「続きを読む」より先の文章は、筆者B・ラッセル、訳者市井三朗の『西洋哲學史』より転載した。
転載のうえで、六つの注意がある。
第一に、文中の旧仮名遣い・旧字体を現在の標準的な表記に改めた。
第二に、明らかな誤字・脱字を修正した。
第三に、文中の、ふりがなではないルビを《》で括り、ルビの振られた文字列の右に添えた。傍点に関しても便宜的にそうした。どの文字列にそのルビ・傍点が振られているかは明らかになっている思われる。
第四に、転載文中の「わたし」は、筆者のB・ラッセルのことであり、(訳注)とあるのは訳者市井三朗による註釈を指している。
第五に、本来改行のないところにも視覚的読みやすさを高めるため、適当に改行を施した。
第六に、転載文より前の文を読まないと分かりにくいと推測される文がある場合、あるいはラッセルの説明の理解を助けるために、(注)として私の説明を最後に与えておいた。
以下、転載文。
「純粋理性批判」のもっとも重要な部分は、空間および時間に関する教説である。この文節でわたしは、その教説を批判的に検討しようと思う。
カントの空間論、時間論を明瞭に解説することは 容易ではない。というのは当の理論そのものが、明晰ではないからである。その理論が述べられているのは、「純粋理性批判」と「プロレゴメナ」の双方であり、後者の説明の方がやさしく書かれてはいるが、「批判」におけるほど充全なものではない。わたしはまずその理論を、わたしにできる限り首肯し得る形に直して解説し、その解説の後で初めて批判を試みたいと思う。
知覚の直接的対象は、部分的に外部の事物によるものであり、また一部はわれわれ自身の知覚器官によるものだとカントは主張する。その頃までにロックは、第二性質――色とか音、匂いなど(注1)――が主観的なものであり、対象それ自体には属していない、という考えを世間に周知 せしめていた。カントはバークリーやヒュームと全く同じようにではないが、さらに前進して第一性質(注1)を主観的なものとしてしまった点で、彼等と似ていたのである。われわれの感覚が原因――この原因となるものをカントは「物それ自体」あるいは「本体《ヌーメナ》」(noumena)と呼んだ――を持つ、ということを彼はほとんどあらゆる場合に疑問視してはいない。
知覚においてわれわれに現れるもの――これをカントは「現象」と呼ぶ――は、二つの部分からなっているという。すなわち対象に起因する部分――これをカントは「感覚」と呼ぶ――と、われわれの主観的な装備に起因する部分とであり、後者はばらばら《・・・・》なものをある種の諸関係に秩序づける、と彼は言う。またこの後者を、彼は現象の形式《・・》と呼ぶのである。この部分それ自身は感覚ではなく、したがって環境の偶有性に依存してはいない。われわれはそれを自身にたずさえているのだから、それは常に同一であり、また経験してはいないという意味で先天的《アプリオリ》なものである(注2)。
感性の純粋な形式は「純粋直観」(Anschauung)と呼ばれていて、それには二つの形式、すなわち空間と時間とがあり、一つは外部感覚のための形式で、他は内部感覚のための形式である。
空間と時間が先天的な形式であることを証明するために、カントは二群の議論に訴えているのであって、一つは形而上学的、いま一つは認識論的、すなわち彼の言う先験的な議論である。前者に属するさまざまな議論は、空間と時間の性質から直接に導かれたものであり、後者は純粋数学が可能であることから間接に引き出された議論である。 空間に関する議論は時間に関する議論は時間に関するものよりも詳細に述べられているが、それは彼が、後者に関する後者に関する議論も本質的に前者の場合と同じだ、と考えているからである。
空間に関しては、形而上学的議論は次の四つのものが述べられている。
(1)空間とは、外部的諸経験から抽象化された経験的概念ではない。なぜなら空間は、諸感覚を外部的《・・・》な何物かに関連付ける際に前提されているからであり、また外部的経験は空間表象を通じて初めて可能になるからである。
(2)空間はすべての外部的知覚の基底に横たわるところの、先天的(注2)に必然的な表象である。なぜならわれわれは、空間の中に何も存在しないことは想像し得るが、空間がないということは想像しえないからである。
(3)空間とは、諸事物一般の諸関係に関する、論弁的(訳注:「論弁的」discursiveとは、「直観的」に対する語であって、間接に論理的推理によって対象を把握することを指す)、あるいは一般的な概念ではない。なぜならただ一つ《・・》の空間が存在するだけであって、われわれが「諸空間」と呼ぶものは、その諸部分であって諸事例ではないからである。
(4)空間は、みずからのうちに空間のあらゆる部分を含むところの、無限の与えられた《・・・・・》大いさ(注3)として表象される。その関係は概念のその諸事例に対する関係とは異なるのであり、したがって空間は、概念ではなくて一つの「直観」(Anschauung)である。
空間に関する先験的議論は、幾何学から導き出されている。カントは、ユークリッド幾何学が総合的なもの(注4)――すなわち論理学のみから演繹されないもの――ではあるが、先天的に認識される、と主張している。幾何学的な証明は図形に依存している、と彼は考えるのであって、例えばわれわれは、相互に直角に交わっている二直線が与えられれば、その二直線の交点を通って両直線に直角をなす直線が、ただ一つしか描けないことを見る《・・》ことができるという(注5)。カントは、この知識が経験から派生するものではない、と考えるのである。
しかしたとえばわたしの直観が、対象の中に何が見いだされるかということを予見しうる唯一のやり方は、わたしの主観においてあらゆる現実の感覚印象に先んじて、その対象がわたしの感性の形式のみを含んでいるかどうか、ということの予見である。感覚の対象は幾何学に従わねばならないが、その理由は幾何学が、われわれの知覚に関したものであり、したがってわれわれは、それ以外のやり方で知覚することができないからである。このことから、なぜ幾何学が総合的なものでありながら、先天的《アプリオリ》であり必然的(apodeictic)であるかが説明されている。
時間に関する議論もほとんど同じであるが、数えるということに時間がかかるという主張とともに、幾何学が算術に置き換えられていることだけが異なっている。
さてこれから、以上の諸議論を一つ一つ検討することにしよう。
空間に関する形而上学的な議論の第一のものは、次のような論法である。「空間は外部的諸経験から抽象化された経験的概念ではない。なぜならある種の諸感覚がわたしの外にある何物か〔すなわちわたしがみずからを見出す位置とは空間的に異なった位置にある何物か〕に関連付け得るためには、そしてさらにわたしがそれらの感覚を、外部にあり相互に隣り合うものとして、したがってただ単に異なっているだけでなく、異なった場所にあるものとして知覚し得るためには、空間表象が前もって基礎となってなければならない(zum Grunde liegen)。」したがって外部的経過円は、空間表象を通して初めて可能になる、というのである。
「わたしの外に〔すなわちわたしがみずからを見出す位置とは異なった位置にある、〕」という句は難解である。一つの物それ自体としてのわたしは、どこにいるのでもなく、また何物も空間的に私の外にありはしない。したがって意味し得るものは、一つの現象としてのわたしの身体だけである。だから真に含意されていることは、先の引用文の後半に述べられていること、すなわちわたしが異なれる対象場所に知覚する、ということだけである。ここで頭に浮かんでくる映像《イメージ》は、外套預り所の給仕が異なった掛け釘に異なった外套をひっかけている姿である。さまざまな掛け釘はあらかじめ存在していなければならないが、給仕の主観性がさまざまな外套を排列させるというわけだ。
このような考えには、空間と時間の主観性というカントの理論全体を通じてそうであるように、彼が一度も感じたことがないと思われるところの、一つの難点がある。知覚の諸対象を、他のやり方で話にわたしが現に配列しているような風に、わたしに排列せしめるものは一体なんであろうか? 例えば常にわたしが、ひとびとの眼を彼らの口の上に眺め、口の下にあるように見ないのはなぜであろうか?
カントによれば、眼と口とは物それ自体として存在していて、わたしに個々別々の知覚表象を生じさせるのであるが、眼や口におけるいかなるものも、わたしの知覚に存在している空間的排列に対応しないのである(注6)。
このような考えを、色に関する物理学的理論と対照させてみよう。われわれの知覚表象が色を持っているのと同じ意味で、物質の中に色があるとわれわれは想定してはいない。しかしまさにわれわれは、さまざまに異なる色は異なる波長に対応する、と考えているのである。しかしながら、波動は空間や時間をまき添えにしているのだから、カントの見地に立てば、波動がわれわれの知覚表象としての空間や時間が、物理学の仮定しているように、物質界中に対応するものを持っているとすれば、幾何学はそれらの対応物に適用可能となり、カントの議論は破綻をきたしてしまう。
カントは、精神が感覚の素材を秩序付ける、と主張しているが、なぜ精神がその素材を、他のやり方ではなくて、現にそれが秩序付けている風に秩序付けるのであるか、という理由を述べることをまるで必要だとは考えていないのである。
時間に関しては、因果関係が介入してくることから、以上のような難点はより大きくなりさえする。わたしは雷鳴を知覚する前に、雷光を知覚する。Aなる物それ自体が原因となって、雷光という私の知覚を生ぜしめたのであり、いま一つのBなる物それ自体が原因となって、雷鳴というわたしの知覚を生ぜしめたのだが、AはBより以前にあったわけではない。
なぜなら時間というものは、さまざまな知覚表象の間の関係にのみ存在するからである。それではなぜ、二つの無時間的な事物であるAとBとが、異なれる時刻に結果を生じさせるのであろうか? もしカントが正しいとすれば、これはまったく任意的なことであって、AとBとの間には、Aによって生じた知覚表象Bによって生じた知覚表象よりも先に起る、という事実に対応するような関係は、ぜんぜんあってはならないことになってしまう。
第二の形而上学的な議論は、空間の中になにもないことは想像し得るが、空間のないことを想像することはできない、と主張している。われわれにはなにが想像できて何が想像できないか、といったことはいかなる真剣な議論の根拠にもなりえない、とわたしには思える。
しかしわれわれが、なにもその中にないような空間を想像できる、といったことをわたしははっきり否定しておかなければならない。雲の多い暗い夜に、諸君は空を眺めていると想像することはできるが、その場合に諸君自身は空間の中にいるのであり、諸君は自分の見ることのできない雲を想像しているのである。
カントの言う空間は、ファイヒンガー(訳注:H.Vaihinger,1852-1933はドイツの哲学者でハレ大学の教授であった。「かのようにの哲学」の主唱者。カント哲学をプラグマティズム的(注7)に解釈して、新カント学派の一派をなした)が指摘したように、ニュートンの空間と同じように絶対空間(注8)であり、ただ単に諸関係の体系なのではない。
しかしわたしには、絶対に空虚な空間がどのようにして想像し得るのか、理解できないのである(注9)。
第三の形而上学的議論は、次のように述べられている。「空間とは、諸事物一般の諸関係に関する論弁的、あるいはいわゆる一般的概念なのではなくて、一つの純粋な直観である。なぜならまず第一に、われわれは唯一つの空間を創造(sich vorstellen)し得るだけであり、たとえわれわれが『諸空間』について語るとしても、我々の意味しているものは、同一で唯一の空間の諸部分のことであるにすぎないからである。しかもこれらの諸部分は、諸部分であるがゆえに全体に先立つことはできず、……全体の中にあるもの《・・・・・・・》として思惟されるに過ぎないそれ〔空間〕は本質的に唯一無二であり、その中の数多あるものはまったく限界性に依拠しているのである。」このことから、空間は一つの先天的な直観である、と結論されている。
以上の議論の要点は、空間そのものにおける数多性を否定していることにある。われわれが「諸空間」と呼んでいるものは、一般的な「空間」概念の諸事例ではなく、またある種の集合体の諸部分でもないという。カントによれば、その「諸空間」がどのような論理的位置を持つことになるのか、わたしにはよくわからないが、いずれにしてもそれは、論理的に空間に後属するものなのである。
実際上すべての現代人がそうであるように、空間の関係的見地(訳注:空間とは、諸物質の関係において初めて規定し得るもので、絶対に何物も存在しないところには空間はない、と考える立場)をとるひとびとにとっては、「空間」も「諸空間」も実体を示す語としてとどまり得ないのであるから、右のような議論は言明不可能となってしまう。
第四の形而上学的議論は、空間が一つの直観であって概念ではない、ということの証明を主として目指すものである。その議論の前提は、「あるいは表象〔(vorgestellt)〕される、」ということにある。これは、ケーニッヒベルクのような、平坦な土地に住んでいるひとの見解である(注10)。わたしはアルプスの渓谷に住むひとびとには、そのような見解は採用しえないと思う。無限であるなんらかのものが、どのようにして「与えられ」得るか、ということを理解するのは困難なのだ。
与えられているような空間の部分は、知覚の諸表象が満ちている部分であって、他の部分に関しては、われわれは運動が可能であるという感じしか持っていない、ということを私は明白だと考えるべきだった。そしてこのように卑俗な議論には横槍が入るかもしれないが、現代の天文学者たちは、空間が実際には無限ではなくて、地球の表面のようにぐるぐる回りしている、と主張するのである(注11)。
先験的(あるいは認識論的)議論は、「プロレゴメナ」の中でもっとも巧妙に展開されているのだが、それは形而上学的な諸議論よりもより明確であり、またより明確に反駁することが可能である。
現在われわれの知っている「幾何学」とは、二つの異なれる研究を包括する名称である。一方には、純粋幾何学があり、これは公理(注12)が「真」であるか否かを問題にすることなく諸公理から帰結を演繹するものであり、この純粋幾何学は、論理学から推論されないようなものは何も含んでいず、したがって「総合的」なものではなく、幾何学の教科書にも用いれらているような図形を必要としないのである。
また他方には、物理学の一分野としての幾何学があり、それは例えば、一般相対性理論に見出されるようなものである。これは一つの経験科学であって、諸公理は様々な測定から推定され、ユークリッドの諸公理とは異なっていることが分かっている。このことは、カントの先験的議論を解消させてしまう。
さてこれから、空間に関してカントがより一般的なやり方で提起した諸問題を、考察してみることにしよう。
物理学では当然のこととされている見解、すなわちわれわれの知覚表象には(ある意味で)物質的な外部的原因がある、という見地に立つとすれば、次のような結論が導き出されてくる。
つまり知覚表象のあらゆる現実的性質は、それらの知覚されない原因の諸性質とは異なっているが、知覚表象の体系とその原因の体系との間では、ある種の構造的類似性がある、という結論である。例えば(知覚されたままの)色と(物理学者が推論する)波長との間には、一種の相関関係が存在する。
同じように、知覚表象の一組成としての空間と、知覚表象の知覚されない諸原因の体系における一組成としての空間、というものの間には、一種の相関関係が存在するはずである。すべてこれらのことは、「原因が同じであれば結果もおなじである」という格率と、その逆、すなわち「異なった結果があれば異なった原因がある、」という格率とに依拠している。
したがって例えば、ある視覚的知覚表象Aが他の視覚的知覚表象Bの左側に見えれば、われわれはAの原因とBの原因との間に、なんららかの対応関係があると想定するであろう。
このような見地に立てば、われわれは二つの空間を持つことになり、一方は主観的で他方は客観的、また一方は経験によって知られ、他方は単に推論されるだけである。
しかしこの点に関しては、空間と他の知覚様相――色だとか音といったもの――との間に、何ら相違はないのである。それらすべては、その主観的形態においては、等しく経験的に知られるのであり、その客観的形態においては、因果関係に関する格率によって等しく推論されるものなのだ。空間に関する我々の知識が、色や音や匂いに関する知識と何らかの点でことなっている、と考えるべき理由は全くない。
時間に関しては、事情は異なっている。というのは、もしわれわれが知覚表象には知覚されない原因がある、という信念に固執するとすれば、客観的な時間は主観的な時間と同一でなければならなくなるからである。
もし同一でないとすれば、われわれは雷光と雷鳴の例に関連して既に考察したような、さまざまな困難に陥ってしまう。あるいは次のような場合を考えてもいいであろう。
すなわち諸君がある男の話すの聞き、その男に返答をする、そしてその男が諸君の言うことを聞く、という場合である。相手が喋っていることや、諸君の返答を相手が聞いていることは、両方とも諸君に関する限りは知覚されない世界にある出来事であって、その世界において前者は後者に先行している。そればかりでなく、客観的な世界においては、当の男が喋ることは諸君の聞くことに先行し、当の男が喋ることは諸君の聞くことに先行し、主観的な知覚表象の世界においては、諸君の聞くことは諸君の返答に先行し、また客観的な物理学の世界では、諸君の返答は相手の聞くことに先行している。
「先行する」という関係は、これらすべての命題において同一でなければならないことは明瞭である。したがって、知覚的空間が主観的である、ということには重要な意味があるけども、知覚的時間が主観的である、ということにはぜんぜん意味がない(注13)。
以上の議論は、カントと同じように、知覚表象が「物それ自体」――あるいはわれわれなら、物理学の世界における出来事、と言うべきである――が原因となって生じたものである、ということを否定している。
しかしこの仮定は、けっして論理的に必然なのではない。もしこの仮定を放棄すれば、知覚表象はいかなる重要な意味においても、「主観的」なものではなくなるのである。なぜならその場合、知覚表象と対照し得るものが
なにもなくなるからである。
(転載終)
ラッセルの説明は明瞭であり、卑近な比喩も多く使われているため、下にある私の注意がなくとも、彼の言わんとすることは、ある程度まで理解できるものだと思う。
ただ、上の転載文はラッセルの主張の部分であり、いささか不足している感は否めない。そのように感じた方は、転載元の本を読んでいただきたい。
また、この記事ではカントの空間論・時間論に限定したが、カントの考え方を概略的に知るためには、『純粋理性批判(漫画で読破)』や、石川文康の『カント入門』が読みやすいものだと思っている。
ただし、私はカントのことをよく知らない。この記事は時間論への興味から派生して、転載および註釈を加えたものなので、この二冊がどれほどの厳密性や正しさがあるかは保証できない。
また、ラッセルの著書ではないが、同じような議論をしている本として、大森荘蔵の『流れとよどみ――流れとよどみ――』をおすすめする。
注1:ロックが提唱した、物の性質に関する二つの分類。第一性質とは、物質から分離できない性質のこと。 固有性・拡がり・形状・運動・静止・数などがあげられる。これらは現実に物体にの中に存在する。第二性質は、第二性質でないもの、 色、においなどの、「感じ」のことである。これらは知覚者の中にのみにある、とロックは言う。事実、青い眼鏡をかけているとき、見える物のその「青さ」は物の性質ではなく、知覚者側のものだ、と。
しかしバークリーがその分類を批判し、区別のないことを主張した。私もまたそうであると思う。
注2:ラッセルが原文でどのような言葉を使ったか不明だが、 「アプリオリ」と同じような意味・使われ方のする言葉が日本語の語彙のなかにない上、「先験的」と「先天的」の区別がそれほど明確でなく、重なるところが多いので、カントの用いる「a priori」をそのまま音を取り「アプリオリ」と訳すのが適切かと思われる。哲学的文脈で「アプリオリな」と書かれた場合、たとえば「サッカーの先天的(先験的)才能がある」における「先天的(先験的)」とは、意味・使われ方の全く違うことを意識するべきだろう。しかし「アプリオリ」を説明するのはむずかしく、この記事においては、文脈から察していただきたい。
注3:あまり一般的な言い回しではないと思うので注意すると、「大いさ」は、「大きさ」や「サイズ」 と同じような意味である。
注4:カントは知識(哲学的文脈での使われ方であることに注意)について、経験を超越する知識はないが、一部の知識はアプリオリであって、経験から帰納に推論されないものていないと述べる。アプリオリな知識として、彼は論理学を代表とし、また論理学の一部という訳でも、論理学を含んでいるという訳でもない知識が他にあると述べる。
カントは、「AはBである」という命題について二つの二分法、つまり「分析的/総合的」と「アプリオリ的/経験的」の二つを提唱した。ここでは前者についてのみ説明する。
分析的命題とは、述語が主語に含まれているような命題である。
たとえば「背の高い人間は人間である」、「二等辺三角形は三角形である」などである。これは、「背の高い人間は人間ではない」という命題が矛盾することより、背理法的に、正しいことが確認される。
総合的判断とは、分析的命題ではなく、経験でもって知るような命題のことである。
たとえば「今週の火曜日は雨だった」、「ナポレオンは偉大な将軍だった」などである。
注5:カントはおそらく三次元ユークリッド空間、つまり「まっすぐ」な空間を前提にして説明している。
注6:カントは物自体と物自体との関係性について言及しなかった。それゆえ、それらが別々に引き起こす現象と現象についての 関係についてもまた述べることは出来なかった。関係とは、たとえば、このラッセルの例についていえば、眼と口の空間的排列である。カントは、「物自体」という、イデア的なものを考えた故、「関係」についての考察を見逃したのではないかと私は思っている。眼は口の上にある、鼻は口の眼の中間にある等々の「関係」、引いては「構造」によって、現象「顔」は顔として認識される。「物自体」ではなく「構造」については、構造主義が詳しい。私は顔を例に出したので、同じ例が出されている、大森荘蔵の「流れとよどみ――哲学断章――」を再び勧めたい。
注7:ある主張が真理が正しいか否かは、日常生活において役立つか否かで決定される、と考える立場。実用主義、実際主義とも。数学や哲学はともかく、工学や医学に限定していえばこの考えは正しいと言えるだろう。
注8:「絶対空間」とは、ニュートンによって定義された、「まっすぐ」で、無限で、一様という性質の与えられた空間。エーテルという、光の媒質として考えられるものが、絶対的に静止状態にあると定義される。ただし、アインシュタインの相対性理論によって、 「まっすぐ」でない、「まがった」空間がわれわれの住む世界だと主張され、またエーテルの存在も否定された。光は空間そのものを媒質に進むのである。
注9:私はラッセルのこの意見に同意できない。物のある空間を想定すると、その空間よりも物の少ない空間を想像するのはむつかしくない。また、さらにそれよりも物の少ない空間を想像するのもまた簡単だろう。そのような行為の極限の結果が、虚無な空間 だとすれば、それほど非直観的ではないだろうと私は考える。
注10:カントはケーニッヒベルグに生まれ育ち、生涯をその土地で過ごし外に出ることはほとんどなかった。ラッセルの言葉は、それを踏まえたもの。ちなみに、中島義道は、カントがその土地より外に出たことはほとんどどころか一度もなかったと、言っている。
注11 :この表現はあまり明確ではないと思うので、ラッセルの例えを踏まえつつ、より細かく比喩しよう。あなたは三次元の球の上にいる。今いる場所に物を置くなどの印をつけ、地面に沿ってまっすぐに歩こうとする。球の上に障害物がないならば、あなたはそのまま歩き続けることができ、壁にぶつかることもないあろう。そしていつかは、まっすぐ歩いていたならば、付けておいた印を発見するだろう。このことがラッセルのいう「ぐるぐる回りしている」なのである。
球の半径が有限ならば、球の体積もまた有限である。しかし、「球の端っこはどこか?」、「球の始点はどこか?」という質問が無意味であることは容易に認められるだろう。このことを三次元でなく、より高次元へと拡張したのが、まさに宇宙における空間のことである。よくあるような、「宇宙に端はあるのか?」「宇宙の中心はどこか?」という質問はその点で無意味なのだ。
カントには数学的教養があったが、生前には、非ユークリッド幾何学、つまり「曲がった」空間を研究する数学 は生まれていなかった。そのことが、カントの空間論に(現代からみれば)一種の偏狭さを与えたのではないかと私は思う。
注12:公理とは、重要な数学的概念のひとつである。これの取り扱い方は20世紀を境に大きく異なり、 より複雑なものとなった。長いが説明する。この注はむしろ理解を混乱させるように思われるので、読まないことを推奨する。
かつて公理は、正しいことが自明で、しかし証明のできそうにない命題のことで、あらゆる定理は公理から演繹的に導かれなければならないとされていた。 たとえば「AはAと等しい」、「AとBが等しく、BとCが等しいならば、AはCと等しい」などである。公理は、幾何学・代数学などの諸分野ごとにそれぞれ設定され、否定し合うことはなかった。
幾何学においては、「線分の両端は点」「線分の両端を無限を延長できる」等々の公理群が設定されており、そのうち、 「1つの線分が2つの直線に交わり、同じ側の内角の和が2直角より小さいならば、この2つの直線は限りなく延長されると、2直角より小さい角のある側において交わる。」という、平行線公準と呼ばれる公理があった。この公理は他の公理に比べて長々しく、あまり自明でなかった。そこで数学者たちはこの公理を他の公理群から証明しようと、つまり公理から定理へと格下げをしようと試みた。
しかしいつまでたっても、証明に成功した数学者はおらず、 みな失敗に終わっていた。そういった中、数学者ガウスが、平行線公理を否定する命題を公理として取り扱い、他の公理もそれと矛盾しないよう書き換えた。そうしたところ、矛盾の発生しない、まったくあたらしい幾何学を得られた。この幾何学は、これまでの幾何学が扱っていた「まっすぐ」な空間ではなく、「曲がった」空間を研究対象とした。
その後、数学体系内に矛盾が見つかったり、直観的には理解しがたい定理を証明したりと色々あり、形式主義という考えが生まれた。この考えの下では、公理を絶対的に正しいものとせず、意味を持たない単なる記号列ととらえた。
例えばしりとりというゲームでは、「最後にんのつく言葉を言ってはいけない」「前の人が言った言葉の最後の音を、次の人は自分の使う言葉の最初の音とする」をルールとし、「りんご→ごりら→らっぱ→・・・・・・」と続く。 「リンゴという言葉は何を意味するか?」「ゴリラは実在するか?」「ラッパの指示対象はなにか?」といった問いはナンセンスであり、言葉はは意味を持たない記号としてとらえられる。質問には、しりとりというゲーム内からは答え得ない。
ルールを変えれば、また違うゲームが生まれる。 このことが数学でも同様に考えられた。
形式主義においては、公理は、ある数学分野というゲームを成り立たせるため要請されるルール・記号にすぎない。「絶対的な正しさ」「自明性」を要求しないのである。
以上の説明はあまり正確でないので、サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」を読めばよりわかりやすく理解できると思う。
注13:近年、このような実験が行われた。被験者には、画面を見てもらい、画面に浮かぶ円を触って消してもらう、というものである。画面は、円が触られたことを認識すると、ほんの数瞬の、ごく短い時間で円を消し、違う場所に円を出す。被験者にこの実験を長時間行わせた後、被験者には黙って、円が触られてから円を消すまでの時間をさらに短くした。すると、被験者らは、「触る前に円が消えた」感覚を覚えた、と報告した。この事実が、ラッセルの考えを検討するうえで有益だと私は思う。
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