HOME〉philippines Philippines 9 >2003-04 凄惨「マニラ市街戦」 ルソン島の戦いⅠ フィリピン Republic of the Philippines |
〈NHKのカメラに向かって語る中村勝美さん 2007 3末 捕虜時代の中村さん 左側〉 |
〈中村勝美さん〉 (サンチャゴ要塞の地下牢〉 (マニラ市内に立つ、リサールの像」〉 (;現在のマニラ市内はビルが立ち並ぶ〉 (静かに語る中村さん〉 (上空からのマニラ市中心街のマカティ〉 (捕虜収容所で〉 (父子の別れ 右が大塚さん〉 |
「ハポン!パタイ!」とは、「日本!死ね!」という意味である。多くの日本軍兵士が、フィリピン住民にこの言葉を浴びせられ手足を切り刻まれて殺された。フィリピン住民の憎しみは激しく、フィリピン人ゲリラに日本軍は襲われていった。これらのゲリラは、米軍指揮のものが大半であったが、「フクバラハップ」と呼ぶ抗日人民軍もあった。 フィリピン戦は、ひとつの国家がその野心によってよその国を支配し、そこで戦争をするということはいったい何を意味するのか。そしてその結果、どのようなことが起こるのかを私たちに教えてくれる。 昭和19年12月米軍はミンドロ島に上陸し、日本はレイテ決戦を諦めルソン島での作戦に切り替えた。しかしルソン島決戦は、「本土決戦」の時間稼ぎの意味しかなかったのである。 昭和20年1月26日、アメリカは空母12隻の大艦隊でリンガエン湾に上陸した。アメリカはわざと、3年前に日本軍が上陸した海岸を選んだ。ここに、日本軍への「復讐」の姿勢がみえる。 首都圏マニラが、攻防戦の主戦場になりそうであった。山下大将はマニラ市民を戦闘に巻き込むことを避け、山中の持久戦を選択した。米軍はマニラに向かって突進し、2月3日市内に突入した。 ここで山下大将は、マニラを戦場にしない事を主張したが大本営は認めなかった。山下の陸軍はマニラから離れたが、マニラ市内には海軍の1万が残っていた。彼らは戦車も砲もなく、小銃は3名に一挺という状況で激しく抵抗していく。 この海軍マニラ防衛部隊第4大隊に所属した一人が、中村勝美さんである。中村さんは、北海道幕別町に大正14年生まれの当時満20歳であった。「マニラ東部のマッキンレー地区を守備していました。直接米軍と対峙したわけではありません。丸一日米軍の砲撃を受けて、砲弾の飛んでこない教会の墓地の中で砲弾を避けていました」 2月3日市内に侵入した米軍と、激しい市街戦が三週間にわたって展開された。国会議事堂をはじめ主要な建造物はことごとく破壊され、マニラは焼け野原となっていく。見境いなく住民も戦禍に巻き込まれ、フィリピン市民の犠牲者は、10万と言われている。 「男子は情報を得たのち全部殺す事、逃げる女子も殺す事」という方針を日本軍はとり、女子供までも殺戮に巻き込まれていった。更にアメリカの無差別爆撃も、市民を殺傷した。 日本軍憲兵隊本部のある「サンチャゴ要塞」も爆撃され、フィリピン人受刑者が死亡している。「サンチャゴ要塞」とは、植民地時代にスペインが建設したマニラの中心部にある「牢獄かつ要塞」の建物である。 従って植民地時代の象徴的な存在であるが、アメリカ統治時代は陸軍本部、日本統治時代は憲兵隊本部と牢獄として使用されていた。牢獄の内部を覗くと、日本軍憲兵の人形が見えた。昭和20年2月、この牢獄内で600名の連合軍捕虜が殺害されたという。フィリピン人のこの戦争の犠牲者は110万人、マニラでは10万人である。 「フィリピン市民は、みんな敵だったんですよ。ふと振り返ると、垣根からピストルがむけられていることもありました。アメリカは占領時代に善政をしいて、道路や学校作ったんです。ところが日本は、フィリピンから毟り取ることはあっても与えることはなかったんですよ。フィリピン人は私たちにも平気で、マッカーサーは帰ってくるといっていました。確かに私たちも、フィリピン人の家を焼き討ちしゲリラをあぶり出しにしたりしました。でもね、私は部下にみだりに市民を殺してはいかんと言っていたんです。市街戦が始まると部下がいきり立ってしまい、市民をいきなり銃剣で刺してしまったこともありました」 中村さんは、平和や人命への思いが強い方であった。 日本軍は、無謀な夜間の斬り込み攻撃をマニラでも続けていった。2月12日に、中村勝美も斬り込み隊に参加している。 2月26日岩淵少将は、部下を司令部の地下室に集め酒を酌み交した後に自決した。こうして3月3日、マニラ市街戦は終了した。そのころマッカーサーは、「コレヒドール要塞」を奪回している。ここでは5千名の日本軍が、捕虜になることを望まず壊滅した。 2月26日夜、中村勝美の中隊45名はマニラから東方に後退を始めた。多くの兵士が経験する、地獄のジャングルの逃避行である。アンチポロ・ラグナ湖からアゴス川沿いにインファンタ方面に向かった。 30歳を越えた高齢の兵士が多く、体力的にも彼等は辛い立場にいた。 中村勝美は、現在お住まいの北海道幕別町の開拓農家に生まれている。中村家は大正3年に富山県から入植し、6人兄弟の次男として家で農業を手伝っていた。 マニラ東の山岳地帯では6月末に組織的戦闘が終わり、その後兵士は広大な地域に分散し自活自戦を始めた。 アメリカ軍の斥候隊とも、何度も遭遇している。 45名の中隊のうち、この時生き残っていたのは7名であった。彼はパタンガスの捕虜収容所に送られた。 日本の兵士とされたものは、たとえ生活の基盤がフィリピンにあったとしても、戦後日本に強制的に送り返された。こうして生まれたのが、フィリピン残留日系人や孤児である。その後この大塚さん親子がどうなったかは、中村さんも分からないという。 |
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