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異世界転生騒動記 作者:高見 梁川
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第二十話 そして伝説は幕を下ろす 書籍化該当部分5

 左内の言葉がバルドにはひどく魅力的に思えた。
 自分が死にさえすれば、領民が、妻たちが救えるというのなら。
 守るべきもののために命を懸けるのが貴族たるの責任であることを、バルドはイグニスから学んで知っている。
 だが今そう考えているのは、必ずしも父からの教えに従ってというわけではなかった。
 ガウェイン城にはセリーナが、セイルーンが、アガサがいる。
 バルド一人を戦場で死なせてなるものか、と自らも死を覚悟して帰りを待つ健気な婚約者たちであった。
 籠城して敗れればはたして彼女たちはどうなるのか。
 ハウレリアに理性的な対応を望むにはアントリムは犠牲を強いすぎていた。
 男たちは撫で斬りにされ、女性たちは慰み者にされる未来しかバルドには思い浮かばない。
 そんなことを許容するくらいなら、死を許容するほうが遥かに楽に思えた。
 (――――果して死を決しただけで戦に勝てるものか?)
 根源的な部分でバルドは確信を得られず迷っていたが、ではほかに勝てる手段があるかというと対案もないのが現実であった。
 友人でもあったネルソンの死は、バルドに暗い未来に対する連想をさせずにはおかなかった。
 こんなときにムードメーカーとなるジルコも、偵察にでたっきり戻ってこない。
まず十中八九死んでいるに違いなかった。そうでなくてはジルコがこの窮地に帰ってこない説明がつかない。
 コルネリアスからの長い付き合いで、心を許してきたジルコの不在はバルドの精神に大きな負担を与えていた。
 ――――要するに、バルドは疲れきっていた。
 本当は泣き喚き、八つ当たりして大人に助けを求めたいほどに弱りきっていたのである。
 いかに早熟で知識があろうとも、過酷な訓練で表面上は金剛石のように鍛え上げられていたとしても、その人間の奥深くにひそむ魂だけは本来時間とともに成長するものだ。
 バルドのなかの少年の魂は限界を超える負荷に壊れかけていた。

 『死ぬるは今ぞ』

 これまでも生命の危機に左内が表に出てきたことはある。
 それさえ、もしもバルドが心理的に抵抗していれば左内は大人しく引き下がったであろう。
 左内が表に出ていてもバルドは何が行われているのか、冷静に把握していたし、その意志を表示することも可能であった。
 だがバルドは初めて、自分の意志で左内に身を委ねようとしていた。
 歴戦の武人である左内ならば、この窮地を打開してくれるのではないか、という誘惑を振り払うことができなかったのである。
 「――――お願いだからみんなを、僕を助けて……!」
 本人が望んだわけでもない地位と責任――バルドはその重さに耐えることを放棄した。いや、少なくともバルドのなかでは、責任を全うするために左内の力を借りようとしたのであった。

 ガウェイン城に帰還したバルドは食糧庫を開き、兵たちの出迎えと再編を命じた。
 おそらくは明日の夕刻にはハウレリア軍が到着し、本格的な戦闘は明後日からになるものと思われた。
 「バルド! よく無事で!」
 「バルド様! お待ちしておりました!」
 圧倒的多数の敵と戦い、戦史に残る損害を与えて婚約者が帰還したのである。
 たとえ最後は敗れたとはいえ、セイルーンたちの喜びは大きかった。
 しかしバルドの政治的な側近でもあるアガサだけは、二人ほどに喜びを露わにすることはできなかった。
 (不憫なお方――人もうらやむ武勲をあげたというのに、この方にとってはなんの意味もない)
 むしろ莫大な損害を与えたがゆえに、バルドとその一党はハウレリア軍にとって決して見逃すことのできない仇敵となった。
 憔悴しきったバルドの様子が、アガサの想像が間違っていないことを物語っていた。
 「…………バルド?」
 軽く抱きかえしはしたものの、一言も言葉を発しないバルドにセリーナはようやく違和感を抱いた。
 「――今すぐモルガン山系に脱出しろ。ハウレリア軍もそこまでは追ってこない」
 もちろんそれは、戦場の第一線にバルドがいれば、という但し書きがつくのだが、確かに仇敵バルドの身柄さえ抑えることができればハウレリア軍が無理な追撃をする必要性がなかった。
 もはやハウレリア軍にマウリシア国内を侵略するだけの余力は残されていない。
 ただ形式と意地の双方において、バルドという生贄が必要であるということだけは確かであった。
 「何をいうんや? うちは絶対に動かへんで!」
 『……めろがジタバタぬかんさんと、いね(女がごちゃごちゃ言ってないで早く逃げろ)』
 思わず口を挟んだ左内はいらだっていた。
 左内にとって女は家庭を守るものであり、男を安心して送り出すことが仕事だ。
夫が戦にいくのを邪魔する妻がいるだろうか。
 そんな女はたちまち離縁されるであろうし、またそのような未練な態度は恥であるという共通認識があった。
 少なくとも左内の妻であれば、たとえ心のなかはどうあれ曇りのない笑顔で送り出してくれるであろう。
 夫に恥をかかせるつもりなのであろうか、とごく自然に左内はセリーナたちを見下したのである。
 ――だが、今まで左内はそんな彼女たちにいらだちを感じることはなかったはずだ。
 それは左内自身も気づいていない心の焦燥であった。
 「誰か、女たちを連れていけ――――」
 バルドが言い終えるより速く、セリーナの手のひらがバルドの頬を打った。
 「しっかりしいや! そうやって逃げるバルドなんか、うちはみとうないっ!」
 もしもこの世に運命というものがあるとしたら、あのとき自分たちが逃げずに残ったのは今このときのためであるとセリーナは確信した。
 そして目の前の左内もまた、かつて自分たちを助けてくれたあの日の左内でないことを、ほとんど女の勘だけで見抜いたのである。
 「バルド様、私の人生は貴方とともにあります。一人だけ死のうなんて思わないでください」
 セイルーンは一筋の涙を零しながらバルドに抱きついた。
 セイルーンもまた、バルドの発する濃厚な死臭に気づいていた。
 この手を離したらバルドはあの世へと連れ去られてしまう。
 理性ではなく直感がセイルーンにそう告げていた。
 いったいなぜ、バルドからこれほど強い死の匂いを感じてしまうのか。
 「私は二人ほど付き合いが長いわけではないですけれど、夫と死を共にするくらいの覚悟はできていますよ? でも今はそんなことより、バルド様、なぜ貴方は死にたがっているのです?」
 戦って死ぬ覚悟を決めているのではなく、戦場で死ぬことを欲している。
 アガサの指摘は左内の正鵠をついたと言ってよい。

 城から見下ろす彼方まで広がる大軍勢。
 そして我が首を狙うは敵国の総大将と配下の将軍たち。
 武功をあげんと死を覚悟した屈強の戦人たちが、轡を並べて槍を振るう。
 もはや生死は論ずるに足りず。ただその武を見せつけて武名を雲上に高々と掲げよう。
 いつか夢見た戦人の死に場所である。
 それを奪う権利がいったい誰にあるというのか。

 『――――わえが死んで何が悪か』

 これほどの死に場所を得る機会がほかにあるか?
 女が男の死に場所に口を出すこと自体が筋違いではないのか。
 『退け、邪魔は許しね(許さん)』

 『――――駄目だよ。左内さん、それはやっちゃいけない』
 セイルーンを振り払おうとした左内の手が、身体の内部からの衝動によって硬直した。
 雅晴が左内から身体のコントロールの一部を奪ったのである。
 『邪魔するんか、坊』
 『この人生の主役はバルドなんだ。観客にすぎない僕たちが主役を演じちゃいけない』
 本来誰よりもこの葛藤に深く苛まれてきたのが雅晴であった。
 異世界転生というものに憧れ、そのために知識まで蓄えた雅晴である。
 それが本当に異世界にやってきたというのに、蘇った自分がバルドの前世であったという事実を受け入れるのに、どれほどの懊悩と絶望が必要であったことか。
 『僕だって異世界で無双して恋をして、第二の人生を満喫したかったさ。僕ほどそれを望んだ人間はいないんじゃないかと思えるくらい』
 それでもどうしても認められないことがある。
 『岡雅晴が主人公でない人生に意味なんてないんだよ。僕たちはバルドの人生を見物できるあまりものなんだ。あまりものが何をしても結局はバルドの人生の一部でしかない。それでいいのかい? 左内さん』
 よいはずがなかった。
 誇り高き武人であり、歴戦の戦人である岡左内定俊の名はそれほど安いものではない。
 だが、この世界でいくら戦人の誇りを貫こうとも、それがバルドに帰するものであることは明らかであった。
 死に場所すらもバルドのものである。
 最初から岡左内定俊の死に場所など、どこにもないのだ。
 あの大坂夏の陣を生き延びてしまった左内に、二度と死に場所のあろうはずがなかったのである。

 『――死ねぬ戦人は因果なものよ』

 ああ、前田慶次郎の言う通りだ。
 あの快男児も自分と同じ気分を味わったのだろうか。
 武士にとって死に場所はただ一度のものであり、やり直しや替えは効かない。
 この夢のような二度目の人生に、左内としたことが思わず埒もない夢を見てしまったようであった。

 『負うた子に教えられて浅瀬を渡るとはこんことか』

 まさか雅晴のような若者に人生のなんたるかと教わることになろうとは。
 急速にバルドを包んでいた死臭が薄れていく。
 しかしバルド本人が立ち直らない限り、本当の意味で死がバルドから去ることはないだろう。
 セイルーンは背を伸ばしてバルドの唇に口づけた。
 「格好いいバルド様も好きですけど……私はやんちゃでいつも私に迷惑をかけてばっかりのバルド様が一番大好きです」
 「うちかて何かしてもらえるからバルドが好きなんとちゃうで。恋する乙女は守られるより守りたい生き物なんやから」
 「――――金貨を張りつけた足で踏みつけて欲しいなら、協力するのも吝かではありません」
 「のおおおおおおおおおおおおっ!」
 バルドはこめかみを押えて絶叫した。
 何気にアガサの最後の一言が一番効果があったようである。
 せっかく勇気を出して一世一代の台詞を告げたのがいろいろと台無しであった。

 ――――全くなんて格好悪い。
 バルドは自分しかいないのに、セイルーンやセリーナの夫になるのは自分なのに。とりあえずアガサも踏んでくれるなら仲間にいれてやってもよい(本音)。
 左内に自分の人生の責任を託しても、結局その責任はバルドのものでしかないではないか。
 なぜなら今この時代に生きる主体はバルド以外の何ものでもないのだから。

 「情けないところを見せちゃったな」
 「むしろ私はご当主様の情けないところばかり見せられている気がしますが」
 「ぐふううううっ!」

 口から吐血せんばかりの勢いでバルドは胸を押さえた。
 一生涯消せない黒歴史が、またひとつ増えた気分であった。

 「――ひとまず汚名返上といきたいところなんだけど、さすがに今回ばかりは分の悪い賭けになりそうだなあ」

 そう言って悪戯っぽく笑うバルドは、ちょうどセイルーンを出し抜いて迷惑をかける子供のころのような目をしていた。

 「このまま籠城しても長くはもたない。というより数の差で敵の魔法士を無効化できない以上おそらくは一日ももたずに終わる」
 せめて敵の五分の一でも魔法士がこちらにいれば四・五日はもたせられるのだが。
 数の暴力で魔法と歩兵に吶喊されれば、アントリム軍にできるのは少しでも敵の道連れを増やすことだけだ。
 バルドにとって意外なことに、半分残れば幸いと思っていた兵士たちはおよそ七割以上がガウェイン城に集結していた。
 負け戦であることを承知していながら戦うことを選んだ忠義の兵である。
 こうした兵はたとえ練度で劣っていても強い。
 しかし負けとわかった戦で彼らを消耗するつもりなどバルドには毛頭なかった。
 「――今すぐ城を出るぞ」
 「それはいいがいったいどこに?」
 あまりの急激な流れに戸惑っていたブルックスはかろうじて尋ねた。
 今さらどこに逃げてもハウレリア軍の追撃に捕捉されることは明らかである。
 両軍の戦力差を考えれば、騎兵部隊だけでもアントリム軍の殲滅が可能であろう。
 「ひとまずは――ギュネスじいさんのところだな」
 都市部からほとんどの市民は疎開しているが、山小屋に定住してビール造りにいそしむギュネスはいまだモルガン山系の山に暮らしていた。
 わざわざハウレリア軍がそんなところまでやってくる理由がなかったからである。
 「さて、忙しくなるぞ! 馬を引け! ブルックス! ありったけの火薬をもってついてこい!」
 「あ、あれ? 愛の再確認は? 感激の抱擁は?」
 にわかに生気を取り戻したバルドに、セリーナはあてもなく手をブラブラと彷徨わせた。
 彼女としては雅晴の協力が大きかったとはいえ、死への誘惑にとりつかれたバルドを引きもどし、自分たちとの未来への希望をつなげたという意識がある。
 実際に彼女たちがバルドの命令に素直に従っていれば、バルドは左内の意識とともに戦いのなかで死んだであろう。
 「忙しいから手付けだけ」
 そう言ってバルドはセリーナ、セイルーン、アガサの順で、強引ともいえる荒々しさで唇を塞いだ。
 戦場では男は例外なく感情を高ぶらせ、女への種族維持本能ともいえる劣情を催すというが、バルドもまたその例外ではなかった。
 初めてともいえる乱暴な口づけにセリーナもセイルーンも我を忘れて陶然となった。アガサにいたってはその場で腰を抜かして呆けた。
 (……乱暴にされるのも……いい……)
 「残念だけど、今回の策は多分に運が必要なんだ。みんなの女神の幸運に期待させてもらうよ!」


 バルドが馬を飛ばしてギュネスのもとを訪れたのは深夜になろうとする時間であった。
 「おいおい、こんな夜更けになんのようじゃい」
 すでに床についていたギュネスは、眠そうに目をこすりながらバルドを家に迎えいれた。
 「ギュネスさんが疎開していなくて幸いでした」
 「こんな山奥の一軒家に好き好んでやってくるのはお前さんくらいさ」
 一応、領主に対する配慮はあったのか、ギュネスはそれ以上何もいわずに土間の甕から一杯のエールをバルドに差し出した。
 「いただきます」
 ほとんど気つけのように、バルドは一気に飲み干した。
 甘く爽やかなエールの味が、つかの間バルドの疲れ果てた心に沁み入るのをバルドは感じた。
 「――して、わしの何の用かな?」
 「ギュネスさんはこの山を誰よりもよく知る人です。昔ここが鉱山であったときのことも知っておられる」
 「わしがまだまだ若かったころの話じゃぞ? もうだいぶ記憶も薄れとるが……」
 遠い過去を思い出すようにギュネスは天井を仰ぐと目を細めた。
 お世辞にも鉄鉱石の品質は良いものとはいえず、そのため結局は廃れて閉山したが、当時は貴重な現金収入源であった。
 どこの鉱山でもそうであるが、鉱脈が尽きなくとも坑道が水で埋まったり、地盤が弱い場所に突き当たればそれ以上掘ることは難しくなる。
 掘り始めたころは簡単でも、坑道が長くなるごとに、メンテナンスと新たな採掘には経費がかかるようになるのであった。
 若かりし日のギュネスもまた、生活の糧を得るために坑道に潜る日々を送っていたのである。
 「そこをなんとか記憶を振り絞っていただきたい。極力地中深く、かつ山肌に近い坑道で水没していない場所が望ましいのですが……」
 「そんな場所見つけてなにをするつもりじゃ?」
 「山津波を起こしてみようと思いまして」
 「お前、正気か?」
 山津波は山に生きるものにとっては悪夢そのものだ。
 わざわざ好き好んでそれを起こそうとするなど、神をも畏れぬ所業としか思えなかった。
 「あの大軍を相手にするのに、もうこれしか手が浮かばないんですよね」
 困ったような顔でバルドは乾いた笑いを浮かべるが、内心は戦々恐々である。
 火薬を爆発させただけで都合よく山津波が起きるかなど、正直予想もできない。
 実験もできないし過去の事績も役には立たなかった。
 それでもこの限られた時間と資材を使ってハウレリア軍と渡り合う方法を、バルドはこれしか思いつくことができなかった。
 「……正気のようじゃな。まったく、山津波を戦争に利用しようなど思いつくのはお前くらいじゃわい……」
 呆れたようにギュネスは肩をすくめて、ぐっと盃を呷った。
 空恐ろしいほどの寒気から、身をふるい立たせるにはアルコールの力が必要だった。
 「わしが鉱山で働いていたのは今から三十年以上は前の話じゃ。今はビールの酒室として使っちゃいるが……昔の坑道が残っているかは保障できんぞ」


 翌朝、進軍を開始した国王ルイのもとに、アントリム軍がモルガン山系へ退却を開始しているという報告が届けられた。
 「とうとう奴も進退極まったか」
 報告を聞いたルイはむしろ安堵をおぼえていた。
 あれほどの非常識な策を講じて奮戦したバルドである。その居城であるガウェイン城にどんな仕掛けが施してあるかわかったものではない。
 その城を捨てて逃げるという選択肢を選んだ以上、もはやアントリムにハウレリアの大軍を阻止しうる策は残されていないと考えるのが、論理的帰結というものであろう。
 それに地の利があるとはいえ、逃走する軍と追撃する軍とでは追撃する軍の速度のほうが速いのは自明の理である。
 「逃がしはせぬよ。借りを返してもらうまではな」
 もしもバルドが部下を見捨てて一人逃走すれば、捕捉は容易なことではない。
 しかし憎むべき敵ではあっても、バルドが味方を犠牲にして我が身の保身をはかる矮小な人間でないことをルイは確信していた。
 「兵を急がせろ。それと……アルセイユを呼べ」
 ハウレリア王国の騎士団は合計で七つ、黒、白、蒼、赤、黄、翠にその全ての騎士団を統括する黄金竜騎士団である。
 その黄金竜騎士団長として事実上王国騎士を掌握するのがアルセイユ・ルレタビーユであった。
 当年とって四十八歳、いささか白いものが混じり始めた頭髪だが、鋭い眼光と隆々たる鋼の肉体はまるで衰えることを拒んでいるかのようであった。
 個人的武勇もさることながら、兵を縦横に操り騎士という精鋭を知りつくした指揮官として、アルセイユの右に出るものはいない。
 もし彼にもう少し政治的な洞察力があれば、大将軍の座はアルセイユのものであったはずだ。
 誰よりもおのれに騎士であることを課しているアルセイユにとっては、むしろ本望と考えている節すらあるが。
 「臣アルセイユ、御前に」
 「うむ、先ほど斥候の者からアントリム軍が山へ退却中であるとの報告があった。まずは先行してこれを叩け」
 「御意」
 「できれば小僧は生かして捕まえろ。それが無理でないかぎり」
 最悪なのはバルドに逃げられたり、戦そのものに敗北することである。
 そうなるくらいなら殺してしまったほうがよい。戦後を考えれば容易ではない失点であろうが、それにこだわりすぎて負けるよりはましであるはずだ。
 「――必ずや陛下のお望みに沿うことをお約束いたします」
 もちろんそれは、アルセイユに対する厚い信頼の裏返しでもあったのだが。

 「翠竜騎士団は残って陛下を守り参らせよ。赤竜と黄竜は私に続け!」
 アルセイユは矢継ぎ早に命令を下していく。
 陛下から先駆けの命を賜ったのはもっけの幸いであった。
 あのバルド子爵はアルセイユの知る戦闘からはあまりに異質な存在である。
 そんな異質な存在との戦闘から、可能な限り国王を遠ざけたいとアルセイユは考えていた。
 自分は死んでも代わりはいるが、国王に代わりはいない。少なくともアルイセイユが剣を捧げるべき国王に代わりなどいないのだ。
 「陛下が到着される前に終わらせるぞ」
 アルセイユの戦術指揮官としての判断は完全に正しかった。
 バルドはできればハウレリア軍が全軍そろった時点で、計画を発動したいと考えていたのである。


 ハウレリア王国騎士団がガウェイン城に到着したとき、すでに時刻は午後二時を回ろうとしていた。
 「どうやら尻尾を捕まえたようだな」
 アルセイユの目には、遠くモルガンの山を登る一筋の隊列が捕らえられていた。
 騎馬を中心とする騎士団に夜間の山岳戦を行う能力などないが、日没までにはまだしばしの余裕がある。
 どの国の軍隊でもそうだが、逃げにかかった軍隊ほどもろいものはない。
 日本の戦国時代でも、追い首といわれる戦死者は指揮系統の壊滅した潰走、という段階でもっとも多く発生している。
 騎士団だけでも十分に蹂躙できるとアルセイユは判断した。
 「駆けよ!」
 「おうっ! 一番槍はこの赤竜騎士団がもらった!」
 「なんの負けるものか!」
 前哨戦において、戦局になんら関わることができなかった騎士団の戦意は極限にまで高まっているといってよい。
 戦友でもあり、上司でもあったフランドルの見事な死に様は、彼らの心に大きな闘志の炎を吹きこんでいた。
 ただでさえ大陸でも最強と謳われる精強な騎士団が、今獰猛な牙を剥き出しにした。

 「――ちっ、やはり敵も馬鹿ではないか」
 ハウレリア軍との戦闘は明日になると考えていたが、どうも虫の良い話であったらしい。
 こちらの思惑通りに敵が動かないのはむしろ当然のことではあるが。
 「とはいえまだお前らと戦う準備ができていないのでね」
 坑道内に潜っているバルドに代わりアントリム軍の指揮を執っているのはマティス・ブラットフォードであった。
 「後衛の荷馬車に火をかけろ! 残りの連中が退避するまで我らで食い止めるぞ!」
 マティスの命令で飼葉と食糧を積んだ荷馬車に火がかけられた。
 ふもとに近いとはいえ、山道の幅は決して広いものとはいえない。
 燃え盛る荷馬車を回避してアントリム軍に接近するのは至難の業と言えた。
 「ちいっ、悪あがきを! 魔法士、あの荷馬車を吹き飛ばせ!」
 「嵐弾ストームブリッド!」
 「魔法解除マジックキャンセル!」
 荷馬車を吹き飛ばさんと迫る風の弾丸がその直前でかき消された。
 騎士団だけでやってきた魔法士の数だけなら、アントリムの魔法士でも無力化ができるのだ。
 「今だ! 撃て!」
 荷馬車の炎を前にして、突進してきた馬首を返すために騎士たちの動きが止まる。
 その瞬間を逃さずに次々と弩が発射された。
 「くっ! この程度で栄えある騎士団をどうにかできると思うてか!」
 無造作に赤竜騎士団長であるダントンは矢を打ち払ったが、誰もがダントンのようにできるかどうかは別の問題であった。
 幾人かの騎士が矢に撃ち抜かれ、あるいは馬を射ぬかれて落馬した。
 前線での損害は、少なからず高すぎる戦意で突進するハウレリア騎士団内に混乱をもたらしていた。
 「――――出るぞ!」
 荷馬車の炎上による防御。
 そして間隙を衝いた射撃による動揺。
 さらにまさか逆に攻撃に出るなど考えても見ない思考の死角という刹那。
 マティスは戦いの呼吸を知りつくしていた。
 「蒼炎騎士団元副団長、このマティス・ブラットフォードが戦いを教育してやる」

 ハウレリア騎士団は精強ではあるが、万能ではない。
 バルドを逃がしてはならないという制約と圧倒的少数のアントリム軍を前にして、敵が攻撃に転じる可能性を過小評価していたことは責められまい。
 「赤竜騎士団を舐めるなよ!」
 常人を圧する巨体をゆすって、ダントンは槍をしごいて進み出た。
 最前線で指揮官が無謀なまでの勇気を見せつけることが、彼の用兵方法なのだった。
 「うわあああっ!」
 ダントンの左右から悲鳴があがったのはそのときである。
 「伏兵かっ!」
 左右から矢を射かけられて数人の騎士が落馬した。
 「うろたえるな! 敵の数は大したものではない!」
 しかしダントンが平然としていられるほどに、兵は虚心ではいられなかった。
 この狭い山道という空間で、三方から奇襲されるなど悪夢以外の何ものでもなかったからである。
 「敵は乱れたぞっ! 続け!」
 敵のやってくる場所がわかっていれば、少ない戦力でもやりようがある。
 マティスには味方貴族の暴走で戦力的劣勢に陥った前回の戦役を戦い抜いた経験があった。
 そしてダントンにはなかった。その差が出たのである。
 「やらせるかよおおおおおっ!」
 騎槍とも思えぬ長い槍を振りまわし、アンリム軍い立ちはだかるダントンを、マティスの槍が止めた。
 「気合いだけはたいしたものだな」
 「ふん、爺いは猫でも抱いてすっこんでろ!」
 「俺はまだそんな歳ではないぞ!」
 槍の柄を合わせたままギリギリと力比べに入った両者だが、驚いたことに体格や年齢を無視するかのように勝利したのはマティスの方であった。
 「そ、そんな馬鹿な!」
 「まだまだ強化の練度が足りんよ」
 魔力による身体強化が主流の白兵戦において、若さや体力は必ずしも戦いの決定的な要素ではない。
 むしろマティスのように円熟の域に達したものにとっては、技の技量こそがもっとも重視すべき要素であった。
 「蛮勇を悔やむがいい。もっともその時間があれば、だが」
 「ううっ……くそ!」
 ダントンは力に競り負け、さらに空いてが技量で上回っていることを認めぬわけにはいかなかった。
 せめて一矢報いんと相討ち覚悟で槍を繰り出すが、マティスはそれすら許さない。
 すれ違いざまにダントンの槍を弾き飛ばすと、その背中に致命的な一撃を与えんとマティスの槍が迫る。
 「ぬうっ!」
 その致死の一撃から、ダントンは馬から飛び降りることで回避した。
 無理な姿勢から飛び降りたことで、重い鎧ごと強く大地に身体を打ちつけられたダントンは呼吸がつまり硬直する、がそんな隙をマティスが見逃すはずもない。
 「情けはかけんぞ」
 「――――やらせんっ!」
 とどめを刺そうとダントンに近づくマティスに一人の騎士が躍りかかる。
 黄竜騎士団長グラモンであった。
 マティスが以前の戦役から学んだように、アルセイユもまた対策を学んでいたのである。
 早くも予備を投入したその決断の速さには、マティスも感嘆の念を禁じ得ない。
 「まずは見事というべきかな」
 ダントンに代わってグラモンの猛攻を引きうけることになったマティスは、それでもまだ余裕の笑みを残していた。
 こうして前線に兵を釣り上げるのも彼の任務のひとつであったからだ。

 「敵を休ませるな。いつまでもあの力は続かん」
 魔力が無限でない以上、マティスたちの奮戦はおそらく半刻とはもたないはずであった。
 そしてわずか半刻では山道を長蛇の列と化して逃げるアントリム軍を逃がしきることはできない。
 殿が崩壊すれば、あとはただ一方的な蹂躙があるのみであろう。
 少なくともアルセイユの経験則的にはそのはずである。
 一方そのころ……。

 「本当に行くのか? わしの記憶はそれほどアテになるものじゃないぞ」
 「おおよその方角もあってる。ここは爺さんに賭けるとするさ」
 幸運にもギュネスが記憶していた坑道は水没を免れていた。
 しかし膝まで水に浸かる程度には地下水が浸食しており、いつ崩落してもおかしくない状況である。
 最悪の場合、坑道だけが崩落してバルドが生き埋めになり、外部の敵にはなんの損害も与えられないという可能性もありえた。
 「マティス殿もいつまでも時間を稼いでくれるわけじゃない。一か八か、やるだけさ」
 「……そうだな。お前さんの運を信じよう」
 大規模な崩落を引き起こすには爆破地点は山のふもとに近いほうが望ましいが、そうした坑道は全て水没していた。
 かろうじて残されていた中腹の坑道で、バルドは残された全ての爆薬を設置した。
 「……やっぱり俺が代わる! お前に何かあったら俺は……!」
 バルドとともに設置作業を終了したブルックスは、真剣な表情でバルドに向き直った。
 「何回も言っただろう? お前の身体強化じゃ爆発前に坑道を出ることはできない」
 「バルドの能力なら間に合うことはわかってるさ! でもギリギリじゃないか! 何かひとつ不測のことがあれば取り返しがつかない!」
 ブルックスの脳裏を、万余の敵を前に敢然と立ち向かったネルソンの姿がよぎっていた。
 亡き親友は仲間を守るため、見事に騎士の死に場所を得た。
 後を託されたブルックスにしてみれば、バルドが死亡するリスクは極力回避したいのは当然である。
 そのために命を捨てる覚悟はできていた。
 「ブルックス、お前がすべきなのはネルソンのように死んで手柄を立てることじゃない。生きて僕とともに在り続けることだ。僕をこれ以上友を犠牲にした男にしないでくれ」
 泣き笑いのようなバルドの表情を見て、ようやくブルックスはこの主君が自分以上にネルソンの死を深く受け止めていたことに気づいた。
 「ひとつだけ条件がある」
 「なんだ?」
 ブルックスはバルドを見つめて笑った。もっとも笑おうとしたのだが、その顔はやはりバルドと同じように泣き笑いのように歪んでいた。
 「――――俺より先に死なないでくれ」
 「約束はできんが努力はしよう」
 「いや、そこは嘘でもわかったと言っておけよ」
 今度こそ二人は顔を見合わせて本当に心から笑い合った。

 「敵ながらあっぱれな用兵だ。さすがはマティス・ブラットフォードだな」
 すでに三度にわたっての波状攻撃をしのぎ続けるマティスにアルセイユは唸るように言った。
 対マウリシア戦においてイグニスやマゴットほどのインパクトはないが、ラミリーズやマティスは決して無名の相手ではない。
 たまたま戦果が地味であっただけで、敵とした場合の粘り強さや手堅さではイグニスよりよほど嫌な相手であった。
 「とはいえ感心してばかりもおれん。そろそろ陛下も痺れをきらしておられよう」
 遅れてやってきたハウレリア軍本隊が山麓に到着しつつある。
 これ以上膠着状態が続けば、山岳戦に適した歩兵部隊が騎士隊にとってかわる可能性が高かった。
 「黄竜騎士団を一旦下げろ。いつまでもいい顔はさせん!」
 騎乗したアルセイユは猛然と拍車を掛けた。
 いかにマティスが優れた将であっても、疲労の蓄積はすでに限界が近いはずであった。

 巧みな進退を繰り返すハウレリア騎士団が、大きく動いたのがマティスの目にも捕らえることができた。
 「来たか、アルセイユ!」
 マティスにとっては旧知の敵将である。前の戦役においてマティスはアルセイユを二度にわたって撃退していた。
 退却戦であったためにマティスの武功は目立つことはなかったが、アルセイユの鋭鋒を退けただけでもマティスの手腕は空恐ろしいものと言える。
 「――――悪いが今度も返り討ちだ!」
 そう言ってマティスは高々と左手を掲げて左右に振った。
 同時に、マティスの背後に控えていたアントリムの魔法士部隊の全てが一斉に詠唱を開始する。
 魔法士たちが何かをしようとしていることは、アルセイユも敏感に感じ取っていた。
 「魔法解除マジックキャンセルを!」
 先の戦いでアントリムが風を操作して毒を送り込んだことを考えれば、魔法の正体がわからずとも無効化しておくべきである。
 そのアルセイユの判断は決して間違ってはいなかった。
 しかし――――。
 「光よ(ライティング)!」
 なんの変哲もない明かりの魔法、それがどんどん光量を増しまるで太陽のように強烈な輝きと化していく。
 その眩さを正面から浴びることになったハウレリア軍はたちまち目がくらんで落馬するものが続出した。
 魔法解除にはいくつかの盲点がある。
 魔法は距離とともに減衰するものであり、来襲する攻撃魔法は距離が遠くなるため減衰し、迎撃する魔法解除は距離が近いために威力が高い。
 しかし解除すべき魔法が遠くにある場合魔法解除のほうが減衰してしまって効果が発揮できないのだ。
 そのためハウレリア軍は閃光のごとき光とまともに浴びることとなった。
 「まさか魔法をこんな使い方をしてくるとは!」
 瞬時にアルセイユは退却を決断した。
 今この瞬間にもマティスは反転攻勢をかけに接近しているであろう。
 光を背にしたアントリム軍は、一切閃光による被害を受けていないはずであるからだ。
 しかしアルセイユの予想とは裏腹に、マティス率いるアントリム軍は全力で山を駆けあがっていた。
 「死ぬ気で走れ! 下手をすると巻きこまれるぞ!」
 光の魔法はただハウレリア軍の目をくらますためだけではない。長い距離の間に減衰しながらも、光は間違いなく地下深い坑道の奥にいるバルドのもとに届いた。
 導火線に点火したバルドは全身に魔力をみなぎらせる。
 視神経はもとより、伝達神経、筋組織、およそ神速を発揮するに必要な全ての身体を強化してバルドは疾走した。
 (ここで転んだら終わりだな……)
 廃坑にされて数十年が経過した坑道はいつ崩れてもおかしくないほどいもろい。
 ましてそこで火薬を爆発させて無事に済むはずがなかった。
 自分にはセイルーンが、セリーナが、アガサが、ブルックスや仲間たちが待っている。
 冷や汗で背中をじっとりと濡らしながらも、ついにバルドは出口から全身に太陽の光を浴びたのだった。
 そしてほぼ同時に、鈍く響く炸裂音とともに、山全体が不気味にブルリと身じろぎするように震えた。

 「なあっっ?」

 鳴動する山肌が、まるで脱皮する蛇のようにズルリと剥ける瞬間を国王ルイは見た。
 ずれた山肌の裂け目から、噴水のように水が溢れるとともに怒涛の勢いで土砂がふもとへと流れ出す。
 退却しようとしていた騎士団のおよそ半数が、ルイの見守る目の前で土砂に呑みこまれていった。
 「こ、こんな馬鹿な――これが人の為し得る業だと言うのか?!」
 悪夢としかいえぬ現実感のない光景……ルイの信頼する卓越した戦術指揮官であり騎士の鑑でもあるアルセイユも、自然の圧倒的な力の前には為すすべがなかった。
 土砂に呑まれる最後の瞬間まで、アルセイユが後方で控えていら黄竜騎士団と赤竜騎士団を押しとどめたのはさすがはハウレリア一の騎士の姿というべきであろう。
 ハウレリア最強と謳われた黄金竜騎士団が、干戈を交えることすらなく潰滅したという事実は、残された味方に強い敗北感を与えずにはおかなかった。
 この山津波が偶然であろうはずがない。
 先日の戦いで聞いたばかりの火薬らしき炸裂音をルイはその耳で聞いていた。
 こんな戦争があるのか。
 否、これが戦争といえるのか?
 バルド・アントリム・コルネリアスよ。お前はいったい何者なのだ?

 一方バルドは眼下の光景に満足していたわけではなかった。
 やはり爆破地点の深さが足りなかったのか、それとも山自体の組成によるものなのか、期待していたより土砂の量が少なかったのである。
 そのため撃破できたのは黄金竜騎士団のみにとどまり、その数は多くても三千には届かない。
 また足場は悪くなったとはいえ、ハウレリア軍に追撃の意志さえあれば、まだ土砂を乗り越えて戦闘を継続することは可能であった。
 (まともな神経であればこの後に及んで戦おうとは思わないだろうが……)
 たとえ被害が少なくとも、士気に与えた影響は絶大である。
 もともと軍人という生き物は、敵という相手には闘志を燃やすが、自然のように対抗することのできない事象には淡白な面がある。
 ましてハウレリア軍にこれが最後の悪あがきだということを知る術はないのだ。
 バルドが心が折れることを期待しても不思議ではなかった。

 「臆するな! 怨敵バルド・コルネリアスを倒さぬかぎりハウレリアに未来はない!」
 しかし期待は往々にして裏切られるものだ。
 いち早く戦意を取り戻したのはバルドにとっても因縁の深いセルヴィー侯爵であった。
 対マウリシアに狂気にも似た執念を燃やすセルヴィー侯爵アンドレイは、ここで敗北を認めたが最後もはや二度とマウリシアと戦うことはないであろうことがわかっていた。
 せめて一矢報いなくては、死んでいった息子たちや部下に対してなんの面目があるだろうか。
 主君の狂気が伝染したかのように猛然と進撃を開始したセルヴィー侯爵軍に釣られるように、再びハウレリア軍は諦めかけていた戦意を取り戻した。
 「――やれやれ、敵も味方も、思うようにはいかないもんだな」
 心中ではどれほどの絶望や失望があろうとも、バルドはそういって苦笑いしただけだった。
 こうなってはあのセルヴィー侯爵を討ちとって、再びハウレリア軍の士気をへし折る以外に方法はない。
 マティスと目線を交わし、逆落としにセルヴィー侯爵軍へ突撃しようとしたそのとき。

 「つれないねえ……あんたの怨敵は私じゃなかったのかい? 侯爵様」

 瞬間移動してきたかのように一陣の風が舞い、先頭を走っていたセルヴィー家の騎士が数人、何が起こったのかわからぬままに命を落とした。
 見慣れたはずのその光景に、バルドは思わず目を擦る。
 そこにいてはならないはずの人がいた。

 「銀光…………マゴット……!」

 食いしばった歯から絞り出すように、アンドレイはそれだけを呟いた。
 胸中から噴き出すどす黒い怨念を抑えることができない。
 今まさに長年の復讐を果たすときがやってきたことに、アンドレイは歓喜すら覚えていた。

 「殺してやる! 殺してやるぞ! できる限りむごたらしく!」

 マゴットへと迫るセルヴィー侯爵軍に、バルドは慌てて駆けだした。
 「何をやってるんだ! あの人は!」
 いくら銀光マゴットでもこれほどの数を相手に本調子ではない身体で戦うことは難しいであろう。
 自分たちの危機すら忘れてバルドたちは泥濘と化した坂道を駆け下る。
 そのバルドを包囲せんとハウレリア軍の本隊が動き出そうとしたそのとき、彼らはありえぬ方角から新たな敵の訪れを目撃した。
 平野を整然と蠢く兵の群れ。
 その数はおよそ七千以上に達するかに思われた。
 ありえない、このアントリムでの戦いで何度思ったかしれないその感想を、再びハウレリア軍は痛感することになる。
 ――それも最悪の形で。
 もはや怒りすら通り越してルイは天に向かって叫んだ。

 「いったいどんな魔法を使ったら我がハウレリア王国の方向からランドルフ侯爵家の軍がやってくるというのだ? 神よ!」

 ハウレリア王国は十年かけてマウリシア王国内に諜報網を築きあげてきた。
 国境に向けて移動する軍勢は、全て反国王派貴族によって拘束、あるいは停滞しておりブラッドフォード子爵が山越えをしてきた以外の援軍は存在しないはずであった。
 それだけ情報網に自信をもっていたといってよい。
 「自分の思惑だけで事が成るほど世界は甘くはないのだよ」
 アルフォードは無様に壊乱するハウレリア軍に嘲笑の笑みを向けた。
 もっとも自分が逆の立場なら、やはり同じように取り乱してしまうだろうが。


 「サンファン王国を横断してハウレリアに攻めこむ……ですか?」
 「ああ、もうサンファンのカルロス陛下とは話がついている。途中の食糧や秣、水の補給もあちらで用意してくれるそうだ。大盤振る舞いだな」
 サンファン王国は東西に広い国土を有しており、その国境はトリストヴィー、マウリシア、ハウレリア、モルネアの四カ国と接している。
 確かにサンファン王国が協力してくれるのであれば、全く無警戒のハウレリア王国南部を衝くことは容易い。
 「まことに大盤振る舞いですな。それで、サンファンの好意は奈辺に?」
 「フランコ王子の結婚のご祝儀だそうだ。まあ、本音はあの小僧バルドを殺したくないのだろうがな」
 ウェルキンはバルドがサンファン王国ならびにマジョルカ王国の海軍と密接なつながりを有していることに気づいている。
 しかもマジョルカ王国の海軍卿はバルドにべた惚れで結婚を画策しているというから、年頃の娘を持つ父としてはいささか複雑であった。
 「あの女誑しめ……」
 「たった今、無性にあやつを見捨てたくなりましたぞ!」
 親馬鹿をこじらせた二人はしばし心の交流を深めたとか深めなかったとか。
 「予想もしないところからの侵攻……しかもサンファン王国の影がちらついたとなればルイの頭も冷めるだろうさ」
 あとは外交交渉でマウリシアに優位な条件を飲ませればよい。
 それがウェルキンの構想であった。
 そもそもサンファン王国との同盟はトリストヴィー公国に対するものだけではなく。対ハウレリア王国に対する安全保障でもあったのである。
 おそらくはルイもそれに気づいたのだろうが、フランコの結婚相手が取るに足らぬ子爵令嬢であったことで、両国の同盟を甘くみた、ということだろうか。
 サンファン王国にとってはハウレリア王国も重要な貿易相手国であり、中立を保って輸出に力を注ぐのが正しい海洋国家の在り方である。
 ルイの推測もあながち的外れなものというわけではなかった。
 ただバルドが主導する製糸業の拡大、各種の保存食糧や新技術へのうま味がそれを上回ったというだけだ。
 「なんと申しますか……あの小僧がいなければ我が国はどうなっていたものか」
 「国土を荒らしての消耗戦になっていたかもしれんな」
 アントリムにおける大勝利だけでも歴史に残る偉業であるのに、バルドがもたらした外交的勝利はそれに勝るとも劣らない。
 問題なのは今後の扱いと現状である。
 「まさかとは思うけど……謀反とか起こされんよね?」
 バルドに無理難題をふっかけまくった自覚があるだけに、ウェルキンの笑いはひきつっていた。
 「陛下のおかれた政治的状況をあの小僧なら理解しているはず。戦争が終ったあとで存分に報いてやれば問題はありますまい」
 もっともあの母親マゴットがどうでるかはわかりませんが、とアルフォードは口には出さずに呟いた。
 「そ、そうか! 信頼しているからこそ重要な仕事を任せているわけだしな!」
 「陛下のそれは一歩間違うと、何かの刑罰と変わりませんがな」
 「わ、わかってもらえればいいのだっ!」
 宰相のハロルドも気にいられたばっかりにいらぬ苦労を背負わされているからな。
 アルフォードはそっとハロルドとバルドのために神に祈った。
 その祈りは決して届かないだろうとは思っていたが。


 「――――さすがにここまでの苦労をさせることになろうとは陛下も私も計算違いだった。この借りは大きいな」
 本来、ハウレリア王国の南部でアルフォードが荒らし回ることにより、戦争は早期に終結するはずであった。
 サンファン王国という不確定要素を抱えたまま、自国の領土を戦場にしてまで戦い続けるほど国王ルイは愚かな男ではなかったからである。
 まさにこの作戦は、ウェルキンが表現したとおり、『保険』であったのである。
 ところがアントリムの常識外の大勝利がその予想を覆した。
 ルイはアントリムこそがマウリシアの生命線であることを看破し、その排除に全力を注ぐことを決意したからだ。
 当然南部の諸侯たちも総力を挙げて参加しており、アルフォードが見たのはもはや空き家も同然となった無人のハウレリア王国であった。
 この有様では当初の予定である、ハウレリア王国軍を南部で引きずりまわすという計画は実行不能となった。
 事態の進行をほぼ洞察したアルフォードは、この機会に戦争そのものをさらに決定的なものとしてしまうことを決めた。
 すなわち、敵の伝令を駆逐しながらアントリムまで一気に北上して、ハウレリア本軍の後背を衝く。
 もし成功したならば、ハウレリア王国との軍事的緊張を今後百年にわたって軽減することのできるはずである。
 その途上でコルネリアス軍を吸収し、およそ七千余にまで膨れ上がったランドルフ侯爵軍は見事ハウレリア軍の奇襲に成功した。

 「伯爵様ああっ! イグニス様しっかりしてえええええっ!」
 「早く! 早く治癒師を呼べ! 手遅れになるぞ!」
 「し……死ぬ……」
 その影で一人の男が危うく天に召されようとしていた。
 愛する妻と生まれ来る子供のために、身体を張った彼の無謀とも言える献身は賞賛されてしかるべきであろう。
 ただ相手がひたすら悪かった。
 本気になった銀光マゴットを止められる人間など、この世にいはしないのだ――。


 「うろたえるな! 敵は小勢ではないか! 逆に包囲して殲滅してしまえ!」
 ハウレリア軍司令官ロシャンボーの支持は完全に正しかった。
 しかしアントリム軍との戦闘正面に騎士団の大半を派遣してしまったことが、ここで大きく裏目にでた。
 徴兵されてきた民兵が、挟撃された衝撃に浮き足だってしまったからだ。
 古来より挟み撃ちにあって壊乱した軍隊は枚挙にいとまがない。
 たとえ敵に倍する兵力をもっていた、としても挟撃という閉そく感や退路を断たれたという心理的衝撃が兵卒の士気を打ち砕くのである。
 織田信長が越前遠征で朝倉家と浅井家に挟撃された『金ケ崎の退き口』などもその良い事例となるだろう。
 常備軍を所有していた織田の軍勢でさえ、挟撃という心理的衝撃に将はともかく兵卒は耐えられなかった。
 ハウレリア軍の大半を占めた民兵の動揺が収まらないのはむしろ当然であった。
 「敵は魔法士の防御隊形がとれていないぞ! 支援魔法射撃開始!」
 さらにアントリム軍の魔法に対抗するため、魔法士の大半を前面に集中させていたことが災いした。
 次々と天から降ってくる爆炎にますますハウレリア軍の混乱は大きくなっていく。
 「陛下を守りまいらせよ!」
 唯一残った翠竜騎士団がルイを中心に方陣を組んだ。
 「魔法士隊を呼び戻せ! ランドルフ侯爵軍を押し返すんだ!」

 「――――いいのかい? お仲間はあんたを置いて逃げそうだぞ?」
 「お前だけはっ……お前だけは見逃すわけにはいかん!」
 「見逃さないのはこっちのほうさあ!」
 セルヴィー侯爵の全軍が、ただひとりの女戦士マゴットに殺到した。
 しかしマゴットは数知れぬ兵士の攻撃を全くものともせずに、瞬く間に数十の死体を積み上げた。
 『なんちゅうかかんや。(なんという母親だ)まるで神功皇后やけ』
 左内が思わず口走ってしまったのも無理はない。
 もはやいつ出産を迎えてもよいほどに大きく膨れ上がったお腹をものともせず、爛々と目を輝かせて兵士たちを屠り続けるマゴットの姿は異常というほかなかった。
 実のところお産のために稽古を控えていたために、地味にストレスが溜まっていたのだ。
 神功皇后は仲哀天皇の妃で、神託を受けて現在の朝鮮半島に出兵、そのさい妊娠していたためにお腹に石を抱いて出産を遅らせたと伝えられる人物である。
 帰国後出産したのが応神天皇で、出産の際にはどこからともなく空から紅と白の布が降ってきたという。縁起ものの紅白の垂れ幕はこの故事に基づいている。
 お腹を揺らして戦うマゴットに、左内が神功皇后の姿を思い浮かべるのも不思議な話ではなかった。
 「そういう時と場合じゃないっ!」
 バルドにとっては大切な母であると同時に、まだ見ぬ弟か妹の命がかかっている。
 お互いに譲れぬ者を抱えて両軍は激突した。
 セルヴィー侯爵軍およそ三千に対して、アントリム子爵軍およそ八百――+人外一名。
 普通なら勝負になるはずのない戦力差である。
 しかし戦いを優位に進めているのはアントリムのほうであった。
 「ひるむなっ! あの魔女とていつまでも戦い続けられるはずはない!」
 セルヴィー軍の指揮をとるエマールは、戦場を縦横にかき乱すマゴットに苦虫をかみつぶしたような渋面で命令をくだした。
 マゴットはセルヴィー侯爵家にとって災厄の象徴である。
 単に勝利することを目指すのであればマゴットには最低限の牽制の兵力を残し、アントリム軍の討滅に全力を尽くすべきであろう。
 「息子よっ! 仇はとってやるぞおおおっ!」
 それでもセルヴィー家の事情がそれを許さない。当主である侯爵が理性を失っている現状ではなおのことである。
 「アントリム軍の先頭を狙え! 魔女の前で息子を血祭りにあげてやるのだっ!」
 あわよくばそれでマゴットの動揺を誘いたい。
 エマールはマゴットとバルドを同時に標的として狙ったが、どちらも獲物にするには相手が強すぎた。
 彼らにとって狩猟者は彼ら自身であり、むしろ獲物はセルヴィー軍にほかならなかったからだ。
 「遅い遅いっ! そんなんじゃ女を踊りにゃ誘えないね!」
 「あんの馬鹿親があああああっ!」
 バルドとしてはマゴットが敵の槍に身をさらすたびに気が気ではない。
 親の心子知らずとはいうが、この場合子の心親知らずと表現するべきなのか。
 そんなバルドの心配をよそにマゴットは絶好調であった。
 「あーはっはっはぁぁ!」

 巨大な岩に波が散らされるように、セルヴィー軍は無惨に砕け散らされ続けた。
 マゴットの武はまさに化け物の領域であり、バルドとマティスが一匹の生き物のように統率するアントリム軍もまたセルヴィー軍につけ入る隙を与えなかった。
 そればかりかすでにバルド率いるアントリム軍は、エマールのいる本陣に迫ろうとしていた。
 このままでは侯爵を戦闘に巻き込むことになるのは避けられない。
 エマールは遠くハウレリア軍の本隊を見やった。
 ランドルフ侯爵軍の登場に算を乱して兵卒が逃げ始めている。
 味方の援護を得られないどころか、このまま戦闘が長引けばセルヴィー軍は敵中に孤立するであろう。
 「――――ドルン様、侯爵様をお頼みします」
 「何をいうエマール? わしはあの魔女を殺すまでここを動かんぞ!」
 「我が命にかけて怨敵を討ち果たしましょう。そのためには侯爵様にはここを離れてもらわねばなりませぬ」
 「許さん! そのようなこと、わしは許さんわああ!」
 だがアンドレイの思惑とは裏腹に、ドルンをはじめとする警護の部隊はアンドレイの脇を固めてグルリとエマールに背を向けた。
 彼らはエマールの言葉にせぬ思いを受け取ったのである。
 おそらくはもう二度と生きて会うつもりのないことを。
 「感謝いたします。ドルン様」
 「武運を祈るぞ、エマール。――許せ!」
 断腸の思いではあるが、ドルンはセルヴィー家を守る譜代の家臣として、アンドレイの命を優先させぬわけにはいかなかったのであった。
 アンドレイが暴れながらも味方の本陣へ移動を始めると、エマールは相変わらず閃光のように舞う戦場の女神を睨みつけた。
 「いつまでも我がもの面をさせておくと思うか、魔女め!」

 戦場が遠ざかっていく。
 何万という軍人がひしめきあい、鎧の擦れ合う音が、まるで地鳴りのように低い音となって戦場にこだましている。
 そのなかにひと際眩しく輝く一人の女神がいた。
 姿かたちは美しいが、敵対するものにとってはそれは死神の顎に等しい。
 家族の、朋友の、恩師の仇とばかりに群がるセルヴィー侯爵軍はむなしく死体を積み上げ続けていた。
 このままでは結局魔女に手柄をなさしめるだけに終わるのではないか?
 ドルンたちに引きずられながらアンドレイは絶望的な目で戦場を見つめた。
 すでに本隊はランドルフ侯爵軍の攻撃を受け、国王を中心に結束しているように見えるが雑兵の大半は逃亡を始めている。
 もはやその数は二万にも届くかどうか。
 半数以下にまで擦り減らされたハウレリア軍が二度と立ち上がることはないのか、誰の目にも明らかだった。
 今日が、今日こそがマウリシアとの最後の戦いになるのだ。
 それがアンドレイにはよくわかった。このまま生きのびても生きる屍の人生にしかならぬことも。
 「…………ドルンよ」
 疲れ果てた老人のようにかすれた声で呼びかける主君に、ドルンは胸に疼く憐憫を抑え、心を鬼にして答えた。
 「罰は後でいかようなりとも。しかし今は何よりアンドレイ様のお命を救うことが肝要にございますれば!」
 「――――すまぬ」
 ドルンはセルヴィー侯爵家に長く仕えてくれたのみならず、アンドレイにとっても幼なじみであり、学友であり、戦友でもあった。
 衷心から自分のためを思ってくれていることもわかっている。
 しかしこの戦争が終わればセルヴィー侯爵家の存続は難しいだろう。
 なんとなればセルヴィー侯爵家こそは主戦派の筆頭であり、この戦役を主導した元凶にほかならないからだ。
 あるいはアンドレイの命までは取られないかもしれないが、少なくともなんらかの処罰があることは間違いない。
 それでも生きろ、とドルンはいうのだろう。
 なんともありがたい忠誠、得難き忠臣、天晴れな滅私奉公よ。
 これが平時であれば、アンドレイはどれほどドルンを激賞しても足りまい。
 だが、今だけはそれでは駄目なのだ。
 このセルヴィー侯爵アンドレイがアンドレイであるためには、あの魔女に屈したままの生涯を認めるわけにはいかない。
 諦念と憎悪と感謝と惜別――――様々な感情がアンドレイの胸に去来する。
 「さらばだ、我が友ドルンよ」
 「――なぁっ!」
 大人しくなったかと思った矢先のいきなりの抜刀を、ドルンは信じられない思いで見つめるしかなかった。
 どれだけ暴れようとも剣までふるうことはない。
 そんな信頼を裏切られたような思い――否、自分こそがアンドレイの思いを裏切っていたのだということをドルンは自覚した。
 「そこまであの女との決着をお望みとは」
 瀕死のドルンをアンドレイは優しく抱擁する。
 「先に逝って待っておれ。詫びはあの世でいれよう」
 「――どうか――ご武運を」
 かろうじてそれだけをいってドルンは絶命した。
 粛然と黙とうを捧げたアンドレイは、ショッキングな光景に固まってしまった部下たちを叱咤した。
 「何を呆けておる! ただちに引き返してあの魔女を討つぞ!」

 もとより魔女を討つことが途轍もなく困難であることはわかっていたつもりだが、それでも心のどこかで甘くみていたらしい。
 エマールはどんどん増えていく味方の損害に驚愕を隠せなかった。
 誰かが銀光マゴットは一人で一個大隊に匹敵すると評したというが、限定的に捉えるならばマゴットを仕留めるのは一個大隊を全滅させることよりも困難だ。
 相手から一方的に味方を殺されていくほど士気を下げるものはない。
 せめて一撃、まぐれでもマゴットを傷つけることができれば、あとは時間の問題だというのに。
 切歯扼腕するエマールをさらなる衝撃が襲う。
 バルドを筆頭に、マティス、ブルックスという一線級の騎士が配下を率いてセルヴィー侯爵軍の横っ腹に噛みついたのである。
 バルドたちの速さについてこられず、その数は百にも満たなかったがマゴットの脅威で士気の低下したセルヴィー侯爵軍は無様にその内臓を食い破られた。
 「いかんっ……!連中とマゴットを合流させるな!」
 しかし恐怖と混乱にすくんだ兵はなかなかエマールの思うようには動かない。
 さらに後続のアントリム軍がバルドたちの開けた穴を拡大するように乱入するに及んで、セルヴィー侯爵軍は壊乱したかに見えた。
 「逃げたいものは逃げよ! しかし家族の、戦友の、ハウレリア王国軍の仇を討ちたいと思う者はついてこいっ!」
 セルヴィー侯爵アンドレイが高らかに叫んだのはそのときだった。

 人は死を覚悟したときに様々なものを見るという。
 それは幼い日の憧憬であったり、初めて恋人と過ごした日であったり、理想に燃えて訓練した若い日であったりする。
 今アンドレイが脳裏に鮮明に思い出しているのは我が子との幸福な日々であった。
 跡継ぎとして、ハウレリア王国の軍人として申し分ない自慢の息子である。
 その大切な愛し子が、額を割られてもの言わぬ姿となって帰ってきた日のことを、アンドレイは思いだして目を見開いた。
 あの日の憎悪と屈辱が晴らせるのなら、この老いぼれの命くらいいくらでもくれてやる。
 貴族として、当主として失格とよばれようが構うものか。
 父として我が子に胸を張りたいのだ。
 大きく肺に息を吸い込み、アンドレイは剣を抜いた。
 もはや生きて帰るつもりは毛頭なかった。ただ相討ちでも構わないからあの魔女を殺さずにはいられなかった。
 「あーはっはっはぁ! いい覚悟だ! あの世でもその元気でやりな!」
 「……マゴット!」
 銀閃が煌めき、再び二人の部下が死んだ。
 しかしアンドレイはそこに確実なマゴットの疲労を感じ取った。
 銀光の名は伊達ではなく、肉眼でマゴットを捉えるのは不可能に近いはずであったが、今やマゴットの速度は光から風へと落ちたように思われる。
 「死を恐れるな! 身体ごとあの魔女を貫けいっ!」
 「おおおおっ!」
 アンドレイの実感はセルヴィー侯爵軍全てが感じるところでもあった。
 あと少し、マゴットにかけられた光速の魔法はあと少しで効力が切れるところであった。

 (こりゃちょいとやばいかもねぇ……)
 お腹の子供魔力を吸われているせいなのか、全身を強化する魔力が尽きようとしているのをマゴットは感じていた。
 とはいえ全力を出さずともある程度あしらえる自信がマゴットにはある。
 (あの馬鹿バルドもどうやら無事だったようだし……)
 一方、バルドたちも獅子奮迅の勢いでセルヴィー侯爵軍を切り崩していた。
 アンドレイの檄で士気を回復したとはいえ、まだまだ戦いの勢いはアントリム側にあり、それを覆すのは容易なことではないのだ。
 「国王が逃げるぞ! このまま見捨てられて逃げ遅れていいのか?」
 いささかあざといとは思いながらも、バルドは積極的に雑兵に対する煽動を行っていた、
 彼らは騎士ほどに国家や領主に対して忠誠を誓っているわけではない。
 その多くは徴兵されたから、報賞金目当て、など本業外の出稼ぎ程度に思っている。
 これが国土防衛戦闘であれば家族を守るためにも必死になるであろうが、侵略戦では彼らが死ぬまで戦い続けることを期待するのは不可能であった。
 それでもなかなか軍組織が崩壊しないのは、セルヴィー侯爵が長年訓練に時間を注ぎ、報酬を惜しまなかった賜物であろう。
 だがろうそくが燃え尽きる寸前の灯のように、鮮やかに燃え上がるセルヴィー侯爵軍にも限界が迫っていた。
 「そろそろ逃げないとやばいんじゃないか?」
 「全滅するまで戦うのは騎士だけでいいだろう?」
 かつての戦役でマゴットに家族を殺された兵士を除けば、彼らの心配は完全に正当なものである。
 国王以下ハウレリア軍が撤退に移っている現在、敵中に孤立して最後まで戦う義理は彼らにはない。
 「この先は通さんっ!」
 手のひらから零れていく水を必死で掬い続けようとするように、バルドの前にエマールは立ち塞がった。
 「邪魔しないでくれないかな? あの馬鹿マゴットに説教しなきゃいけないんだ」
 「笑止! あの魔女が人の意見など聞くものかよ!」
 エマールに一喝されて咄嗟に反論できないところがむなしい。
 確かにバルドが何と言おうとマゴットが態度を改めることなどないであろう。
 だからといって何も言わずに黙っていられるか、といえばそうでないことも確かであった。
 「ならば押しとおるのみ!」
 セルヴィー侯爵軍の崩壊までそれほどの猶予はないのは疑いもない。
 まだマゴットの体力が無現でないことも事実。
 互いに身を切るような時間との勝負になりそうであった。


 「そらそらそらっ! 早くしないと味方がいなくなるよ?」
 「おのれ! その癇に障る笑いをやめろおお!」
 マゴットの速度は十分に目視できるほどに落ち込んでいた。
 それでもなお抜群の勘と技量を併せ持つマゴットをどうしても捉えきれない。
 銀光の異名通り神速のスピードばかりが知られるマゴットだが、動かずに立ち会ってもイグニスに勝る戦士であるということはあまり知られていない。
 速度が落ちたからこそわかる隔絶した技量の差に、兵士たちはマゴットに対する畏怖を新たにした。
 「ふう……どうしたい? あまりあたしを休ませるとまた回復しちまうよ?」
 威圧され動けぬ兵士を尻目にマゴットはどこまでも余裕である。
 槍さばきと足さばきだけで次から次へと襲いかかる騎士たちを翻弄し続ける様は、まさに地上に降りた女神そのものだ。
 自らの武に自信のない兵が足をすくませたとしても誰が責められよう。
 「休ませるな! これが……これが最後の機会なのだ!」
 ハウレリア王国がマウリシア王国に攻めこむことも、セルヴィー侯爵家がこれほどの軍を維持することも、そしてこの魔女が単騎で身体を晒してくれることも。
 何もかも今後二度とない最後の機会。
 アンドレイは犠牲が増え続け、逃亡する兵士が激増し始めたことに気づきながらもなお諦めるつもりはなかった。
 「――――化け物め!」
 正しく化け物というべきであろう。
 個人の武勇が集団を上回るということは本来ありえないのだ。
 それを条件付きとはいえ成し遂げているのがマゴットの武である。
 ここに王国騎士団の手練が一人、二人でもいれば事情はまったく異なるのだが。
 「――――ちぃっ!」
 そんな無敵とすら思えたマゴットの身体が、大きくぐらつくのをアンドレイは目を剥いて見つめた。
 ついに神は我を嘉し給うたか!

 突如、急速に体力が失われていくのを自覚してマゴットは焦った。
 まだ魔力は枯渇したわけではない。
 体力もきちんと節約して残していたはずである。
 しかし現実として、マゴットの戦う力は失われようとしていた。
 それが意味するところをマゴットは本能的に悟った。
 (ま、それでも賭けはあたしの勝ちだね)
 槍につっかえ棒のようにもたれかかったマゴットに、ここぞとばかりに四方から騎士たちが襲いかかった。
 「なあああっ?」
 踏みこみの瞬間、騎士たちは何かに滑ったように顔から地面にダイブする。
 その騎士たちの延髄を狙って一陣の風が駆け抜けた。

 「年寄りの冷や水は勘弁してくださいよ、母さん……」

 ギロリ

 体力を失っても衰えることのない母の殺気に、早くもバルドは減らず口を叩いたことを後悔し始めていた。

 「あの女の息子かっ! ちょうどよい! 仲良くあの世に送ってやるわ!」
 もはや退くことを考えてもみないアンドレイは、新たな宿敵の登場にむしろ闘志を燃やしたが、部下たちはアンドレイほど虚心ではいられなかった。
 バルドの向こうには遅れて駆けつけてくる数十のアントリム軍がいる。
 エマールの相手はマティスに任せ、バルドは精鋭だけを率いてマゴットのもとへ急いだのだ。

 「――悪いがバルド殿を追わせはせんよ」
 「おのれ、マティス・ブラットフォード……!そこをどけえええ!」
 エマールの闘志と能力とは裏腹に、兵たちの士気はあがらない。
 勝利を確信して勢いに乗るアントリム軍に対して、セルヴィー侯爵軍でここを死に場所と思い定めているのはごく一部である。
 兵数には勝っていても、たちまち寡兵のアントリム軍が優位を占めた。
 敵味方入り乱れて乱戦となったのを尻目に、バルドは無事母のもとに駆けつけたのである。

 マゴットを相手に絶望的な戦闘を続けてきたセルヴィー侯爵軍である。
 少なく見積もっても数百という損害を出して、ようやく追い詰めたと思ったところに新たな化け物がやってきた衝撃はなまなかなものではなかった。
 敗北しつつある味方、手も足も出ずに殺された仲間。
 そして今、目の前に立つ少年は先ほど山を崩し、精強をもってなる騎士団を壊滅させた男なのである。
 兵士たちの心が折れるのも無理からぬところであろう。
 「敵は少数ぞ! 囲んで殺せ! 決して逃がすでない!」
 アンドレイは声のかぎりに叫んだが、その声に敏感に反応したのはセルヴィー家に長く仕える年来の家臣だけだった。
 近づけばほぼ死が待っているであろう化け物に近づく兵士たちの足取りは明らかに重かった。
 「何をしておる! 早く進め! 進まぬかあああっ!」
 敵はたった数十人なのだ。
 そして最大の戦力であるはずの銀光マゴットは疲れきって使い物にならない。
 今殺さずいつ殺す?
 これほどの機会が、この先私の人生に残されているというのか?
 そう考えたときにアンドレイはひとつの結論に達した。
 ――――そうだ。私はもう死ぬのだ。私の悲願のために部下も何もかも道連れにして死のうとしているのだ。
 年来の腹心を殺し、本隊が撤退に移っているのを知りながら、宿敵を殺すために兵を駆りたてている。
 にもかかわらずどうして自分は屈強の騎士に守られて戦いを見守っているのだろう?
 ドルンを殺してまで引き返してきたのはそんなことをするためなのか?
 「馬を引けいっ! 私が出る!」
 「お、お待ちください! もう少しやつらを弱らせてからでも!」
 「よいのだ。時間がこちらに味方するとも限るまい」
 怯えた兵を奮い立たせるのに、もっとも効果的なのはいつの時代も指揮官先頭である。
 もう一度腰の引けた兵を再び突撃させるにはアンドレイ自身が、最前線でそのくそ度胸を見せつけるしかなかった。
 そのために死ぬことがあろうとも、今さら惜しむ命などありはしないことをアンドレイは気づいたのであった。
 「――行くか」
 主君がもはや戻れぬ覚悟を決めたこと、そして留めることが叶わぬことを知った騎士は、自らも死への道連れとなるべく騎乗の人となったのである。
 「御意」
 減じたとはいえアンドレイが掌握する兵は六百ほど。
 まだまだアントリム軍に比べれば圧倒的に多数を誇っている。
 人外のマゴットとバルドがいてもなお、勝利が可能な数であった。
 少なくともマティス率いるアントリム軍はエマールが拘束してくれるだろう。
 「よくぞついてきてくれた我が兵たちよ。これを最後に幕引きとする。突撃が終わればみな速く逃げよ。バラバラになって逃げればマウリシアもわざわざ追いはすまい」
 殲滅戦を行うほどの余力はアントリムにもランドルフにもない、とアンドレイは確信していた。
 「しかし今このいっとき、我らが宿敵、我が子、我が家族、我が領民の怨敵、コルネリアスの化け物を殺すまで私に力を貸してくれ。持てる力を振り絞ってくれ。諸君たちの力が必要なのだ」
 アンドレイの不退転の決意が伝わらぬはずがない。
 消沈していた兵も、主君の涙ながらの訴えに心を揺さぶられずにはいられなかった。
 兵という生き物は、移り気であるがゆえに、逆に容易く煽動に乗りやすい生き物であった。
 もちろん、きっかけがあればすぐに再び逃げ腰に戻るものではあったが。

 「退くな。退けば呑みこまれるぞ」
 「わかってる!」
 マゴットの忠告にバルドは素直に頷いた。
 耐えて相手の疲労を待つ戦法もあるが、むしろ疲労しているのはこちらのほうであり、ここで気持ちでも負けてしまえばあとは破滅が待っている。
 「自分の身ぐらいは自分で守れる。お前はお前の義務を果たせ」
 「母さんはお腹の子供も守らなきゃいけないってことを忘れないで下さいよ!」
 「息子に心配されるほど堕ちちゃいないさ!」
 悠然と笑うマゴットではあるが、ほとんど力が残っていないことは自分が一番わかっていた。
 しかしそれでも戦えてしまうところがマゴットがマゴットであるゆえんであった。
 呆れたように肩をすくめたバルドは、一転して表情を引きしめ、ブルックスたち部下に向かって怒号した。
 「打ってでるぞ」
 「そういうと思ったよ」
 バルドも含めたアントリム軍総員三十八名。
 対するアンドレイの手勢は六百余名と圧倒的というのも馬鹿らしい戦力差である。
 だがバルドたちはそれ以上に絶望的なハウレリア全軍を敵に回して戦い抜いてきたのだ。
 今さらこの程度でおじける理由は何もない。
 「押せやああああっ!」
 先手を取ったのはわずかにバルドの方が速かった。
 身体強化にものを言わせて先頭の集団にいち早く槍をつける。
 出鼻をくじかれて勢いを弱めたかにみえたセルヴィー侯爵軍だが、アンドレイを護衛していた二人の騎士が進み出てバルドに襲いかかった。
 「我が名はフェルナー」
 「我が名はマーラ」
 「主君への忠誠と我が友トーラスへの弔意のため、貴殿の命もらいうける!」
 二人にとってトーラスはいずれ騎士団の頂点に立ち、上司となるべき親友であった。
 それがコルネリアスで命を落としたという裏事情を知って、どれほど歯噛みし無念のほぞを噛んだことか。
 トーラスと違い、部隊を指揮する能力は平凡であった二人だが、個人的武勇においてはトーラスに勝るとも劣らない。
 バルドはたちまち二人の猛攻の前に防戦一方となる。
 「孤立するな! だが、決して立ち止まるな!」
 バルドに代わってブルックスが指揮を引き継ぐと、ブルックスは堂に入った指揮で縦横にセルヴィー侯爵軍を引きずりまわした。
 足を止めて真っ向勝負となればアントリムの劣勢は免れないため、機動戦で包囲を逃れる以外に手段はなかったのである。
 兵数に勝るセルヴィー侯爵軍はアントリム軍を包囲しようと両翼を伸ばしつつ、同時に兵力の優位を生かしてマゴットへと迫った。
 「――――くそっ!」
 「いかせんぞ、そこで母が討たれるのを見ているがいい!」
 バルドもブルックスも、可能な限り敵の妨害を試みたがいかんせん手が足りない。
 「マ――ゴットォォォォ!」
 アンドレイは雄叫びをあげてマゴットに撃ちかかった。
 齢を重ねたとはいえ、いまだ現役の武人で在り続けるアンドレイである。
 その能力は一線の騎士をすら凌駕する。
 もっともマゴットに比肩するほどの武ではないが、今のマゴットには最小限の労力で攻撃を避けることしかできない。
 視認することすら不可能な閃光のごとき速度も、今や見る影もなく、だがそれがゆえに見事な体さばきがマゴットの尋常ではない武量を示していた。
 「見事だっ! 見事だぞ銀光! そのまま死して伝説となれいっ!」
 「死んで得られる栄光なんざ興味ないね!」
 脂汗を流しながらもマゴットの歩みはよどみない。
 しかしマゴットの体調の不良は、彼女の完璧な武に影響を与えずにはおかなかった。
 ほんのわずかほど、足元をふらつかせたマゴットの肩口を、兵士の槍が偶然にかすめていく。
 かすり傷ではあるがマゴットはそのままバランスを崩して片膝をついた。
 「危ないっ!」
 咄嗟にバルドは手に握っていた剣を投擲して、今にもマゴットを貫こうとしていた騎士を討ち倒す。
 それは同時に、バルドが二人の手練を相手に、武器を失って素手になったことを意味していた。
 「甘く見られたものだなっ! 素手で我らを防ぎきれると思ったか!」
 刹那、轟といううなりをあげて一本の槍がバルドを狙うフェルナーとマーラの剣の間に割り込んだ。
 「なにやつっ?」
 その隙にバルドは槍を手に取り、二人の剣を撃ち返す。
 千載一遇の機会を失わせた犯人を探して二人は槍の投じられた方向に視線を向けた。
 「――バルド! 今行くわ!」
 「シルク!」
 そこにはアルフォード率いるランドルフ侯爵軍から分離したおよそ数百の騎兵を率いて、馬を駆るシルクがいた。
 どれほど心配しただろう。
 孤立したアントリムの情報を聞いたときには、心臓が死神に掴まれたような悪寒が走った。
 シルクはここにいたるまでの焦燥と無事なバルドを見た瞬間のときめきに、自分の中の想いを新たにした。
 「隊列を立て直せ! 歩兵は槍先を並べろ!」
 寡兵のアントリム軍とマゴットを包囲するために兵力が薄く分散していたセルヴィー侯爵軍は、騎兵という突破力の優れた兵科に柔らかい横腹を食い破られた。
 それがアンドレイの執念が乗り移ったかのように勇猛に戦っていた、セルヴィー侯爵軍の限界を告げる合図となった。
 「ええ~いっ! うろたえるな! 死に臨んで恥をさらすかあっ!」
 騎士であるフェルナーとマーラの叫びは、もはや一般の兵には通じなかった。
 算を乱したかのように恐慌が広がる。
 そして散り散りになって逃げ散っていく兵士たちを押しとどめることはどんな名指揮官にも不可能であった。
 「諦めん! 私は最後まで諦めん! たとえ死すとも貴様だけは殺す!」
 アンドレイはわずかとなった騎士の伴まわりとともに、なおマゴットへの攻撃を諦めなかった。
 兵が逃げようと彼のすべきことに変わりはない。
 いずれにしろセルヴィー侯爵アンドレイはここで死ぬのだから。
 「――――長い付き合いだった。あんたの首をほかの誰かに渡しゃしないよ」
 まあ、おかげで少し休めたしね。
 このまま放っておけばアンドレイはバルドかシルクが引き連れてきた連中に首を討たれるだろう。
 だがせめてアンドレイの恨みを一身に受け止めてやるのが、武人としての務めであるとマゴットは信じた。
 燃え尽きた焚火の埋み火のように、かすかな魔力を振り絞ってマゴットは瞑目しつつ身体を強化した。
 「勝負だっ! マゴットおおおおおおおおおお!」
 ――――そして再びマゴットが瞳を開いた瞬間、まるで椿の花が花ごとボトリと落ちるようにアンドレイと配下の騎士たちの首が大地に落ちて、赤い鮮血の柱が噴き上がった。
 まさに雷光の一閃に等しい神速のマゴットの一撃であった。
 「こ、侯爵様!」
 「――甘くみるなと言ったのはそっちだぜ?」
 敬愛する主君の死に動揺したフェルナーとマーラは、戦うべき目的を失ったかのように、あっさりとバルドに討たれた。
 もとより主君を死なせてむざむざと生き残るつもりなど二人には毛頭なかったのである。
 しかし亡き親友トーラスの仇を取れなかったのは無念であったのだろう。
 ありありと不本意そうな表情を浮かべたまま二人は絶息した。

 「深追いはするな! どうせ連中にもう立ち直る力はない!」
 アルフォード率いるランドルフ侯爵軍の主力は、ハウレリアの本隊の二割を削る戦果をあげつつ、撤退を図る国王ルイをあえて見逃した。
 この先ルイに待っているのは国家経済と軍と、潰滅した貴族組織の立て直しという茨の道であった。
 保険として残していた反国王派勢力との駆け引きもある。
 どう転ぼうと、再起してマウリシアに侵攻することは二十年は不可能であるはずだった。
 「ふん、生き残ったか小僧め。娘に心配をかけおって……」
 そう呟いてアルフォードはバルドの救援に向かった愛しい娘に目を向けた。

 「――――会いたかった! バルド――!」
 「えっ?」

 ピシリと世界が凍りつく音がして時が止まった。
 夢中ですがりついたシルクの唇が、バルドのそれに重なっていた。
 しかも首に両手を回して全力でバルドの頭を固定ホールドする熱烈仕様である。

 「こ、小僧……貴様なんということを……」
 「バルド……」

 ゾクリという背筋の凍える悪寒にバルドはようやくシルクを引き剥がした。
 母の折檻という生命の危機に対する無意識にまで擦りこまれた防衛本能のようなもののなせるわざであった。
 「母さん、これはですね……!」

 しかし予想に反してマゴットの表情に怒りの色はなく、むしろ病人が倒れる寸前のように顔色は透き通るように白かった。
 嫌な予感がバルドの脳裏をかすめる。
 鍛え上げられた戦士の勘が、鈍っていなかったことを、このときほどバルドは呪ったことはない。

 「…………破水しちゃった……」

 「うえええええええええええええええええええええええええええええっ!!」
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