
 この先ダウディング商会との提携に伴い、国外との取引や支店運営を要求される現状で複式簿記がもたらされたのはまさに天佑としかセリーナには思えなかった。
 決断に速さを求められる企業経営において、この複式簿記の存在はサバラン商会に圧倒的な優位をもたらしてくれるはずであった。

 「こっちは今年の上四半期や。計算があわへん部分のチェック頼むわ」
 「鬼かお前は!ようやく年末分が終わったばかりだってのに………ていうかもう3時間以上も休憩してないぞ!」
 「そんな暇があると思うんか?」
 「それが恩人に対していうことか!」

 じゃれ合う二人を無視してロロナは冷静に書類の山を片づけながら呟いた。

 「実によく出来た計算式です。記入のミスも見つけやすい。もう妾でいいですからうちの会頭をもらってやってください」

 これほどの商人として冥利に尽きる恩恵をもらっておきながら、何も返さないという選択肢はない。
 しかし十分な資産家となったバルドに渡せる贈り物というと、もはやセリーナ自身くらいしか思いつかなかった。本人もそれを望んでいるのだから互いにウィンウィンの良い取引になるはずである。

 「ロロナ!勝手にうちを売らんでくれるか?」
 「会頭が嫌なら私が代わりにバルド様に嫁ぎましょうか?」

 セリーナも際立った美少女ではあるが、女としての成熟した色香においてはロロナには全く敵わない。
 濡れたような大きな瞳に、豊満な胸とくびれたウェスト、ウェーブのかかった美しい髪に大人の女性だけが持つ引力のような妖艶な色気。
 ロロナが女として男を求めるならば、とうの昔に貴族でも大商人でも捕まえることができたであろう。

 「そ、そんなんあかんっっ!」

 慌ててセリーナはバルドににじり寄ろうとするロロナを抱きとめた。
 ロロナは腹心の部下であり、親友でもあるが、好きな男を奪われるのだけは許すわけにはいかなかった。

 「ロ、ロロナに渡すくらいなら………わ、わわわ、わた……わたし………」

 首筋まで真っ赤に染めてセリーナはどもりながらバルドを上目使いに見上げる。
 もとよりたとえ正妻でなくとも、セリーナが夫として男として愛すべき男はバルド以外にありえなかった。
 いつから恋人としてバルドの隣に並ぶ日を夢見ただろうか。
 この日のためにずっと守り通した乙女の操をついに捧げる時が来たのかもしれない。
 そんな暴走気味の(控え目に言っても正しく暴走であったが)覚悟で、セリーナがバルドへの告白を決意しようとしたそのときである。


 けたたましい馬蹄の音と、荒々しい馬のいななきがサバラン商会の窓口から響いた。
 先日のように、おつむの足りない連中が襲撃にでも来たのか、とバルドの顔が一瞬にして戦士の顔に変わる。
 セリーナを背中に庇うようにして立ち上がるとバルドの前に現れたのは意外にもウィリアムであった。
 傲岸不遜にして自由闊達がトレードマークのはずのウィリアムがまるで死人のように顔を真っ青にしていることにバルドはよほどの事態が起きたらしいことを確信した。

 「…………何があった?」
 「すまん――――今すぐ俺と来てくれ」

 ウィリアムの声は震え、今にも泣きだしそうな迷い子のような空気がある。
 こんな弱りきったウィリアムを短い付き合いとはいえ、バルドは一度も見たことがない。

 「悪いが連れて行けるのはバルド一人だ――――――危険なんだ」
 「なんやて?」

 口を挟もうとしたセリーナの機先を制するように紡がれたウィリアムの言葉にセリーナの美しい眉がピクンと吊り上る。
 みすみすウィリアムがバルドを危険に巻き込もうとしてるならば、セリーナはそれを断じて容認するわけにはいかなかった。
 自分でも無茶な要求をしている自覚があったのだろう。
 自嘲するように唇を歪めてウィリアムは力なく頭を下げる。
 もしも自分の命が必要なのだとすれば、微塵の躊躇もなくウィリアムは命を捨てたろう。
 しかしこの事態に関してウィリアムは全くの無力であった。
 だからといってバルドが何とかしてくれるというのはあまりにも虫のよすぎる希望なのだ、と理性では理解している。しているのだが――――――。


 「サンファン王国から帰国した姉上が今朝方突然倒れた。侍医は悪質な伝染病で助けるのは奇跡を待つようなものだと言っている。病を広げぬために―――――苦しまぬよう姉上を楽にして………焼いてしまうべきだ、とも」

 まるで自分が焼かれるような苦しみに満ちたウィリアムの顔を見てバルドは覚悟を決める。
 まさにバルドがそう決意したことを理解したセリーナは、涙ながらに悲鳴をあげてバルドの裾を掴んだ。

 「あかん!だめや!バルド!行ったらあかん!」
 「俺にも無理を言っているのはわかっている………でもいくら考えても俺に頼れるのはバルドしかいないんだ―――――俺たちとは違った世界が見えているものにしか姉上はもう………」

 魔法が中途半端に発展したため、この世界の医療技術は決して高いものではない。
 まして伝染病のようなウィルス性の病原体に関する研究は皆無と言っても良いほどだ。
 セリーナは伝染病に関わった場合の致死率の高さを行商をしていた父から嫌というほど耳にしていた。

 「どうしてバルドが行かなあかんねん!ただの学生で位階もない子供のバルドが!」

 セリーナの言葉は完全に正しい。
 まだ貴族としての義務を果たすべき年齢に達していないバルドにはウィリアムの命令に従わなければならない法的理由は何もないのである。
 しかし、もしも閉じられた王女の運命の扉を開く者があるとすれば、それは自分しかいないであろうこともバルドは承知していた。
 素人知識でも、バルドには各種の法定伝染病の知識がある。

 ―――――――行かなければならない。仲間の危険を前にして後ろを見せるわけにはいかない。

 「シルクとセイルーンに伝えてくれ。絶対に追いかけてくるなと」
 「どうしても行くんか?うちがこれだけお願いしても聞いてくれへんのか?」

 ボロボロと慟哭するセリーナを抱きしめるとバルドは桃色に色づく小ぶりの唇に自らのそれを重ねた。


 『死人しびとを殺せるのは――――死神だけやけ』


 決然として戦場に赴く覚悟を決めたバルドの姿は、まさに死人のそれであった。




 ウィリアムには三人の姉がいる。
 すでに嫁いだ長女をのぞいて、一人が二つ上のマーガレットであり、もう一人が三つ上のレイチェルである。
 二人とも幸いにして父親に似ず、母親譲りの美しい少女に成長した。
 マーガレットは活発でくるくるした大きな瞳が印象的な小動物系の美少女であり、レイチェルは顔立ちこそ愛くるしいものの、温厚で人を安心させるような包容力に満ちた女性であった。
 王族である彼女たちが年頃になれば、その結婚相手が検討されるのは当然のことである。
 そして国王ウェルキンはもうじき16歳になる二女レイチェルを、サンファン王国王太子アブレーゴと娶せることに決定したのがつい先日のことであった。
 婚約の儀を果たすためにサンファン王国へ赴いたレイチェルは、初めて見る亜熱帯の南国に、瞳を輝かせて王子とともに海を散策したりと楽しい時を過ごしたはずであった。
 ところが帰国から2日後の昨日、事態は一変する。
 楽しそうにサンファン王国での思い出話を語っていたレイチェルが、にわかに猛烈な腹痛とともに倒れたのである。

 「そのとき話を聞いていたのはちょうど俺でな。結婚相手を自分では選べないのが俺たち王族だが、どうやらアブレーゴ王子は姉上の好みの男性だったらしい。本当にうれしくてたまらない様子だったのに――――――」

 唇を噛みしめてウィリアムは俯く。
 末っ子のウィリアムは家族全員に可愛がられたが、なかでも包容力のあるレイチェルには特別に懐いていた。
 父に叱責されても反抗していたウィリアムが、姉のレイチェルの言うことには素直に従ったものである。本当はレイチェルの輿入れにも面白くない思いがあり、それが騎士学校入学の遠因にもなったものなのだが。


 いかにバルドが前世の記憶を持つとはいえ、厨二病を患っていた雅春の知識は基本的に広く浅くというものだ。
 どれだけ知識が役立つかは全くの未知数である。

 (セイ姉に怒られそうだな………いや、泣かれるかも)

 ウィリアムの背中にしがみついて馬の揺られつつバルドは今も騎士学校でバルドの帰りを待ちわびているであろうセイルーンを思った。
 もし本当に王女が伝染病であったとすれば、バルドは潜伏期間が経過するまでセイルーンたちに会うことはできない。その期間は一週間を降るまい。
 バルドだけでなく王女と接触したすべての人間は身分を問わず隔離して外界との接触を断つ必要があるであろう。

 ポツリ

 頬にかかる冷たい水がかかるのを感じてバルドは空を見上げた。
 いつの間にか夕暮れに暗くなりかけた空が、西のほうから急速に黒い雨雲を招き入れようとしていた。
 まるでセイルーンとセリーナが泣いて怒っている気がして、バルドは心の中で頭を下げた。
 それでも戦いに背を向けるつもりは毛頭なかった。





 「―――――卿がイグニスの息子か」

 レイチェルの私室へ向かう前に近衛騎士によってバルドが通されたのは玉座であった。
 傍目にも憔悴した様子の玉座の主に、バルドは無言で膝をつく。
 いかにウィリアムが王子であると言えども、王女であるレイチェルを素人の子供に診察させるというのは常識ではありえない。
 事前の詰問の受けるのは当然であろう。
 固い表情のまま睨みつけるウェルキンの姿に、苛立ったようにウィリアムは父に向かって噛みついた。

 「こんな悠長なことしてる暇ないんだよ!早くバルドに姉上を診せてやってくれ!」
 「………包み隠さず申せ。娘の……レイチェルの病をなんと見る?」

 ウェルキンはバルドという少年が自分たちの常識の外側から世界を見ていると言ったウィリアムの言葉を覚えていた。
 そうであるならば――――せめてその片鱗だけでも信じさせてくれるのならば………。

 「殿下から聞いた症状………猛烈な腹痛と下痢を伴うと聞き及びますが……発熱のほうはいかがでございましょうか」
 「不思議なことだがこれほどの苦痛を与えながら熱はむしろ低くなっておる………普通ならばありえん」

 基本的に発熱とは体内で毒素に対抗するための肉体の本能的な防御手段である。
 すなわち、病の毒と戦うのに発熱があがらないというのは身体が回復を拒否しているか、あるいは対抗する機能自体が働かないかのいずれかであろう。

 「熱が下がっているということであれば――――おそらくはコレラの可能性が高いかと」
 「コレラ――――とは?」

 ウェルキンは聞きなれぬ病名に首をかしげた。
 コレラとはあくまでも現代日本の病名であって、このマウリシア王国で流通する名ではないのだから当然ではあった。

 「強力な伝染病で猛烈な下痢のために脱水症状を起こして死に至ることが多い病です。水分が急激に失われるため、若い人間が老人のように干からびて皺くちゃになることでも知られています」
 「やはりそうか」

 ウェルキンは天を仰いで瞑目する。
 もしかして違うのではないかと儚い期待を抱いていたが………。

 「それで姉上は助かるのか?バルド!」
 「コレラにはいくつかの型があって、ここのコレラがどれに該当するかわからない――――それでも助かる可能性は決して低くはないはずだ」

 コレラの死亡率は良くても50%、悪くすると90%に達するが、逆に言えば自然回復でも10%以上は助かる病気でもある。
 しかし感染性が強いために隔離されたコレラ患者は、衛生状態の悪い場所に置かれることが多く、発展途上国では国ごと滅亡するほどのパンデミックが発生したことさえあった。
 はたしてマウリシア王国が今後どう転ぶか、さすがのバルドにも見当もつかない。

 「陛下」
 「うむ」
 「王女殿下に接触した人間を大至急集めてください。それから以後決して生水と生ものを口になさらないように」

 むしろ問題なのは、王女の発病から1日が経過してしまった現状で感染の拡大を防ぐほうであった。



 「姉上………なんて姿に………」

 絶え間なく漏れ出す下痢によって水分が枯渇したレイチェルは、たった一日で老婆のように皮膚が垂れ下がり深い皺を刻んでいた。
 桶に溜められた下痢は米を水で砥いだかのような白い砥汁状になっている。
 間違いなく雅春の知識にあるコレラの典型的な症状だった。

 「見な………いで………おね………がい」

 花も恥じらう乙女にとって、これほど屈辱的な姿があるだろうか。
 老婆のように醜くなった肌、はしたなく肛門から噴水のように下り続ける下痢。
 レイチェルはあまりの羞恥に叶うことなら、今すぐ自殺してしまいたい思いにかられる。
 まして今目の前にはあったことのない弟と同じ年頃の少年がいるのだ。
 半ばあきらめの表情の治療士を部屋の隅に追いやってバルドはレイチェルの手を握った。
 患者の前で医者が諦めた様子を見せてよいはずがなかった。

 「大至急水に塩と砂糖を溶いてもってきてください。出来ればリンゴのしぼり汁も!いくらあっても困りませんからどんどん持ってきて!」

 大量の下痢を発症するコレラは、自分の体重以上の水分が排出されるのは決して珍しくない。50kgの体重の人間が100ℓもの大量の下痢をするのがこのコレラという病であった。
 コレラの死亡原因のほとんどは、大量の下痢と嘔吐で体内の水分と電解質が失われることにより引き起こされる脱水症状である。
 そのため医療知識のない地域では患者に水を飲ませようとするわけであるが、弱った大腸は水分を吸収することができないために、せっかく水を飲ませても垂れ流しになるだけで結局患者は脱水症状で死亡してしまうことが多い。
 しかし小腸が塩分とブドウ糖を吸収する際、水分もいっしょに吸収してくれることを利用して、衰弱した患者のために供給されるようになったのが経口補水液である。
 コレラの下痢ではナトリウムと同時にカリウムも大量に失われるため、その補給にはリンゴやバナナが効果的であった。

 (思ったより体力の消耗が激しい………あと半日知らせが早ければ……!)

 やむを得ないこととはいえバルドは予想以上に萎れ、衰弱したレイチェルの姿に思わず唇を噛む。
 それでもペストや天然痘でなくて救われたのも確かであった。
 日本の法定伝染病で最も悪質な第一類に分類されているペストと天然痘の治療には、抗生物質の登場を待たなくてはならず現状のバルドでは打つ手がない。
 コレラの治療も、設備があれば点滴による血管への直接投与が望ましいのだが、ないものは致し方なかった。

 「大丈夫、殿下は治ります。すぐに美しい姿に戻りますから気をしっかり持ってください!」
 「あ……な……たは?」
 「バルド・コルネリアス、ウィリアム殿下の友人です」

 この子があの――――、とレイチェルは重たくなった目を見張った。
 見事な銀髪に童顔の人形のような綺麗な顔立ち。
 さぞや女の子を泣かせていることだろうとレイチェルは思う。
 こんな女の子のような子があのウィリアムをおとなしくさせているなんて………。

 「ゆっくりと飲んでください。吐いても構いません。少しずつ口に含むようにして飲みこんでいってください」

 バルドは用意された経口補水液をレイチェルの唇にあてがった。
 疲れて乾いた喉に、甘い味が沁みていくような気がした。
 自分の肩を抱き寄せるバルドの腕の感触に、レイチェルは絶望に冷え切った心が解きほぐされていくのを感じた。

 ―――――もしかしたら助かるのかもしれない。

 汚物に塗れ、醜く萎びて死ぬことを覚悟した………否、せざるをえなかったレイチェルはようやく訪れた希望と安堵に一筋の涙を零した。

 ジョッキで3杯ほども経口補水液を飲んだレイチェルが、つかの間の眠りに落ちたことを確認したバルドは心配そうに傍らで祈り続けているウィリアムに頷いて見せる。

 「思ったより体力が残ってる。もう峠は越えたよ」
 「ありがとう!この恩は忘れん!」

 適切な水分補給さえ行えれば、あとは体力が消耗に負けない限り最悪の事態はない。
 先ほどのレイチェルとの会話に、生きることへの強い意志と気力を見たバルドは彼女が回復するであろうことを確信していた。

 「目が覚めたら続けて水分補給を行う。今のうちにシーツを新しいものに変えてくれ。それとシーツは洗わずにそのまま一か所にまとめて焼却するように」

 問題はレイチェルの命だけではない。
 どういう経路かわからないが、国内にコレラが持ち込まれてしまった以上、その感染拡大のためにしなければならないことはそれこそ無数にあるのだった。

 「陛下と王妃殿下たちはレイチェル殿下が落ち着いても一週間は面会を禁止してください。今後しばらく王宮では生水と生ものの飲食を禁止すること。それとレイチェル殿下と接触した侍女も治療士も全て王宮の一室に集めて外に出さないこと」

 19世紀の半ばにはインドからアフリカまで感染が広く拡大し、数十万人の命を奪った感染力の強い病気である。
 適切な処置を施せば死亡率はそれほど高くはならないが、それでも経口補水液の間接的な治療のみでは助からない人間も多く出るだろう。
 治療士がレイチェルの身体を焼き捨てようと提案したことも、そうした感染拡大の危険と無縁ではない。

 「もし腹痛を訴える人が出てきたら殿下と同じように、塩と砂糖とリンゴのしぼり汁を合わせた水を飲ませ続けてください。それから部屋に出入りするたびに手洗いを忘れずにすること。溜まった下痢は適当に捨てずに一か所に集めて桶ごと燃やすこと」

 もはやバルドの言葉を疑うものも逆らう人間もいなかった。
 従うのが当然であるかのように、キビキビと侍女や治療士が動いていく。
 死を待つばかりと思われた死病が克服される瞬間の目撃者になったことへの高揚が、彼らに使命感や充実感を与えていたのだった。


 「――――サンファン王国との国境も警戒しなくてはなりません。体調の悪そうな旅人を入国させぬよう関所に通達を。王都でも同様に腹痛を訴える者がいたら速やかに無料で治療するので名乗り出るよう布告してください」




 国王と宰相が最速でこれらを実行に移したために、マウリシア王国でのコレラの流行という最悪の事態は避けられた。
 サンファン王国では数千単位で犠牲者のでるパンデミックが発生しているらしく、国境を越えようとする流民との間で小競り合いとなる一幕もあったという。
 レイチェルは二日後にはベッドで起き上れるほどに回復し、ウィリアムをはじめとする王家の家族たちの胸を撫で下ろさせた。

 「バルド様にはお礼の言葉もありませんわ」

 笑顔を取り戻したレイチェルが輝くような笑顔でバルドに頭を下げる。
 恥ずかしい姿をバルドに視られていたことを自覚してか、頬が赤いところが初々しかった。

 「ウィリアムの泣きそうな顔が見られただけで十分ですよ」
 「バルド…………覚えておけよ!」

 大好きな姉の前で暴れるわけにもいかず、きまり悪そうに睨んでくるウィリアムにバルドは生暖かい視線を向ける。
 どうやらウィリアムは無頼をきどる部分もあるが、本質的には心を許した人間には甘えたがる傾向があるらしい。

 「私たちはいつまでここにいればいいのかしら?」
 「最低でも一週間、安全を期すならば二週間でしょうね。その間発病する人間がいなければ終息とみてよいでしょう」

 迅速な処置のため、最終的な感染者は3名にとどまった。
 コレラは飛沫感染や空気感染ではなく、経口感染であるため運が悪くなければ感染する確率は低かった。



 ―――――三日後、手洗いや煮沸消毒を気にかけていたにもかかわらず、発病した3人のなかにはバルド・コルネリアスの名が含まれていた。

 レイチェルが回復し、あと少しで家族との面会も可能になろうか、と思われたその日に突然バルドは発症した。
 知識ではわかっていたとはいえ、猛烈な激痛と全く抵抗する余地のない下痢は鍛え抜かれたバルドの肉体をもってしても耐えられるものではなかった。
 治療の方法はすでに治療士たちに教えてあったため、バルドを含む三人の発症者は経口補水液を投与されレイチェルと同様に脱水症状を緩和する措置がとられたが、不幸なことにバルドの症状はほかの誰よりも重かった。
 発症から1日にして、バルドは意識障害をきたして今や生死の淵を彷徨っていたのである。

 コレラ菌は胃酸でその大半が死滅し、わずかな生き残りが小腸で爆発的に繁殖するのが一般的である。
 しかし胃酸の出が少ない人や、なんらかの理由でコレラ菌が胃の中であまり死ななかったような場合には症状が格段に重くなることがある。
 腹痛や下痢にとどまらず、痙攣や意識障害を生じる重度の患者は大抵の場合そうしたコレラ菌量の異常が見られるという。
 問題なのは、そうした重度患者の死亡率は、他の一般的な症状の患者に比べ非常に高いものであるということであった。


 (身体が重い…………)
 バルドは自分の身体がまるで自分の身体でなくなってしまったかのように思う。
 重力が倍になったような重い倦怠感があり、水分を求めて喉がひりつくように痛むが、しわがれ声ひとつ出せない。

 (これはやばいかもしれないな………)

 昨日から何度も意識が飛んでいることを考えても、自分の症状がかなり重いことは理解していた。
 気力までもが底をついたのか、魔法による身体強化ですら行うことができない。
 指ひとつ満足に動かせないまま、わずか13歳で人生を終わるというのはさすがのバルドも不本意である。
 とはいえ、こうも手も足も出ない状態になると絶対に死にたくないという気力が手のひらからこぼれる水のように失われていくのをバルドは自覚した。

 (いかん、本気でやばいかも………)

 人間は気力を失ったらまず助からない。
 逆に言えば気力が続くうちは人間はそうは死なない生き物である。
 刀で腹を切り裂かれ、腸が腹圧で飛び出しても、死なないものは死なない。
 逆に生きる気力のないものは、畳の上で穏やかに過ごしていても燃え尽きた蝋燭のように死ぬ。
 まるで暗黒の地下から、体力や気力や、生きるために必要な源を奪うために見えない腕で引っ張られているような――――どこまでも落ちていく落下の浮遊感のようなものを感じてバルドはどうやら最後の時が訪れたと思う。
 もう抵抗する気も立ち上がる気もおきない。
 このままどこまでも落ちていく流れに身を任せようと全身の力を抜いた瞬間だった。

 ふわり、と重力から解放され身体が浮き上がるような感触。
 懐かしいような温かいような………不思議なまるで天井へと救い上げる揺り籠のようなものが自分を守っているかのようだ。
 そしてバルドを包むその温かさのなかに、バルドは誰よりもよく知っている甘く鼻をくすぐる心地よい香りが漂っていることに気づいた。

 (この香りは………セイ姉?)

 幼いころから常に傍らにあり、いつも振りかえればそこにいた姉代わり。
 その慣れ親しんだ体臭を自覚した瞬間、バルドは虚空に溶けかけていた意識と気力を取り戻した。
 自分にはセイルーンやセリーナが帰りを待ちわびていてくれているのだ。
 むざむざとこのまま病魔などに負けていられるはずがなかった。
 同時に、ようやく鮮明になってきた意識の中でバルドはあるひとつの危機感を覚えずにはいられなかった。
 それはすなわち、セイルーンが体臭を感じさせるほど近くにいるということではないのか?
 後頭部から疼痛が全身に広がっていくような感覚とともに、バルドの意識はゆっくりと覚醒していった。



 「気がつかれましたか?坊っちゃま!」

 目を見開いたバルドの視界に、瞳を潤ませてのぞきこむセイルーンの見慣れた、それでいて息を呑むほどに美しい顔がいっぱいに広がった。

 「………セイ………姉………」

 大声で叫びたいが、バルドの唇からはしわがれたかすれた声が漏れるだけだ。
 どうしてこんなところにセイ姉が!自分のまわりには治療士以外近づけてはいけないのに!
 「口を開けて、これを飲んでください。さっきからずっとすぐに吐き出してしまって坊っちゃまは水分をとっていないんです」

 どうやら意識のない間にバルドはかなり危険な状態であったらしかった。
 あの夢の中でも、一度は死ぬことを覚悟しただけに、バルドはいったん追求をあきらめておとなしく差し出された経口補水液を口に含む。
 甘い味が舌から喉を通って身体を内から潤していくのがよくわかった。

 「うっ……うっ………ぐすっ」

 コクコクと水を飲みほしていくバルドを見て気が抜けたのか、セイルーンはすすり泣きを始めた。
 よく見れば瞳は泣き腫らして腫れぼったく、おそらくは寝ていないためか髪は乱れて肌の色も艶を失っている。
 きっとバルドが意識を失っている間もずっと泣いていたのだろう。
 あのバルドが生を諦めた瞬間、感じたセイルーンのぬくもりを思い出してバルドは自分を助けてくれたのがセイルーンの献身であることを確信した。

 「あり………がと……セイ…姉……」

 抱きしめたい。抱きしめて頭を撫でて泣かないで、と慰めたい。
 自由にならない身体に歯噛みしつつ、かろうじてバルドは頭を下げた。
 セイルーンはフルフルと頭を振ると、こらえかねたようにバルドの首筋に縋りつく。
 疲れて艶を失ったセイルーンの茶金の髪からは、どこか懐かしいような甘すっぱいセイルーンの香りがした。



 もともと体力ではレイチェルを大きく上回るバルドである。
 意識を取り戻して、病状が峠を越えさえすればその後の回復は早かった。
 翌日にはバルドはその気になれば起き上って歩き回れるほどに回復していた。

 「それにしてもどうやってセイ姉は僕のところまでこれたんだ?」

 感染の可能性があるこの場にセイルーンがいること自体バルドは反対であった。
 もし意識があればバルドは何としても阻止したであろう。
 もっともその場合、あのままバルドは命を落とした可能性が高いのだが。
 バルドの言葉に忘れていた怒りを思い出したのだろう。見る見るうちにセイルーンの顔が般若に変わっていくのを見たバルドは自分が特大の地雷を踏んだことに気づいた。

 「―――――ええ、大変でしたよ。セリーナさんは泣いて駆けこんでくるし、慌てて城まで駆けつければ騎士たちは通してくれないし、坊っちゃまの状態がどうであるのかも何一つ教えてはもらえませんでした」

 あのときの焦燥と不安と、勝手な行動をしでかした主に対する怒りを思い出してセイルーンの手が震える。

 「ようやく連絡がついたのはレイチェル王女様が気を利かせてくれたからです。自分を治療するために坊っちゃまが倒れてしまったと詫びていました。そのときはセリーナさんもシルクさんも一目坊っちゃまに会おうと王女様に掛け合いましたが、セリーナさんはロロナさんが、シルクさんはランドルフ侯爵様が力づくで抑えこまれましたので、私がみなさんを代表してお世話に上ることになったのです」

 止めるものさえいなければセリーナもシルクも自分の身の安全も考えずバルドのもとに駆けつけただろう。
 しかし強力な伝染病ということもあって王宮のガードは固く、セイルーン自身もウィリアムとレイチェルが口を利いてくれなければいつまでもバルドから隔離されたままであったに違いなかった。
 悔し涙を浮かべてセイルーンの手を握りしめたセリーナの口惜しさを思うと、今でもセイルーンは腸が煮えくり返る思いがする。

 「二人から坊っちゃまに伝言があります」

 決然としてセイルーンはバルドを睨みつける。
 まだ痩せた身体は戻りきってはいないが、バルドの身体の強靭さは誰よりもセイルーンがよく知っている。
 ここまで回復した以上手加減する必要などあるはずがなかった。

 「勝手にあんなことしてうちを置いていくなや!」

 パチンと乾いた打撃音がして、セイルーンの小さな手のひらがバルドの頬を撃つ。
 バルドは初めて受けるセイルーンの暴力を黙って受け入れるしかなかった。

 「―――――今のはセリーナさんの分です」

 返す言葉もない。
 セリーナを戸惑わせ、泣かせたであろう自覚があるだけにバルドはがっくりとうなだれる。

 「バルド、貴方は最低です」

 そして間髪おかず再びの打撃。

 「今のはシルクさんの分」

 生真面目なシルクのことだ。
 レイチェル王女を助けるためであると納得しながらも、なんの相談もなく置いて行かれたことに憤りを覚えたに違いない。

 「―――――そして私の分です。目を閉じて歯を食いしばりなさい、坊っちゃま」

 セイルーンの剣幕に素直にバルドは目を閉じた。
 マゴットにしごかれたバルドにすれば、非力なセイルーンにビンタをされる程度何ほどのこともない。
 むしろその程度で許してもらえるなら御の字というものだ。
 しかしいつまで待っても覚悟していたセイルーンの打撃は飛んでこなかった。
 それどころかなにやら逡巡しているような気配を感じたかと思うと、目の前にセイルーンの甘い息遣いを感じる。
 ほとんど反射的に目を見開くと、バルドは今にも唇が触れ合う寸前にまで接近したセイルーンの顔を咄嗟に鷲掴みにして引きはがした。

 「何するんですか!」
 「それはこっちの台詞だ!」

 危うく唇を奪われるところだった。
 それ以上に経口感染するコレラ菌が、キスなどしようものならセイルーンに移してしまう危険性が高かった。

 「セリーナさんだけキスするなんてずるいです!機会均等を要求します!」
 「機会均等って意味が分からないよ?」

 ウィリアムに連れられて別れる瞬間、思わず衝動的にセリーナにキスしてしまったことを思い出してバルドは赤面した。

 「セリーナさんにファーストキスで先を越された私の気持ちがわかりますか?かくなるうえはディープキスは私が先に頂きます」
 「わかるかっ!と、とにかく落ちついて、セイ姉」



 少なくとも感染の恐れが強い一週間から二週間の間は粘膜の接触などはもってもほかである。
 どうにかセイルーンを納得させるために、一時間近い時間と完全に回復次第キスすることを約束させられるバルドであった…………。


 「……………どうしてこうなった」

 「本当にすまなかった。心から感謝している」

 結局バルドが完全に回復するのには半月近い時間を要した。
 幸いコレラによるパンデミックは起こらず、王女の他バルドたち3人と、城外の平民から2人が感染したところで拡大は収束している。
 これは迅速な病原の隔離と公衆衛生の確保が行われたためであると言っても過言ではない。
 国王ウェルキンは煮沸消毒や手洗いの励行を騎士団を動員してまで、王都の国民に強制させている。
 すでにサンファン王国で発生したコレラのパンデミックの報告を受けているウェルキンは正しくそう確信していた。

 「――――サンファン王国にはこちらの独断で治療と予防方法を知らせておきました。しかしいささか困ったことが起きまして」

 苦々しい顔で宰相のハロルドが言葉を引き継ぐ。
 一流の外交官であるハロルドがここまで感情をあらわにすることは珍しい。
 どうやらよほど厄介な事態になっているらしいと、バルドは他人事ながら気が気ではなかった。
 なぜならこうした厄介ごとは高確率で自分が巻き込まれるものと相場が決まっているからである。

 「実はレイチェル王女に感染させた犯人はアブレーゴ王子だったのです」
 「はあ?」

 感染源が王子とか想像の斜め上すぎる。
 基本的にコレラという病気は不衛生な調理室やゴミ捨て場などで繁殖することが多いのだ。
 ほとんどの場合は貧民層でまず広がることが多く、身分の高い上級層まで広がるのはすでにパンデミックの末期であるケースが多い。

 「何と言いますか――――王子は王国でも多情で有名で、街の娼館に何人か愛人を囲っておりまして……その一人が感染源であったようです」

 「あの男はほかの女を抱いた汚らしい手でベタベタとレイチェルに触りまくったあげく、まだ結婚もしていないのにレイチェルの唇を奪いおったのだぞ!」

 いやいや、婚約しに行ったのだからそれは許容範囲ではないのか、という突っ込みをバルドはかろうじて飲み込む。
 こうした感情というものは理性ではなく感情によるもので、本人にも制御不能なのだ。
 これまで幾たびもその犠牲にされてきたバルドだからこそ理解しうる真実であった。

 「レイチェル王女と別れた翌日にはアブレーゴ王子は発症していたようです。残念ながら治療の甲斐なく亡くなったようですがね。もっとも王子の放蕩ぶりも、その死因も隠していたことはサンファン王国の重大な過失と言わざるを得ないでしょうね」

 おそらく死人に口なし、というか娼婦に病気をうつされて死にました、とか体面上言いたくなかったんだろうな。
 レイチェルが感染しなければそれでもよかったんだろうが。
 まさかいくら手の速い王子でも、他国の王女に手は出さないとでも思ったのだろうか。
 その手の男は自重しないという法則を知らんのか。

 「それで連中はなんと厚顔にも第二王子のフランコとマーガレットの婚約を要求してきおった」
 「―――――マーガレット殿下を、ですか?」

 バルドの問いに憤懣やる方ない、という様子で太いため息とともにウェルキンは鍛えられた広い肩をいからせた。

 「あの病にかかった女性を妻にするのは出来ない、という不文律があるそうで」

 ハロルドもこの対応には不機嫌さを禁じ得ないようだ。
 レイチェルと身近に接したバルドとしても、この話は決して心地よいものではなかった。

 「そんなわけでサンファン王国には第二王子との婚姻は拒否する意向を伝えてある。だからといってサンファン王国と敵対関係に陥るのは国益を損なうからな………」
 「アブレーゴ王子の失態はサンファン王国に対する大きな貸しとなります。しかし信頼のおける同盟国としてかの国を繋ぎ止めるためにはここでひとつ恩を売っておくことが必要と考えたわけです」
 「はあ…………」

 それがさっき言ったコレラの治療法と予防法の開示ではないのか?とバルドは思ったが、下手に追求すれば藪蛇となりそうな気がして曖昧に頷くのみにとどめた。
 そんなバルドをいやらしそうな満面の笑顔でウェルキンは見つめた。
 まるでいたずら小僧が仲間の少年を罠にはめようとしているような稚気溢れる表情だった。

 「業腹ではあるが今はサンファンの連中を引きとめて置かざるを得ん。娘を出す気は失せたがな。なぜかわかるか?」
 「―――――トリストヴィー公国に問題でも?」
 「思った通り食えない小僧だ」

 バルドが正解の答えを出したことにウェルキンは満足そうに頷いた。
 サンファン王国はロベリア半島の南端に位置する国であり、西部と北部を領有するのがトリストヴィー公国である。
 シルクを抱えるマウリシア王国としてはサンファン王国と来たるべき戦争に備えて同盟しておきたいというのが本音だ。
 そしてマウリシアの主導でトリストヴィー公国の内乱を収束させることができれば、ハウレリア王国も簡単には手出しができないはずであった。
 最悪の場合サンファン王国とトリストヴィー公国の計三カ国を一国で引き受けなければならないからである。
 とはいえこうして婚姻政策を検討しなければならないほどサンファン王国との関係を重視しなくてはらならないのには、きっとトリストヴィー公国に何らかの動きがあったはずであるとバルドは考えていた。

 「わかっているとは思うがトリストヴィーは基本的には商業が中心の国だ。その発展に国王が貢献し、貴族が商人を弾圧したわけだからあの国の商人は国王派を支援してきた。しかし神輿であった王女が亡くなり、忘れ形見の少女は幼く神輿として仰ぐには不安がある。そこで商人としては貴族との妥協を考え始めたわけだ。将来的な不安は残るが金で貴族を黙らせることができるならそれでいいのではないか、とな」

 すでにその動きは内乱の初期から始まっている。
 曲がりなりにもトリストヴィー公国での流通が維持され、大規模な商家が生き残っているのがその証拠であった。
 彼らとしては利益と継続が見込めるのならば、何も国の主が国王である必要はない。
 ただ税制や商業上の利権を前国王が尊重してくれていたために、貴族による窮屈な支配よりも商売がやりやすいと考えていただけの話なのだ。

 「もちろんそんな商人の都合でトリストヴィーが統一されるのは我が国にとっても望むところではない。王位継承者を擁立しうる隣国など仮想敵国にしかならんからな。そんなことになればハウレリアの野蛮人どもが大喜びだろう」

 下手をすればトリストヴィー公国とハウレリア王国で挟み撃ちにすることも可能な事態など、マウリシア王国にとっては悪夢でしかない。

 「まあ、そんなわけで、だ。お前に親善大使としてサンファン王国に赴いてもらいたい」
 「どうしてそういう結論になるんですか!?」

 いたずらがうまくいった子供のような顔でウェルキンはくつくつと笑う。

 「サンファン王国に支援したコレラの治療法、さらに供給予定の手押しポンプ。これを説明するのにお前以上の人材はおらんだろう?何せ作った本人なのだからな」
 「私はまだ見習いの学生にすぎませんよ?」
 「そのことだがな…」

 ウェルキンはおもむろにバルドに向かって剣を差し出した。
 それが何を意味するものか、貴族のはしくれとして当然バルドも承知していた。

 「バルド・コルネリアス、貴殿をセヴァーン男爵に任じる。謹んでこれを受けよ」
 「臣バルド・コルネリアス、獅子の紋章と剣に誓いこの身死すまで王国に忠誠を」

 ゆっくりと肩に剣の平があてられ、バルドは膝をついて剣に唇を捧げる。
 ここに王国男爵バルド・セヴァーン・コルネリアスは誕生した。

 「…………いささか酔狂が過ぎませんか?」
 「レイチェルと国民を救ってくれた功績に報いるには足りないほどだと思うがな。これで大使の格にも問題はあるまいよ」

 現役の当主としては王国で最も若い爵位持ちとなったバルドは困ったように肩を竦める。
 あまりの展開の速さに理解が追いついていないと言うのが正しかった。

 「――――正直なところお前には期待している。感謝もしている。だから俺は余計なことは聞かん。どうやってあの知識を仕入れたのか、ほかにどんな情報をもっているのか………。そのかわり相談には乗ってもらうし、出来れば手柄もあげてくれ。ハロルドの奴が暴走する前にな」
 「私は今でも反対なのですがね。バルド卿の知識は王国で厳重に管理する価値があるものですから」

 万が一ではあるがバルドに亡命されたり暗殺されたりすれば、バルドがどれだけ有用な知識を蓄えていたとしても王国には何の益ももらたらさずに終わる。
 普通に考えれば手押しポンプの構造を考案し、コレラの治療法まで知っていたバルドがほかに情報を知らないはずがない。
 もしもバルドが貴族の、コルネリアス家の嫡男でなければ拷問してでも全てを聞き出そうとしたかもしれなかった。
 それを何も聞かない、というのは国王ウェルキンの強い信頼の証というほかないだろう。
 腹黒いと評されがちなウェルキンだが、信用する家臣には寛容で器の大きな主君なのである。
 ハロルド自身もウェルキンの強い後ろ盾がなければ、とうに宰相の地位を追われていたはずであった。

 「自分の手に余ると思ったらいつでも相談に来い。お前ならそう判断を誤ることはあるまいが、どうしても経験が必要なものはあるからな」
 「お言葉かたじけなく」
 「サンファンの連中も、少し驚かせてやってくれ。手段は任せる」
 「御意」

 まったく役者が及ばないな――――――。
 最初から最後まで国王に手玉に取られた気がする。
 断れないように誘導することも、こうして忠誠心を抱かせてしまうことも、もし計算してやっているとすればもはや腹黒いどころではない。
 この国王の存在自体が性質の悪い魔法だ。


 しかしさしあたってサンファン王国に出発する前に、バルドにはまず説得しなくてはならない女性たちがいた。
 それも恐ろしく手ごわく、愛しくも大切な女性である。
 その困難さを想像してげんなりと落ち込んだまま退出したバルドは、幸か不幸かウェルキンの小さな呟きを聞くことはなかった。




 「…………レイチェルを任せるなら、まずこの程度の試しはこなしてもらわんとな」

 あざとい。さすが王様あざとい。

 ようやくバルドが王宮から解放されるとあってサバラン商会にはバルドの友人たちが勢揃いしていた。
 広さから言えばシルクのランドルフ侯爵邸がもっとも望ましかったが、伝染病にかかった人間を十大貴族であるランドルフ侯爵邸に招き入れるのはさすがに抵抗が大きかったのである。

 「ぐふっ……うふふふふふふふ………」
 「気持ち悪いからその笑い方、やめてもらえます?」
 「えらいすまんなあ………にゅふっ」
 「―――――次にその厭らしい顔を見せたら…もぎます」
 「もぐって何を??」

 本能的な危機を感じてセリーナはセイルーンの視線の先にある谷間のくっきりした胸を押さえた。
 セリーナが満面の笑みとともに身体をくねらせるのも当然であろう。
 長年片思いをしていた相手に抱きしめられ、あまつさえ唇まで奪われたのだ。
 これを告白と思わずして何と呼ぶだろうか。
 そんな状態で大事な話がある、と言われて舞い上がらないほうがどうかしていた。
 セイルーンにしてもぶちぶちと文句を言いつつ機嫌は決して悪くはない。
 回復の暁にはバルドからキスしてもらえるという約束を彼女は一日千秋の思いで待ち焦がれていたのである。
 二人の乙女がそれぞれの妄想のもとに、謎の痴態を繰り広げているのをシルクは冷めた目で見つめていた。
 これはシルクだけがバルドとの間で秘め事が発生しなかったこともあるが、常識的に考えて彼女たち以外の人間も呼び出されている以上、そんな色っぽい話にはなるまいというのが彼女の判断であった。
 もっとも早くも色ボケ症状を呈しつつある二人には思うところがないわけではなかったが。

 (―――――不潔です不潔です不潔です不潔です不潔です不潔です不潔です不潔です不潔です不潔です不潔です不潔です不潔です)

 この光景をバルドが目撃したならば恥も外聞もなく裸足で逃げ出すであろうことは明らかであった。

 「恋に盲目的なセイルーンもこれはこれでよし!」
 「お前は本当にブレないな」

 どこまでも己の欲望にのみ忠実なテレサをブルックスはある種尊敬のまなざしで見つめていた。
 そんなカオスな状況に現れたバルドは覚悟を決めていたにもかかわらず、思わずバックダッシュしたい衝動に駆られたという。



 「…………サンファン王国へ出張………ですか?」
 「まあその……陛下の勅命なんだ。断ることは許されない」

 実情から言えばこれは国王が与えてくれた温情措置であるとも言える。
 本来であればバルドは機密保持のために王宮に幽閉されるべき人間であった。
 もちろんそんなことになれば怒り狂ったマゴットによって王宮は屍で埋まるであろうが、少なくともバルドが王国にとって危険極まりない爆弾であることは変わりはない。
 今後の安全を手に入れるためにもバルドは国王から与えられた信頼に対し、目に見える形で応える必要があるのであった。

 「学校はどうするんだ……?」
 「騎士どころか爵位までもらっちまったしな………一応休学ということで様子を見るらしい。こうなると本当に卒業できるかどうか疑問だが……」
 「そんな面白いことを僕が見過ごすとでも思うのかい?是非とも僕もサンファン王国へ同行させてもらおうじゃないか!」
 「そりゃいい!俺も参加させてもらうぜ!」

 勢い込んで口を挟んだのはテレサとブルックスである。
 二人にとって学校、というのは必ずしも重要なものではない。
 テレサは自分が面白そうなことが最優先だし、ブルックスは自分を強くしてくれる環境と、その力を発揮できる場所を必要としていた。
 二人ともバルドの行くところトラブルと冒険が付きまとうであろうことを確信している。
 サンファン王国で果たしてどんなトラブルがあるのかわからないが、ここでバルドから離れるという選択肢は二人にはなかった。

 「許可がおりるかどうかは別として、二人がついてきてくれるなら助かるな。本職の騎士を部下にするのはさすがに肩がこるだろうからね」

 個人的な武勇に関してだけ言えば、テレサもブルックスもなんら騎士に引けを取るものではない。礼節や言動に深刻な問題があるようにも思えるが、随行する護衛としてなら十分に役に立ってくれるはずであった。
 たまに自分が13歳であるということをバルド自身も忘れそうになるが、やはり大人を相手にすれば疲れるものは疲れるのだ。

 「私も行きたいけど……行けるかどうかは父上次第かな」

 ランドルフ家の一人娘であるシルクは、簡単に国外へ出国するのが認められる環境にはない。
 ましてトリストヴィー公国の情勢が不透明である現在ではそれは不可能に近いだろう、とバルドは思ったが口に出すことは思いとどまった。
 下手にシルクを不安にさせるようなことは慎むべきであった。
 問題はそんな簡単に休学が認められるかどうか、という点であったが、おそらくあの校長のことだ。笑って何事もなく承認するだろう。
 もっとも場合によっては間違いなく命に係わる危険と背中合わせであることを考えれば、学校を休学することが本人にとって幸いなのかどうかは別な話であった。

 「サンファン王国での滞在はどれくらいになりそうなんだ?」
 「少なくともひと月――――長ければ三か月以上はかかると思う」

 技術支援がある程度形になって国民に受け入れられるためにはその程度の時間は必要であろう。
 その結果目に見える形でサンファン王国に恩を売らなくてはならないから、悠長に遊んでいる余裕はない。

 「もちろん私も連れていってもらえるのでしょうね?」

 セイルーンが雲行きの怪しい会話の流れに慌てたように口を挟んだ。
 ようやくバルドが戻ってきてくれたのに、再び一人で危険な場所へ自分を置いていくということを許せるわけがない。
 先ほどまでの天にも昇る気持ちもどこへやら。
 セイルーンは愛すべき主との別離の危機に張り裂けそうな痛みを感じてしまう。
 愛するバルドに自分も愛されたいという女としての欲望もあるにはあるが、セイルーンにとってバルドの傍にいれないということは愛されないこと以上につらいことであった。
 バルドのために奉仕するということはセイルーンの人生にとって最も重要なレゾンデートルであったのである。

 「せ、せや!ちょうどうちもサンファンで商談が………」
 「諦めてください。今会頭が王都から離れる余裕があると思いますか」
 「うぐぅ…………」

 ロロナの冷たい突っ込みにあってあえなくセリーナの目論見は撃沈する。
 しかしバルドがマウリシア王国の看板を背負い、全く味方のいない他国に使節として赴く以上セイルーンやセリーナを同行させることは最初からもってのほかである。
 外交とは昨日の敵が今日の友となることは日常茶飯事であり、サンファン王国もまたいつマウリシア王国の敵に回るか、しれたものではないのだ。
 トリストヴィー公国が水面下で工作に動いている可能性が高い現状では特にそうであった。

 「―――――悪いが二人とも今回は連れて行けない。連れて行けるのは王国に忠誠を誓い、自分で自分の身を守れる才のある人間だけだ」
 「そんなっっ!」

 妥協を許さない峻厳な宣告にセイルーンは悲痛の声とともに涙した。
 また一人でバルドの安否を心配する日々を送ることを考えると絶望に身がすくむ思いだった。

 (―――――これを言ってしまったらもう引き返せない……言うか?それとも引くか?)

 バルドは珍しく自分の決断を逡巡するが、結局はそれが先送りでしかなく、バルドの心はすでに決まっていることを考えれば、先送りは誰にとっても不幸であるということはわかっていた。
 覚悟を決めて深呼吸をすると、バルドは丹田に力をこめる。



 「二人にはここで僕の帰る場所になって欲しい。しかるべき時が来れば僕は二人を妻に迎えるつもりだから」

 重い沈黙が続いた。
 あまりのその長さにバルドは自分がもしかして自意識過剰であったのではないか、と真剣に疑ったほどである。
 まさかセイルーンもセリーナも自分を男として認識していなかった、なんてことは……。

 「本当ですか?」
 「ほんまやの?」

 ようやく二人はそれだけを呟く。
 二人が信じられないのも無理はない。
 これまで数年以上のつきあいがあるにもかかわらずバルドがそんなそぶりを見せたことは一度もないのだ。
 唯一先日の病の際に、セリーナが衝動的なキスをされた程度だった。
 もちろん、バルドの年齢と身分も二人にとっては大きな足かせとなっていた。

 「セリーナに行かないで、と言われたとき胸が痛かった。本当はセリーナの言うとおりに何でも言うことを聞いてあげたかった。セイ姉が看病に来てくれた時、意識はなかったけれどとても心が安らぐ感じがしたよ。僕の生きていくうえで二人がいない、とか、まして他の男に盗られるなんて考えただけでも腸が煮えくり返る気がする。子供のくせに何を言ってるんだと思わなくもないんだけど………これからも二人といっしょに生きていきたいんだ」

 正直性欲を感じるかと問われれば否である。
 思春期に入りかけたとはいえ、バルドはそこまで女に飢える年齢ではない。
 しかし傍にいれば胸がドキドキして、同時に安心と心地よさを感じる。
 それが失われるかもしれない――――レイチェルの治療に向かうと決意したそのとき、バルドを襲ったのはその猛烈な危機感だった。
 考えてみればコルネリアスでトーラスに襲われたときも同じ危機感を感じたように思う。
 二人の存在は自分の命を賭けるに値するほどに欠くべからざるものなのだ。

 ずっと密かに願い続きてきた希望が、夢ではなく現実であるということをセリーナとセイルーンはようやく理解した。
 理解すると同時に、二人は溢れ出す想いのままにバルドに向かって縋りつく。

 「バルド!」
 「バルド様!」

 意識し始めてから時は浅くとも、生涯を共にするに足りるだけの愛情に不足などない。
 この日が訪れることを、心のどこかで無理かもしれないと慄きながら、それでも思い続けてきたのだから。

 「よかったわね。二人とも」

 シルクは自分の予想外の冷静さに驚いていた。
 親友に置いて行かれたような悔しさはある。
 しかしそれ以上にセイルーンとセリーナの初恋が叶ったということがうれしかった。
 やはり自分がバルドに抱いていた想いというのは、友情以上のものではなかったのだろうか。
 バルドが二人に求婚した瞬間には頭が真っ白になって何も考えられなかったが、今こうして冷静になってみれば、二人の居場所はバルドの傍以外にあるはずがないとすんなり受け入れることが出来た自分がいる。
 だからといって、これがもし二人ではない赤の他人であったらと考えると腹の中でわだかまる暗い情念が出口を求めてのた打ち回るのを感じるのだ。
 いったい自分はバルドをどうしたいのだろうか…………。

 バルドの隣に立つことに不満はない。
 いずれ結婚するのならば彼のように勇敢で強い男性を伴侶としたいものだと思う。
 しかしバルドはコルネリアス伯爵家の一人息子であり、自分はランドルフ家の一人娘である。場合によっては二人以上の子供を産んで両家を継がせるという手段もないではないが、それをするにはランドルフ侯爵家は大きすぎた。
 それ以外にも、シルクにはいつかトリストヴィー公国を救わなければならないという悲願がある。
 シルクの一生を費やしても叶うかどうかわからない悲願である。
 そんな大それた野望にコルネリアスの領主となるべきバルドを巻き込むわけにはいかないだろう。

 (―――――やっぱり……少し妬けるかな……)

 まるで子供のように(年齢的にセイルーンはまだ子供なのだが)バルドの胸に頬を擦りつける二人にシルクは苦笑いを浮かべた。
 もしも自分もこんな身分ではなく、市井の女としてバルドの傍に生まれていたら違う未来があったろうか。

 「おおっ!そうだ!いいことを思いついたぞ!」

 トンと手を打ってテレサが歓喜の声をあげた。
 つい先ほどまでセイルーンとセリーナをいらだたしげに睨んでいたテレサが、いかにも楽しそうにいたずらっぽい笑顔を浮かべている。

 「僕がバルドと結婚すれば、もれなくセイルーンとセリーナがついてくるじゃないか!どうだいバルド?僕と結婚しないか?」

 「だめえええええええええええええええ!!」

 どこまでもブレないテレサに三つの悲鳴が重なる。
 せっかくの甘い恋人の交わりに、いささか問題のある百合が参戦してくるなど悪夢以外の何物でもなかった。

 「なぜだ?僕はいい妻になると思うぞ?なにせハーレムを作り放題だ」
 「お前の欲望のために僕の家庭を乱さないでくれ」

 望んでいた反応と違うことにテレサは頬を膨らましたが、さすがにこの暴挙を認めるつもりはバルドにもセイルーンにもセリーナにもなかった。
 というよりセイルーンとセリーナは本気で貞操の危機を感じている。
 これまで何度もセクハラを受け続けているのだから当然の反応だろう。
 そのせいか、テレサの言葉にシルクが激しく反応したということを、その場の誰もが気づかなかった。





 「バルドが倒れた?それで?バルドは無事なのかい?」

 早馬で王都からの知らせを受け取ったマゴットは惑乱の極致にあった。
 伝染病の治療でバルドが召喚されたというだけでも許せないのに、しかもバルドが感染して生死を彷徨っているという。

 「幸いセイルーンの決死の看病ですでにバルド様は回復されました。このたびの功績に対し、陛下はバルド様にセヴァーン男爵の地位を贈られることを決定いたしました」
 「セイルーン!よくやってくれた!貴女をバルドにつけた私の判断は間違ってなかったよ!」

 子供のころから可愛がっていた侍女の献身にマゴットは相好を崩した。
 これだから私はバルドを王都へ出すのは反対だったのだ……!

 「バルドは大丈夫かい?後遺症なんてあったりはしないだろうね。いや、やはりここは私が直接行って確かめなきゃ………」

 今にも旅支度を始めそうなマゴットに、言いづらそうに使者は答えた。

 「それがバルド様はこのたびサンファン王国へ大使として赴かれることが決定しておりまして………もうじき旅立たれるころか、と」

 使者の言葉を聞いたマゴットの表情が能面のように無表情になると、イグニスは慌てて妻を背後から抱きしめた。
 それがいかに危険なサインであるかをイグニスは誰よりもよく承知していた。

 「――――国王陛下は私に喧嘩を売っているんじゃないだろうね?」
 「そ、そのようなことは誓って!陛下はバルド様を非常に高く評価しておられます。今回の大使任命も王女レイチェル様の相手として相応しい人物であるか試すためで………」
 「ああん?」

 本来であれば名誉な話でも、現在のマゴットにとっては息子を谷底に突き落とす行為にしか思えなかった。
 だいたい見たこともないレイチェルなどという小娘を、大事な息子の嫁として認めたつもりはない。

 「待て!待て!陛下も善意でしたことだ!ここは私に免じて許してやってくれ!……何をしている!早く帰らんか!」

 なぜマゴットが激怒しているのか理解できなかった使者も、自分の生命の危機であることだけは十分すぎるほど感じていた。
 脱兎のごとく逃げ出して空になった広間で、マゴットは凄惨な笑みをイグニスに向ける。

 「このぶつけどころのない怒りをあなたが全部受け止めてくれる、ということでいいのね?」

 もちろんだ、と答えようとしたイグニスに、長年培われた経験がけたたましい警鐘を発していた。それは死亡フラグであると。


 「……………すまんがジルコとミストルとゲパルトも加えてくれるか?」


 イグニスの命令で連れてこられた三人は怒り狂ったマゴットを見て一様に自分たちが置かれた絶体絶命の危機を察した。

 「諸君たちにはすまないが死守だ。撤退は認めない」
 「…………大将………早く私もそっちに連れてっておくれよぅ」

 涙で視界がにじむ暇もなく、彼らの絶望的な戦闘は始まろうとしていた。
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