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田中 宏 さん
プロフィール

1937年岡山県生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修了。経済学修士(一橋大学)。現在、龍谷大学教授。専門は日本アジア関係史、ポスト植民地問題。著書に「在日外国人新版」(岩波書店)、「遺族と戦後」(共著・岩波書店)など。
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(龍谷大学教授)
「21世紀の日本と外国籍市民」
2001年3月14日
龍谷大学にて
「共に生きる」日本社会を築くための課題は何か。
1960年より一貫して在日外国人の人権問題にかかわり、積極的に提言してこられた田中宏先生にお話をうかがいました。 |
Q:在日外国人の現状について、どう見ていらっしゃいますか?
特徴的なのは、歴史的経緯のある在日コリアンよりもニューカマーの数が増え、比率が変わってきていること。都道府県別の統計を見ると、登録外国人のうち中国人が一番多い県が13、ブラジル人が一番多い県が10もある。これは47都道府県のうち約半数です。
従来、たとえば10年前なら、ほぼどこでもコリアンが一位でした。ちなみに現在、ブラジル人が特に多いのは愛知県(4万人)と静岡県(3万人)ですが、この地域にはトヨタなど製造業の大手企業の下請け・孫請け会社が多く、1989年の「入管法」の改正で就労が自由化された日系人を吸収しています。
これは、かつて「在日」の人々が戦前戦中に軍需産業等に動員されて、その現場に住んでいたのと同じ構図と言えます。
エルクラノ事件(※1)が起こったのは愛知県、アナ・ボルツ事件(※2)が起こったのは静岡県だが、これは起こるべくして起こった事件といえます。
また、愛知県の豊田市や豊橋市にはブラジル人学校ができており、その一つは、生徒数360人の全日制の学校です。しかし、これらの学校には、制度的保障はまったく何もありません。これは、かつての朝鮮人学校がたどってきた道と同じ。タイムラグ50年をおいて、同じことが起こっているのです。ニューカマーが、かつて「在日」がたどったのと同じ構造を、50年後に追っかけている、という視点で見ることが大事ではないでしょうか。
Q:田中先生は、排除でなく「共に生きる」社会を築くための「発想の転換」が必要とおっしゃられていますが、日本社会の課題だと考えられることについてお話ください。
ニューカマーが増えたことによって、従来からの「民族差別」が国際的な「人種差別」として顕在化したことです。
これまで日本人は、国内に人種差別があるとは思ってこなかった。しかし、先に挙げたエルクラノ事件、アナ・ボルツ事件、さらに小樽の入浴拒否事件(※北海道小樽市の入浴施設が外国人の入浴を拒否した事件)は、顔かたちを見ておこなう差別です。小樽で拒否された外国人3人が最近裁判を起こしたが、その原告の一人は日本国籍を取得してもやはり入浴を拒否された。
すなわち、「あなたの人相では、やはり日本人の入浴客が減る」と言われて拒否されました。これは日本社会に潜在していた差別です。人種差別撤廃条約に加入した日本には、それを遵守する国際的責任があり、日本の人種差別が国際的な視線にさらされる状況にあります。
おそらく日本社会にとって一番しんどい問題は、「差別は、泥棒や人を傷つけたりするのと同じく、道徳的に悪であって、限度をこえた行為については、刑罰制裁の対象にもなることなんだ」というコンセンサスをどうつくるかでしょう。外国人を排除するステッカーを貼った店があっても、民族差別や人種差別を禁ずる法がないから、現在では何もできない。食中毒を起こした店が何日か営業停止になるのは、食品衛生法といった法律があるからだし、企業が男性だけを雇いたいと思っても、今や(男女雇用機会均等法があるから)できない。
つまり、差別を抑止するために法律が必要なのに、民族差別や人種差別に対しては存在しない。もちろん、法律があったら差別がなくなるわけではないが、差別をしたら免許取消や罰金刑を受ける、といったシステムがあれば、状況は変わってくるでしょう。
Q:日本は今後、移民を多数受け入れて多民族国家になっていくのでしょうか。
どう考えても、日本における人口の現状を考えると、「外国人の参加を得ないと、日本社会はまわらなくなる」と思います。それは必然なのだから、腹をくくるしかないでしょう。
被雇用者総数の統計のうち就労外国人(永住者は除くが「不法就労」は含む)の数を見ると、ずっと一定しており、既に不可欠な存在なのです。よく「不法就労」といわれますが、不法就労は「不法雇用」とセットになっているはずでしょう。彼らは一人では労働者になれない。日本側の誰が、なぜ雇うのか、そこにメスが入れられないのが現実です。
Q:「共生」社会をめざすためのビジョンは。
今の外国人参政権をめぐる議論が、ひとつのシンボリックな問題ではないかと感じています。参政権に反対する議論を見ると、「国民」にこだわり、「国籍」は「忠誠の証」という考え方です。「国民とは国家に忠誠を尽くすもの」という図式が非常に根強い。私は、「地方参政権が大事だ」と一貫して言ってきました。それは「国民」ではなく、「住民」という観点で考えるからです。
外国人参政権に反対する人は、国レベルでの「国民」と「外国人」の二分論を、社会をとらえる基本的な枠組としています。それに対して、地方レベルで、国民とは違った「住民」という概念をきちっと対置させる、そうした社会を構想し目指すことが、もう一つの考え方ではないでしょうか。私が提唱しているのは以下の等式です。
“日本国民−在外邦人+在日外国人=日本住民”。
つまり、「住民」という存在を地域社会において確立することです。国は、戦争もするし利害の対立があるわけですから、国民と外国人をまったく同等に扱うというのは、残念ながら現状では不可能です。そうではなく、もう一つ「地域社会に住んで、税金を払っているのが日本住民」という考え方をもつことです。地域社会が、そこに住んでいる人を「住民」として平等に扱う新しい原理を築くことです。
現在のような閉塞した思想状況では、排外的な風潮が確かにある。大事なのは、それに対抗する動きや、ものの見方がちゃんとあるかどうかです。ドイツでもネオナチがある一方、それに対抗する市民の動きも、それを上回るほど大きいものがある。そうした緊張関係の中で、動いていかざるをえない。喧喧諤諤と議論していくしかないでしょう。
Q:在日外国人の「先輩」としての在日コリアンのあり方や役割について、どうお考えでしょうか。
やはり、オールドカマーとニューカマーの間にブリッジをかけることが、いちばん大事でしょう、お互いに。オールドカマ−もニューカマーのことを考えることです。例えば、(元プロ野球選手の)張本勲氏が子どものころ、ヤケドを負い、お母さんが医者に連れていったが、医者は診てくれなかったという。当時は健康保険に入れなかったからです。これと同じ診療拒否を、50年後の今、ニューカマーの人々が受けています。50年のタイムラグで同じことが起こっている、と見られないでしょうか。
参政権問題が引き金になって、日本国籍取得のシステムが変わっても、人種差別と国籍による差別との関係は、もっと複雑になるでしょう。日本国籍取得が容易になったら、何の問題もないということにはならない。「在日」の人で、民族名で日本国籍を取る人がどれぐらい出てくるか。これは一人一人の選択だが、一定の社会的存在になったら、大きな意味を持つと思います。
フジモリ大統領のことを考えてみれば、よその国の大統領がフジモリなんて名乗っていたわけでしょ。
「名前を見たら国籍がわかる」のは日本ぐらいのもの。だから「通名」が変な意味で役に立ってきた。
本来、名前/民族と国籍はひとつじゃない、ということが一般化すればいいと思います。だから、民族名をもった日本国籍の人がたくさん出てくるようになると、日本人もちょっと勝手が変わってくるんじゃないかと思います。飛行機事故なんかの際、「日本人乗客はいませんでした」等というが、ああした言い方はもうできなくなるんじゃないか。
Q:最後に、「多民族共生人権教育センター」に求められることは。
オールドカマーとニューカマーにブリッジをかけること。そのためには両者の問題の共通性と固有性をきちっと踏まえたかたちで問題を提起することです。それがポイントでしょう。当然のこととして、それぞれの具体的な事例をまず押さえるべきでしょう。
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