スペシャルアンケート企画 [シュガー・ベイブ 「SONGS」 40周年記念] 竹内まりや & 佐橋佳幸

祝!シュガー・ベイブ「SONGS」40周年。

SONGS - SUGAR BABE

1975年、シュガー・ベイブが行なったヤマハ渋谷(道玄坂)店の店頭イベントを目撃した、お二人のアーティストに緊急アンケートを実施しました!!あの日、新人バンドの店頭イベントで偶然にも同じ空間にいた竹内まりや、佐橋佳幸の両名への質問です。

あなたのシュガー・ベイブとの出会いを教えてください!

竹内まりやアンケート | 「こんな本物のポップスをやるバンドが出て来たんだ!と思った」

シュガー・ベイブとの出会いについて教えてください。
1975年というと、大学の音楽サークルでバンド活動に明け暮れていた時代。
少ないお小遣いをほとんどレコード購入に費やしていた私でしたが、その頃よく聴いていたのはジェイムス・テイラーやザ・バンド、ボニー・レイット、ニール・ヤングといった洋楽ばかり。
少しマニアックなものも含めて、いつも仲間と情報交換しながら多様なジャンルを聴き漁ったものでした。
たまに興味が湧く日本人ミュージシャンがいても誰かにレコードを借りるぐらいで、お金を出してアルバムを買うというのはよほどのことがない限りありませんでしたが、音楽仲間のあいだで「シュガーベイブという新しいバンドがすごくいい!」という噂が出始めた頃、既に私は「SONGS」を手に入れていて、毎日くり返し聴くほどのお気に入りのレコードになっていました。
たぶん、FMラジオや音楽雑誌を通して存在を知ったように記憶しています。
A面1曲目、「SHOW」のイントロに続く山下達郎の歌声を初めて聴いた時の驚きとワクワクした高揚感は、今でも鮮明に覚えています。
楽曲と歌の良さはもちろんですが、びっくりしたのは編曲とコーラスワークの素晴らしさ、そして、洋楽のエッセンスが随所に見え隠れしながらも、それまで全く聴いたことのないオリジナリティに溢れる音世界でした。
達郎の作品と同様に、紅一点の大貫妙子さんの作品と歌声にも独自の洗練された空気感があって新鮮さを感じました。
「日本にも、こんな本物のポップスをやるバンドが出て来たんだ!」と思ったのがもう40年も前のことだなんて、何だか信じられない気がしますね。
今聴いても全然古くならない音楽だから。
何が何でもこのバンドの演奏を生で聴きに行きたいと思って探し出したのが、当時渋谷にあったヤマハの店頭で行われたインストアライブだったというわけです。
道玄坂のヤマハのライブで記憶に残っていることを教えてください。
情報雑誌「ぴあ」のはみ出し欄に「シュガーベイブ店頭ライブ開催」と書かれているのを見つけて、大学の音楽仲間と4人で道玄坂のヤマハ楽器店に行ったところ、もうすでに店内はぎっしり黒山の人だかり。
めざとい音楽ファンが詰めかけていたんでしょうね。すごい熱気でした。
人波をかき分けて入って行って興奮して聴いたはずなのに、詳しい曲目は思い出せません。
でも、初めて観たシュガーベイブの印象は、「限りなく洋楽に近い、日本の新しい音楽だ」というものでしたけれど、「あんなポップで素敵な音楽をやっているのに、真ん中で歌っている山下という人の雰囲気がやたらに暗いなあ。でも、歌うまいな(笑)」という印象も強く残りました。
その後、もう一度彼らのライブを観たのは、中野サンプラザでの多数バンドによるジョイントコンサートでしたが、残念ながらほどなく解散してしまいました。
大学の学食で音楽仲間と集っている時、当時慶應の学生だった寺尾次郎さんが歩いているのを見かけるたびに、みんなで「あの人シュガーベイブのベースだよ、すごいね」と話したものです。
ずいぶんあとでわかったことですが、渋谷ヤマハの店頭ライブイベントには、当時中学生だった佐橋佳幸少年もチャリンコに乗って観に来ていたそうです。
何というおませなガキ(笑)。
佐橋君はその約20年後に達郎のバッキング・メンバーとしてギターを弾くことになり今に至っていますし、私はひょんなはずみで歌手になり、店頭ライブから7年後に「真ん中の暗い人」の嫁になっているわけですから、ご縁というのは本当に不思議なものです。
実はその人、結婚してみたらけっこう明るかったんですけどね(笑)。
ご自身にシュガー・ベイブが与えた影響はありますか?
たくさんあるはずです。70年代の日本の音楽シーンにおいて、あれほど都会的なポップスをやるオリジナルなグループはいなかったわけですから、その頃洋楽ばかり聴いていた私にとって、バンドの登場自体がちょっとしたカルチャーショックでした。
その後歌手になった私に、彼らが与えた影響が具体的にどういうものだったか自分では分析しにくいのですが、デビューアルバムを作る際、達郎と大貫さんの楽曲はぜひとも歌いたいという希望をプロデューサーに申し出たことから考えると、彼らが生み出す新しいスタイルのポップスを、自分なりに表現してみたいと願っていたことは確かだと思います。
また、結婚以降の活動復帰にあたり、実際に達郎と共に音楽を作っていく過程で得たさまざまな影響が、今の私のポップスを築く上でとても重要な役割を果たしていることを思うと、根源的には「シュガーベイブから始まっている山下達郎の音楽性」のある部分と私自身の音楽性が、もともと少なからず接点を持ち合わせていた、ということなのかもしれませんね。
最も大きな影響は何かと問われれば、歌手だった私が自分自身のメロディと言葉で楽曲を作って歌うシンガーソングライターという表現スタイルに移行したことだと思います。
シュガー・ベイブでお好きな曲を一曲教えて下さい。
一曲だけ選べというのは酷だなあ。
インパクトという点でいうと、先ほど出てきた「SHOW」が一番大きかったけれど、歌詞が大好きな「雨は手のひらにいっぱい」や「パレード」、大貫さんの「いつも通り」や、伊藤銀次さん作詞の「過ぎ去りし日々」も捨てがたいし。
でも、やはり大きな意味でシュガーベイブを象徴する普遍性を持つ一曲といえば「DOWN TOWN」で決まりですよね。
これは、彼らにしか生み出せなかった究極のオリジナルソングであり、スタンダードポップスです。
最後に、シュガーベイブ「SONGS」40周年、本当におめでとうございます!!

佐橋佳幸アンケート | 「メイジャー7thでもロックンロールできるんだ!ということを教えてくれた」

シュガー・ベイブとの出会いについて教えてください。
1975年、僕は13~14歳・目黒区立第一中学校の2年生でした。
前年ギターを始めたこと&ラジカセを購入したこともあり、ラジオにかじりついて、ロック(洋楽)の洗礼を受けていた頃です。
ある日、いつものように何気なくラジオを聴いていたら、DJの『次はシュガー・ベイブのデビュー曲“DOWN TOWN”です』というアナウンスの後に、あの印象的なギターリフが始まりました。
一瞬にして、この曲の虜になった僕は、小遣いを握りしめ、渋谷・道玄坂のヤマハにシングル盤を買いに出かけました。
「メイジャー7thでもロックンロールできるんだ!」ということを教えてくれたのが“DOWN TOWN”であり、シュガー・ベイブです。
道玄坂のヤマハのライブで記憶に残っていることを教えてください。
“DOWN TOWN”の衝撃から間もなく、『道玄坂のヤマハでサハシが好きなシュガー・ベイブがライブをやるらしいよ。
しかも店頭演奏だから無料だし、一緒に聴きに行こうよ!』と、バンド仲間が声をかけてくれました。
午後の授業が終わるや否や、自転車のペダルを必死で漕いで、何とか開演時間に間に合いました。
会場に着いてみると、いつものふんわり穏やかな楽器店とは違って、正に“黒山の人だかり”ヒッピー風ファッション&サブカル命みたいな、20代前後のお兄さん&お姉さん達が、今か今かとシュガー・ベイブの登場を待ち望んでいました。
そんな雰囲気にすっかりのまれてしまったサハシ少年。
たぶん一曲目は“Show”だったんだと思いますが、正直・どんな曲を演奏したのか、どれぐらいの時間のパフォーマンスだったのか、な~んにも覚えておりません。
ただ今思えば、これが僕が初めて体験したライブであったということ。
終演後・興奮さめやらず火照ったカラダのまま、自転車を押しながらウチに向かう道すがらに、『僕がやってみたいのは、こういう音楽なんだ』と、うわ言のように仲間に話していたことだけが記憶の片隅に残っています。
ご自身にシュガー・ベイブが与えた影響はありますか?
前述の通り「メイジャー7thでもロックンロールできるんだ!」ということを教えてくれたことでしょうか。
あとは、フェンダー・ギターをサウンドの中心に据えて、カラッとした独特の音作りをしていたことにも、影響を受けてるのかもしれませんね。
シュガー・ベイブでお好きな曲を一曲教えて下さい。
うーん…まずは当然のことながら、シュガー・ベイブに出会うきっかけとなった“DOWN TOWN”ですよね。
でもアルバムを聴きこんでいくうちに“雨は手のひらにいっぱい”が一番のお気に入りになりました。
歌詞がいいんですよね~
昭和の東京の原風景が、主人公の心象風景と相まって、押し付けがましくなくサラッと描かれているところが好きなんです。
この頃は当然のことのように、歌詞にメッセージ性を求められていた時代でしたから、そういった類いの歌にあまり共感できなかった僕にとって、ど真ん中&ストライクな曲でした。

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