92歳元米兵、収容所の過酷な日々証言 京都・宮津で捕虜
第2次世界大戦中、京都で唯一、宮津市にあった捕虜収容所「大阪捕虜収容所大江山分所」に収容された元米兵の男性(92)が終戦以来70年ぶりに来日し、実態がよく分かっていない大江山分所の劣悪な環境、強制労働などを証言した。敵国で過ごした過酷な日々を振り返りつつ、「過去のこと。今は日米の平和と和解を心から願っている」と話した。
リランド・D・チャンドラーさん=米国イリノイ州。外務省の招聘(しょうへい)事業で元捕虜の米国人8人とともに11日から19日まで来日。滞在先の京都市内で取材に応じた。
チャンドラーさんは1941年に志願して米陸軍に入隊した。フィリピンのコレヒドール島で所属部隊が降伏し、捕虜としてルソン島のカバナトゥアン収容所に収容された。たびたび整列点呼があり、「『キヲツケ』『サンビャクハチジュウキュー』(捕虜番号の389)の日本語を初めに覚えた」。
42年11月に約1500人の米兵とともに船で日本に移送された。船内の環境は劣悪だった。家畜部屋に無理やり詰め込まれた。捕虜の指輪を剝奪し、うまく抜けない時には銃剣で指ごと切り落とした日本兵もいた。「仲間がすぐに助けに来て、祖国へ帰れる」と信じていた。
大阪市の淀川製鋼所で約2年半、強制労働に従事した。45年5月、空襲が激しくなり、大江山の収容所に連れていかれた。
朝の午前8時から暗くなるまで、宮津湾で艀(はしけ)から物資を下ろす作業を続けた。食事は朝と夜におにぎり一つだけ。木造平屋の掘っ立て小屋のような収容所。風呂もなく、汗を流すため「作業中に自分の意思で宮津湾に飛び込んだこともあった」。戦況もほとんど分からない。「戦争が終わり、解放されるのだけを楽しみに、毎日働いた」
やがて終戦。捕虜たちは歓喜した。45年9月に横浜から帰国の途についた。
戦後10年間は日本への怒りが収まらなかった。しかし、教会に通ううちに全てを許す境地になった。
70年ぶりに来日した。「今の日本は本当に素晴らしい。日本人は変わったし、米国人も変わった。平和や和解、友好を感じ、今は心から笑える」。笑顔で話した。
戦争捕虜や収容所の実態を研究する「POW研究会」共同代表の福林徹さん(67)=亀岡市=は「元捕虜の大半は90歳を超え、大江山の元捕虜も今は数えるほどしかいない。収容生活の実態などの様子を聞けるのは今回で最後だろう。貴重な証言だ」と話している。
【 2015年11月03日 17時00分 】