結婚すると夫婦どちらかの姓を選ばねばならないのは、個人の尊厳を冒さないか。女性にだけ半年の再婚禁止期間を課すことは男女平等に反しないか。

 民法の二つの規定が憲法に違反するかどうかが争われた裁判で今週、当事者双方が最高裁の大法廷で意見を述べ合った。最高裁は近く、判断を示す。

 いずれの規定も、今の時代にそぐわないのは明らかだ。法制審議会は1996年、夫婦が別々の姓を名乗る権利を認め、女性が再婚できない期間を100日に短くする規定を盛り込んだ民法改正案を答申している。

 ところが国会で全く議論されず、20年近く放置されてきた。「家族の一体感が損なわれる」などを理由とした反対論が根強く、野党が何度も改正案を出しても実質的な議論に入らないまま廃案となってきた。

 女性の人権と家族のあり方をどう考えるのか。国民の前で真剣に討議すべきなのに、自民党はそれを怠り、多数派の価値観だけが認められてきた。

 共働きの夫婦は増え、旧姓使用を認める職場が広がる。海外でも夫婦に同姓を義務づける国はほとんどなく、選択制を認めない根拠は見いだせない。

 政治が手をこまねいている以上、最高裁の出番である。

 憲法学者の樋口陽一さんは、こう唱える。「『みんなで決めよう』が民主主義だとすれば、『みんなで決めてしまってはいけないことがある』という考えのうえに成り立っているのが、人権」である、と。

 みんな=多数で決めた法律が、少数派の個人の権利を侵していないか。厳しくチェックするのは、最高裁の役割だ。

 再婚の禁止期間は、明治時代に定められた。父親が誰かという混乱を防ぐためだった。医学が発達し、科学的な親の認定もできる今、女性だけが半年間も待たされるのは、男女平等に反している。

 結婚で配偶者と姓が一緒になることに喜びを感じる人もいる一方で、「自分が自分でなくなる」と喪失感を抱く人もいる。姓をどこまで自分の証しと考えるかは人それぞれだろう。

 事実婚を選ぶと、共同の親権者になれなかったり、税金の優遇措置を受けられなかったり、様々な壁にぶつかる。

 めざすべきは、個を大切にし、多様な家族を認め合う寛容な社会だ。実質的に女性が姓の変更を強いられており、正当化できない。立法という民主的な政治過程を通じた救済が困難な中、人権を守る「憲法の番人」の役割が問われている。