祝!シュガー・ベイブ「SONGS」40周年 | 山下達郎 ロング・インタビュー | 「SONGS -40th Anniversary Ultimate Edition-」発売記念 スペシャル企画

'75年に発売された「SONGS」というアルバムと、シュガー・ベイブというグループについて、40年前の音楽状況と、そしてそれを40年後に発売する意義を本人が語ります。

そもそも今回の40周年プロジェクトのきっかけは何だったのですか? - 聞き手(司会): 城田雅昭 -

「SONGS」40周年盤プロジェクトの
きっかけは、やっぱり大瀧詠一さん

今回の40周年盤「SONGS」を「作る」と明言されたのは、昨年末にお電話をいただいた時かと思うのですが、いつごろから考えられていたのですか。

自分としては大瀧(詠一)さんが生きていたら、どうしたかったかというのが、ことの本質で。亡くなられたからね。その意味では、僕にできる範囲でナイアガラを継承して行こうと考えたのがきっかけだった。

ただ、今回、こんな形でインタビューを受けてプロモーションすることになるとは、全然思っていなかったけど(笑)。

ライブ・ツアーを再開した2008年以降、シュガー・ベイブの曲をステージで演奏する機会が大幅に増えた。そこから、だんだんいろんなことを思い出してね。大瀧さんが手がけた2005年のリマスター盤は何の問題もないのだけど、あれから10年たってテクノロジーも変化していて、その上で何をすればいいのかと。この10年間で、いわゆるイケイケなリマスタリングが否定されたり、方法論が枝分かれしているんだけれど、僕個人としては、古いカタログのリマスタリングは、常に現代のヒット・ソングの音圧に拮抗するものじゃないと再発する意味がないと思っているんだ。

その一方で、本当に40周年盤が必要なのか、という迷いも残っていたので、まずは数曲リマスターをトライしてみようと。そうしたら思いの外、出来がよかった。機材もこの10年でめまぐるしく変化しているものの、今回は、ここしばらくデジタル上のプラグインでやっていたものを、昔のようなアナログのアウトボードに回帰したりして。しかもそれで結果的にハイレゾ対応の素材まで作れたんだから、皮肉なもので。

2005年盤には、大瀧さんがボーナス・トラックとして作った「DOWN TOWN」のリミックス・カラオケがあるんだけど、それに入っているクラビネットがオリジナルのミックスとは違うものだったので、もう一度カラオケを作り直して、今回のボーナス・トラックに入れようって考えた。大貫(妙子)さんとの対談でも話したけど、大瀧さんは90年代に「SONGS」のオリジナル16トラック・アナログテープをデジタルにトランスファーしてくれていたので、試しにそのデータを使ってリミックスしたら、これがまたすごく良かったの。だったらいっそのこと、全部やっちゃおうかってことで、全曲リミックスしてみたんだよね。

で、それなら今回はリミックス・ヴァージョンだけで出そうかとも思ったんだけど、リマスターも良くて甲乙つけがたいので、ええい、両方出しちゃえ!ってことで、リミックス盤とリマスター盤を抱き合わせた2枚組になりました。

リミックスってある種のリスクを抱えてますよね。リスナーはどうしてもオリジナルの印象が強く残っている。この辺はどうお考えで臨まれたのでしょう?

確かに違和感を感じるものも多いよね。でもそれは多くの場合、元のレコーディングに関わっていない人が行うことによって、そうなることが多いんだ。レコーディング・エンジニアは、演奏の細部をそれほど知っているわけじゃないのと、コンテンポラリ-なものに対する対抗意識から、しばしば全然違うミックスを作りたがる。でも今回は、作曲・編曲・演奏・歌唱と、すべてに関わった当事者がやっているから、そういうことにはならなかった。

ただね、実は、僕が今回リミックスを作った本当の目的は、再現性というよりは、48kHz/24bitのハイ・サンプリング・マスターを作りたかったことに尽きるんだ。次世代メディアのためのね。なので恐らく、リミックスとリマスターをCD上で聞き比べても、違いが分からない人もたくさんいると思う。だからその部分に関してはマニア向けであり、本当に好きな人にしか分からないというレベルの話なんだ。

リマスターを聞くと大瀧さんの音楽的遺伝子が、ものの見事に継承されている気がしますが。

「SONGS」だけじゃなくて、「ナイアガラ・ムーン」という、1975年にナイアガラで出た大瀧さんのアルバムにおいても、僕は音楽的ブレーンだったからね。「SONGS」が完成して、翌週か翌々週には「ナイアガラ・ムーン」の制作が始まったんだ。ブラスやストリングスの譜面は僕が書いているし、並行してCMもたくさんやってたから、あの時代の大瀧さんのクセは誰よりも知ってるつもりだよ。

アルバム「SONGS」の制作背景、特にエンジニアリングには、大瀧さんがはっぴいえんどのレコーディングでアメリカ西海岸に行って、そこで見聞きした経験が、とても色濃く反映されていると思う。そこからスタジオを作りたいというビジョンも生まれたんだ。今聴くと、「SONGS」は楽器のバランスがとても不思議なんだよね。まるでリトル・フィートみたいに。ギターの音が移動したり、ピアノが左に寄っていたり。当時は大瀧さんがアンビエンス(部屋の残響)が好きだったことなんかも、そういった影響をすごく受けていると思う。

大瀧さんは「SONGS」をギター・バンドのイメージで作ろうという意図があったんだと思う。そういうミックスのやり方なんだよね。たぶん、「SONGS」は大瀧さんにとっては、エンジニアとしての精神的なファースト・アルバムだったんじゃないかな。その前の布谷(文夫)さんの「悲しき夏バテ」と後の「ナイアガラ・ムーン」は、「SONGS」に比べると曲調のヴァリエーションが少ない。その点「SONGS」は、多様な曲想、多種の楽器、ブラスや弦も入ったアルバムで、大瀧さんはそれでもちゃんと録ってる。音楽をとにかく聴いてた人だからね。ミキシングにもきちんとしたビジョンを持ってた。

僕自身も、このアルバムで初めてブラスと弦の譜面を書いたんだよね。僕たちがやっていたことは、バンドのレコーディングと言いながらも、ある意味とても作家的なアプローチだった。僕の場合はさらに編曲的な欲も出ている。「いつも通り」に弦が欲しいって言ったのは、たぶん、ター坊(大貫妙子さん)だったんじゃないかなあ。

2006年に大瀧さんと達郎さんがラジオで語った「新春放談」を聞き直すと、10年後の今を予見していた発言があるんですよね。

ということは大瀧さん、40周年盤を作る気があったんだね。生きていれば多分「ナイアガラ・ムーン」もやったね。リミックスにも昔から関心があったし。

ボーナス・トラックに入れた
ライブ音源の選択基準は僕の趣味

今回、ディスク1,2にライブ音源のボーナス・トラックがついていますが、これらのライブ音源を選んだ達郎さんの選択基準はなんだったのでしょうか。

40年も経つと評価基準が厳しくなるんだよね。昔は許せても、今聴くと恥ずかしい。ター坊もいつも言ってるけど、恥ずかしいんだよ。周囲からは「解散ライブの音源を出せ」とかいろんなことを言われてる。でも、聴けば分かるけど、歌も楽器も間違いだらけ。録音もバランスが最低だし。今回収録した仙台のライブ演奏は比較的出来がいいんだけど、客席からワンポイントで録ったカセットテープから起こしているから、音質はあまり良くない。そんなふうに、あちらが立てばこちらが、みたいなのばっかりで、不満だらけ。この40年間、自分自身、ライブのアンサンブルを向上させようと努力してきたから、どうしたって過去の演奏は稚拙に聞こえるよね。シュガー・ベイブに限らず、昔の演奏のライブを出したくないって言うのは、どんなミュージシャンでも当たり前のことなんだよ。

僕らは本当に、昔でいうアングラ、今でいうインディーズ・バンドだったんだよ。ガレージ・ポップの元祖だったんだ。今回のボーナス・トラックは、そんな劣悪な録音素材の中で、僕の評価でなんとかこれだったらというのを入れました。たとえばディスク2の「DOWN TOWN」は文化放送での公開録音なんだけど、当時、必ず最後に叫んでいた「Hi! Everybody!~」を言ってない。しかもクラビネットを弾きながら歌ってるという、それなりにレアなものなんだ。

「愛は幻」も、仙台でのライブがいちばんまとまってたので入れた。客席側からの録音なのでPAのバランスが反映されている。僕らの曲をよく知ったなじみのPAミキサーのオペレートなので、楽器のバランスがちゃんとしているんです。次の「今日はなんだか」のイントロで僕のギターをちゃんと上げてくれてる、とかね。

「WINDY LADY」も達郎さんのオリジナルしか知らない人には驚愕のアレンジですよね。

いや、シュガー・ベイブではずっとこのアレンジでやってたんだよね。2008年にツアーを再開してからも、このアレンジでやってる。今年のツアーでもやろうかなとは思ってるけど。こっちのアレンジのほうが圧倒的に僕は好きなんだよね。

「WINDY LADY」を作った当初は、もっとスローで、デイル・ホーキンスの曲「SUSIE Q」がもっと遅くなったようなアレンジでやってたんだけど、だんだん早くなっていった。とくに、ユカリ(上原裕さん)が参加してからは、シカゴ・ソウル風のほうがいいだろうって推敲した結果があれあんだよね。

つねに新しいものと個性化を求めた
シュガー・ベイブのアルバム作り

他の曲もアレンジは推敲していた?それとも曲によって、ですか?

時間さえあれば練習して、ああでもないこうでもないと、アレンジをいじくり回してた。あと、演奏者によってもアレンジは左右されるから、野口(野口明彦さん)とユカリでは、ドラムのテイストがかなり違うので、バンドの後期は「SHOW」をしばらくやらない時代があった。ソロになってからもそうで、あおじゅん(青山純さん)の時代は、シュガー・ベイブはほとんどやらなかった。彼だとキックが重すぎて、シュガー・ベイブの軽いグルーヴ感と合わないんだよ。小笠原くん(小笠原拓海さん)になってから、また昔の感じでやれるようになった。

ギターの村松邦男さんなんかは、もともと嗜好していたギター・スタイルとシュガー・ベイブのスタイルは一致していたんですか?

村松くんはルーツがビートルズで、そこからクリームやジェフ・ベック、マイケル・ブルームフィールドへと拡がっていった。後から僕がR&Bやバジー・フェイトンを持ち込んだり、大瀧さんからニュー・オーリンズ・ビートを教えられて、という具合に、いろんなことを吸収していった。村松くんは知的なギタリストでね。動物的じゃない。たとえ「DOWN TOWN」が彼の本来のルーツじゃなくたって、彼なりの解釈と歌心で組み立てて、それがシュガー・ベイブの音の中心的存在になっていったんだよね。あのころの自分だって、カッティングといったって、ただ訳もわからずやってただけで、今みたいな発想はまだ全然なかった。

確かにいろいろな音楽的要素が含まれていましたね。

そうね。萩原健太にシュガー・ベイブはラテンの要素があるって言われたことがあるけど、それは僕がブラス・バンドで学んだことの反映でね。「SUGAR」なんてのもヘンな曲なんだけど、ああいうのはすべてブラス・バンドの体験を通して覚えたラテンのノリなんだ。パーカッションをああいうアプローチで使ったバンドも当時はあまりなかったけど、そういうのが体に染み付いてたんだよね。

1975年当時、シュガー・ベイブのような編成のバンド・ スタイルはなかったですよね。海外も含めてモデルになるようなバンドはあったのでしょうか?

ほとんどない。ただ、コーラスをやりたくて、そのポテンシャルを上げるためには、どうしても女性ヴォーカルが必要だった。だけど、ター坊ってとっても不思議な空気感を持っている人だったから、僕が反省すべきか、時代が反省すべきなのか、シュガー・ベイブでは彼女に不幸な思いをさせてしまったと思う。あの時代の中で生き残っていくためには、どうしてもビートを強くしないといけなかったから、彼女の声域を十分に生かせるようなアレンジがどうしてもできなかった。初期の「蜃気楼の街」なんかは合ってたんだけど、そういう路線だとライブであまり受けなかった。だから、ユカリを入れて、どんどんビートを強くする方向にしか、シュガー・ベイブが生き残る方法はなかった。本当に物がステージに飛んでくる時代だったから。

ただ、その教訓は今も生きてる。自分がどういうスタンスでやるべきか、という方向性をイヤでも探らざるを得なかったからね。あの当時のロック・バンドは、セッションの最後に必ず「ジョニー・B.グッド」のような予定調和があったけど、僕は一度もやらなかった。3コードのロックンロール・ソングは絶対にやらないというのが自分にとっての美学だったからね。もちろん、ビートルズもやらない。たとえ歌詞を覚えていて、歌えてもね。

シュガー・ベイブのころもそう思っていたのだけど、やっていいこととやって悪いことをきちっと分けないと、オリジナリティーが出ないんだよ。そうでないと、ロックはただの風俗的発散になってしまう。「みんな、ノってるーっ?!」っていうやつね。それを徹底的に否定していたから、快感原則でやってくる客には、まったく受け入れてもらえなかった。ステージでヤジられる。ヘタをするとモノが飛んでくる。金沢のイベントなんかでもほとんど拍手が来なかった。満員なのに、だよ。あの時代はトリが上田正樹だったり、ダウンタウン・ブギウギ・バンドだったから。

そう考えると、ボーナス・トラックに入っている仙台のお客さんは素晴らしかった。聴き直すと、そういう記憶も蘇るんだよね。

しかし、当時の達郎さんのたたずまいやMCなんかは暗かったし、鋭い印象があるんですが(笑)

世の中を恨んでたからね(笑)。当時の僕たちって21歳とか22歳でしょ。洋楽しか聴いていない子どもが日本語で歌を作って、バンド作って、自信満々でステージに出たら、モノが飛んできたっていう。それはプライドを打ち砕かれる、いろんなことを言われたよね。「歌がなきゃ、最高なのに」とかさ。今のインターネットの書き込みみたいなのは、当時もたくさんあった。今だったらぜんぜん気にもならないけど、あのころはまだナイーブだったし、やっぱり傷ついたよね。

シュガー・ベイブは
人の縁がつながって生まれた

シュガー・ベイブ結成時の話なんですが、達郎さんがシュガー・ベイブのマネージャーになった長門芳郎さんに初めて会ったのは、どこでなんですか?

長門君とは四谷のロック喫茶「ディスクチャート」だね。シュガー・ベイブにとっての重要な出会いは2つあって、ひとつは大瀧ライン。僕は1972年に友人と自主制作盤(『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』)を作ったんだけど、その時に僕の友人で、はちみつぱいのギタリストだった本多信介にアンプを借りた。そのお礼に彼に1枚あげたものが、高円寺のロック喫茶でかかっていたのを、伊藤銀次が聴いて、そこから大瀧さんにたどりついた。

もうひとつは、長門君がディスクチャートのバイトをやっててね。新しいロック喫茶ができたというので行ってみたら、ビーチ・ボーイズがかかってた。あの当時は、ビーチ・ボーイズをかける店なんて一軒もなかった。ビーチ・ボーイズ人気がどん底の時代だからね。そこで長門君と知り合って、彼に自主制作のレコードを聴かせたの。長門君が興味を持って、そこから付き合いが始まった。

で、長門君から、週に一度、店がハネたあとの深夜に行われていたセッションに呼ばれて、行ってみたらそこにター坊がいて、みんなでター坊の曲のトラック作りを手伝っていた。そこでシュガー・ベイブが生まれたというわけ。

40年の歴史を振り返ってみると、達郎さんと長門さんの出会いは大きいですね。

大きいですよ。僕は人の縁には恵まれたよね。長門くんにしても、大瀧さんにしても、そういう偶然が重なったんだよね。偶然の出会いって、とても大事。それがかなわない人もいるし。僕はそういう意味では本当に人の縁に恵まれた。

最初に大瀧さんの家に行ったのが’73年の8月。はっぴいえんどはもちろん知ってたし、大瀧さんのソロ・アルバムも知ってた。僕は、はっぴいえんどは、大瀧さん以外はあまり興味がなかったんだ。1枚目も2枚目も大瀧さんの曲しか聴いてなかった。1枚目は「春よこい」、「かくれんぼ」、「12月の雨の日」の3曲ばかり聴いていた。

でも、そういうことよりも、大瀧さんはアメリカン・ポップス、とりわけスクリーン・ジェムス(キャロル・キング、バリー・マン等を擁する音楽出版社)に造詣が深いという話だったんで、初めて会うときにナメられちゃいけないから、何を持っていこうかなって考えて。で、エリー・グリーンウィッチのソロシングルを持っていった。バカだよね。「なんだあいつは」って(笑)

デビューのプロモーションがなかった
シュガー・ベイブ

発売当時のプロモーションは?

ほとんどなかった。倒産寸前のエレック・レコードだったから、宣伝総予算50万円(笑)。バンド結成当初は、ライブができる環境もまだ全然整ってなかった。楽器やヴォーカル・アンプといった機材一式が自前で揃えられないと、仕事ができなかった時代。今のようなライブ・ハウスという形態は、もう少し後のムーブメントなの。渋谷のジャンジャンなんかは、昼間なら出してもらえたけど、昼間の出演料は5,000円で、ギターアンプ1台借りたらなくなっちゃう。

そのうち、レコード会社が出資して、池袋の芝居小屋「シアター・グリーン」で「ホーボーズ・コンサート」が始まり、荻窪にはロフトが誕生し、そうした低リスクでのライブ環境が生まれたのが、1974年。’73年にはそういうのもなかった。

そんな時代、ジャンジャンで演奏の時、いつもPAを持ってきてミキシングしてる男がいて、それが後にシュガー・ベイブのマネージャーになる柏原卓だった。もともと浅川マキさんのマネージャーで、その時点では山下洋輔トリオのマネージャーだった。それで、彼と長門君と数人で一緒に事務所を作ることになった。バンドのマネージャー同士がくっついたという、互助会みたいなものだった。

トップ40の洋楽ばかりを聴いていた
人間が集まった

シュガー周辺の人たちは相当な洋楽マニアの集まりだったのでは?

みんなへそ曲がりだったね、普通のやつが聞いてるものなんて聞きたくない。トップ10の曲には見向きもしないで、ビルボードの30位や40位くらいをウロウロしていた曲ばっかり聞いていた。

サブカルチャーの共同幻想というか。ビートルズやストーンズよりアソシエーションやラヴィン・スプーンフルのほうがオシャレだっていう強固な自意識があったんだよね。別の言い方をすれば、優越意識だね。リスナーとしての自己と他者との差別化をすること、同時にプレイヤーとしての自分を差別化するということは、何より重要なことだと我々は思っていたんだけど、現実のショウ・ビジネスの世界では、ヒットソングとかベストセラーといった最大公約数的なものが重要視されるわけでしょ。僕はミュージシャンとして音楽を作って40年になるけど、リスナーから数えたら、もう50数年なわけで、自分のスタンスは何かと問われれば、昔も今も「差別化」です。

1976年に、オールナイト・ニッポンの2部をやっていたことがあるんだけど、毎週プロデューサーに呼ばれて「お前の番組はマイナーすぎる。10曲かけたら、7曲は誰でも知っている曲をかけろ」って言われる。「僕は、ミュージシャンなんです。選曲が自分のアイデンティティーと直結してるんです」って言っても、「これは公共の放送なんだ。そういう理屈は認めない。そういう音楽は家で聞け」って言われるんだよね。そんな金太郎飴みたいな放送の何が面白いのか、今でもそう思ってるけど、メジャーな世界では、全く通用しなかった。10ヶ月でクビだった。そういう意味では、今はいい時代になったよね。そうとうカルトな選曲だけど、僕のFMレギュラー番組「サンデー・ソングブック」は、おかげさんでもう22年も続いているからね。

ライブ・ハウスに集まった熱狂的なファンもそこに反応したんじゃないかと思うんですが。

まあ、あの時代はホントにサブカルだったからね。観客もそういう反応のしかただった。とっかかりがそうだったから、今でもそういうサブカル意識は自分の中に濃密に残っている。なるべく情報を拡大させたくない。あまり間口を拡げると、ウソが出てくるから。僕の考え方はそうなんだけど、メディアはそう思わないんだよね。10万枚より200万枚売れるもののほうがエライって思ってる。ライブ・ハウスより東京ドーム。

だけど、たとえば、三遊亭円朝。彼が日本の文学にどれだけの影響を与えたか。毎日、寄席で100人前後の客を相手にしていた文化なのに、なぜ後世にそれほどの影響力があったのか。それは、彼の落語を記録した速記本があったからだよね。誰が感応して何を残すか。それが大きいんだ。

とはいえ、恣意的にやったら離れていきますよね。

それはすべて、あとから人が決めることで、望んでそうなれるわけじゃない。だけどたとえば、はっぴいえんどを聞いていた人々のかなりの部分は業界に入っているよね。そういう文化意識はいつの時代にもあって、たとえそれがサブカルチャーなものだったとしても、そういう意識の集合が語り部を生み、後の歴史に刻んできたんだと思う。

シュガー・ベイブのころ、ミュージシャンをやっていこう、音楽の表現者になろうと思ったとき、どういうアプローチがいいのかをずっと考えていた。今から思えば、シュガー・ベイブにヒット商品としての商業性はなかったけど、特色は十分に持っていたんだよね。それだって立派なマーケティングだったと思うし、そういう意味では差別化というより、単なる突っ張りだったのだろうけど、意識のどこかでこだわっていたんだ。

今も昔もよくある話だけど、「俺たち、最高のアルバム作っちゃったぜ!」なんていうエクスタシーやカタルシスなんて何もなかったし、むしろ不満だらけだった。なかでも、レコーディングの環境があまりに悪かったので、せめて曲だけでも聞いて欲しいということで、アルバムに「SONGS」とつけたんだよ。だけどそれは間違いだったと、あとでわかった。あのインディーな録音環境と、大瀧さんのミキサーとしてのセンスが、あのアルバムを生んだんだ。

それは本当に幸運なことだった。「SONGS」もまたロックンロールのアルバムとなり得たから。当時、こういうサウンドで作られたガレージ・ポップは他になかった。高い演奏技術があって、メジャーなレコード会社、メジャーな事務所、立派なスタジオ環境のもとで作られても、なぜかいつしか顧みられなくなる。曲や歌唱の問題もあるけど、録音の問題も小さくない。グループ・サウンズの時代を考えればわかる。ロックの録音ノウハウを知らないミキサーでは、ロックンロールの音は作れない。

音楽に感応して伝えてくれる人たちが
いたから残ってきた

発売から40年たって「SONGS」の音楽性そのもののは何も変わってはいませんが、受け止められ方は、’75年と今では大きく変わりました。

何度も言うけど、感応して伝えてくれる人がいたんだよ。その語られ方が時代ごとに変わるのは、当然のことでね。そりゃあ、40年の歳月は大きいよ。あの時20才が、今じゃ還暦だもの(笑)。

シュガー・ベイブは、ター坊と大瀧さんと僕との三つ巴で生き残ってきたんだよね。大瀧さんもター坊も立派に生き残ってきたんだからさ。大瀧さんも願わくば、せめてアルバムもう1作、作って欲しかったよね。

資料的にもほぼ情報がコンプリートに
網羅された今回のアルバム

今回は資料もいろいろ出てきて、商品的にも、ほぼコンプリートですよね。ミュージシャンのクレジットも全曲、記録に残していたんですか?

そんなの、音を聴けば分かるもん。ミュージシャンのクレジットを曲ごとにきちんと記載したいとは、ずっと思ってた。せっかくの40周年記念盤だもの、昔のクレジット表記のままじゃ面白くないでしょ。今回は曲ごとのパーソネルを、でき得る限り詳細に記してあります。それでも、たとえば、「ためいきばかり」のコーダのソロの右側は僕なんだけど、村松くんも同時に弾いてるので、そういうのは字で書きようがなくて、あきらめた。

レコーディング・スケジュールも、大瀧さんの残したノートと僕のをつき合わせて、ほぼ全部判明した。1日だけ不明なんだけどね。クレジットも、ひょっとしたら「いつも通り」のグロッケンはター坊が叩いていたかもしれないとか、わずかな問題はあるけど、いずれにせよ、これで決着だと思う。レコーディングの時系列がはっきりしたことは、とてもよかった。

歴史のIFでしかないのですが、仮に「SONGS」のセールスが成功していたらどうなっていたでしょうか?

そういうIFは、想像もできないなあ。でも、たとえそういうのがなくても、現実に大きな変化はいくつもあった。4月25日発売のあと、5月に渋谷ジャンジャンでライブをやったんですよ。それまではジャンジャンはいつも昼の部で、多くて30人程度だった。それが昼間なのに、いきなり立錐の余地がないくらいお客がいっぱいになって、ものごとを世に出すってすごいことなんだって、あらためて思った。自主制作盤の時もそう思ったけど、形にして提示しないと人は認めてくれないんだよね。今の若い人にもよく言うんだけど。

今回のジャケットは、オリジナルの雰囲気がただよってますよね。デザインは、オリジナルと同じく金子さん。

これは元ネタがフランスの写真で、おじいさんとおばあさんに見えるけど、じつはオカマの2人なんだよね。

イラストとデザインは、オリジナルと同じく、僕の古い友人の金子辰也。彼は今はプラモデルのジオラマの大家でね。日本のジオラマの始祖と呼ばれている。その筋ではカリスマな人です。僕の中学の同級生に、一緒にアマチュア・バンドをやって、そのまま自主制作盤まで続く友人がいて、彼は東武東上線の成増の地主の息子でね。僕は駅2つ手前の東武練馬、金子くんは4つ先の志木に住んでいた。10代のころ、そこに入り浸ってた時代に知り合ったんだ。これも人の縁だよね。みんなそろそろ50年の付き合いになるよ。ちなみに、駅1つ前の下赤塚の出身者には、尾崎豊や石橋貴明がいる。

その後のメンバーの活躍も目覚ましいですね。翻訳家に転身した寺尾次郎さんとか。

寺尾君はシュガー・ベイブのメンバーだったときに、学食でメシ食ってたら、まりや(竹内まりやさん)の入ってたサークルが「あれがシュガー・ベイブのベースだ!」と言って騒いでたらしいよ(笑)。昔からの映画好きが昂じて、今じゃ映画字幕や翻訳の大御所。そういうのって、とてもうれしいよ。

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