大東亜共栄圏

ベトナム、200万人の餓死
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最終更新日:2015/08/22 12:06

  ベトナムは日本では仏印と呼ばれていました。

当時のベトナムはフランスの植民地で、トンキン(東京・北部)、アンナン(安南・中部)、

コ-チシナ(交趾支那・南部)の3つに分かれていました。

フランスはこの他にはカンボジアとラオスを支配していました。

 

ベトナムを狙っていた日本軍は、1940年6月にフランス本国がドイツに占領されたチャンスを捉えて、

9月に強引に北部仏印(ベトナム北部)に軍隊を進駐させました。

いわゆる「北部仏印進駐」です。

日本軍がベトナムを必要とした理由の一つはベトナムからの中国支援を阻止することでした。

当時ベトナムからの支援ル-ト、いわゆる援蒋ルートは2つあると考えられていました。

      ・ ハイフォンからハノイを経て広西省へのル-ト

      ・ ハイフォンから東南鉄道で雲南省へのル-ト

さらには東南アジアでの前進基地や戦争資源の確保や日本本土への米の供給も大きな目的でした。

  1941年7月、立場の弱いフランスにつけ込こんで「日仏共同防衛協定」を強引に結んで、

南部仏印にも進駐する事になりました。

いわゆる「南部仏印進駐」です。

この協定で日本軍はベトナムにおいて無制限に部隊の駐留が認められ、

港や飛行場が自由に利用できるようになったのです。

国力が低下していたフランスは渋々と日本軍の要求を受け入れたのです。

 

  現地ベトナムの人たちの立場からすると、元々の支配者のフランス、

新参者の日本の両方から支配されるのですから大変です。

二重支配・・・・特にフランスの黙認による日本軍の強制労働、食料の強制供出、軍事費強制提供・・・

これらは人々の暮らしを苦しめました。

米を日本本国に送るため過酷な供出が行なわれ、

その上に田畑をつぶして軍用物資である黄麻やヒマを強制的に植えさせたことは、

ベトナム農民にとって忘れられない暴挙であり、食料強制供出と共に多数の餓死者を出す原因にもなりました。

   * 1945年当時のベトナムの新聞から (ベトナム高校歴史教科書)

・・・・とりわけこの4年来、農民は多大な犠牲と搾取をこうむった。

汗水をたらして得た米も口にする直前に、黙って空腹に耐え、

他に差し出さなければならない絹や綿を織っても妻子は裸同然で寒さに耐えている。

油や塩を製造しても、毎日味気ない糠入り粥をすすり、夜は夜で明かり一つない位暗い小屋で暮らしている。

恐らく、これまでの歴史の中で、今ほど農民が犠牲を強いられている時代はないであろう。

 

1944年8月、フランスはヨ-ロッパ戦線でドイツに勝利し、

それと共にベトナムのフランス軍も日本軍に強い姿勢を取るようになりました。

12月、日本軍はそれに対して一挙に3個師団を増強させました。

 

1945年2月、最高戦争指導者会議で「情勢ノ変化ニ応スル仏印処理ニ関スル件」が決定され、

その中の「明号作戦-通称マ号作戦」によって、3月9日、日本軍は現地でフランス軍を攻撃し武装解除しました。

それ以降ベトナムは日本の単独支配となりました。

   * 大本営発表  昭和20年3月10日 2時

  我が仏印駐屯軍は仏印当局の不信に基づき印度支那に於ける共同防衛遂に不可能となりたるにより、

  茲に敵性勢力を一掃し単独にて同地の防衛に任ずるに決し3月9日夜、所要の処置を開始せり

そして同時にベトナムに対し独立を許可しました。

この明号作戦を予測していた連合国軍は、対抗上東京空襲をすると警告していました。

3月9日に日本軍がこの警告を無視してベトナムで攻撃をしたため、翌日3月10日東京大空襲は実行されました。

 

1944年から1945年にかけてベトナム北部で大飢饉が発生し、農村部でも都市部でも多くの人が餓死しました。

日本は大飢饉による餓死で日本軍のせいではない。

仕方がなかったのだ。・・・という立場です。

確かにその都市のベトナムは台風や水害による被害がひどかったのは事実です。

しかしベトナム北部は昔から、数年に一度大災害に襲われていた慢性地帯です。

それなのにこれまではこのような大飢饉や餓死が起きることはありませんでした。

 やはり本当の原因は日本の侵略にあるのかもしれません。

* 考えられる飢饉や餓死の原因は・・・・

1 日本軍による米の強制供出

・ 日本本土への米の輸出

  ベトナムからの輸出量は

               1940年47万トン

               1941年59万トン

               1942年97万トン

               1943年100万トン

               1944年50万トン

               1945年4万5千トン

                注:1945年は戦況悪化で輸出できませんでした。

・ 数万の日本軍は2年分の米を備蓄してあった

明号作戦のために増強された日本軍は、第21師団、第37師団、独立混成第34旅団、その他で

総兵力82,000名といわれ、北部だけで25,000名がいたといわれます。

さらに一般の民間日本人つまり在ベトナム邦人が7,000名滞在していました。

それだけの日本人が2年分の食糧を備蓄していたのです。

・ フランス軍も米の備蓄をしていた

2 水田を潰して軍事物資であるジュ-ト(黄麻)、ヒマ(油性植物)を栽培させた

ベトナムでは自然災害で米が取れなくてもトウモロコシのような雑穀を代替としてきましたが、

戦争が激化すると、日本、フランス共に米やトウモロコシを強制買付けした上に、

繊維性や油性作物の栽培を強制しました。

結果として黄麻、チョマ、綿、ヒマ等穀物以外の作付けは40年度と比べて44年度には

9倍に増えています。

          5,000ヘクタ-ル→45,000ヘクタール

急速に作付面積を伸ばした軍需物資の栽培と輸出は日本の会社が行ないました。

三菱商事  三井物産  大同貿易  日本綿花  台湾拓殖  又一商会

東洋綿花  その他

3 戦況の悪化で南部から米が入らなくなった

1938年~39年の統計では、インドシナ全域の米の収穫量は年間630万トンです。

           内訳は  ベトナム北部   25%

                ベトナム中部   16%

                ベトナム南部   40%

                カンボジア    12%

                ラオス        7%

人口が多くて食料の足りない北部は地下資源と交換で南部から米を入れていました。

ベトナム全域を支配した日本軍は、連合軍の攻撃を理由に北部に米を運ぶ努力をしなかったのです。

4 天候不良

ベトナムは慢性的に天候不良と水害があって飢餓の多い所です。

特に1944年の冬からの悪天候は世界的なことでした。

戦後もベトナムは何度も飢餓に襲われていますが、1945年のような餓死者を出していません。

その時以外での最高の餓死者は1915年の200人です。

 

いくつか手記を取り上げます。

* 第21師団独立野戦高射砲第62中隊 軍曹 武田澄晴

・・・・退院の日、私はジャラムからル-ジュ河畔に移動していた中隊に帰る時、

堤防の上にずらりと並んでいる餓死者を見たのです。

愕かずには居れませんでした。

迎えのトラックの上から果てしなく続くその、

まるでイリコを干してあるような光景はショックでした。・・・・

同僚の話では「なに、毎晩片付けられているのだが、次の日は又この状態だよ」とのことでした。・・・・

生まれて初めて見る餓死者、その寸前の者・・・・地獄でした。

ほとんどが子供と老人でした。ムシロがかぶせてあるので死んでいるのかと思って見ると、

大きな目を開いたうつろな表情、ものを言う気力もすでになく、

じっと見つめているガイ骨のような顔々々・・・・

むすびを持ったまま死んでいる者、幼い兄弟が抱き合ってミイラのようになっている者・・・・

私も始めのうちは食物や銭を与えたりしましたが、キリがないんです。・・・・

屍体をよけたりまたいたりして、市内の軍酒保に行くのです。

そこにはありあまる山海のご馳走が安く飲食出来るようになっていました。

ああ、この地獄に取り巻かれた中での痛飲飽食!サービスするベトナム娘はどんな気持ちだったでしょう。

その頃、師団は決戦に備えて2年分の食料を確保していたそうです。

* 第21師団第62連隊 2等兵 小林昇

・・・・猛烈な飢餓の惨状にいきなりでくわした。

四方から流れ着いた農民の家族たちが、文字通り骨と皮だけになって、街路で斃死してゆくのである。

それは栄養失調ではなく、絶食の死であった。

息を止めた夫の身体にすがって妻や子の哭いている歩道を、幾時間して又戻ってくると、

妻の方ももう声明のしるしがかすかになっているというような、

やがていたるところで接しなければならなくなる光景に、私は始めて接したのであった。

市の大八車が路上のそういう死者たちを積み上げて、屍臭をふりまきながら焼場へ運んでいく。

その車には、まだ確か息のかよっていると思われる身体も積み込まれていた。

 

このように考えると、やはり戦争の結果の餓死という見方が正解かもしれません。

餓死者は200万人といわれています。

日本政府では、推定30万人と主張しています。

 

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