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社会史怪説録 ~Hiikichi's BLOG~

ヨーロッパとニッポンの社会史を、「人の関わり」を中心に怪説します。 「解説」ではなく「怪説」です。

新ローマ皇帝物語(16) ~サルマタイとアラン②~

ローマを語る

サルマタイやアランが、カスピ海からロシア平原にかけた北方領域でも暮らせた単純な理由は、衣食の要となる家畜を飼い馴らす遊牧を生業としていたからでしょう。更に、大量の幌付き馬車を持ち、これが家の代わりとなり雨・露・雪・風の厳しさによる健康被害を極力防ぐことが出来ていた。

遊牧騎馬民族達は、"移動性"生活環境を開発し得たことで、大国家圏確立を可能にします。遊牧可能な範囲全てが「国家圏」と成り得る

都市を築き、家族が暮らす邸宅を持ち、地域特性の職業を持ち、という定住農耕を生業とする者達では考えられない"怖さ"を、遊牧騎馬民族国家は持っていた。今回は、その怪説です。

 

定住国家と移動性国家の決定的な差は、守らねばならない本拠地を持っているかいないか。其処よりもっと良い放牧地があれば移動する。固定都市化に拘らない。このような遊牧騎馬民族国家相手の戦争は難しかったでしょう。どの町を攻撃すれば相手が嫌がるのかが分からない。ローマ人は、帝都ローマを攻撃されることの無いように、周辺にいくつもの要塞都市を増加して行った。そして全ての道がローマに通じるように出来上がっていく。が、サルマタイやアランの首都が何処だったのか?明確に言える史家はいない。スキタイが占拠していた気候の良い黒海周辺を奪った、その程度しか云われない。いくつもの要塞都市を築いていたでしょうけど、その何処が中枢都市であったのか見分けがつかない。そういう点では、アケメネス朝などとも一線を画します。

先々に興る大モンゴル帝国も、本当はモンゴルの何処かの祖地を帝都化すべきところを支那へ移動して来て「大元帝国」を名乗るようになった。カラコルムを大首都化して、モンゴルの文化を広めようとした意図は見えますが、その国家経営の主軸たる遊牧を基盤とする産業は中央アジア~小アジア~黒海一帯へ展開。オスマン帝国帝政ロシアが出来上がる要因にもなった。日本人が、大陸へ向かって日本列島を見捨てるようなものだが、日本人にはそれは出来ないでしょう。京都や東京を捨てる、若しくは大陸に移築するような、生活・文化の大転換など日本人の世界では有り得ない。

(農耕)定住国家では有り得ない思考を、遊牧騎馬民族は持っていた。彼らを初めて敵にした定住民族国家は、彼らを理解することが直ぐには出来ないでしょう。定住性の高かったゲルマン系各民族・部族が次々に敗北して土地を追われ、「ゲルマン大移動」を余儀なくされた事は容易に理解出来ます。

 

ローマの将軍で史家のアンミヌアス・マルケリヌスは、彼ら遊牧騎馬民族社会をようやく理解した時に、幌付き馬車こそが彼らの根城だとして次の言葉を残しています。

彼らは、その中で夫婦となり、その中が家であり、その中に子が育つ」。

幌付き馬車は、家を再築するよりも早く回復出来るでしょう。ローマの兵士は家族と離れて戦地へ向かい、様々な欲(食欲、性欲、強奪欲・・・)を戦場その他で発散する。しかし、少し戻れば家族のいる幌馬車駐留地がある遊牧騎馬民族は、早くから騎士道の礎となった「家族に恥ずかしくない戦い(行い)」という考え方が常にある。抵抗者への強奪も破壊も繰り返すが、基本的には、血の匂いを家族の待つ幌馬車隊へ持ち帰らないようにする為、遠くへ届く武器(石や火薬弾の投擲、弓矢、長槍等々)を開発した。先進性と合理性を兼ね備えていた彼ら(遊牧騎馬民族国家)は、兎に角、圧倒的に強かったのです

更に、彼らが開発した武器の多くは女性にも扱い易いものであり、ローマ人では考えられない、女性も戦士足り得る社会だった。男性数と女性数併せて全てが戦士だった彼らは、ローマ軍団を遥かに凌駕します。幌馬車隊を襲おうとしても、それ(幌馬車)自体が洗車のような機能を兼ねて、弓が、石が飛んで来る。その事は、ギリシャの史家スキュラクスやヘロドトスの記述にも窺い知ることが出来ます。

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ヘロドトスの記述「サウロマタエの女は狩猟をし、弓を射、馬上から槍を投げる。そして男と同じ装いをして戦いに行く」。

スキュラクスの記述「女性がサルマティア人の社会を支配していた」。

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以上のことは考古学的にも証明されています。初期のサルマタイで、女性の埋葬姿の少なからずは、銅鏃や時には剣・短剣・槍の穂先を伴っています。13~14歳の少女の遺骸は足が湾曲していますが、これは、彼女達が、少年達のように、歩くよりも前から鞍の上に居たことの証明と言われています。女性の地位と行動が、ギリシャやローマ世界とは余りにも特異であった為、スキュラクスの記述となり、それを信じるローマ兵達は彼女らを恐れた。それが「アマゾネス」の物語などへも通じていったのではないかと考えます(独自怪説)。 

 

サルマタイやアランは、他部族の吸収合併を繰り返して強大化していきますが、彼らと共存を図ろうとしたのがギリシャ人だと云われます。

アテナイやスパルタは、アケメネス朝との戦争を繰り広げ、マケドニア(=ギリシャ人だと理解出来るなら)はペルシャを飲み込んだ。しかし、サルマタイやアランはあまりにも強かった。そして、ギリシャ世界との交渉役になったのは、サルマタイに吸収合併されたキンメリア人系スキタイ部族であったろうと考えます。

キンメリア人は、早くからギリシャ世界を脱して北方へ向かった部族と言われますが、彼らが定住先に選んだのは南ウクライナ。つまり黒海周辺です。その定住起源は、紀元前9世紀に溯り、彼らが暮らした南ウクライナ一帯はキンメリアと呼ばれます。しかし遊牧騎馬民族化したスキタイに占領される。キンメリア人は、スキタイと同化して遊牧化する者達と、再度ギリシャ世界へ戻ろうとする者達に二分化。しかし、ギリシャ世界での再興を夢見た者達は結局リュディア王国に吸収され消滅した事は歴史が証明しています。

サルマタイにスキタイが吸収されたことで、スキタイの中にあったギリシャ語を理解するキンメリア系部族の能力が外交に活かされ、サルマタイとギリシャ世界の一部は握手をする。 そのギリシャ側の代表格がボスポラス王国だと云われます。が、それは1世紀頃の話。それより以前、実は共和政ローマが先にサルマタイと手を組もうとします。

あまりにも強い相手であったこと以上に、遊牧性の高いサルマタイやアランは都市景観や伝統性などを尊敬せず破壊行動を躊躇わない。折角築いたものが破壊の限りを尽くされる事に対して業を煮やしたローマ人達は、彼らに、ローマ法やローマ社会に於ける教養を共有させようとします。彼らに、ローマ人の社会を理解させる為に築いた共有地帯がやがてはルーマニアとなった。という考え方も出来なくも無い。

ローマが守りたかったのは古くから皇帝属州として切り拓いたパンノニア

パンノニアを破壊される事を防ぎたかったので、ルーマニアを、遊牧騎馬民族達との緩衝地帯とした。という怪説を勝手に成り立たせようとするのは無理があるでしょうか?でも此方にはそういう理解の方がし易いので(東欧は、混血美女の宝庫ですから)、今回はそういう怪説で占めてあとは次回へ。

 

※(17)へ続けます