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【社会】世界極めた魂の砲丸 ソウル五輪から無償提供 9月死去、埼玉の辻谷さん2015年11月7日 13時58分 世界一の砲丸職人がこの秋、世を去った。埼玉県富士見市で小さな町工場を営んだ辻谷政久(つじたにまさひさ)さん=享年82。辻谷さんは、1988年のソウル五輪からアテネ五輪まで、5大会連続で自ら製造した砲丸を無償提供した。出場選手は複数社の公式球から自由に砲丸を選ぶ。そんな中、アトランタ、シドニー、アテネ五輪で表彰台に上った選手が放った砲丸は、すべてこの作業場で生み出されたものだった。 (山口哲人) 「重心がずれている砲丸は重く感じて手に取るとすぐ分かる。でも、辻谷さんのはすごくバランスが良くて、手にもなじむ」 元日本記録保持者で、現在は日本陸連投てき副部長の岡野雄司さん(47)は振り返る。大学時代に辻谷さんの砲丸に出会い、成績が伸びた。「私は日本選手権で五度優勝したが、全部辻谷さんの砲丸。外国人選手も辻谷さんの砲丸を探して使っていた」という。 北京五輪まで半年に迫った二〇〇八年初めの取材で、辻谷さん本人も「球のど真ん中に重心がないと選手は選ばない」と語っていた。わずか一ミリでも重心に誤差が生じると、飛距離が一〜二メートル落ちるという。 コンピューター制御で均等に削る旋盤の方が精緻な砲丸が生まれそうだが、砲丸にはさまざまな鋼材が混じっており、鋳型に流してから固まるまでに密度に偏りが出る。そのため、単純に真ん丸に削れば良いというものではない。 「本物のモノ作りにITは関係ないんです」。旋盤で削る時に手に伝わる感触、耳に響く音。勘だけで重心をピタリと合わせる。 日本が国際規格を採用した一九八五年、同業者は次々に砲丸作りから撤退した。それまで男子は七千二百六十グラム以上ならばどの重さでも認められていた重量が、プラス二十五グラムまでと厳格化され、技術が追いつかなかったからだ。辻谷さんも例外ではなかった。不良品ばかりで、採算割れが続いた。 職人の意地で鉄球との格闘を続けた。「僕は頑固だが、吸収力、柔軟性もないとその頑固さが生きない」。鋳物の町である埼玉県川口市の工場にも修業に出向いた。マニュアルにすがるのではなく、その経験をもとに勘に頼るようにした時、満足のいく砲丸ができるようになった。 辻谷さんは「今のモノづくりには、自分で考えて作ることが欠けている」と繰り返し語った。実際、辻谷さんの砲丸作りにマニュアルは存在しない。だからまねできないのだ。 北京五輪への砲丸提供は固辞した。中国で頻発した反日デモへの抗議と、日本が開発した工業製品が瞬く間にまねされることへの憤りもあった。 妻の昌子さん(76)によると、辻谷さんは一二年のロンドン五輪へも砲丸は出さず、体力面からここ数年は砲丸作りを離れており、会社は昨年末で清算。九月二十日に急性心筋梗塞で亡くなった。 「辻谷さんの砲丸がなくなるのは残念。誰か次の職人が挑戦してほしい」。岡野さんだけではなく多くのアスリートがそう願っているはずだ。 辻谷さんは生前、全国の工業高校や豊田自動織機など大手機械メーカーを講演に回り、「手作り」の大切さを訴えていた。世界一の砲丸が、再び日本から生み出されることを信じて。 (東京新聞)
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