亀井伸孝の研究室 |
ジンルイ日記つれづれなるままに、ジンルイのことを |
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最終更新: 2015年11月8日 |
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■戸籍姓はくじ引きで決めよう: 姓の決定権をめぐる政治 (2015/11/07)
■聞こえる人の方を向いて創られた手話の映画: 映画評『エール!』 (2015/11/03)
2015年11月7日 (土)
■戸籍姓はくじ引きで決めよう: 姓の決定権をめぐる政治
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週末になりました。火曜日が休日だったため(+そこで一度日記を書いたため)、週末が来るのが早いように感じられます。 遅まきながら科研費の書類をつらつらと書いて仕上げ、学生たちとともに名古屋国際会議場を見学し、学生自主企画研究の優勝お祝いをして、ゼミ生6人の卒論タイトルが全員定まったところで、だいたい今週は終わっていきます。
土曜日、公開講座の2回目。講師は、猟師の千松信也さん(@ssenmatsu)と、同僚の西野真由さん。千松さんは京都の里山でのわな猟について、西野さんは和食をめぐる貿易について。視点も対象も異なっていたが、「第一次産業の高齢化」という問題を共通して指摘していたし、食料貿易の拡大を押し進める日本で獣肉が捨てられているなど、日本社会の資源利用の奇妙な側面を見つけることもできたおもしろい組み合わせだった。
さて、夫婦同姓を定める民法に対し、最高裁判所の判断が近く示されるという報道をきっかけに、関連の議論がやや盛り上がった。私自身がいろいろ経験して考えてきたことでもあるので、一度振り返ってみようかなと思う。
(本稿では、「法律上改姓するが通称の別姓を用い続ける慣行」と「別姓のまま法律婚ができるようになる将来の制度案」を、いずれも「夫婦別姓」と呼ぶことにします。正確に言うと異なるものですが、日常における夫婦別姓使用の実態に関心を寄せる記事だからです)
■改姓してからかれこれ13年
著書でも公開しているから隠すことでもないが、私は13年前に法律婚をし、夫側が妻側の姓に合わせた。既婚男性としてはやや珍しい部類に入る。なぜ、そんなことをしたのか? それは、くわしくは拙著のそのくだり(「夫婦別姓の光と闇」『手話でいこう』)を読んでみてほしいと思うが、縮めて言えば、親族による結婚差別が原因。まあ細かいことは別として、法律婚で改姓した。いわゆる「相手側の家への婿入り」という認識でもなく、あくまでも両者の個人主義的な判断で、生活ではそれぞれの姓を使い続けようと話し合って決めた。…はいいものの。
改姓の影響は、実は、じんわりとくる。職場で。役所で。警察で。郵便局で。税務署で。銀行で。病院で。不動産屋で。カード会社も、保険会社も、携帯会社も、資格試験も。その他、あらゆる窓口業務で。名前を変えろー、名前を変えろー、早くあきらめて名前を変えろー、むだな抵抗をやめて名前を変えろー、という大合唱が、少しずつ、妥協の余地なくやってくる。姓の変更をめぐる気疲れは、「後からじんわりくる」のである。
私は両姓併記を認めているパスポートをまず取得、その権威を借りてコピーを示し、他の手続きを突破するという作戦を採った。一部では成功。一部では敗退。絶対に通称姓の使用を認めないガンコな分野と、比較的柔軟な分野の見分けができるようになって、今に至る。
■両姓生活の技法
ふたつの姓を併用して暮らす。中国の「一国両制(一国二制度)」にちなんで、「一人両姓」生活と私は呼んでいるが、これにはいくつかのコツがある。まず、情報の共有が大事。パスポートは、銀行は、職場は、ハンコは、など、いくつもの生活上の知恵を、先人である既婚女性たちから教わった。逆に、後に似たような立場になった人たちに教えもした。たとえば、同じ企業・組織でも、ここの支店の窓口は通称使用の要求が通りやすいとか、そういう「穴場情報」の交換をしたこともある。同じ立場の男性に出会ったことがないから、この問題についての同志は、みな女性たちであった。
通称使用拡大の基本戦術は、「指摘されるまで自己申告しないこと」。もし指摘されたら、まずはしらを切り、拒否されたら正しく抗議し、いちいち落胆しないでしぶとく言い続け、また、仲間を探すことも大事である。この春も、職場のとある慣行に対して、同じ立場の女性の同僚たちを味方に付け、ストレートに要求し、ひとつ勝ち取りましたよ。ほれ見ろ、できないできないと言っておきながら、やればできるじゃん。板挟みになる末端の職員さんには申し訳ないけれど、組織の上の方を説得してきなさいと、こちらの要求を下げないことは大切だ。10年もやっていれば、こうしたことにもそれなりに慣れてくる。
■なぜ通称にこだわるのか: 記号の自己決定権を守る闘い
よく聞かれるのは、「なんでそんなに旧姓にこだわるの?」「これまでの姓がそんなにいいの? 相手の姓がイヤなわけ?」などなど。他の人はよく知らないが、私の見解を述べる。それは「記号の自己決定権を守ること」、これに尽きます。
「亀井(かめい)」という姓を使い続けているが、これが本質的に重要か、大好きか、死んでも変えないか、と問いつめられたら、まあ死ぬほど好きなわけでもないかなあと正直思う。確かに、幼い頃から友人には「かめ、かめ」と呼ばれていて、よく亀の置物をお土産にもらったりもして、多少はなじみもあるけれど、アイデンティティの核として絶対不可欠というほどでもない。いわんや、「亀井家」というイエに帰属してその立場を守る気概もさらさらない。
また、相手の姓がことさらに嫌いということでもないし、相手側のイエに帰属するべきだといったつもりもお互いないから、そういう負担を恐れているのでもない。
改姓が手間だから? 確かに氏名表記を変えるのは手間ではあるが、引っ越しして住所や電話番号を変えるのとさして変わらない。むしろ、通称姓の使用を認めさせるために、分からず屋の窓口職員を説得することの方が、よっぽどめんどうくさい。手間だけ考えたら、戸籍姓に合わせて暮らした方が圧倒的に楽である。
研究者としての実績の蓄積。うん、それは多少はありますね。ただ、、、結婚前の実績って微々たるものだったから。新姓で業績を蓄積するぞと覚悟を決めたら、それはそれでありだったかもしれない。
アイデンティティの一貫性。これも多少はあるけれど、どうにでもなるといえばなる。転職したり、髪型やメガネを変えたり、アイデンティティは日々移ろいゆくもの。これも絶対とまでは言えない。こうやって考えていくと、どうせ名前なんて「中身のないからっぽな器としての記号」なのだから、何にこだわるのかが理解しにくく見えるかもしれない。
私が最も重視しているのは、「どのように名乗るかは、私が決める」という「記号の自己決定権」である。守りたいのは名前そのものではなく、名前の表現のしかたを決める私の権利である。
さまざまな場面での粘り強い交渉とは、「記号の自己決定権を守る闘い」に他ならない。その底にあるのは、記号の自己決定権を、さして深く考えもしない人たちや組織から、「前例がない」「煩雑である」といった言い方とともに、寄ってたかって否定されることへの憤りである。そして、やればできるのに自己決定権を守ろうとしない、怠惰な組織に対する不快感である。
戸籍姓で生活したいという人が、それを選ぶ権利は十全に守られている。同じように、そうでない人がその望む名乗りを選ぶことを否定されない社会にしておきたいのである。私もいつか気が変わって、戸籍姓で暮らすことをえいっと選ぶことがあるかもしれない。それすらも、私は自分の権利として選び取りたい、だれにも強制されたくない、と考えるわけである。
■男たちの無関心
それにしても。この問題に対する男たちの無関心さには、あきれてしまう。自分には関係ない、女たちが勝手に悩んで決めたらいい、というくらいに思っていることが多い(それすら思っていないことも多い)。自分は改姓しないで済まされるという前提で、問題を女性に丸投げしているのだ。(基地は本土には要らない、沖縄の方でどうするか考えといてくれ、というのに似ている)
話題に関わろうとするマシな部類の中にも、「オレは妻に通称姓の使用を許可している。ドヤ、理解あるだろ」などといったえらそうな語りがある。相手に改姓させておきながら、何さまのつもりでしょうね。お前が率先して改姓しろと言いたい。そして、通称姓を頑として認めない組織と闘い、拒否されて、名前の自己決定権を否定されるむなしさを味わい、しばし凹んで、女性たちの励ましを受けてそれに感謝してから、モノを言えと言いたい。
(植民地支配しておきながら、「国民に準じる扱いをしてあげよう、これって寛大な政策でしょ」というのに似ている)
「夫婦別姓は、働く女性にとって朗報」という報道のしかた。これも困ったものである。確かにそのような側面があることを認めるが、ふたつの意味で私には違和感がある。まず、私自身がそうであるように、男性の中にもわずかながら同じ状況にある人たちがいる。そして、何も考えず、改姓するつもりもなく、名前の問題を女性たちに押し付けているマジョリティ男性を免罪することばになってしまう。
■戸籍姓はくじ引きで決めよう
そこまでして何で姓を統一せねばならないのか、よく分からない。ただ、どうしてもそれが民法上必要だというのであれば、せめて、「戸籍姓は両名のくじ引きで決める」ことにしよう。男どもが「もしも自分が改姓をすることになったらどうなるだろう…」と、まじめにこの問題を引き受ける機会を増やすためである。「くじで負けただけで、何でオレが氏名を変えねばならないのだ」「不便ではないか」「くやしいではないか」と不服に思う男性たちが、全体の半分くらいを占めたら? 「オレたちにも通称姓の使用を認めろ!」という運動が巻き起こって、あっという間に社会制度が変えられていくはずである。
つまり、この問題の根幹には、「結婚時における男性による姓の決定権の独占」と「その男性たちによる社会制度の支配」のふたつがある。
私は過渡的な措置として、「戸籍姓はくじ引きで」を提唱したい。それで、だれからも不安も不満も出ないほどに通称姓の使用がまかり通ってくれたら、「記号の自己決定権」はずいぶんと守られる社会になるだろう。そして、「そもそもなぜ戸籍姓を統一せねばならないのか」という根本的な疑問も、多くの人たちに共有されていくに違いない。
え、そこの男性。「くじ引きは嫌だ」ですって? 「自分だけは絶対に姓を変えたくない」? だとすれば、あなたはまだ、だれかの自己決定権を侵害する側のひとりであるということですよ。
状況として、姓を変えさせられる可能性の高い女性のみなさんへ。これ、男に対する踏み絵として使えますから、ぜひ使ってください。「あなたは、くじ引きで姓が変わりうる制度に乗りますか、乗りませんか? その理由は何ですか? あなたの戸籍姓が変えられた時、社会に対して何を望みますか?」
2015年11月3日 (火)
■聞こえる人の方を向いて創られた手話の映画: 映画評『エール!』
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(ネタバレのない、ただしやや辛口の映画評です) 2014年制作、エリック・ラルティゴ監督のフランス映画。原題は "La Famille Bélier"(ベリエ一家)。主人公たちの家族の名前である。
本作の主人公は、ろう者の父母と弟をもつ、聴者の少女。農業を営む4人家族の中でただひとり耳が聞こえるという設定である。歌の才能を見込まれてパリのラジオ局の歌のオーディションを受けることを音楽教師に勧められるが、聞こえない家族との関係もあって進路に悩む。一家で牛を飼い、チーズを作り、市場で販売し、といったのどかな田園風景の中で、手話と音声の間にはさまれる少女の葛藤があれこれと描かれる。
私の雑な感想としては、ああなるほど、確かにろう者の暮らしの中ではこういうことあるあるだなあ、でもことさらに感動もないかなあ。といったところである。
ろう者の文化や生活習慣などは、なるほど細かに描き込まれている。聞こえる俳優たちがろう者役をしているようだが(そのこと自体の是非も議論にはなりうるが)、そこそこフランス手話は流暢にこなしていたようだし、ろう者の行動傾向も再現していたように見られる。ただ、何の注釈もなく、それらがそのまま生の素材として聞こえる観客たちに示された時、「ろう者たちは何かとガサツだ」「失礼だ」「思い込みが激しい」「早とちり」などという負の印象を与えてしまわないか。それぞれに固有の背景があるだろうに、である。
また、この手のドラマにありがちな、コミュニケーションの不全、つまりちゃんと情報が伝わっていない/伝えていないといった場面がいくつも出てくるが、そこがどうやら笑いを取りたいコミカルな場面として演出されている。実際、まったく腹立たしいことに、映画館の多くの聞こえる観客たちは、その場面を爆笑しながら観ていたのである。情報の欠落がどれだけ深刻なことか、現実にそれが日々起こる中、当のろう者たちがどれほど不快感とむなしさを味わっているかといったことは、すべて捨象されて。観客席のみなさん、そこ笑うところですか?と訴えたいほどであった(しなかったけど)。
もうひとつ重要な欠陥があって、それは、フランス手話によるろう者たちの語りの大半に、字幕が付かないことである。多くの手話の発話は、それを見て声で言い直しをする聴者の少女のフランス語となって初めて聞こえる人たちに情報として届き、そこだけに日本語字幕が付いている。つまり、だいたいの話の流れは分かるようにはなっているものの、ろう者の語りは「聞こえる人の声を通じてのみ観客に届く」ようになっていて、手話を理解しない観客との間に一種の透明な壁ができる。あたかも、「解説されてようやくその意味が理解できる珍妙な動物の行動」のような描き方ではないか。これでは、ダイレクトにろう者たちに感情移入して見ることは難しい。聞こえる人たちにとっては、「身近だけれど感情移入しにくい、異質な他者」ということが強烈に印象に残るだけではないか?と不安にもなる。
ストーリー展開について。後半で、校内のコンサートとパリでの本番と、少女による2度の重要な歌のおひろめの場面がある。それぞれに、視覚的、聴覚的、いろいろな仕込みがあって、ろう者と聴者の間の文化的/感覚的ギャップを表現する工夫がある。それはいちおういろいろ考慮してのことであろうが(そしてやや驚くところでもあるが)、申し訳ないが、ろう者の観客には分からない工夫であったり、どうでもよい仕掛けであったりして、また、分かったところで大した感動もないだろう。徹底して、耳の聞こえる観客の方を向いて設計された映画であり、ストーリーである。加えて、最後のヤマ場における表現手法は、ろう者の文化に対する誤解を広めるかもしれないとすら思わされた。
徹頭徹尾、ろう者を「内面からではなく、外面から観察して描く」まなざしで一貫している。手話にしても、音声にしても、情報やさまざまなチャンスにしても、すべてそれらを与えるのは聞こえる人たちの側であるという世界観。「『聞こえない家族をもつという障害』をうまく乗り越えて、聞こえる世界への成功の切符をつかむ美談」という、ありそうなストーリーになるのではないかという予測は、おおむね外れてはいなかったようである。
なぜ、手話を描く作品は、こうなるのかな…という軽い既視感がある。「ろう者の文化を外面から正確に描いて、行動傾向を再現する」ことについては、さすがに最近の映画ではうまくなってきた。しかし、「ろう者の文化を内面から描くこと」、文化人類学でいうところの emic なまなざしが、こういった一般の映画で標準装備される日はいつになるのだろう。ろう者の価値観を絶対視せよ、とまでは言わないものの、いまだにそれらが十分に認識されていない現状において、ろう者たち自身の感性が観客にダイレクトに届けられる機会が、もう少し増えてもよいように思われる。
喜ばしいことをひとつだけ。私の最大の感動は、実は、最後の字幕が出始めた後に挿入されるささやかな場面のひとつにあった。おおっ!これには目が釘付けになったし、思わず暗がりの中でヒラヒラのろう者の拍手をしてしまったし、大いに笑えましたよ。そう、次は「この人物」を主役にして、そのストーリーでぜひ1本撮ってほしいと思う。できれば、フランスのろう者の監督がそれを創ったらよいだろう。
全編にあふれる音声フランス語とフランス手話は、それぞれの言語に多少のご縁がある私にとって、耳と目に心地よく感じられた。それだけに、フランス手話の大半に字幕が付かなかったことは、ろう者たちの生の語りがもつ意味が減殺され、見せ物のひとつにされてしまったような不全感をもたらした。これらふたつの言語が出会った場面で生み出されたある種の表現に魅力を感じる人がいるかもしれない。それはそれでご自由に、ではあるものの、勘違いの感動と模倣をする聞こえる人びとが今後増えたら嫌だなあと思うので、私は観察の対象にはするけれど、模倣することをお勧めはしない、という姿勢をとるつもりである。
付記:同じ映画を見た「ろう者のホンネ」ツイート(@across7seas)をいくつかリンクしておきます。こちらはネタバレになりますので、未鑑賞の方はご注意ください。
>> [ツイート1] [ツイート2] [ツイート3] [ツイート4] [ツイート5] [ツイート6]付記2:ウクライナのろう者たちが出演する『トライブ』という映画、仕事柄見ておいた方がいいのかな…とも思ったが、まだ見ていない。というか、ろう者かどうかといったことは別として、私は基本的に暴力系映像は苦手なのです。
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