ツーショットの写真を撮るのが20年ぶりということでしたが、シュガーベイブはどんなきっかけから結成されたのでしょう。
1970年代の始め、四ツ谷に「ディスクチャート」というロック喫茶がありました。店の営業が終わった深夜、週一回のペースで音楽好きが集まって、その店でセッションが行われていた。中には有名な人もいて、山本コータローさんとかね。そのグループに僕も偶然参加することになったんだけど、ちょうどその時には、ター坊をデビューさせようという計画のもとに、みんなで「午后の休息」という彼女の作品のデモテープを作っていた。あのときのテープ、どうした?
まだあるんじゃないかな。
ター坊って何がきっかけで音楽の道を歩むことになったの? 確かスカウトされたんだよね?
渋谷のYAMAHAで楽譜を買おうと思って、ギターを持って歩いてたら声を掛けられたの。その人たちと組んだのが「三輪車」っていうグループ。ギターを持っていなかったら、声を掛けられなかったんじゃないかな。
三輪車って三人組だよね?
そう。事務所に所属して、レコード会社も決まって、デビューする予定だったんだけれど、そのデビュー曲、あまり乗り気じゃなかったの。プロデューサーだった矢野誠さんも「うーん」って渋い顔をしてたし。いろいろ好きな音楽の話ししたり、ノートに書きためてあった詞とか見てもらっているうちに、「ター坊はこのバンド合わないんじゃない?もっといいヤツいるよ」って言うので、私も目がギラッと輝いちゃって。そしたらきゅうにそれまでが色褪せちゃった。それでディスクチャートに行くようになったの。
矢野さんが「夜な夜な面白い奴らが集まってセッションしてるよ」って教えてくれたから。
当時、もうどこかで歌ってたの?
新宿にあった「ラ・セーヌ」とか、今で言う夏フェスとかでも。
プロのミュージシャンになろうと思ってた?
ぜんぜん。楽しいからやってただけで、将来のことなんて考えてなかった。
「午后の休息」はどうやってできたんだろう。
「デビュー のためにオリジナルを書いてよ」って誰かに言われたんじゃないかなぁ。
ター坊がディスクチャートにいなかったら、シュガーベイブはないんだよね。あのときは、ター坊があの集団の中心にいたんだ。それは間違いない。
そうだったのかなぁ。
「午后の休息」は、初めて作った曲じゃないでしょ?
初めての曲じゃないです。それまでも、いくつか作ってたけど、きっとろくな曲じゃないと思う(笑)
「午后の休息」は、いい曲だよ。ここから何か新しいものが生まれるんじゃないかっていう気持ちにさせる曲だったんだよな。その熱気があの場には充満してたよね。あの曲がきっかけで、ター坊とバンドを作ろうっていう流れになったんだ。
そうだった。あの時、山下君はコーラスもできるバンドにしたいから、女性の声も必要なんだよね、とも言ってました。
最初はドラムがいなくてさ。オーディションを4回やったんだけど、みんなイマイチで......。
オーディション、しましたね。でも、山下君、もともとはドラマーじゃない。
アマチュア時代はね。でもプロになったら、ドラムでリードボーカルというのは格好悪いと思ったんだよ。だけど、ギターはそんなに上手くはなかったから。リードは弾けないし。で、カッティングだったらなんとかなるかなって考えて、ギターに鞍替えしたんだ。安直この上ないよね。
山下君がギターになったらギター弾きが3人になっちゃうから、中学の時からずっと弾いてたギター私にやめさせて、キーボードをやれって言うのよね。
おんなじ理由だよ。女の子はギターより、キーボードの方が格好いいってイメージだったんだよな。それで無理やり説得して。
ひどい、どれだけ苦労したか。それなのに、ずいぶん怒られた。リハーサルのときとか、怒られっぱなし(笑)
すいません。若気の至り。もう責めないで(笑)。
シュガーベイブの昔のライブテープって、それなりに残ってはいるんだけど、どれも録音状態や楽器のバランスがひどいものばかりなんだ。大部分のものは、ドラムやベースは真ん中にあるのに、ピアノが右とか左とかに寄っていて、ちっとも聞こえないんだ。
ピアノは観客席からも見えない位置にあったしね。
今、思うと不思議だよね。どこでも配置がそうだったし。
どうやって録音してたの?
2チャンネルでの一発録り。結果的に今回のボーナストラックのライブ音源は、客席からワンポイントのステレオマイクで録音したものが多くなったんだけど、そういうのはPAのバランスだから、キーボードの音がちゃんと聞こえるんだ。
ただ単に見た目でキーボードが端にいるから、マイクを寄せたんじゃないかなぁ。
そうなのかな。そうした2チャンネルのライブハウスでの録音を使って、シュガーベイブのライブ盤を出したいっていう話が来るんだけど、あんなもんに値段をつけて売るのかと思うとぞっとする。絶対に嫌だよ。
ホントよね。演奏していた者の気持ちにもなって欲しい(笑)。
要するに、僕らってアンダーグラウンドだったんだよ。演奏の環境も整ってないし、PAなんてなかった。ボーカルアンプのみ。ピアノにマイクを入れても音なんか拾えないし。歌のモニターもないから、自分の歌っている声も聞こえない。
聞こえなかったねぇ。山下君は声が大きいからいいけど、私なんか全然です。
でもそのおかげで、ター坊の個性が出たということはない?シンギングスタイルが生まれた、とかいう考え方は?
ないです。全部、埋めて隠したいです。今回の「風の世界」だって、これほんとに入れるの?って、一晩、考えましたもん。音程はずしてるし、ほんとひどい。数年前だったら絶対拒んでいたと思うけれど、40周年が過ぎたら急に「ま、いいかっ」って思えるようになった。あのときがあるから今があるんだし。そういえば、シュガーベイブのライブは演奏の間違い、多かったよね。
そうなんだよ。
いつもライブが終わった後に、誰が間違ったっていう話をしてたじゃない。ソロも全部決まってて、アドリブじゃないのに。
それでも間違えるんだよね。演奏がヘタなのを編曲でどうカバーしようかって、いつも考えてた。当時はキャラメルママ幻想とでもいう、演奏が上でボーカルものは一格落ちるっていうような風潮が強くあったからね。
シュガーベイブにいた20代前半にいろいろ経験したことが今、すごく役立ってると思う。昔はネガティブに思えたものが、今は非常にプラスになっているんだよね。どうやって食っていこうと必死で考えたり、ライブでヤジられないためにはどうしたらいいかと考えたりさ。
打たれ強いですよね、私たち(笑)。いろいろ言われたし。
アルバムが出たとき、いろんなところからボロクソに書かれたよね。
けっこう落ち込みましたよ。
なんでそんな風に書かれないといけないんだって思った。演奏の環境も劣悪だったし、「踊れねーぞ、帰れ!」ってヤジられれたり。当時は「乗れる」バンドの人気が高かったし、メロディアスな曲をやってるバンドなんてなかったからね。
それでも、若くて経験不足だったから、自分のいる環境が劣悪だとは思っていなかったのよね。
ほんとにインディーだし、マイナーだったからね。スタジオでレコーディングしている写真が1枚もないんだよね。
撮らなかったんだっけ?
カメラマンをスタジオに呼ぶなんて発想がスタッフになかった。
(シュガーベイブの写真を見て)なんでこれみんな、ブスーっとしてるの?くらーい顔して(笑)
事前に写真を撮るともなんとも言われてなかったんだよ。言われていれば、何かちゃんとした服を着ていくのに。その究極が「ナイアガラトライアングル」でね。今は取材とか対談っていうと、ヘアメイクやスタイリストが入ったりするけど、当時は、そんなこと考えたこともなかったでしょ?
考えたこともないって言うか、誰もそんなことしてなかったでしょう。ステージ衣装も自分で縫っていたし。
ライブハウスでライブやったら、汗かいたまま帰ってたもんね。動画も僕の手元にあるVHSの1本しかない。何しろ僕らはエレックレコードだったからね。元祖インディー。
潰れる直前だったしね。お金もなかったよね。本当に食べられなかった。山下君がCM音楽の仕事やバックコーラスの仕事をとってきてくれて、それでなんとか生きていた。
困窮の原因は事務所の給料の不払いで、僕らのせいじゃなかった。いつまでたっても給料が出ないので、事務所に直談判しにいったら、スタッフに六本木のクラブに連れて行かれて、「いやー、そんな固いこと言わないで、まぁ酒でも」なんて言うから、「おまえら、こんなところで飲み食いする金があったら、俺たちに給料払え!」って怒って帰ってきた。
ご苦労さまでした。
いやいや(笑)
月の生活費がバイトもして6000円くらいだった。ナポリタンばっかり食べてたなぁ、ケチャップ味だけの。お金がちょっと入ったらウィンナー入れたりして。今日はちょっと豪華だなぁ、なんて(笑)
本気で食えなかったからね。でも、逆にあのとき、きちんとした契約関係があって、音楽業界のメインロードを歩かされていたら、今、僕たちはここにいないかもしれない。マイナーな環境で鍛えられたから、芸能界の澱がたまらずに済んだ。
ものは考えようですね。でも、あっという間の3年間だったね。
面白いもので、そういうことが人の流れを生むんだよね。とある歌手のレコーディングで、僕らがコーラスに参加したんだけど、ライブは僕だけ頼まれてね。バックはキャラメルママ・プラス矢野顕子。有名な女性コーラス2人と僕の3人でのコーラスだったんだけど、リハーサルの段取りが悪くて、女性2人が本番の直前に降りちゃったんだ。僕一人じゃコーラスはできないし、困ったなと思っていたら、ター坊と村松(邦男)君が見に来たの。レコーディングで曲は知ってたから、いいところに来たって、ステージに押し上げて、何とか事なきを得たんだよね。
そうだったんだ。
それをたまたまユーミンが見に来てて、「あのコーラスは誰?」っていうことになってね。それで僕らは「12月の雨」のレコーディングに呼ばれた。あのときター坊と村松君とコーラスしてなかったら、ユーミンのアルバムに参加するなんていうこともなかったと思う。シュガーベイブはいろいろ運不運もあったけど、人の縁は広がっていったんだよね。
当時は音楽をやる人がまだ少なかったのよね、コーラスもミュージシャンも。あと、ロック系がほとんどだった。ポップなメロディのバンドは本当に少なかったね。
だからユーミンも僕たちのコーラスに興味を持っただろうね。聞いたことのない感じのコーラスだったから。
音楽産業も、風通しがいいっていうか、隙間だらけだったのよね、まだ誰もやっていないっていうジャンルがいっぱいあった。
売り上げも、あの頃は6000枚、7000枚の時代だったからね。
ター坊が「いつも通り」を作ってきたときのことはすごくよく覚えてる。とても不思議なメロディーラインで、時々転調が追い付かなくなるのを、でも、メロディはどうしてもこれで行きたいっていう。ター坊は詩と歌、どっちが先にできるの?
100%、曲が先ですね。メロディに合わせてコードを探っていく。いいコード展開が見つかると、それに乗せてさらにメロディーを書くこともありますけど。ほっておくとどんどん転調して戻れなくなることもあります(笑)山下君はどっちが先?
僕はほんの時々、詩が先のこともあるよ。全部じゃなくて、メッセージ性が強い曲とかね。
私が歌う人でなければ、メロディだけを書いていたい。歌う必然があるので歌詞書きますけど、 音楽ってサウンドの基本となるハーモニーとメロディがあれば成り立つじゃないですか。だから私にとっては、歌詞はそれらが呼ぶ言葉を乗せていく作業なんです。今もシュガーベイブ時代に山下君から教わった方法で歌詞作ってるんです。メロディの数にあわせて点を打って、それに見あう言葉を入れていく。これがけっこう大変。
へー、その歌詞についての考えは意外。初めて聞いた。まあ、メロディには字数の制限があるからね。昔、作った曲に今だったらぜんぜん違う言葉を当てる?
どうだろう、出来上がってしまったものに手を入れるのは難しいと思うな。
あんまりこういう話はしたことないけど、シュガーベイブで曲を書いていたのはあなたと私じゃない? 詩の書き方については、僕はター坊からかなり影響されたんだよね。言葉の選び方がぜんぜん僕と違うんだよな。それと、僕は始めは詩を書く自信がぜんぜんなかったんだけど、ター坊から「あなたの詩はいいからもっと書け」って言われて、それで作詞に自信を持てるようになったんだよね。
山下君とは音楽以外でも、いつもいろいろ話していたし、文章も上手い人だったから。歌詞が書けないわけないと思っていたし、実際、書いてくる歌詞は好きでしたから。たとえばありふれた言葉でも、東京という街で生まれた空気というのが伝わってくる。そういうアイデンティティが大事なんですよ。「夏の終わりに」の「つるべ落としの秋の始まり~」なんて、当時は、なかなか思いつかないですよ(笑)
私、車に乗ってラジオを聞きながらよく思うんだけど、最近多いです「なに、この女々しい歌詞!」って、男子よ頑張れ(笑)
哲学性が希薄になっているんだよね。どんどんお手軽になってきた。
なんかこう・・・サークル活動みたいな感じの歌詞。若いうちはいいけれど、その先に行ってもそれ歌えますか?と思いますよね、よけいなお世話かもしれませんけど。私たちの若い頃は本もたくさん読んでいたし、それを自分の中で咀嚼して歌詞にするようなことは当然のようにしてましたよね。
シュガーベイブの場合は、伊藤銀次さんも曲作りに関係してきますね。
僕が詩に自信がなかったから、銀次に頼んでパートナーができればいいなって思ったんだけど、銀次は意外に仕事が遅くて、締め切り通りにあげてくれないし、途中で寝ちゃったり(笑)
銀次さんのラジオに何度か出演させてもらったことがあるんですけど、昔のことをよく覚えてるよね。
ダテに歯科大じゃないですよ。
当時、音楽の影響力って大きかったんですね。
大きかったよ。音楽しかやりたいことがなかった。60年安保の時代、文化のフロントラインは活字だったけど、70年安保世代は圧倒的に音楽だったんだよね。だから、音楽家にならなくてもいいやつがドロップアウトでたくさん入ってきたので、あれだけ変態の文化が生まれたんだよ。それが今は元に戻って、普通の音楽になってきている。
でも、音楽が好きで、その声を持っていたら、生まれた時代にかかわらず、山下君が世の中に出てないってことはなかったんじゃないかな。他になかなかいませんよ、未だにキーも落とさずに歌っている人なんて(笑)
すいません(笑)
ちょうど3年で解散したんですよね。アルバムの2枚目をもし作っていたら、ソロで作った曲入れてたかな。
入れてたよ。総レパートリーが15曲しかなかったからね。
アンコールができない(笑)
そうそう、他のバンドと一緒に出演するライブハウスだったら、8曲くらいでいいわけで。新宿ロフトで2日間やっても、いつも同じ曲だった。
不思議に思っていたんですが、皆さん、音楽に詳しいのにカバー曲がなかったですよね。
カバーなんて難しくてできないよ(笑)
下手すぎて(笑)
オリジナル曲にも演奏がついていけなくなってたんだよね。ター坊が作ってくる曲もどんどん難しくなってきて、「約束」なんて、とても弾けなくなってきて......。
その鬱憤がソロになってからお互い爆発したんだ(笑)
もっとうまい人とやりた~いって。だんだんシュガーベイブじゃできなくなっていた、っていうことだったんだね。
ソロになってから、さらに複雑化していくということでは当時、もう萌芽が出ていたよね。「愛は幻」とか、ステージでやってた曲を録音すれば、それはそれで粒は揃ってたんだよな。
2枚目を作っていたら、「愛は幻」は入っていた?
間違いなく入っていたね。
実際にステージでやってたしね。
シュガーベイブは暫く記憶の彼方だったけれど、今思い返すと怒濤の日々だったね。
まったくだなぁ。あっという間だったね。
今でもシュガーベイブって言われるのは、山下君がこれだけ成功しているからだと思うなあ。そうでなかったら、本当に消えてたと思う。
いや、それはター坊と僕のふたりともが生き残っていて、村松くんも今もギターを弾いていて、ドラムも二人とも現役、それに大瀧さんがいたからだよ。「ソングス」って、幸運な偶然の重なったアルバムなんだ。エレックのボロいスタジオでの録音環境が、当時はとても不満だったけど、もし、メジャー・レーベルと契約してたら、たぶん、ふだんは歌謡曲の歌手を担当しているようなハウスエンジニアが来て、「はい、いきまーす」って作ってたかも知れない。でもそれだったら、今は恐らく残ってないよね。エレックのスタジオだったが故に、めちゃくちゃインディーズでガレージな音で、しかもその上、大滝さんがミキサーだったのが大きい。大滝さん、アメリカではっぴいえんどのレコーディングを体験して、色々と刺激を受けて、ミキシングに興味がわいたんだよね。そこから数年の勉強の成果が「ソングス」には出てる。
その大滝さんも・・・。早すぎました。
今回、リミックスを作ることができたのも、大滝さんのおかげなんだ。90年代に1年かけて、大滝さんが全てのオリジナル・16トラックをデジタルトランスファーしてあったの。今回のリミックスで、来たるべきニューメディアにも対応できるようになった。だから今後、シュガーベイブはハイレゾも可能だし、ストリーミングも高音質でできる。
この先もシュガーベイブは続くということですね。
でもさすがに50周年は無理だろうなぁ。お互い、よくやってきたよね。
結局、続けてきたのは音楽だけだった。私たち音楽のジャンルの好みは少しづつ違っていても、これは嫌いだからやらない、っていうのはなかったし、似てたよね。
そうだね。バンドによっては、やりたい曲が違っていたことから仲違いが始まったところもあったけど、僕たちはそういうの、なかったしね。
さかのぼって探しても「ソングス」ってあの時代にないアルバムだったし、今の時代にもない。
たった1枚のアルバムでも人生があるんだよね。
こういうアルバムが自分の人生にあるのは素晴らしいよね。
こんなに長くステージに立つとは思ってなかった。30歳になったら、レコードプロデューサーかなんかになってると思ってたし。
ときどき仕事の場なんかで突然「解散コンサートに行きました」っていう方に会うからびっくりする。熱狂的な方がいらっしゃったんですね。
あのライブハウスのファンがいなかったら、もっと前にシュガーベイブはやめてるよ。僕たちと同時代にデビューした人が何人残ってるのか、って考えるよね。
そうね。まだステージに立てるんだから、いろいろ文句言わずにやらないと、って思いますよね、その瞬間は(笑)
人の分まで一生懸命やらないとね(笑)
お二人の関係も何年経っても変わらないですよね。
自分がインタビューを受けるときは「山下さん」って呼んでるけど、こうして目の前にいると、やっぱり「山下君」なのよね、会うと本当にホッとする。「同じ釜の飯」ってよく言うなって思います。
同じ釜の飯を食ってても、ホッとしないヤツもいるんだよ(笑)ター坊と僕はバンドの音楽を何もないところから二人で作ったからね。しかも、自分のルーツとも言えるところで。相手が何を言いたいか、歌いたいか、本質的な奥底のところを共有できる人ってそうそういない。20代のがむしゃらにやっていた時代に一緒にやっていたっていう共通体験は大きいよね。
ご縁を大切にして、これからもお互いがんばりましょう(笑)