半世紀近くにわたって埋もれていた一人の画家の遺品を調査し再評価しようとする試みが進んでいます。
初めて日本のメディアに撮影が許されました。
身の回りのものや絵画などおよそ2,000点。
画家の名前はレオナール・フジタ。
藤田嗣治です。
おかっぱ頭にロイド眼鏡がトレードマーク。
裸婦を描くフジタはパリでピカソらと並んで活躍し世界で最も有名な日本人画家となりました。
しかし激動の時代フジタは日本人から忘れられた存在になっていきます。
第二次世界大戦中がらりと画風を変えて描いた戦争画。
戦後激しい非難にさらされフジタは日本を離れます。
その後二度と日本に戻らなかったフジタ。
実像は厚いベールに覆われてきました。
戦後70年の今年そんなフジタの人生に新しい光が当たろうとしています。
(都々逸)フジタの知られざる素顔が明らかになりつつあります。
更に半生の映画化も初めて実現しました。
監督は海外でも高い評価を受ける…小栗さんはフジタの生涯を日本が西洋文明を吸収しようとした時代と重ね合わせます。
フジタからもらう具体的な手がかりはやっぱり「近代」というものですね。
欧米由来の「近代」が何をもたらしたのか。
2015年フジタ再評価の試みからその実像に迫ります。
フジタが絵を学んだパリの下町モンパルナス。
20世紀の初め世界中から成功を夢みる画家たちが集まっていました。
パリの裏通りに当時のアトリエが今も残っています。
友人でもあった画家スーチンのアトリエです。
後に巨匠と呼ばれるモディリアーニはイタリアの名門の生まれ。
スーチンはロシアの貧しい家庭の出身でした。
外国から来た芸術家たちは「エコール・ド・パリ」と呼ばれました。
「才能があれば誰でも成功できる」。
フジタも世界中から集まった画家たちと共に自由に絵を描きヨーロッパの新しい知識を吸収していきました。
フジタは明治19年東京の名門に生まれました。
藤田家は家老を務めた由緒ある武家の家柄。
4人きょうだいの末っ子として育ちました。
19歳で現在の東京藝術大学に入学。
創立後10年足らずの西洋画科でヨーロッパ帰りの黒田清輝などに油絵を学びます。
卒業制作の「自画像」です。
その挑戦的なまなざし。
大学で学ぶ油絵にフジタは飽き足りませんでした。
27歳の時フジタは単身パリに渡る事を決意します。
ところがパリに来た翌年に第一次世界大戦が勃発。
日本からの送金が途絶え貧しい暮らしを強いられます。
(猫の鳴き声)「三日何一つ食べないことがあった。
裏通りの肉屋に行って飼い猫のエサにするからとモツを安い値段で買ってスープにして食べた。
ある日肉屋が大声で私を呼びとめた。
『お前のところに猫などいないじゃないか』。
私は言ってやった。
『猫とは俺のことだ』」。
そのころの絵です。
フジタはピカソのアトリエを訪ねキュビスムという新しい絵がある事に驚きました。
「自分はどのような絵を描けばいいのか」。
フジタは模索していました。
フジタはルーヴル美術館に毎日のように通ってヨーロッパの古典を学んでいきます。
そして家ではひたすら絵を描き続けました。
1日18時間描く事もあったとフジタは記しています。
ついにその絵が認められたのはパリに渡って8年目35歳の時でした。
1921年油絵の登竜門であったサロン・ドートンヌに入選。
今フジタの絵はモディリアーニやピカソなどの巨匠の作品とともに展示されています。
女性の肌の描写はフジタが生み出した独自の表現。
パリの人々から「乳白色の肌」と絶賛されました。
肌の白さを際立たせるのが輪郭線です。
流れるような細い線。
日本画の絵筆で墨を使い一気に長く描かれています。
華やかな色使いを抑制し黒と白を強調した画面。
そのコントラストが独特のスタイルを作り出しています。
猫も人気でした。
生き生きとしたヒゲや毛並みの表現。
繊細な筆さばきがフジタの持ち味でした。
画家フジタはおかっぱ頭の風貌とともに社交界でもスターになっていきます。
(打ち上げ花火の音)フジタのマネキンまでもが作られシャンゼリゼの店先に並べられるほどでした。
女装したフジタです。
連日のように開催される仮装パーティー。
付いたあだ名は…フランス語で「お調子者」という意味です。
第一次大戦後のパリには「狂乱の時代」と呼ばれる独特の時代の空気がありました。
戦争でそれまでの価値観が崩れ人々は自由とデカダンスを享受していました。
しかし乱痴気騒ぎに興じながらも画家としての高みを目指していたフジタ。
パーティーのあとも必ず絵を描く事を自らに課していました。
小栗康平監督も狂乱の時代を生きるフジタの姿を見つめています。
(どよめき)
(笑い声)
(どよめき)
(笑い声)
(どよめき)
(どよめき)
(一同)ああっ!何をやってもいいんだという事は当然当たり前の事ですけれど…フランスで言えば市民革命フランス革命を経験してですね日本の社会とはおよそ違う。
その自由…。
自由の背後にどれだけの孤独があるかという事も同時に僕は捉えなければいけないと思うけど日本との関係で言えばね。
パリで成功を勝ち取り近代化したばかりの日本にはない自由な時代をおう歌したフジタ。
しかし日本での評価は違っていました。
「藤田氏は宣伝屋にすぎない。
ただ異国趣味からちょっと珍しがられただけでパリ人は軽蔑こそすれ尊敬はしていない」。
フジタを有名にした乳白色の肌。
この独創的な表現に対しても日本の画壇は冷ややかでした。
フジタは考案した技法を日本人仲間にも決して教えませんでした。
絵の技法は画家が自らの努力によって獲得するものだと考えたからです。
しかしヨーロッパ仕込みの技術を仲間で分かち合い西洋を吸収しようとしていた当時の日本の美術界には反発する画家が多かったのです。
日本からの批判に対しフジタはこう語っています。
戦後70年の今年東京国立近代美術館で所蔵するフジタの作品全てが初めて一堂に公開される事になりました。
日本からは正当に評価されなかったフジタ。
ようやく再評価が進みつつあります。
こちらが「南昌飛行場の焼打」という作品になります。
縦およそ2m横は5mを超える大画面に描かれた戦争記録画。
第二次世界大戦中軍が画家たちを動員し戦意高揚のために描かせた絵です。
乳白色の肌から戦争画へ。
フジタの人生にどのような変化があったのでしょうか。
パリで活躍していたフジタですが40歳を過ぎた頃から乳白色の裸婦に代わる新しい絵のテーマを探し始めます。
日本に戻ったり中南米に向かうなど旅を続けました。
メキシコで描いた絵です。
黒と白のコントラストだけでなく色彩に関心を持っている事が分かります。
やがてフジタは日本へ帰ってきました。
当時日本は中国大陸や南方への進出を加速させようとしていました。
軍は世界的画家フジタに戦争画の制作を依頼。
フジタはこれを引き受け従軍もいといませんでした。
トレードマークのおかっぱ頭も切り落としました。
その時の気持ちをこう語っています。
今回の展覧会で初めて一堂に展示された14点の戦争画。
どのようにすればよりよい絵が描けるのかフジタがさまざまな手法を試している事が分かります。
その中で暗い印象が特徴的な絵の一群があります。
これらは太平洋戦争開戦以降戦局が深まってきた頃に描いたものです。
1943年に描かれた「アッツ島玉砕」。
ベーリング海のアッツ島で日本軍が壊滅的な敗北を喫した戦いを描いています。
敵味方の区別なく入り乱れた激しい戦闘。
この絵はただの戦意高揚のための絵なのか反戦の意図も含まれているのかこれまで議論が繰り返されてきました。
しかし今回の展覧会ではこれまでと異なる視点からこの絵を分析しています。
ちょうど画面の真ん中より上ぐらいの所にですね一人が剣を刺しもう一人が「刺すな」というふうに顎を手にかけて相手を押しやっているというポーズがあってとても特徴的なポーズなんですけれども。
ラファエロが原画を描いた「ミルウィウス橋の戦い」という絵の中にもこれとそっくりなポーズが出てきます。
ルネサンスを代表する巨匠…兵士が顎に手を当てられながら剣を刺す同じポーズをしています。
フジタはヨーロッパの名画を頭に置きながら「アッツ島玉砕」の絵を描いていたのです。
その中でフジタはむしろ実物を見るという事をシャットアウトして頭の中にあるヨーロッパの名画をモデルに戦争画を描けばいいんじゃないかというふうに大きく舵をきっていきます。
フジタの戦争画については近年フランスでも研究が進んでいます。
フジタが「アッツ島玉砕」と同じころに描いた作品です。
この絵をフランスの研究者は19世紀の巨匠ドラクロワの作品と比較します。
この絵はバイロンの詩を下敷きにしています。
「船が難破し飢餓にさいなまれた人々は誰を殺して食べるかをくじで選んだ」。
ドラクロワの絵は船に乗る人々にやがて訪れる悲劇まで予感させます。
フジタの絵には左上にどう猛なサメの姿が描かれています。
漂流する疲れ果てたアメリカ兵。
見る者にこのあと訪れるであろう悲劇を重く感じさせます。
フジタはヨーロッパの巨匠ドラクロワと同じように目に見える出来事だけでなくその奥にある深い物語や人間の本質まで描こうとしています。
このころのフジタの心境を伝える直筆の手紙が発見されました。
「アッツ島玉砕」と「ソロモン海域に於ける米兵の末路」2作を描いていたフジタが友人の美術評論家に宛てたものです。
「私も今度この戦争画をかいてこの世に生まれた甲斐のある仕事をしました。
戦争画がなかったら恐らく何もしないで只好きなものだけかいてこの難しい宿題の課題の様な戦争画なんてかかずに冷たくなった事でしたろう」。
戦争画という題材。
乳白色の肌から10年以上模索を続けたフジタはようやく目指す絵を見つけました。
しかしそれは一方で軍の意向に沿うものでした。
軍が戦意高揚を目的に開催し全国を巡回した戦争画の展覧会の会場です。
フジタのアッツ島の絵も展示され多くの人々の目に触れました。
現実のアッツ島の戦いは日本軍の壊滅的な敗北でした。
しかし軍はそれを「玉砕」という言葉を使って戦意高揚に利用しようとしていました。
フジタの絵もその目的のために役割を果たしていました。
大デマゴーグがあったんですね「玉砕」という。
それにのった事の罪はもちろんそれはそれとしてあるでしょうけれど…。
喜んで描いてたと思うな。
まあやっぱり大股にまたいで向こうに行ってまた大股に戻ってきて「歴史画を描くんだ!」って描いて…。
描いていた時代が大東亜の理想…まあ映画の中でも触れてますけど「油画を勉強する人たちはパリに行って勉強されますね。
でもパリはもうドイツの手に落ちてますよ。
あなたがたパリを根拠にしてはかけないんですよもう。
大東亜の事をもっときちんと考えて下さい」というふうな事を陸軍の若いのが偉そうに言うわけですよね。
それも一方の事実ですよ社会思想とすればね。
それを絵画に言われたところで「そうなの?」みたいなところが多分フジタはシラっと受け流してたんでしょうね。
敗戦後フジタと日本の関係は大きく変わります。
占領軍によって軍人や政治家の戦争責任の追及が始まりました。
やがて画家たちの間でも戦争画を描いた責任を問われるのではないかとの臆測が広がります。
そんな中画家仲間たちは真っ先に自分たちのリーダーとして戦争画を描いたフジタの責任を指摘しました。
しかし「絵を描く事は戦意高揚や反戦を目的とする事とは関わりない。
ただ戦争画によって自らの絵を確立しようとしたのだ」とするフジタはこう語ります。
画壇に失望したフジタは日本を去る事を決意します。
1949年63歳のフジタは羽田空港から出国する間際こう言い残しました。
以後二度と日本の土を踏む事はありませんでした。
戦争中名のある画家たちのほとんどが戦争画を描きました。
しかし戦後その絵の多くは公開される事がなく画家たちも口を閉ざしました。
…というのはほんとに局所的な事でフジタ一人に戦争責任を負わせて逃げるなどというですね戦後すぐの日本美術界の誤った判断ですよねそこはね。
それについてひるむ事なくですね謝りもせずですよいたフジタと映画の中に出てきますけれど高村光太郎を比較してその戦争あるいはヨーロッパあるいはヨーロッパの近代に日本人はどう憧れたのか。
光太郎が憧れたノートルダム・ド・パリ「雨にうたるるカテドラル」ですね。
「ぬれにきた日本人です私はこの石の肌に接吻したいんです」。
それを画学生からフジタはカフェで聞いてですね「ばか言ってんじゃない」と思ってたと思いますよ。
映画はそういうふうに撮ってる。
でその光太郎が戦争になったら「足音が聴こえるガツガツガツ」っていって「大翼賛頌」ものすごく明快な「大翼賛頌」を書いてるわけですよね。
敗戦と同時に蟄居して失礼しましたっていって田舎に籠もるわけでしょ。
これが一番もしかしたら一般的な日本人の近代の姿ですよ。
20世紀初頭にフランスで西欧文明を吸収しようとしたフジタと高村光太郎。
小栗さんは当時の2人を見つめます。
高村も何年か前にパリにいたんです。
あそう。
その詩がいいんです。
ちょっと読んでいいですか?長いので最初の方だけでも。
どうぞ。
「『雨にうたるるカテドラル』高村光太郎おう又吹きつのるあめかぜ外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながらあなたを見上げてゐるのはわたくしです毎日一度はきつとここへ来るわたくしですあの日本人ですけさ夜明方から急にあれ出した恐ろしい嵐が今巴里の果から果を吹きまくつてゐますわたくしにはまだこの土地の方角がわかりませんイイルドフランスに荒れ狂つてゐるこの嵐の顔がどちらを向いてゐるかさへ知りませんただわたくしは今日も此処に立つてノオトルダムドパリのカテドラルあなたを見上げたいばかりにぬれて来ましたあなたにさはりたいばかりにあなたの石のはだに人しれず接吻したいばかりにおう又吹きつのるあめかぜ」。
ヨーロッパの近代思想に強い憧れを抱いた詩人…高村も戦意高揚のための詩を多く書きました。
戦後になると発表した詩集の中で反省の気持ちをこう表明しています。
「特殊国の特殊な雰囲気の中にあって自己が埋没されひとつの愚劣の典型だった」。
そして岩手の質素な小屋に移り住み一人暮らし始めます。
高村とフジタの違い。
そこには近代国家となった日本の課題が透けて見えると小栗さんは考えています。
日本が近代化を遂げなきゃいけない。
そのためにはかりそめであってもヨーロッパ的な「国民国家」というものをつくらなければいけない制度としても。
でも国民には…それがあれほどまで一気に玉砕を認めるところまでなだれ込んでいってですねその裏返しとして敗戦後の「一億総懺悔」だったりですね結局はなんか変わらずに共同体と個との関係とかそもそも近代戦争に結び付いていったヨーロッパの近代というのは我々の社会にとってどういう姿を今持っているのかという事は問われないまま来てるわけで。
2015年の今でも同じですよね。
だけどちょっと違うんだフジタはね。
戦後に批判された時にその責任を不幸なかたちで一身に背負わされた時にさしてひるむ事もなくね日本を去ってあるいは捨てるというふうな形で自分の態度を表したっていう。
それはヨーロッパの歴然とした「自由」と「孤独」というものをあるいはその背後にあるデカダンスというふうなものもエコール・ド・パリで経験してですねそういう言ってみれば「現場たたき上げヨーロッパ近代」。
それは他にいないなかなかねフジタのようにはね。
戦後70年の今年名古屋市ではフランス・ランス市との協力で初公開のフジタの作品などを展示する展覧会の準備が進んでいます。
きっかけはフジタの遺族がランス市に2,000点を超える遺品を寄贈した事でした。
ランス市はその遺品をフジタの祖国日本でも紹介したいと考えたのです。
今ランス美術館で遺品の整理と調査が進められています。
フジタの遺品はフランスで半世紀近く未公開のままでした。
その撮影が日本のメディアに初めて許可されました。
身の回りの品々などおよそ2,000点。
その中には油絵やデッサンなどおよそ800点が含まれていました。
特に多く残されているのは子供たちのデッサンです。
フジタのサインからこれらは戦後に描かれたものだと分かります。
戦後日本を去ったフジタは再びフランスで暮らしていました。
絵のモデルは知り合いの子供たち。
繊細な筆の線はエコール・ド・パリの時代そのままです。
戦争画のような大画面の絵は描かなくなったものの旺盛な制作活動を続けていました。
戦後10年目の1955年日本に驚きのニュースが伝わりました。
あのフジタがフランスに帰化したというのです。
その4年後73歳のフジタはランスの教会で洗礼を受けました。
洗礼名は「レオナール」。
「藤田嗣治」から「レオナール・フジタ」となったのです。
フジタと日本との距離は離れるばかりでした。
洗礼の17年後に書かれたフジタへの美術評論家の批評です。
「政治のことは一向に知りませんと言いながら戦争にでもなると罪のない人民を死地にかりたてる作品を描く。
藤田嗣治はそんなことをしておいて敗戦したら日本人国籍を抜いて平気でフランス人に化ける。
こんなものを『芸術家』といえるのであろうかまことに恥しい事である」。
パリから南へ35kmヴィリエ・ル・バクル。
75歳のフジタは静かな農村に移り住み小さなアトリエを構えました。
当時の気持ちをこうつづっています。
「フジタは日本人には会わない」といううわさが広まり訪れる人も少なくなりました。
戦後のフジタの心境を知る数少ない日本人がいます。
20代のころ柔道を教えるためにフランスに渡った福田さん。
日本人嫌いだといううわさに気後れしながらフジタに面会を申し入れましたが対応は意外なものでした。
僕はそんななんていうか大先生っていうかね尊大な感じのするようなあれじゃない気さくなおじいさんで何でも話聞いてくれるしね。
ある日フジタは日本にいる福田さんの両親にボイスレターを出す事を勧め自らもメッセージを録音しました。
(都々逸)フジタの歌う都々逸。
(都々逸)福田さんが見たフジタの家庭では食事はいつも和食。
浪曲のレコードをよく聴いていたといいます。
(都々逸)捨てきれない日本への思い。
ランス市に寄贈された遺品の中にもその思いをうかがわせる一枚がありました。
フジタは自らの少年時代を振り返ってこう書いています。
日本からフランスへ。
旅を繰り返してもフジタはこの絵をずっと手元に置き亡くなるまで大切にしていました。
晩年のフジタです。
楽しみは学校帰りの子供たちにお菓子をあげて笑い話をするひとときでした。
(猫の鳴き声)フフッ。
フジタ猫。
迷い猫です。
(聞き手)いつ来たんですか?まだ3週間ぐらいなんです。
僕犬派なんですよもともとね。
甲斐犬という犬を3代も飼って。
猫を飼うなんて全く思わなかったんだけど迷ってきちゃったんでね。
「foufou」の「フー」…「フーちゃん」って名前を付けたんですけど。
小栗さんは今回の作品でフジタの晩年まで描く事はせず日本人フジタを深く見つめます。
映画の最後には「キツネ」の伝承を登場させました。
キツネの話はみなどこかおかしいのですがそのおかしさの背後に村の人たちのどんな気持ちが隠されているのだろうかと私はよく考えます。
この話も機関士の話なのか村人の話なのかよくわからない。
話が人から人へと伝わっていく間に変わってしまう。
話をするそれぞれの人の気持ちが話を変えてしまう。
そしていつの間にか主語がわからなくなってみんなの話になっていく。
その〜…キツネほんとに人間の暮らすすぐ近くで一緒に生きてる動物ですからね。
里山を根城にして田んぼを行き来したりするような動物ですので稲作の日本としては守り神としてのいろんなエピソードがたくさんありますよね。
でまあそういう事で…。
フジタは筋金入りの近代主義者だから現実には決してキツネにだまされなかったろうねというふうには思いますよね。
でもだからこそ映画の中ではだまされてというのが最後のエピソードでしょうかね。
それはなぜかといえばそうした習俗を持ちつつ……とやっぱり並置してみたい。
できうれば日本の持っているそういう現実だか虚構だか現世なのか死後の世界なのか分からないそういうところをある意味自由に行き来するような感受性が日本の文化の中にあるだろうと思いますからそういうところで映画が終わりたいなというふうに思って。
もうひとつ深く日本と出会って下さいフジタっていうですね問いでもあるよね僕にとってはねキツネのエピソードはね。
籠の中身はなんですか?塩魚。
売っているのですか?そう。
親の代から親がやってきた事を私もやってる。
親の代から親がやってきた事を私もやってる。
1966年80歳の時フジタは人生最後の大仕事に取りかかります。
それはランス市に礼拝堂を建設する事でした。
礼拝堂には自らの遺体を納め安らかに眠る事を願いました。
建物の設計から内装まで全てフジタが手がけました。
壁面を飾る絵として選んだのはフレスコ画。
ヨーロッパの伝統的な絵画です。
高度な技術が求められる技法にフジタは初めて挑戦しました。
漆喰の上に素早く描かなければならないフレスコ画は高齢のフジタの体力を奪っていきました。
それでもフジタは毎日描く事に没頭します。
人生最後の大仕事を終えた直後フジタは81歳でその生涯を終えました。
礼拝堂の壁にはフジタ自らが描かれています。
最後の自画像です。
日本が西洋の文明を吸収しようとした時代。
ヨーロッパで初めて高く評価された日本人藤田嗣治。
フランスで知った自由と孤独。
それゆえの日本との決別…。
20世紀の荒波に翻弄されながら描く事への誠実さを貫いた生涯でした。
安保法制オリンピックの問題。
2015/10/31(土) 23:00〜00:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「FOUJITAと日本」[字]
戦後70年の今年、画家・藤田嗣治を再発見しようとする試みが進む。フランスで初公開の作品、初めて一同に公開される戦争画。小栗康平監督による映画化などから実像に迫る
詳細情報
番組内容
藤田嗣治。パリで最も有名な日本人画家でありながら、戦争画を描いたことをきっかけに日本を離れ、フランスに帰化、日本ではその実像が厚いベールに覆われてきた。戦後70年の今年、再評価が進む。小栗康平監督による初の映画化、その生涯を日本の近代化の中で見つめるという。フランスでは遺族が寄贈した数々の遺品が初公開され、東京国立近代美術館では初めて戦争画が一同に公開される。戦争画の真実とは?画家の実像に迫る。
出演者
【出演】小栗康平,【語り】中條誠子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
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