ミュージック・ポートレイト「秋元康×黒木瞳 第1夜」 2015.11.02


質問。
あっ。
こんにちは。
こんにちは。
ご無沙汰してます。
お元気ですか?元気にやってますよ。
日本を代表するエンターテインメントの仕掛け人と女優。
表現の世界で活躍する2人を作ったのはどんな音楽なのか。
大切な曲を持ち寄り語り合います。
(一同)お疲れさまでした。
斬新な楽曲とファンを巻き込む企画で国民的アイドルを生み出しました。
ウィナー渡辺美優紀!高校生で放送作家としてデビュー。
「夕やけニャンニャン」などのヒット番組を作り更に作詞家としても活躍を続けていきます。
しかし人気絶頂の30歳。
突然仕事を投げ捨てニューヨークに移ります。
自主制作で映画を作るも公開できず。
世界のエンターテインメントを前に挫折を味わいます。
マルチに活躍を続ける男を作り上げた音楽とは?民が集まる豊かな国をつくるのです!宝塚で入団から1年半という異例の速さで娘役のトップへと上り詰めます。
宝塚退団後はテレビ映画舞台と数多くの作品に出演。
女優として不動の地位を築きます。
今年初めて映画監督にも挑戦。
よ〜いスタート!表現者としての挑戦を続ける黒木瞳に影響を与えたのはどんな音楽だったのか?・「かまわないかまわない」才能だけでトップにいられるほど甘くない世界。
ステップを上る度にぶつかる壁を2人はどう乗り越えてきたのか。
常に時代とそして自分と向き合い高みを目指し続ける2人の人生を音楽を通して見つめていきます。
高度経済成長の真っただ中戦後復興のシンボルになった東京タワーが完成した1958年。
秋元康は東京都目黒区都会の真ん中で生まれます。
僕あの〜目黒の生まれなんです。
都電が走ってて車が走ってて人が多くて。
だから一番覚えてるのは父に手を引かれて東京オリンピックに開会式行った事とアベベ・ビキラが走ってたのを沿道で見たっていう。
うわ〜すごい。
テレビの中のお話みたい。
日本経済がもうバ〜ッと上昇してる時でいわゆる高度経済成長の時で。
父がねモーレツサラリーマンだったんですよ。
サラリーマンの…。
はい。
だから父が本当に遅くに帰ってきて土日もまた会社に行ってみたいな事をしてたんですね。
モーレツに働く父親の姿がサラリーマンの悲哀を歌った当時の大ヒット「スーダラ節」と重なります。
何かこう子どもの頃父の忙しそうな…遅くに帰ってきてビールを飲んでネクタイ緩めてっていう姿とこの「スーダラ節」がね重なるんですよね。
何かすごく楽しい歌じゃないですか。
笑えるような。
それと何かそういう…まあ郷愁のようなノスタルジックな思いが合うってところがすごい相反してるだけに何か切ない思いもしますし。
だから日本人が国民を挙げて敗戦からの日本をつくろうという一生懸命やってる時に何かこうそんなに肩肘張るなよ楽しくいこうぜって言って無責任男っていうある種逆説のメッセージでそれが何かこう楽しいなと。
それが後に自分の中でも理屈じゃない音楽っていうのが入ってくるんですけどこの「スーダラ節」の「スイスイスーダララッタ」って意味がない訳ですね青島さんの詞が。
だからそういうのがやっぱ音楽の力だなと思うんですよね。
黒木瞳は1960年福岡県八女郡黒木町で生まれました。
4人兄弟の末っ子。
父は畜産農家母は食堂を切り盛り。
田畑に囲まれた田園地域で活発に育ちました。
本当に私は福岡の田舎で育ちましたので本当におてんばなアクティブな子ども時代を送りましたけど。
田植えも稲刈りも全部やりましたので。
畑や田んぼで走り回っていて。
足がはやかったので。
あそうですか。
イメージしないですよね。
そうですか?すごい遅そうに見えます。
失礼ながら。
あそうですか。
すごいもう運動会は花形でした。
運動と同じくらい好きだったのが歌でした。
いつかはステージの上で歌いたい。
歌手になる事を夢みます。
小学4年生の時町ののど自慢大会に出場。
歌ったのは大好きだったこの曲です。
これその時の?・「タンバリン」…っていうタンバリンの。
あの〜私歌手に憧れたんですね。
歌手になりたくって歌が好きで。
でちっちゃい時からずっと気が付いたらミカン箱か何かの上に乗せられて「歌いなさい」「さあ歌わんね」って言われて歌ってたんですけどこのタンバリンうちの近所のおもちゃ屋さんに売ってたんですけれども…。
これ本物なんですか?本物です。
4年生の時に。
すごいね。
のど自慢大会っていうのが町であってずっと出てたんですが母が「出なくていい」と。
「恥ずかしいから」。
「みっともない」って言ってこのタンバリンを買ってくれなかったんですね。
その時うちに働きに来てたおねえさんが見かねて「じゃ買ってあげる」って言ってこれを買ってくれてのど自慢大会に出たんです。
そこからもう歌手になろうって決めてたんですか?歌手になりたくて「スター誕生」に出たいなっていうふうに思ってたんですけれども当時私が好きだったのが森田童子さんのいろんな歌で。
全然違うじゃないですかそれ。
世界が。
両方好きだったんです。
あ〜なるほど。
「スター誕生」で森田童子さんの歌を歌おうと思ったんですがこれじゃ暗いから絶対受かんないなと思って歌手を諦めたんです自ら。
水前寺清子さんの歌を歌えばいいじゃないですか。
その時はもう森田童子さんの歌を歌いたかったんですよ。
ですから自分の何かこう夢物語絶対かなわない夢。
小学校時代の秋元康は体が弱く運動よりも勉強が得意でした。
おはようございます。
(一同)おはようございます。
お願いします。
ちょうどそのころ受験戦争がスタート。
秋元も「勉強をして偉くなりたい」と塾に通います。
そのころの夢は官僚でした。
官僚ですか。
まあ当時で言う大蔵省に入るっていうのが。
それで何で大蔵省なのかっていう事は分からない訳ですよね子どもだから。
でもみんな記号のように東大行って大蔵省に行くみたいなのが…。
で天下りするまでありました。
それも意味分かってないんですよ。
意味分かってないんだけども…。
そういう人生を歩みたいと。
何かねお兄さんがいる賢い子たちがいてその子たちがキーワードとして東大文一だとか上級公務員試験だとか大蔵省だとか天下りだとかっていうのを多分それでそういうのを聞いてそういうものなんだろうなと思ってましたね。
官僚を目指した秋元は最難関開成中学の受験に挑戦。
しかし入れる実力のはずが…中学受験をして絶対受かると思ってたんですけども落ちたんですよ。
それを自分なりに半ズボンの挫折と呼んでるんですけど。
自分より成績が悪かった…塾でとか学校で成績悪くて自分が教えてた子が受かって自分が落ちたっていう事で何なんだろうなっていうのはすごく…。
世の中にはままならない事があるんだなと。
それを12歳で経験したんですか。
うん。
心折れたまま公立中学へ。
ふさぎ込む気持ちを救ってくれたのは当時流行のフォークソングでした。
中でも歌詞で平和のメッセージを強く打ち出すこの曲に引かれます。
フォークソングですよ。
僕初めてギターを弾いたのがこの「戦争を知らない子供たち」です。
これねコードが簡単なんですよ。
大体そのころギターを持ち始めた人たちは「戦争を知らない子供たち」か「禁じられた遊び」をなぜか弾き始めるんですよ。
私も弾いた弾いた。
弾いたでしょう?この詞が大好きで北山修さんが大好きで。
「戦争を知らない子供たち」というそのフレーズであるとかに僕はすごく感動して本当にこうメッセージっていうのはメロディーに乗せると人に届くんだなと思いましたね。
歌は傷ついた心をどれほど癒やすのか。
中学にして秋元は歌の力に気付きます。
一方歌手への夢を諦めた黒木瞳は15歳で運命の映画に出会います。
当時リバイバル上映されていた「風と共に去りぬ」。
もう映画で見た時にあのスカーレット・オハラの生きるたくましさというか「この土タラの土があったら家族を飢えさえない。
そしてまた明日考えよう」っていうねあの何かたくましさに引かれて「ああ私映画やりたい」って。
でもブレてますよね。
(笑い声)水前寺清子さんから森田童子さんに行って「風と共に去りぬ」で「タラのテーマ」に行く訳でしょう。
歌手から自分の夢が女優に転向してでもこんな田舎から映画なんて出れる訳ないしだったら何をしたらいいのかなと思って勉強しました。
とても夢と現実っていうのは別のものだと思ってましたから。
夢は夢で自分は堅実に大学入って公務員になろうというふうな。
もうめちゃくちゃですよね。
自分の中では全然こう水前寺清子さんからずっとブレてないんですけれど。
でも他人から見るとブレまくりだなという。
ブレまくりですね。
うん。
でもいろんなところにこうやって寄り道できたのでそれがよかったのかなと思いますし最終的に自分の好きな道っていうものを選ぶ事ができた。
じゃあ今でも「風と共に去りぬ」「タラのテーマ」とか聴くとググッと来るでしょう?初心に戻れます。
あの映画館の客席を立てなかった自分映画ってなんてすてきなんだろうって思った自分を思い出す事ができます。
中学時代に出会った一本の映画が黒木瞳を女優の道へと導いたのです。
秋元康はいよいよエンターテインメントの世界へと足を踏み入れます。
高校2年。
官僚になるため東大へ行こうと意気込んでいたはずがラジオの深夜放送に夢中になります。
葉書を読んでもらおうと軽い気持ちで送った文章が放送作家の入り口に。
一番最初に応募した時のきっかけは何なんですか?書こうと思った。
何か自分でも書けそうな気がしたんだよね。
当時はダミー用に葉書を作る訳ですよね。
「34歳の主婦です。
最近夫が怪しいんです」とかっていうのを高校生なのに授業中に書いてるんですよ。
高校3年の頃にはラジオのレギュラー番組7〜8本持ってました。
じゃそのころはもう官僚とか考えずに…。
いやいや戻ろうと思ってました。
だってアルバイトとしてはすごく楽しい訳ですよね。
とりあえず大学に進んだ秋元はアルバイト感覚のままラジオからテレビへ活躍の場を移します。
「ザ・ベストテン」などの人気番組に参加。
レギュラー番組12本。
月に100万円稼ぐ事もありました。
夜は六本木のディスコ。
当時ダンスフロアで一番人気だったこの曲が青春のテーマソングになりました。
夜な夜なディスコですよね当時。
ギャラをもらうじゃないですか。
そのギャラを持ってディスコに行ってましたね。
踊るんですか?ちなみに。
いや踊るったってまあ昔はね同じ方向に向かって全員同じように動くんですよね。
だから割とラジオ体操みたいな感じ。
そんな…ディスコがラジオ体操っていう事ないでしょう。
だからその部分の記憶が「恋するフォーチュンクッキー」とか「ハロウィン・ナイト」でみんなが同じ振りをするっていうのはその時の…。
そこから。
彼女いたんですか?そのころ。
いましたね。
一番当時おしゃれだった地中海レストランがあったんですよ。
そこに彼女を連れてってどうだと。
大学生でしょ?大学生ですよ。
大学1年だか2年。
しかも皆さんは笑うかもしれないけど当時ムール貝ですよ。
はい。
(笑い声)まだ日本では発見されてないぐらいのムール貝ですよ。
ムール貝のピラフがあったんですよ。
うん。
彼女を連れてったら「あ久しぶり」って彼女の方が言われたんですよ。
彼女の方が常連だったの。
僕は2回目か3回目だったの。
それがすごいショックでした。
放送作家として活躍する秋元は知り合いに予期せぬ仕事を頼まれます。
それは歌詞を書く事。
バラエティー番組の発想と若者言葉の活用で「なんてったってアイドル」「雨の西麻布」などヒット作を連発します。
そして1985年26歳の時テレビ番組「夕やけニャンニャン」の放送がスタートしました。
自らプロデュースしたアイドルおニャン子クラブを番組からデビューさせて大ブレーク。
一躍時の人となります。
しかし当時の秋元は冷静に自分の実力を見つめていました。
ヒットねらいですからね。
そんな時打ちのめされるほどの衝撃を受けたのがこの曲でした。
マイケル・ジャクソン「スリラー」。
やっぱりマイケル・ジャクソンっていうのはすごいエンターテイナーじゃないですか。
僕は本当にアルバイトだとずっと思ってたんですね。
でも気付く訳ですよ。
自分は何にも勉強してないと。
何にも勉強してないんでこれは駄目だと。
もうこれメッキが剥がれると。
それでそんな勉強もしてないのに取り上げられるのは何かちょっと違うなと思って。
秋元は世界のトップとの差を痛感。
新たな道を模索しようともがき始めます。
黒木瞳は宝塚女優へ。
映画「風と共に去りぬ」を見て女優を夢みた黒木瞳。
1976年。
高校に入るとその思いを一層強くしました。
女優への一歩として演劇部へ。
ちょうどそのころ地元福岡で宝塚の名作「ベルサイユのばら」を見て衝撃を受けます。
「これはすごい!」。
マリー・アントワネットもいるしそれから金髪なんですよね。
金髪の人なんて見た事ないでしょう?この世の中にこういう夢のような世界が存在するっていう事にまず衝撃を受けてもうすごいなと思って宝塚というところはっていう…。
もう大好きになりました。
で高3の時に見たその時も「風と共に去りぬ」だったんですね出し物が。
でも見た時はもう受けようと思いました。
よかったですよ。
ようやくブレてたものが「風と共に去りぬ」でつながりましたよね。
つながりましたね。
はい。
だって歌もあるしダンスもあるしお芝居もあるし全部が入ってる訳じゃないですか。
ダンスがまるっきり何にもやってなかったのでですから受験をするって決めて1週間前にクラシックバレエの教室に通ったんです。
1週間で大丈夫でしたか。
だって宝塚ってもう子どもの頃から目指しててずっとバレエをやり続けた人とか受ける訳でしょう?そうそう。
ところが受かる訳ですよね。
ところが受かっちゃいました。
22.4倍という高い倍率を乗り越え見事合格。
しかし本当の苦労は入学後に待っていました。
とにかく私は人よりも劣ってましたのでいっぱい練習しなきゃいけないと思ったので寮が開く6時40分にはもう寮を出てで10時半が門限なんですね。
だから学校から帰ってきてそこから寮レッスンやったり個人レッスンやったりしてもう本当ギリギリに帰ってきて。
だからもうレッスン漬けだったんです。
ちっちゃい時からやっておけばよかったなっていうのはすごく歯がゆかったですね。
だからやっぱり宝塚すごいなと思うのは電車が走るとそこに先輩が乗ってるかもしれないからみんな頭下げるんでしょそこに。
電車に向かい…。
そうですね。
その車両ごとにご挨拶はしてましたけど。
車両ごとに頭下げるの?あれ。
あの何かどの車両に上級生の方が乗ってらっしゃるか分からないから。
ちゃんとこうペコリペコリ?ペコリペコリしてたような気がします。
入学して2年休む間もなくレッスンに明け暮れて宝塚音楽学校を卒業。
その1年後異例の抜てきを受けます。
宝塚を代表するスター大地真央の相手役。
新人なのになぜ?黒木瞳の宝塚の色に染まりきっていない新鮮な魅力が大地真央に認められたのです。
もう本当師匠でありおねえさんであり時には母のように父のように。
私は1年生の時から一緒で8学年上なんですね。
なのでもう入った時にもうスターでいらしたからいろんな事全て教えて頂きました。
「本当ならこういうのは10年かかってお客様にお見せしなきゃいけない事だけれども今あなた今やらなきゃいけない。
10年分を今やりなさい」と。
「努力って人前で時々見せなさい」っておっしゃったりとか。
いい言葉ですね。
それは多分努力しても努力しても「全然できないじゃない。
あなた何もしてないんじゃないの」って思われると損だから「ちょっとだけでいいから人前で努力してみせて」っておっしゃって「あなるほど」。
大地真央とのコンビが評判を呼び次々と役が決まります。
そして初舞台からわずか1年半。
異例のスピードで娘役トップスターに上り詰めます。
同期や先輩を抜いていく訳でしょ?はい。
そういうのってのはこう大変じゃないんですか?だから重責が。
気が付いたら大きな羽根しょってたっていう。
だから私あのAKBの総選挙とか拝見しててみんなすごいじゃないですかあの競い合いの…。
「絶対センター取る。
ゼロ番取る」っていう。
私すごいたくましいなと思って。
初めからセンターを与えられた例えば前田敦子みたいな子はやっぱりそこに気付かないんですよ。
だんだんやがて…。
後から後からすごいゼロ番なんだっていうのが後で分かってきて怖くなるんですねどんどん。
センターの重圧と闘いながら娘役トップスターを務めて2年。
女優人生の中で生涯忘れる事のできない作品と出会います。
ブロードウェイで大ヒットしたコメディー「ガイズ&ドールズ」のヒロイン。
宝塚ではまだ誰も演じていない役です。
黒木はそれまでに学んだ全てを注いで演じます。
全身全霊で歌ったのがこの曲でした。
自分が初めて何か…何だろうな?舞台に立ってるっていう充実感を味わった作品だったんです。
今まではどこかで「私なんかでいいのかしら」とか「ああまだまだできないな」とかいろんな事を考えながら舞台に立ってたと思うんだけどもこの時は何か自分が自分でなかったというか。
気が付いたらもう終わってたみたいな。
何かこう演じる事のすばらしさみたいなものをこの役を通して感じる事ができて。
エンターテインメントの世界が本当に好きなんだって自覚した作品でもあったと思うんですね。
お客様に夢を与える事ができるっていう。
本当に舞台の上に立ってるそのスポットライトの温かさっていうかもうそれがあればどんな事があっても…。
宝塚女優としての全てを出し尽くした黒木。
燃え尽きたようにやがて宝塚退団の決心をします。
1980年代後半。
秋元康は求められるまま歌詞を書きそれが次々ヒットする状態でした。
しかし自分が本当にしたい事は何なのか。
その答えは見つかりません。
台本を書かれていてその流れで歌詞を書いたりとかして音楽の世界…。
だから全然僕は一回も自分でこうしようと思った事がないんですよ。
もう本当に流されるというか自分がないというか。
だから自分で何かやろうというよりも何かこうその時のきっかけになる人たちがうまくいざなってくれたような気がするんですけど。
だから一度辞めようと思って1989年ぐらいかな?…に全部辞めるんですよ仕事を。
でニューヨークに行くんですよ。
30歳でエンターテインメントの本場ニューヨークへ。
自分の力が通用するのか。
秋元は仲間たちと共に自主制作で映画を作ります。
オノ・ヨーコを主演に据え話題性も十分。
当時増え始めていたホームレスをテーマにしました。
日本では描く事がなかった社会派ドラマに挑み勝負を懸けたのです。
しかし…。
完成した作品を持って配給会社を回っても相手にされない。
ヒットはおろか上映する事さえできませんでした。
失意の秋元は一人ニューヨークのイーストリバーを眺めます。
心の中ではこの歌謡曲が流れていました。
映画を作ってとかアメリカのエンターテインメントで頑張りたいとか思ってた事が難しいなと。
こうこれはそんなに甘くないなとかっていうのがあってそれで僕らが住んでた所がイーストリバーの近くのねコンドミニアムから見下ろすとイーストリバーが見えてそこで望郷の念に駆られるんですよね。
だからそういう思いが多分この「踊り疲れたディスコの帰り」なんですよね。
黒木瞳は成功を収めた「ガイズ&ドールズ」で吹っ切れたものを感じていました。
そして大きな決断をします。
退団です。
「ガイズ&ドールズ」という作品に出会った時に「ああもういつ辞めてもいい」という自分の中での何か覚悟みたいなのがそういうふうな感情が生まれて…。
次の作品で真央さんが退団発表なさったんですね。
「退団か」と思って「じゃあ私も辞める」みたいな感じで。
本当に「一緒に辞めてもいいですか?」って言ったら「いや辞めてもいいけどどうするの?」って言われて「どうしよう?何ができるかな」って思った時にその「風と共に去りぬ」を思い出して私って映画やりたかったんだっていう事を。
じゃあ東京行こうって思ってそれで何にも決まってないのに東京行ったんです辞めて。
映画女優を目指し東京へ。
スケジュールは白紙。
自ら映画会社を回りました。
「君は無名だから。
宝塚ではスターだろうけどもね一般的には誰も知らないからすぐキャスティングっていう訳にはいかないけれども一応候補の一人に」っていう感じで言われてそれからもう何も音沙汰なしでどうなるか分からないという時間を半年過ごしたんですけれども。
先はどうなるか分からない。
東京に知り合いもいない。
孤独な部屋で鳴り響いていたのはこのメロディーでした。
やった事あります?ありますよもちろん。
本当に。
これをずっとやってたんですか?ずっとやってました半年間。
私自分の中で苦節半年と思ってるんです。
相当これ上級者ですか?もうね相当ワープも上手になってね。
半年間やり続けて。
毎日が日曜日だったので。
でもその時25だったんですけど30までに仕事があれば東京にいようと思ってたんです。
だからあと5年あると思って。
ただ映画で生きていきたいっていう強い思いはあって。
やっぱりエンターテインメントの世界で生きていきたいなって思って。
当てはなくても夢だけはありました。
この直後大胆な役で映画女優へと羽ばたくのです。
次回新天地でもがき続ける2人に人生最大の試練がのしかかります。
人知れぬ苦難をどう乗り越え輝く世界で羽ばたいていったのか。
2人の苦闘の日々を見つめます。
2015/11/02(月) 01:10〜01:55
NHKEテレ1大阪
ミュージック・ポートレイト「秋元康×黒木瞳 第1夜」[字][再]

秋元康と黒木瞳が選ぶ「人生で出逢(あ)った10曲」エンターテイメントの高みを目指す二人の表現者の人生に寄り添った音楽とは?

詳細情報
番組内容
「あなたが人生で出逢(あ)った『大切な歌』を10曲選んでください」この問いに、あなたは何を選びますか?この番組では、二人の表現者が自分の人生の『大切な歌』を持ちより、対談。それぞれの人生を「音楽」を切り口につづっていきます。今回は、秋元康と黒木瞳。時代のちょうじとなった秋元が、NYで自分を見つめ直した時に響いた曲は?宝塚卒業後、女優を目指し上京した黒木の記憶に残る曲は?
出演者
【出演】秋元康,黒木瞳

ジャンル :
音楽 – その他
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
バラエティ – トークバラエティ

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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