安保法制オリンピックの問題。
この夏世論を二分する議論が起きたニッポン。
極端な意見ばかりが耳目を引きやすい中…知識人の言説?人々の声?それとも…今夜は今という時代によりどころとなる思考の術を考える。
古今東西の知の遺産が所狭しと並ぶユニークな書店に…。
1970年代以降に生まれた4人の論客が専門分野を超え集結した。
こたつを囲み自由闊達に物を言い合うジレンマ流教養論。
教養人は日本の社会でいかなる役割を担ってきたのか改めて問う。
科学の知識を日常の視点から楽しく易しく伝え広める。
異文化の衝突となる建築の現場で有効な合意形成の知恵に「教養」を見る。
日本語を研究。
大学講師も務めながらユーモアで世相を斬る。
その時に…秋の夜長に教養を考える60分。
どうぞ心にゆとりを持ってご覧下さい。
さあ「ニッポンのジレンマ」今日は本屋に来ました。
本屋さんですね普通の。
セットじゃないんですよねこれ。
セットじゃないです。
池袋にある本屋さんです。
すぐそばですもんね。
多分今までで一番近いですからね距離感が。
お客さんね。
打ち合わせも全部バレてますから。
「教養のジレンマ大研究」という事ですけれどもまあ教養結構難しいテーマだと思うんですが。
しかも教養ねあると言ってもないと言っても感じ悪いですよね。
どっちに捉えても難しいですよね。
しかもテレビの前で。
「教養あります」って自慢しても自慢する感じになっちゃうし逆に「ないです」ってバカっぽいし。
どっちに答えても難しい…。
まあ難しいテーマですけれども。
まあそもそも言語的に言うと自己言及的に語る言葉じゃないかなっていう。
これは最近「巨人軍は紳士ですから」みたいな話とかもありましたけど「紳士」とか「オタク」とか「教養」みたいなものっていうのは第三者の人がその人を指して言う言葉であって自分で言う言葉ではないかなっていう。
だからそもそも自分が教養があるかないかという問いかけ自体が非常にナンセンスかなというふうにも思ったりします。
すいませんでした。
改めて下さい!すいませんでした。
じゃあ「教養って何なんですか?」という質問ちょっとざっくりですけれども…。
まず議論の大前提としてちょっと辞書的な意味をね。
僕国語辞典がすごい好きでいろいろちょっと読みあさってるんですけれども例えばこちらの「新明解国語辞典」ですと…つまり知識量とかじゃないんですね。
その「生き方」みたいな。
辞書の定義ってどこまで信じられるんでしょうね。
いやそうなんです。
今の問いかけって非常に大事で辞書は思考停止ボタンじゃないんで正しいと思っちゃいけないんですよ。
なので僕はいろんな国語辞典の読み比べっていうのをお勧めしているんですけど。
広辞苑ともいう百科事典ではイギリスやフランスやドイツの言葉で……というふうに書いてありますね。
知性って言葉が入ってきましたね。
入ってきましたね。
だから広辞苑は割と「知性を磨く」っていう事に教養を定義してますね。
なるほどね。
広辞苑の話で外国の名前が3つほど出てきましたよね。
イギリスドイツそれから…フランスですよね。
そのうちのドイツっていうのが日本にとってはすごく大きな意味を特に戦前持ってたんですよね。
その教養というのは今のイメージだと豊かさというのにつながっててそれからそういうものは例えばドイツのゲーテの作品を読むんだとかカントを読むんだとかそれ哲学者ですけどそういうのを読む事によって自分を豊かにしていくというのが大正時代の特に「一高」ですね今で言う東大の教養学部。
「一高」の生徒たちの中ですごくこう培われたんですね。
当時彼らは寄宿舎で住んでいて「彼が勉強したら俺も勉強してやるぞ」という感じで争って勉強したっていうそれがそもそもの教養の定義の一つなんですよね。
少しもう一つ付け加えておくと豊かさであると同時にこれ面白くて実は彼らは不安に駆られているんですよね。
教養というのはどこまでつければ自己完成するか分からないからあれも読まなきゃこれも読まなきゃあれ読んで更にドイツ語勉強して英語はできなきゃいけないしドイツに優秀な人がいたら留学しなきゃいけないしというんでそこは日本の近代化の中で……という日本の国全体の雰囲気を実は凝縮してて豊かさと同時に焦りとか不安というものも常にかきたててたっていうのはあるんですよね。
ちょっと伺いたいんですけどじゃあ教養は身につけようと思って身につくものなんですか?ん〜だからある時代状況に特化して言いますけれども今日お薦めの本を持ってきて下さいっていうんで2冊持ってきたんですけど一つが「福翁自伝」っていう福澤諭吉っていう明治時代の人その人の自伝なんですね。
それからもう一つ「サロメ」っていう僕大好きなんですけどオスカーワイルドって人が書いた戯曲なんですけど例えば大正教養主義の人たちというのはこの福澤諭吉の次の世代の人なんですよ。
この時代の人たちっていうのは日本の国家と自分の生きがいが大ざっぱに言えば結び付いてて「末は博士か大臣か」というようにそういう自分が…本当に田舎ですよね田舎から出てきてそしてまあこの人自身が慶應大学作るわけだからこの人自身に学歴はないわけでそれが緒方洪庵の塾とかに入ってどんどん出世していくというサクセスストーリーの時代。
そしてそれが国を背負っているという時代なんですね。
このころの東大生とか慶應大学のイメージっていうのはバンカラであってそして「俺は偉くなるんだ」っていうどっちかっていうとマッチョな感じなんですね。
ところが今言った教養の時代っていうのはどっちかっていうと東大生っていうのはガリ勉でそしてしかも僕はそういう弁護士とか何でもいいですがそういう社会…政治家とかそういうのじゃなくてこういう本を読んで自己探求をする本当に自分がいい人間になるにはとか人生とは何なのかとかそういう事を考える時に教養というのが急速に登場してくるんですよ。
それが明治の末から大正ぐらいなんですけどね。
じゃあもしもその教養が不安に駆られてみんなが身につけようとしたものだとするならばそういうブームっていつぐらいまで続いたんですか?それも面白い質問で大体昭和初期ぐらいなんですよね。
芥川龍之介っていうのが自分で自殺しちゃうのが昭和3年ぐらいなんですけどそのあとどうなっていくかっていうとまあちょっと今の社会が似ているのかもしれないけど社会不安みたいなものが襲ってくるわけですね。
そうするとこの番組もそうだけど実際に社会に僕たちは小さなNPO法人であっても社会の役に立ちたいみたいなのを若者が作っているようにああいう社会の方にもう一回目が向くんですよ。
この時代は社会の役に立つ事が自分というのを全然支えてくれてる事が当然の時代。
でここはそういうふうに出世社会でしたりとかするよりも自分の内面を高めて大学の先生とかになったり小説家になったりしていくという時代。
だけどそれはある種の豊かさ。
大正デモクラシーという言葉ありますよね。
ある種の豊かさがあったから担保されたんですね。
それが急速に今度は社会が不況とかあるいは戦争に少しずつ傾いていくともう一回やっぱこういう頭のいい人たちというかよくお勉強している人たちはもう一回社会の事考えなきゃとこうなるんですよね。
ちょうどそこの境目みたいのがもしかしたらこの番組に出てくるような人たち実は同じ事を反復している可能性もあるんですよね。
「教養が大事」って考えるか社会のためにもっと…。
そこで教養の代わりに何が出てくるんですか?例えばマルクス主義っていうのがものすごい勢いで入ってきた理由っていうのはマルクス主義を勉強する事がイコール社会をいい方向に改造できると思うからじゃないですか。
だからそういうバイブルになるわけですよね。
戦後また教養主義の時代がある時代あったじゃないですか。
それが大体いつぐらいからいつぐらいですかね。
戦後で一回例えば政治思想史家の丸山眞男とかそういうのが出てきた時代というのはドイツ語の原典を大学で読んでそしてそれについて議論し合う。
だからしゃべっている間にドイツ語がわざと出てくるような雰囲気すらあったと。
それが最初の段階は大学の大衆化というのが70年…60年代後半から70年に起きてきて…。
大学に入る人がたくさん増えたわけですよね。
まあ2000年代は勝間和代さんみたいなスキルアップって言葉でも使って自分を高めていくというスキルアップ狂みたいな事で揶揄されてますけどスキルアップみたいな感じで…。
(笑い声)震災後にちょっとまたやっぱり教養とか人文系のもの大事なんじゃないみたいな雰囲気が高まって哲学者の人がちょっと流行したりとかっていうのが震災後に起こってちょっと今「プチ教養ブーム」みたいなものが起こっているんですかね。
時代が変われば教養の中身も目的も変わるのか?社会の文脈と切っても切り離せない教養とは?じゃあ今この時代2015年に言う教養って何なんですかね?ある時に立食のパーティーがあっていわゆる知識人の方が集まっててそれで片方の方が理系出身の作家さんもう片方の方がイギリス文学の専門家の方で3人で話してたんですね。
皆さん私に話を合わせてくれるんです。
その形はできるんですけれども急に2人でイギリス文学の話…まあ後ろにシェイクスピアなんか並んでいますけれども。
そのような話になったら私はもうそこからお話ができなくなってしまってすごすごと去っていった時があって。
もしかしたら教養っていうのはあるコミュニティーに属するための共通言語なのかなって気もします。
(一同)う〜ん。
同調も得られてますけれどもねオーディエンスの皆さんから。
ファインアーティストとか芸術家と違うのでやはりクライアントがいての建築家だし共有された知識としてやっぱりそういったツールを持ってないと周りとコミュニケーションをとれなくなってしまうと。
で独り善がりになってしまうという事に陥らないように多分教養って必要なんじゃないのかなと。
一つ言えるのはその大正時代の人たちというのはさっき一高って言ったようにある閉鎖空間なんですよね。
それがどんどん簡単に言ってしまえば崩れてきているのでそうすると建築の領域でクライアントというのは要するに相手ですよね。
自分がやりたい事と相手がどうやりたいかという事にすごい緊張関係がある事をおっしゃってると思うんですけど。
そういうようなところはある意味でねある意味でこの人たちこの時代の人たちはシャットアウトしてた。
世間から超越してたというかそういうとこはありましたね。
それをもって教養と思ってた節がある。
だから今はその閉じた空間内での相互評価ではないから教養というものがまた意味が変わってきてるって事ですよね。
と思いますね。
悪い言い方で言えば崩れてきてる。
よく言えば一般の人たちであってもこういうものがほんとに数百円で買えて。
これって実は日本というのは非常にそういう文化でプラトンとかの哲学書が文庫で400〜500円で買えて読めるというのはそう海外ではないらしいんですよね。
それぐらい日本人ってある一定の部数が売れるから文庫になったりするのでそういう意味で言えば大衆化とも言えるし一般化とも言えるし。
教養って言葉はちょっと違う形になってきてると思います。
日本の草の根教養主義を担ってきたのはやはり活字文化。
そこで他の論客たちからもそれぞれ教養を考える一冊を紹介してもらう。
建築家高橋は自らの仕事の歴史的意義を問い直す一冊。
(高橋)何もない土地に新しいものを造るというお仕事なので自分のイマジネーションとかインスピレーションと言われるようなものの土壌みたいなものとして教養があると土地とか場所に根ざしたものが出来るかなとそういった意味で教養を捉えてるんですけどなかなか今どきの消費されてるようなファッションとかトレンドとかそれだけに振り回されながらまあ社会的につくられたような…建物もそうですしそういうのをつくり続けていくとそれは多分消費されてしまうし社会にとってアセットというか財産になっていかないと思うんですよね。
それはスクラップ・アンド・ビルドの繰り返しになってしまうので。
そういった意味では改めて海外を経験してきて帰国して日本人つくる立場として自分のルーツというかその日本人として何を提案すべきなのか今までの文脈を踏まえて将来何をつくるべきなのかというのをちょっと自分なりに勉強し直そうと。
高橋さんはいわゆるこういう難しい本を「仕事に役立つな」と思って読む事が多いんですか?やっぱり目的があって買う事が多いですね。
単純に楽しみとして読むというよりはやはり何か自分のまあ仕事もそうですしプライベートもそうですし何か楽しい事自分の心の豊かさを得るためにどんな知識があったらもっとうれしいかなという事でこれを読んでるわけでやっぱり目的があっての教養なので。
続いてサイエンスライター内田は教養としての科学を考える一冊をセレクト。
もし文明が滅んだら再び今の科学技術を取り戻すまでにどんな道筋をたどるか思考実験が繰り広げられている。
これが全体として科学の復習の本になってるんですね。
教科書にある科学ってあんまりよく分かんないです。
実感湧かないですよね。
でもこれだとガラスがどうやってつくられて私たちの手元に届くのか。
ガラスというのはただのガラスではなく顕微鏡としても役に立つから次の科学の発達にも役に立つというような話になっています。
ですから全体を通して読むと私たちに届いてる科学というのがこういうふうに苦労して届いてるんだなという事が分かります。
ここでやはり科学の発展のしかたというのが面白いなと思って。
一つの仮説があって更にそれが間違ってて新しい仮説に修正してどんどん発展してという学問ですのでそれが科学の在り方自体というのが教養ではないかなって気もして。
私前「文化」という言葉の語源を調べた事がありまして「農耕」という意味だったらしいんですね。
農耕から「心を耕す」。
で教養だとか文化という意味になったらしいので。
皆さん先ほどから焦るように教養を身につけなければというところがあったと思いますけどそういうようなところも心を耕し続けるというようなところも科学と教養につながるんではないかなと思いました。
ラストは日本語と笑いを学問する芸人タツオの一冊。
日本文学史に残るあの古典で笑いと教養の深い関係を考える。
僕がイメージする日本の教養人の代表ですね。
夏目漱石「吾輩は猫である」。
明治の文豪夏目漱石の長編小説「吾輩は猫である」。
漱石自身をモデルとした中学校の英語教師苦沙弥先生の家の猫の視線で人物描写人間観察が語られる。
教師という尊敬を集めていた知識人のまぬけな一面その俗物ぶりを描写。
風刺とユーモアを交え軽妙なタッチで人間と世相を斬った。
当時の庶民にも愛されたが今なお古びない古典だ。
芥川とかまあ教養人だったと思うんですけどその師匠ですよね。
僕は漱石の何が一番偉大かというとユーモアがある事だと思うんですよ。
発信力があってユーモアがある人っていう。
僕は時代が不安になると教養という言葉がやっぱり出てくると思っていてそれはなぜかというと誰も信用できないからまず自分で考えなきゃいけない。
そのために教養を身につけなきゃいけないという時代に入ると思うんですね。
そうなると例えば街のカリスマみたいな人たちが出てきて「みんなこういうふうに考えるといいよ」といういわゆる知識人という人たちがしゃべるじゃないですか。
そうすると真に受けてその人を完全に妄信してしまう人たちが増えてくると思うんですけど僕そこで一番大事なのがユーモアだと思うんですよね。
「こういう考え方もあると思うけど完全に信じるなよ」ってちょっと突き放してくれるのが僕はユーモアだと思うんですね。
そういう意味で言うとこの「吾輩は猫である」はそういう漱石のユーモアと教養。
もっと言うとどのページから読んでも面白いし当時の時世に対しての文明批判であったりとかあるいは俳文と言われてる俳句。
まあ俳句なんか特にそうなんですけど時代を反映したものとかね何を見てどう思うかみたいな。
何かこう猫っていう人間ではないものに仮託してその教養というものを体現してくれてる本なんじゃないかなと思いまして僕は「ザ・教養」という事で漱石のユーモアを挙げたいと思います。
なるほど。
タツオさんもだからねこういうお笑いやりながらこういうものを教えたりもするという。
タツオさんのお笑いって面白いんですか?それ言う?それも教養と一緒。
自分で「面白いです」と言う芸人いないですから。
夏目漱石というのは今でこそナンバー1というか明治末期から大正時代ぐらいに活躍した人ですけどその時に一番はやってた文学って「自然主義文学」ってやつですよね。
田山花袋の「蒲団」というのでみんな高校時代に暗記したと思うんですけどあっちの方がむしろ主流だった時に「低徊趣味」という言葉があって低徊というのはぐるぐるぐるぐる散歩するというかふらふらするという意味なんですけど要するに自然主義の人たちって「俺が人生こんなに苦しい」とか「俺はこんなに貧乏生活をしてる」とかそういう事を赤裸々に書くという事。
「私はこんななんだ」という事を赤裸々に書けばすぐ社会がそれを受け入れてくれるだろうという前提があるんですね。
だけどそれってある意味のすごい甘さがありますよね。
自分がどんだけ苦しいかというのはやっぱり言葉を技術を練ってそして相手に伝えるから初めて作品になるわけですよね。
そういうとこがおろそかになってて実際に不倫とかをわざとしてそして文学作品にするような人もいたんですね。
その時に漱石というのはそれに対抗するためにコミカルなものを作ってそして作品としては今日はこっちの方が受け入れられてるというそういう流れもあったりするんですよね。
何かこう東京人の教養という感じもするんですよね。
「自分の私生活とかだせえよそういうの」みたいな感じの「もうちょっとねやぼったくなくいこうよ」みたいな感じますよね。
(先崎)まさにそうです。
いろいろ昔の方のお話が出てきてるんですけど今そういう知識人の方というのはいらっしゃるんですか?皆さんから見ると。
ちょっと今いささか強引に現代に引きつけようとしたのは今まさに「坊っちゃん」もそうなんだけど「真面目であろうとする雰囲気」とか何か正義感に酔いたいというかそれはさっきから言ってるけど定点探しというのは自分がこうであるという安心感が欲しいわけですよね。
これで生きていると。
「私は○○大学の学生である」という事だけで優越感に浸れる人も幸せながらいたりするわけであって自分が何者かというのをやっぱり今はっきりとした答えがない時代なので急に探してしまう。
その正義に飛びつくとさっきおっしゃったような事が起きるのかなと。
その時にその同じ倫理観というか真面目であるにもかかわらず「坊っちゃん」というのが非常に面白かったり「吾輩は猫である」のあの猫のちょっとご主人を小ばかにしたような雰囲気とかそういうものというのは今の時代こそ必要なんじゃないかなとさっきちょっと聞いてすごい面白かったんですけど。
多分「距離感」の問題だと思うんですよね。
自分はこうは思うけど一方で常に果たしてそうなんだろうかと考えるっていう。
僕論文読むのとか好きで自分の研究が行き詰まると現実逃避で他の人の論文読むというのを趣味にしてるんですけどさっきも学問のパラダイムシフトの話ありましたけど例えば天動説が99%の人信じている中で地動説って唱えるのって大きなパラダイムシフトだと思うんですけどまあでもみんながそう言ってるし自分も何となくそう思うけどもしかしたら違うかもしれないという一抹の懐疑的になれる自分と言うんですかね。
それって何か引いてみないとできないのかなと。
僕はそれは一つユーモアの武器の一つかなとも思うんですけどね。
やっぱりそれはお笑いにも近いんですかね?
(タツオ)そうですね。
一歩引くというのは。
僕はどうしてもお笑いが好きなので笑い全般の文化が好きなのでそう思うだけなのかもしれないですけど。
「これが全てだと思うなよ」という突き放され方がとっても心地よいというか果たしてそうなんだろうかと思わせてくれるというか。
ずっと聞いちゃいます。
猫という人間社会から一歩引いた存在だからこそ見えるものがある。
客観的に批評できる。
今そんな知識人はいるのかニャ?例えば「知識人」とか「インテリ」とかいう言葉だとすごく嫌みがあるような感じがするんですけれども先崎さんどうですかこの言葉自体。
僕が嫌みな人間だという…?そんな事はないですよ。
いや〜そうですね前半が過去の話だったんで少し最近の話で言うと僕は詳しくは知らないんですけどその「知性主義」とか「反知性主義」という言葉が流行してるらしいという事で要するに反知性的な人たちというのは人の意見を聞かないでそういった心の豊かさを失っていてかたくなだから相手の意見を受け入れられないでどんどん自分の意見を押してしまうと。
場合によってはそれが政権批判なんかにもなっているらしいという事を聞いたんですね。
幻となったエンブレムをめぐってはデザインの理解には専門的な知識が必要という業界と感覚で判断できるとする一般人両者の見解のすれ違いが目立った。
また安保法制の議論では憲法学者の学問的な見解と国際情勢の現実どちらを重視するのかという対立が浮かび上がる一幕もあった。
この間新聞雑誌ネットさまざまなメディアで浮上したのが「反知性主義」という言葉だ。
さまざまな解説書も出ている。
本来のアメリカでの意味は権力を独占するエリートに対し専門的な知を持たない大衆が実践的な日々の生活から生まれる知恵でも対抗できるとする考え方。
まさにアメリカらしいカウンターとしての知性の重要性を示す考え方だ。
だが近年日本の論壇では「異なる意見を持つ他者との知的な対話を軽んじる態度」。
「自分に都合のいい意見を強引に進める姿勢」といった意味でしばしば使われているようだ。
人々がそれぞれ微妙に異なる定義で用いる事ですれ違いを生んでいる。
今日本ではちょっと「頭が良くない人」みたいな使われ方をされてる?そうですね。
人の意見聞かないでワーッてやるようなとにかくマイナスイメージが先行なんですよね。
そう。
自称頭がいい人が自分の意見と反するような人をラベリングするために「反知性主義」という言葉結構最近使われますよね。
「愚民」って事ですか?「愚民」と近いんじゃないですかね。
「非」知性ですよねだから。
「反」じゃないんですよね。
僕がさっきから「吾輩は猫である」を評価してるのはつまり今のその言葉って知性主義にならざる…「お前は反知性主義だ」って暴力を振るう事ができますよね。
という事はいつの間にやら自分が正義を握りしめてて相手はそうではないと弾劾できるわけでこれだけ複雑な社会だからこそ世の中を分かりやすくするために「善」「悪」というのが急にピッと色分けされる。
いろんな価値観がむしろ多様になってしまっているというところをどうよく古市君が言うようにまあ集まりというかねつながりを作れるかなというのが課題なんだけどそれがあまりにも過激である。
バラバラな人が急にこう…僕みたいに勉強ばっかりしてる人が急に無理に運動するようなもんですね。
ぶれる…。
でも反知性主義って最近ちょっと流行語みたいに使われてますけどでも「ポピュリズムはダメだ」とか結構その言葉は変えても同じような批判ってずっとあったと思うんですね。
自分たち知識人はいろんな事を分かってるけれども「あいつら政治家は愚民だから政治家は知性がない」とか「ポピュリズム怖い」とかって批判はずっとまあ脈々とあった気もするんですよ。
その辺りどうですかね?SNSは当初自由な発言の機会をもたらす光だった。
人々は本音の対話の広がりに期待を込めた。
だがやがていつの間にか炎上などが常態化。
人々は見えない掟に萎縮するようになる。
人の世の皮肉だ。
想像力だと思うんですよね。
例えば本を読む事とかそういうのも知識を入れる事だけじゃなくてその知識を何に生かすかどこに生かすかっていう事で。
例えば「ら抜き言葉」問題になりますよね。
僕日本語やってますけどら抜き言葉というのは「ら」を抜いて例えば「食べられる」じゃなくて「食べれる」っていう事で1文字抜いて可能の表現に意味を確定させる事ができるので言語の経済効率から言うと非常に利便性が高いというか歴史的な必然なんですよね。
ただ例えば自分が学校で教わった言語が正しいというふうな妄信があるとですねあるいは本来の正しい使い方がある。
自分が知ってる知識だけを振りかざして「これ間違ってる」って言うんじゃなくてもうちょっとその想像のきっかけとして知性や知識があるといいなと思うんですよね。
三浦しをんさんと話をした時にこういう事をおっしゃってたんですけど「日本語っていろんなすてきな表現がある」とまあ実際ありますし「あっこの表現いいな」というのを見た時に結構陥りがちなのが「日本語ってすばらしい」っていう事なんですけど。
三浦さんは「日本語ってすばらしい」というところまで行くんだったら……というところまで多分想像を私はしちゃうんですという話を。
僕その話聞いた時にこれが教養なんだなって思ったんですけどつまり「日本語すばらしい」「日本ってすばらしい」っていうようなナショナリズムに行くんじゃなくてもうちょっと言語にもいろんな特徴があって日本語はこの部分がすばらしい他の言語はこの部分がすばらしいという想像ができるために知識や知性がある本を読むっていう行為があるというふうに思いましたね。
だから不思議なのは教養ってそういう誰かを一方的に弾劾しないための積み重ねなのかなという話は今日聞いてて思ったんですがでもそういう人がなぜか誰かを一方的に「こいつは!」とか言っちゃうって何なんだろうなあっていう。
自分を疑うとか余裕を持つって心をどんどん失っていくんじゃないですかね。
知性を積み上げてったら…。
積み上げていくほどに?いくほどに。
そこで更に自分の事を疑わなきゃいけないのにそれこそ自分が権威になってしまって権威と結び付いた途端に相手の事を「反知性だ」というようなラベリングを間違った形でアメリカと本来の使い方と違ったラベリングをしてしまう人がいらっしゃるんではないかなって。
じゃああまり勉強しすぎない方がいいって事ですか?いやしすぎてもいいと思うんですけども…だからそこの分岐点って何なんですかね。
疑い続けられる人。
新しい知識をどんどん新しく柔軟に取り入れられる人と凝り固まっちゃって閉じちゃう人って。
建築家でもやっぱりそういう何か…。
建築的に言うと多分「インクルーシブ」って言葉なのかもしれないんですが基本僕はそこの分岐点は「共同作業をする」という経験の多さとか少なさだと思うんですね。
それって建築ってまさに大きいものじゃないですか。
戸建てと言いつつも設計者だけじゃ造れないし施工の業者さんも工務店さんも交通課の方も呼んでこなくちゃいけないと。
共同作業なんですよね。
そういう意味ではデザイン的にはこれが建てばいいんだけど「構造的にはこんなのダメだ」とか「コスト的にはこれダメだ」という話で常に小さな摩擦というか価値観の違いがぶつかり合いながら一緒に一つのものが出来上がってくるんですよね。
そういう多分共同作業に触れないままずっとクローズ型で自分なりの閉じた土壌の中で肥やすような作業をしてるとそもそも外部を作り出しちゃってるわけですよね。
…というような事がそういった「カウンター」って言いますね「アンチ」とか「カウンター」って言いますがそういう攻撃的な何か仕組みを作っちゃうんじゃないのかなって思うんですよね。
まさに今年ありましたけど国立競技場を造る時に対立がありますよねそういう意味では。
ああいう意味も…僕はデザインの表面的な話とかはここでコメントするのは避けたいんですけど残念だったなと思うのがオリンピックのメインとなるようなアイコニックなシンボルとなるような建物自体が本来であれば日本人みんなで造る誇りあるべきものなのに対して対面しちゃった構造があるんですよね。
その「官と民」じゃないですけど「設計者側とそれ以外のオーディエンス」みたいなそういう対立構造が出来た事が外から見ていて悲しいなと思った事でしたね。
さっきの思考停止と共同作業の問題って建築に限らず多分いろんな分野に関しても言えそうですよね。
特に科学に関しては3.11のあとの原発の問題だとか放射性物質の問題とかやっぱりすごい考えが凝り固まっちゃったなって。
それありますね。
「原発推進か反原発か」もそうですしあとは低線量被ばくに関してどう解釈するかって事でもほんとにパキッと分かれてるように見えますね。
ほんとはパキッと分かれないグレーの部分があってもいいはずなのにパキッと「賛成か反対か」みたいな感じで分かれちゃいますよね。
そうですね。
あれがネット上だけの現象なのかもしくはほんとにリアルでの現象なのかちょっとまだ分からないんですけれども。
でもやっぱりネットだとどうしてもね原発にしても国立競技場にしてもパキッと何かね「賛成」「反対」ですごい主旨が鮮明になりすぎちゃうというかその傾向がねありますよね。
でもこういうネットの炎上って日本であまりにも特有なのか例えば海外とかで同じような例えば競技場造りますって言ってこういう炎上ってあるんですかね?僕その海外でスタジアムの計画に関する知見というのはそういうプロジェクトは関わった事がありますけどというよりも10年間ほどヨーロッパにいた中で単純に例えば電車に乗って新聞読んでると隣の人が声をかけてきてその記事に口を出してきたりするような事があるんですね。
そういう意味ではなれなれしいし僕もうれしいしアイソレートされた感覚もないのでそういった日頃のガス抜きみたいなのがあるからあんまりそういう話急に集団的ヒステリーみたいな誰かネット上で炎上するってそういった事があまり起こらないような…僕の体感ですけどね。
日頃のガス抜きね。
笑いですよ。
持ってきましたね。
立地的な話なのかもしれないですが日本は島国で日本で言う「異物を経験する」という体験ってやっぱり外国人に対するアレルギーもあるしそういった感覚に対してヨーロッパは陸続きなんで国境は引かれつつもかなり近い距離に違ったものがあると。
常にこうコンフリクトとか摩擦を起こしながら何となく全体が均衡をねそういうのも多分文化が成熟したりとか教養が成熟したりする地盤土壌としてあるのかなというのは感じましたけどね。
摩擦のない快適さを追求した結果がガラパゴス化であれば皮肉だニャ。
過ぎたるは及ばざるがごとし。
吾輩には関係ニャいが。
あと何か僕の周り見てて思うんですけど研究者で40歳ぐらいで「この人心がちょっと今乱れてるのかな」みたいな人がすごい多い気がしちゃうんですがあれ何なんですかね?それはそのとおりでありまして。
(笑い)受け入れちゃった。
(先崎)いや〜何でかっていうとやっぱりお三方の話聞いてて思うのは感受性というかセンスの問題みたいなのがあって先ほどから建築の現場では人とのやり取りっていうのは非常に大事だって言ったんですけどやっぱり研究者にはそれがどこか欠けがちなところがある。
だけど一方で僕みたいな言葉にいつも関わってる人間と建築のその緊張関係って多分どっかでつながってる気がしてて例えば「戦争」っていう言葉にはね簡単に言ったらちょっとドキッとするというかおぞましいというかね簡単に口にしてはいけないような何かそういうような……っていうのは実は人同士をつなげているように見えるんだけれども非常に僕にとっては一時的なものにしか思えない。
だから僕は言葉っていうのも全く違う世界観を持ってる他者と自分をつなげる行為だからそんなワンフレーズでとか「分かるよね?」っていう感じでつながり合えるっていうのにすごく懐疑的な人間なんですよね。
そういう事が実践の面において多分建築であったり科学について解説していくという日々を送ってると全然知識がない人に対してだってしゃべるわけでしょ。
だからそういう時にすごく緊張感があったり。
その緊張感ですよね。
何かそういうのが今の社会ではちょっと足りねえんじゃねえかなってのが僕の考えなんですけどね。
知識人の方もそうじゃない人も足りない。
そうするとまあその…そっかそれで何でメンタルが上下するかについて答えなきゃいけなくて。
だからやっぱり他者との感覚ですよね。
だからやっぱり自分一人でいるよりはここに来て仲間とゆったりと会話をしたりする事によって「一人じゃないな」って感じれたりもするわけでしょ?多分人ってやっぱりそういう関係性の中でいるはずだしそうじゃなかったら言葉が…すごく僕は「戦争」って言葉一つにしても「震災」って言葉一つにしてもすごく薄っぺらい気がしててまあこれまた昔吉本隆明という僕の好きな評論家の人が「比叡山を下りる」という言葉を比喩表現で使ってるんですが比叡山ってのは要するに知識の一番あるとこですよね当時の。
それを下りる思考が必要だって言ったんだけどそういう事はすごく僕にとって重要で。
戦後の言論界の巨人吉本隆明。
その存在は左翼的なイデオロギーの論客として祭り上げられた。
しかしバブルの時代あえてブランドに身を包み雑誌に登場。
自ら高度消費社会の最前線に立ち論争を呼ぶ。
知識人は時代の変化の中いかに振る舞うべきか?吉本は自らの姿を通して知識人批判を展開した。
多面性があるんですよね。
そういうしなやかさというかそれが言葉から少し欠けてるような気がしてると。
で繰り返しになるけどそれは漱石だったり建築だったりっていうのと多分人との関わりつながり方。
多面性への気付きっていうのは何か大きいキーワードかなと思うのがやっぱりマルバツとか「それは合ってる合ってない」みたいな話が根源にあると思うんですよね。
今雰囲気として。
僕も何かそのスイスの設計事務所にいる時はまあ300人ぐらいの事務所なんですけど大体20国籍ぐらいを超えるようなもう言葉も通じない通じる事が珍しいぐらいのメンバーで一つの建物を造っていくわけですよね。
でその時に価値観違うのは当たり前ですよね。
宗教も違うし。
だからそういう時に対面して「お前は合ってる俺が合ってる」みたいな話をすると全然生産的なプロセスにならないわけですね。
そうするとある時点でですね気付き始めてくるんですよね。
「相手を否定する事では何も生まれない」と。
だからそういう意味では基本的にテーブル座る時も対じして座らないし逆に同じ方向に座ったりして「じゃあ一緒にこれ造っていこうよ」って。
基本は否定するような言葉を使わないでデザインを絡めていくと。
だから否定というよりは説得というよりは同調しながら一緒に摩擦すり合わせながら一個のアイデアをまとめていくみたいなそういった感覚だと何か新しい生産的なプロセスになるのかもしれないですよね。
人々ってどうなんでしょうね分かりやすい「イエスノーマルバツ」に引かれるのかそれとも実はマルバツにしか一般人は分かんないって言ってんのは知識人側の何か勝手な勘違いであってほんとはみんなファジーなものであってもちゃんとみんなついてきてくれるのか。
どうですかね?例えば。
マルバツを求めたがるっていうのは科学に関わってるとそういう方は多いなって気はします。
それは高校教育までの弊害だと思うんですけれども。
算数だったらちゃんと答えが出る。
科学だったらこういうふうに問題解いたら答えが出る。
(タツオ)正解があるっていう思い込みがありますよね。
正解ないものについて考えるっていうのが本当の学問ですもんね。
分からなさっていうところを保持するっていうのまあしんどいですけれども。
分からないを抱えるっていうのは大変ですけれども。
「マルかバツか」っていうのは二極化が好きなんじゃなくて安心したいだけなんですよね多分。
自分がマルなのか相手がバツなのかっていうのをすぐ知りたいっていうかね。
でも自分でね想像力大事だとか何とかって言っときながら思うんですけど例えば相対主義を認めた場合って現実的に「じゃあどう意見をまとめればいいの?」っていう。
現実的に難しいんですよね。
その時に…僕も専門分野とか自分が分かってる分野に関してはある程度相対主義というか距離取れてると思うんですが例えばね体の事になると一切そういうのがなくなって例えば炭水化物抜きは絶対にとか…。
(笑い声)妄信的な。
妄信的に信じちゃうんですよ。
「小麦粉抜いた方がいい」とかすぐ信じちゃって。
何かね何なんですかねやっぱり得意分野じゃない事に関して距離取るってすごい難しいですよね。
自らの専門を深める事で他分野への想像力も働く。
教養人の理想とされるT型。
専門性と想像力どちらも車の両輪だが果たして専門バカに陥らない教養とは?相対主義にも陥らずでもかといって別に何かを妄信せずってそのバランスってすごい何かね…。
単にね理解ある人になっちゃうとね都合のいい人になっちゃいますからどうしたらいいのかなというのは分かんないですよね。
どうなんですかねこれやっぱ日本っぽいんですかね?そういう感じっていうのがね。
やっぱり何かそのマスという概念が強い感じはしますよね。
結構外国にいるとみんな好き勝手自分の趣味持ってたりとか会社に5時半までいなくちゃいけないとか6時までいなくちゃいけないという感覚もないですしそういった意味では一人一人が伸び伸びしているような社会は僕は実際生活して体験したからというのはありますね。
だから「人は人自分は自分」でいいっちゃいいんだけど「とはいえね」ってものがありますよね。
そうなんですよね。
そこの中でさっきの知性主義反知性主義の話に戻りたいと思うんですけどまあその反知性主義ってある意味さっきのアメリカの話では社会がもしも民主的で自由であればいいという事を肯定したらある種反知性主義を認めざるをえないって事ですよね。
反知性主義がアメリカにおいていった事の一つに強烈にそういうものがあるはずなんですよね。
だけど逆に言うと彼らは絶対的に自分たちがある信仰を持って正しいと思っているがゆえにやっぱかぎ括弧付きの「民主主義」であってそれをかぎ括弧付きだから本当はアメリカならアメリカ色なんだけどそれを押し広げていく事に何のためらいも持たないっていう危険性も持っているんですよね。
例えばドイツなんかであったのは民主主義っていうのの怖さっていうか危うさと可能性なんですけど。
例えば民主主義ってみんなでしゃべるわけですよね。
これ悪く言うと「おしゃべり」。
本当に決断しなきゃいけない時とか本当に危機が来た時に一体誰が決めるんだっていう批判をした思想家がいるんですよね。
そういうのに対して…その人はヒトラーの登場の理論的参謀だと言われてた人でもあるんだけど法哲学者なんだけど。
だから民主主義っていうのはふだんの時はいいと。
しかし本当に非常事態例外的な状態が生じた時にはどうなんだっていう事で彼が理論化したものがいろんなう余曲折を経てああいう状態にドイツがなったというのもあるんですよね。
そうすると僕らは簡単にですね「そういう事を考えてるやつは悪いやつだな」って思えるんだけどここは本当にまさしくジレンマで人々がある相対主義の…だからそこが持つ危うさとそこのとこ自体が一つ問題が解けない問題があるんですよね。
そっか緊急事態であればあるほど教養とかそれに付随する熟議みたいなんてものがちょっと邪魔になってしまう事がある。
でも特にそれって例えば今緊急事態じゃないとしても今先崎さんの言う社会の速度がどんどん速まってるじゃないですか。
すぐに教育改革をしなきゃいけないすぐに社会を変えなきゃいけないという中でどんどん教養とか「じっくり考えましょう」というような勢力がちょっとやっぱり弱まっててすぐに結果が出るエビデンスがあるこれやりましょうというふうに社会はともすれば流れがちだと思うんですね。
そこの中でますます教養の置かれた位置というのがちょっと今難しくなってるのかなって気もするんですよね。
知性ってたくさん本を読んでる事とかそういう事っていうのは学者の世界では確かに競ったりするんですよ。
例えば注をたくさんつけてそこにたくさん文献を並べといて威嚇するとかねそんな話もあるんですけど。
一つね知性的っていうのはどういう事だろうと思ったらいくらでも知識を持ってる人というのはたくさん見てきました。
だけどそれを相手に分かりやすい論文なのか文章なのか分かんないけど学者の場合文章を書くって一つ重要な仕事ですから言葉を操るわけですよね。
その自分が入れたインプットだけで満足してる人っていうのは多々見てきたんですよね。
だだ僕はある時期からそういう人は恐ろしくなくなった。
なぜならアウトプットをするというのは全く別の技法であっていくらどんだけ知識があって全ての本を読んでいたとしてもそれを相手に伝えるという事はそれがうまい人って多分自分の頭の中でもきちんと整理されているしだからそこのところはそういうのをもって知的でありたいと思いますよね。
要は単純に自己満足で知識の量だけ競ってそれで満足するんじゃなくてちゃんと還元もするって事ですね。
まあ自己満足できる人はそれでいいのかもしれないけど自家中毒になる可能性もあって。
さっきから言ってるように最初は勉強のつもりで始めた読書が「あれも読まなきゃこれも読まなきゃ」って学者の場合仕事ですから強迫観念にだってなりうるわけだしそういう意味で言うとバランスをとっていくという意味でやっぱりインプットとアウトプットの比率というのは常に考えていく。
自分の心のしなやかさを保つためにも重要かなと思いますけどね。
だから内田さんも先崎さんも一般向けに本結構書かれててそうやっていろんな人に知恵をひらいてくって事をやってると思うんですけどただ一方でそういう事に全く興味もない人教養もないし知性もない…ないって言っていいのかな。
教養とか知性に興味がない人いるじゃないですか。
そういう人とはどうつきあっていけばいいんですかね。
先行き不透明な現代。
教養は単なるジャンルではない。
他者の声を排除する事なく耳を傾け問い続ける事。
その時思いもよらない角度からのまなざしがブレークスルーをもたらすかもしれない。
その可能性にどこまでつきあえるか?知ろうとしている人に対して何か分かりやすく教えるとかいろいろできる事はあるじゃないですか。
でもそういうのは全く興味ない人とはどうやって生きていけばいいんですかね。
私はできれば興味ない人に興味持ってもらいたいという動機でこの仕事を始めてたんですけどそれはやはり無駄な事ではないかというふうにある時から思うようになりました。
なぜかというと私は例えばラグビーが盛り上がってたとしても全然興味ありませんし。
そういうように同じように科学に興味がない人だっているわけです。
いてもいいですし。
でできれば最低限の生きるか死ぬかぐらいのレベルの知識は持っていて頂きたいなとは思いますけれども興味がなくてそっぽ向いたままでもいいじゃないか。
そういう人たちはもし何かあった時に隣の人だとかよく知ってそうな人とかに教えてもらったりとかアドバイスを受けたりすればいいじゃないかっていうふうに思ってます。
(タツオ)そうですよね。
だからそこに信頼できる人がいるかっていう事ですよね。
自分が知らない事について信頼できるかっていう。
そのでも信頼できるかどうかの眼力を養うというのがまあ結構大変ではありますよね。
でもみんなググっちゃったりするじゃないですかすぐ。
今の時代。
Google超便利。
でもだからGoogleちゃんと使えて例えばラテン語の原典にあたれる人もいればデマ情報に惑わされて右往左往している人もいるわけじゃないですか。
結局Googleは一見世界をフラットにしたように見えるんだけどとはいえ実際はどれだけそれまでの経験とか知識とか持っているかによって検索ワードも変わってきて得られる情報も変わるわけですよね。
でもその前提がない事になって「Googleで調べれば正解」と思っている人に対してどうつきあっていけばいいんだろうなという。
それが「教養を得た」というふうに認識している人がいるかもしれないし。
本来ならばGoogleを使う目利きにならなきゃいけないのに教養を身につけて「これが正しかろう」とかそういうふうなアクセスができる人がもしかしたらこれからの教養の持ち方かもしれないんですけどIT時代への。
例えば医療の世界でもお医者さんって別にある病気だけに詳しいわけではないじゃないですか。
でもある病気になった患者さんはその病気が自分の人生を左右するわけだからものすごいたくさん調べるんです。
だからともすれば患者さんの方が「最近こういう新薬が発見されたみたいですよ」とか「海外ではこんな療法があるみたいですよ」って事をともすればお医者さんよりも患者さんの方が情報持ってしまう事がある。
だからまさにさっきおっしゃったみたいに検索の技法みたいな事が知識量の差になってしまう。
だから「専門家=知識がたくさんある人でもない」って状態が今生まれていると思うんですね。
確かに情報量という点で言えば多分情報量を持っている人が勝つような世界じゃないですよね。
やっぱりGoogle一個にせよあそこのウインドーに何をタイプするかが多分重要でその答えを探すという以前にどんな問いを問うのか。
そこが教養とつながってくるところが。
でも本当に今検索でいろんな事をごまかせて昨日もこの番組の打ち合わせやってたんですけど別に僕反知性主義がアメリカどうこうとかって全く分かんなかったんだけど打ち合わせ中に電子書籍一冊ダウンロードしてそれパラパラ見ながらしゃべっていればみんながさも「古市さん詳しいですね」ぐらいの感じで何か言ってくれるんですよ。
こっちは今適当に平読みしてる本の情報を言っているだけなのに。
(タツオ)恐ろしい事ですよね。
そう。
だからとなると知識差とかではなくなっていくのかなって気もするんですよね。
「吾輩は猫である」って多分まとめを見とけば何となくストーリーは分かるけどタツオさんがおっしゃる「読んだらいいんじゃない」っていうのはその細かい表現とかが面白いわけですよね。
あとね実は「猫」を紹介したのは「まとめられない」っていう事。
つまり僕は文学で言うと「アンチロマン」って言われている「ストーリーが面白いもの」というものではないものの方が割と好みだったりとかするんですけど。
やっぱこう常に「まとめられちゃう」という。
じゃあ猫がご主人様の家を観察した「日常系」みたいなね4コマ漫画みたいなやつなんで。
そう考えると「まとめられない」っていうのは1個大きいポイントかなと…。
逆にまとめられないって事は誰かにもその内容を伝達する事が難しいって事であって教養をひけらかせないっていうかせっかく「猫」読んだのに誰にも自慢できない感じにもなっちゃいませんか?自慢しようと思うのがもう教養がない人ですよね。
(笑い)知識がある人には誰でもなれる。
では知識を知恵に変える思考法とは?街の本屋の教養論もいよいよ大詰め。
やっぱり不安なんだと思うし僕も分かんないですいろんな事が。
世の中のいろんな事が分かんないんで分かる人に聞きたいっていう欲求があるしでもその「分かる」と言っている人は果たして信頼していいのかどうかというのもよく分かんない。
だから飛びついちゃうんですよね。
その中で飛びつかれた側の発信力のある人に「僕はこういう考え方だけど他にこういう考え方もあるよ」とかっていう温度差の調整をしてもらえるとすごく助かるなっていうか「あ信頼できるな」っていう感じがするんで本当に影響力があって発信力がある人にこそ温度差の調整をしてもらいたいなという。
そうなると「こいつ分かってない。
ワー!」とかっていうふうになったりはしないと思うんでね。
想像力も養われるし。
これだけ変化の激しい時代ですのでできれば頭を硬直化してほしくないなっていう事ですね。
いくら知識をアップデートしていっても今のような時代ですからたくさん知識は生まれてきます。
ただ考え方だとか思想だとかが硬直化してしまったらもうその人は知識人ではなくてもうある種の権威に寄り添ってしまっている。
これは批判されるべき知性主義ではないかと思いますのでそうではなく柔らかい頭でどうか知識をアップデートして私たちにアウトプットして下さいというような気持ちですね。
「知識人」という言葉に限って少し勉強した事を言うと1970年代ぐらいまでというのは知識人というのがすごく力を持ってたんですね。
フランスのサルトルっていう人がすごい人だと思われて。
そうすると難しくても読まなければいけない。
そこには何か深淵な事が書いてあるって感じがあって「読まない方が恥ずかしい」という雰囲気すらあった時代が70年代ぐらいまでなんですね。
それが現代においては知識人という言葉ははっきり言ってしまえばもう値段が下がってしまって崩れているような状態でもあるんですよね。
これは繰り返し言ってますけどそういう時こそ「我こそは知識人だ」というふうなデマゴギーっていうのも出てくるんですよ。
だからその裏と表っていうのが必ずあって。
だからそこのところにその知識人の人がともすれば…僕は大学に入った頃から知識人っていうのは物事をあおらないで全ての人が焦っている時に一人焦らないでいられるような人だとどこか漠然として思っていたのでやっぱり知識人ってそういう人だと思うんですよね。
まあ一つだけ学者なんで古典的な例を言いますと吉田松陰という人はイメージからするとアメリカに…船に乗り込んで密航したり飛んだり跳ねたりした人なんですけどだけど投獄されたあの獄中にいた時に「俺は今まで日本の事が大事だ」と言ってたけど「日本の事一つも知らない」といっていくつも本を書き出して猛烈に読んだんですよね。
例えば孟子なら孟子っていうのを正直言って誤読なんだけど彼が時代の全緊張を感じ取ってそして古典ですよね孟子というそこに何か自分の考えを注を付けていくんですよ。
江戸時代ぐらいまでって知識人というのは何かっていうと古いものに対して注を付けるというのが知識だったんですよね。
「古事記」だったり「論語」だったり。
何が言いたいかっていうと速度に流されやすい時にそれとは違う形で吉田松陰というあの破天荒な人ですらそういう事をやってたんだっていうそれをどっか持って勉強というか…に取り組むっていうのが知識人なんじゃないかなと僕は思いますけどね。
さあ今日はですね「教養のジレンマ」古市さんいかがでしたか?これで「教養は○○である」ってまとめるとまるで僕がバカみたいじゃないですか。
この流れでねまとめちゃうとね。
でも一個思う事があるんですけど僕の周り仕事できる人がたくさんいるんですけど僕が「仕事できるな」って感じる人って大抵経験があってかつ自信があるんですよね。
自信を持ってこうだって事が言える。
でもそういう人がフッと折れちゃう瞬間ってあると思うんですね。
そういうのがフッと折れちゃう瞬間に僕は隣にいれればいいなというふうに思っているしもしかしたら誰かが折れちゃう瞬間に隣に寄り添ってあげられるのが教養なのかなっていう気が僕は今日話聞きながら思ってました。
いい事言いますね!なんかすごい全部持っていっちゃった。
だからすぐに役に立たないけど実は何かパキッと折れた時に帰ってこれる場所な気がするんですよね教養って。
正しいとか正しくないというよりは人として美しいかどうかみたいな何かそういう美学みたいな理想を常に持てる提案できるという人なのかなってちょっと思ったりしました。
皆さんのお話を聞いて。
その前提にあれがありそうですね自分を信じるみたいなね。
「自分は自分でいいんだ」という感覚というか。
何かとてもすごくきれいな気持ちになって終わりましたね。
ありがとうございました。
(拍手)今漱石がいたらどんな小説を書くのだろう?関心がない人にまで届くユーモア。
ふと自己を見つめ直すエスプリ。
その言葉は自らの立ち位置を常に相対化するメタレベルの思考へと笑いと共にいざなう事だろう。
今教養はファナティックな争いや他者への無関心を超えて「対話」の場を生む事にこそ力を発揮するはずだ。
他者と出会える風通しのいい空間を求めて。
ジレンマの試みは終わらない。
(パーカー)
きょうりゅうがいたころよりもずっと昔。
2015/11/01(日) 00:00〜01:00
NHKEテレ1大阪
新世代が解く!ニッポンのジレンマ「教養のジレンマ大研究」[字]
「教養」って何?「知識人」はどこにいる?近年の論壇のキーワード「反知性主義」などをめぐり、学者、建築家、サイエンスライター、芸人らがユニークな書店で、丁々発止。
詳細情報
番組内容
「教養」が注目されている。書店には関連本が並び、一種のブームのような状況だ。一方、現代社会を読み解くキーワードとして最近流行する「反知性主義」。しかし社会を「知性」「反知性」で語ろうとすると避けては通れないのが、自ら「知性がある」と言うほど知的にみえず、自ら「知性がない」と言うほど実は傲慢であるというジレンマ。 今ニッポンの若者にとっての「教養」や「知性」とは何なのか?そして「知識人」の定義とは?
出演者
【出演】サイエンスライター…内田麻理香,サンキュータツオ,日本思想史研究家…先崎彰容,建築家…高橋真人,【司会】古市憲寿,青井実,【語り】竹本英史
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
趣味/教育 – その他
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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