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74 奴はカムラ 8
今回の最新話ではたいへん不快な表現が含まれています。
ご容赦くださいますと幸甚です。
俺たちは暗闇の中を駆け走った。
バジリスクのあかちゃんが咆えたのだ。
それは猟師小屋で何かが起きた事を知らせているに違いない。
何者かが俺たちが留守にしている間を突いて侵入したのである。
片手に天秤棒を持って、もう片方の手にランタンを持って、途中で転がりそうになるのを必死に耐えながらひたすら走った。
タンヌダルクちゃんはフリルのついたスカートを着ていたけれど、それを両手で持ち上げて全速力で走っている。
「旦那さま、わたしの事はいいですから先に!」
背後からそんな声が聞こえたけれど、俺は今年で三二歳になるおっさんだからこれで全速力だった。
元いた世界では普段から膝に負担をかけないようにウォーキングと軽いジョギングしかしていなかったことが悔やまれる。
畜生、こんな事ならもっと全力で走る練習をしていれば……
教会堂から猟師小屋までの道のりは単純だった。
草道を照らす明かりが何もない場所でも、せめてほとんど一本道だった事が救いだ。
あかちゃんの激しすぎる夜泣きを聞いたからだろうか。
途中の家々から不安そうに顔を出している村人たちの姿があった。
「おいよそ者、何があった!」
「わかりませんよう。とにかく今は急いでいますので!」
また背後で会話する声が聞こえ、それが遠ざかっていく。
タンヌダルクちゃんと村人が何言か言い合っていた様だけれど、それは彼女に任せておいた。
また足が絡まりそうになって転がるのを必死に耐えた。
距離にして一キロもないはずだが、それでも何もかもがもどかしい。
疲弊して、徐々に足が遅くなっていくのがわかる。
くそ。俺よりもひと周り以上若いタンヌダルクちゃんは、徐々に追いついてきたらしい。
あと少し、あと少しで、猟師小屋に到着する。
俺は最後の力を振り絞って全速力を出した。
ペース配分もあったもんじゃねえ。
もしも俺たちの留守にしている間を狙ってカサンドラを襲ったというなら、きっと体力配分を考えて少しは余力を残しておくべきなのかもしれない。
けれどそれが今の俺ではわからない。
脳が働かず、焦りと不安とでいっぱいいっぱいだ。
脳に酸素が行き届いていないのだろう。
そんな状態で荒い息をしながら、俺は猟師小屋に到着した。
「カサンドラ、どうした! 開けてくれ!」
「義姉さん、大丈夫ですか?!」
小屋の扉に手をかけて押し開けようとしたけれど、出来ない。
中からは何事か争う声が聞こえる。
閂だ。中から閂が降ろされているのだ。
俺は何度も蹴ったり体当たりをしたりして必死にこの扉をどうかしようとした。
「旦那さま、どいてください。わたしが開けます!」
「え?!」
「こうして、やるんです!!」
どこにそんな力があるのかという具合に、俺を強引に押しのけたタンヌダルク。
扉から距離をとって、おもいきり肩から扉に体当たりをかました。
さすがに野牛の一族のタックルは強烈だ。
ドゴンッ! という激しい音とともに、閂が軋む音がした。
もういち度タンヌダルクが勢いをつけてぶつかる。
俺がやるよりも腰が入っていて、タックルは破壊力がありそうだ。
「ちっくしょう。これでもだめなんですか!」
「俺もやる。一緒に!」
「はいっ。せーの!!」
ドガンッ! と数度目のタックルを一緒にやった後で勢いよく扉が割れて、ふたりそろって猟師小屋の中に飛び込んだ。
猟師小屋の中で俺が目撃したものは、下半身だけを丸出しになって妻カサンドラを押さえつけているおっさんの姿だった。
「ん゛ん゛ん゛ん゛ッ」
「誰だ俺とカサンドラの幸福を邪魔する奴は」
「ギイイッギイイイイイッ!」
カサンドラの服は乱れ、口には布の様なものを押し込まれていた。
必死で抵抗したのだろう、家の中は滅茶苦茶になっている。
バジルは、バジルはどうしているのか。おっさんの脚に必死でかじりついていた。
歯も無い嘴で必死に喰らいついていた。
考えるよりも早く俺は動いていた。
必死で走り抜けた後の虚脱した俺の体は、無駄に力を籠める様な余力など残っていなかった。
妻を押さえつけているおっさんの背中を強引につかむと、そのまま寝台から床に引きずり倒す。
そのまま数発おっさんの腹に蹴りを入れてやる。
「手前ぇ、俺の妻に何してるんだ!」
「シューターか。遅かったな」
「言え、何をしているんだって聞いてるんだこのやろうッ」
「これはすべてお前がいけないんだ。お前さえいなければ!」
「何だと?!」
「お前さえいなければ、カサンドラは不幸にならなかったんだ。俺と結ばれて幸せになったんだ」
おっさんは狂気の顔を浮かべて笑みを浮かべていた。
耳からは血が流れている。
バジルのバインドボイスでやられたのだろうか。
気色の悪い顔をしやがって。
俺は拳におもいきり力を入れて、顔面を殴りつけてやった。
「義姉さん、大丈夫ですか?!」
「ん゛ん゛んッ。ごほっカハッ……」
「怪我はないですか? 乱暴されたんですね? もう大丈夫です。わたしと旦那さまが側にいますから」
「………けほっ」
「旦那さま、怪我はしていません。傷は無いみたいですけど……」
「どうしたッ」
「あの、えっと」
まさか、このおっさんに穢されたんじゃないだろうな。
「お前いったい何てことをしてくれたんだ!」
「シューターがすべて悪いんだ」
こいつ、耳がいかれてるのか。狂ってるのか?
俺が何度も殴る、蹴るを繰り返しているにもかかわらず、顔は決してニタついた気色の悪い顔を崩そうとはしない。
俺の拳はとうとう皮が破けて、使い物にならなくなってしまった。
腹が収まらない。怒りが収まらない。
息遣いもあらく次は拳の腹で殴りつけてやろう、ぶち殺してやろうと覚悟の拳を振り上げた時。
「シューター、もういいだろう。いい加減その辺りにしとけ」
背後から俺にしがみつく奴がいた。誰だ俺を止めるやつは、放せっ。
「どけ、放せよ」
「これ以上やったらおっさんが死んでしまう。落ち着けシューター」
声の主は鱗裂きのニシカだった。
馬乗りになっておっさんを押し倒している俺を、ニシカさんが必死に抑え込んだ。
「…………」
「そうだシューター落ち着け。さあ、立ち上がれ」
「はい……」
「この騒ぎだからじきに村長も来るだろうぜ。な? 今は落ち着いてな」
「そうですシューターさん。今は村長さまを待ちましょう、それより義姉さんを」
「ああ」
ニシカさんとタンヌダルクに諭されて、しぶしぶおっさんから離れる。
おっさんが上体を起こすと、俺の方を見上げてまだ潰れた顔でニタついた顔をしていた。
今は耐えるんだ……
「カサンドラはもう俺のものだ」
その言葉を聞いた瞬間に。
俺は最後の理性が吹き飛んでしまう。
「殺してやる」
俺は貫手で喉笛をひと息に突いた。
◆
俺の名は吉田修太、三二歳。
異世界で家族を手に入れた幸せ者だった男だ。
そのはずだった俺が、どこでボタンを掛け違えたのか妻カサンドラを凌辱された。
怒りのあまり、俺はおっさんを殺しにかかった。
そこまでははっきりと俺の意識の中にある。
その後で手の付けられなくなった俺は、ニシカさんやかけつけた周辺の村人たち、それに妻たちが必死になって取り押さえた事でおっさんから引き離されたらしい。
今の俺は石塔の地下にある牢屋の中にいる。
ひとをひとり殺したのだから当然の結果なのかもしれない。
それでも妻を穢した男を、俺は許してはおけなかったのだからこれでいい。
この村のルールに従った場合、俺はどういう風に処断されるのだろうか。
盗みには腕を、殺しには死罪で。
その理屈であれば俺は殺されるのかね。
やってられるか……
あぐらをかき、鎖に繋がれ、じっと汚らしい天井を見上げながら時間の経過もいつしかわからなくなってしばらくした後、女村長とニシカさん、もうひとりの妻タンヌダルクが俺の元へ訪ねて来た。
「こういう結果になったのは、わらわにも責任がある。たいへん申し訳ない事をした」
「…………」
言葉も無く女村長を睨み上げていた俺に向かって、目を伏せた彼女は言葉を続けた。
「カサンドラは今、診療所にいる」
「…………」
「もちろんオッサンドラは最後まで出来たわけではないが、それでも助祭が念のために避妊の施術を施しているので、間違いで子が産まれる事は絶対にないので安心してくれ」
オッサンドラという言葉に俺の胸が疼く。
まだ殺しても、殺したりやしねえ。
「それとオッサンドラは一命をとりとめたぞ」
「しぶとい男です。喉が潰れて声が出なくなったらしいですけど、まだ生きているんですよ」
あんな男に、助祭が聖なる癒しの魔法を使いやがったのか。あんな男に……
悔しさのあまり、ギリギリと歯ぎしりをしてしまった。
死ねばよかったのにな。
「オッサンドラは容態が回復次第、罪の度合いにあわせて村の奴隷身分とする。残念ながらここには奴隷商人がおらぬゆえ略式だが、それで堪えてくれ」
「俺は、どうなるんですかね」
「もう落ち着いたか。暴れないと約束をするならすぐにも出られるぞ」
何もかもがどうでもいい。
俺はやっつけ気分になって女村長を睨み返した。
「この地下牢に入ってもらったのは、暴れるお前を誰も手が付けられなかったからだ。お前は強すぎる。罪に問うてここに入れたわけではないのだけは理解してくれ」
「………」
「さあ、ここを出ましょう旦那さま。診療所にいる義姉さんが会いたがっていますから」
そうだった。
俺のことはどうでもいい。
カサンドラだ。カサンドラはどうしているんだ。
「その、カサンドラは男が近づいても大丈夫なんですか? 男を見ると恐怖心が沸くとか、そういう事は……」
「大丈夫ですよシューターさん。義姉さんは旦那さまが来るのを心待ちにしていますから」
「う、うん。そっか……」
言葉を詰まらせながら女たちに問いかけたところ、寂しく笑ったタンヌダルクちゃんが俺にそう言ってくれた。
カサンドラ。俺が油断していたばっかりに……
俺はそのまま嗚咽を漏らしつつ、解放された地下牢の扉から出た。
鎖も解かれて、石塔の螺旋階段を昇る。
外に出るとまぶしい陽の光に眼をすぼめながら、少し遠くにある教会堂を見た。
「さ、行きましょう。義姉さんのところへ。それと旦那さまの手も治療しないといけませんね。血が固まって真っ黒になってるんですから」
「ああでも、その前にカサンドラに顔を見せないとな」
どういう感情と言い表したらいいのか俺にはわからない。
いろいろと虚脱した俺は力なく笑って、けれども足取りだけは少しでも早くと診療所に向けるのだった。
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