同じ日の午前に会見、偶然か・・・
辺野古問題をめぐり6日午前、ふたつの記者会見があった。
1つは沖縄県庁での翁長県知事の会見だ。国交省による理不尽な是正勧告を拒否し、「公開質問状」を突き付けることで沖縄の「正義」を示した。
もう1つはあのSEALDsの安倍政権の強権政治を糾弾する会見だ。東京都内での記者会見には沖縄出身・在学の大学生らが登壇した。
どちらに置いても共通しているのは「地方自治」を国に問うというものだ。
今の日本では「地方自治」が根本から軽視されている。
自治体(県や市など)は国家の従属物ではない。しかしその「従属ストロー」を通じて国家と国民が一体化しているかのような誤解をしている人間が一定数いる。自民党に票を入れるような地方人であり、在京全国マスコミであり、「まとめサイト」を見まくってサブカル冷笑主義に陥った中年ネット原住民たちだ。
このような流れは昭和後半に革新自治体が下火になった頃からジワジワと復権しつつあった。平成以降の改革志向の政権や行政もだんだんと勢いをなくしていき、民主党政権が破綻し、野党が共倒れする一強多弱構造の中で急激に復活した。地方交付税制度などはその1つの断片にすぎない。戦前の全体主義の国まであと一歩か二歩くらいなんじゃないかと思う。
あまりにも急速で、あまりにも急激な、多くの日本国民にとって理解できないし容認しがたい流れだが、この中央集権型の国家では支配層の意思決定に国民が抗うことは難しくなっている。ネット上で可視化できる民意モドキがやかましい(実際はただの粗末なノイジーマイノリティだが)こともそれを助長している。
いまの沖縄県の考えと若者の考えは似ている。
それは、中央集権主義者と違い、「お上」への無条件な従属意識がないということだ。
一方で、個である。沖縄島の1つの意思を持った個の結集としての「オール沖縄」があるし、若者層の個の集合体がSEALDsである。
失われた20年でダメになりまくった日本を蝕む問題構造や、その責任の主体がどこにあるかは、東日本大震災以降の「フクシマ」の悲劇以降の4年間の流れを考えればよくわかるだろう。諸悪の根源は「中央集権」にある。
世界に目を向ければ、近くのアジア諸国も、欧米先進諸国も、経済的に豊かで民主主義のある普通の国はどこも「中央集権的なるもの」はそもそもない。
アメリカも台湾も公務員の聖域はない。マスメディアだって信用されていないし、アメリカには全国新聞なんてものはないしヨーロッパ各国の大手新聞の発行部数も日本の全国紙よりはかなり低い。日本みたいに5つ6つくらいの全国新聞社と全国テレビ局がガチガチに結託して全く同じ話題を全く同じ切り口から伝えまくってその文脈をひねくれて解釈したネット原住民が偏った情報空間を作るようなことは、普通の国にはありえない。個人ごとに多様化・細分化した情報空間があり、主義主張や趣味がある。地域特性もさまざまだ。そしてそういう普通の国らしい国柄を東京都民の多くは求めている。
沖縄県やフクシマのように立ち上がった場所もあるにはあるが、日本を蝕んでいるのはやはり「地方」である。都民はもうずっと官僚主義的な感覚にうんざりしているということは、東京新聞や東京MXの「ローカルな民意に基づいた報道」をみればよくわかるだろう。地方人が盲目的に信仰する「東京」的なるものの当事者に東京都民は存在しない。
だが、安倍政権を頂点とする「東京」的なるものを介した全国ネットワークの政治、行政、マスメディア、経済構造と、それを下支えするバラマキ型の行政とか、ユーモアの全国一律インフラである「サブカル」とか、そういうものがこのちっぽけな極東の島国国家に大いなる「枷」になっている。
この「枷」をぶち壊さない限り、21世紀に相応しい先進国になれない。先進国以前に今の日本はそもそも「普通の国」ではない。
沖縄と若者層が一致することは大きな流れにつながる。日本の若者の大半は東京に生きている。すると大きな流れは東京の原動力になり、東京の若者の先端の「リアル」と旧態依然の田舎者マスメディアの雛壇をテロップでぬったくったような世界に浮いた「虚構的現実」との温度差が高まるようになれば、東京都民が呆れるようなAKBや一発屋芸人にゲラゲラ笑いながらイオンモールに集っていたようなトンマな国民もようやく目が覚めるようになり、そして大いなる国民的なうねりになるのである。
中央集権の打破こそが、沖縄問題の解決であり、沖縄の真の自治の確立に繋がり、国民の力で普通の国の普通の民主主義を勝ち取ることにつながることは、もはや明白だ。