中韓との関係やTPP交渉などを見ると、日本外交が劣勢なイメージがあるかもしれない。だが、振り返れば、日本人は歴史の要所要所で外交巧者ぶりを見せていた。「逆説の日本史」シリーズで知られる作家の井沢元彦氏が、日本人が優れた外交手腕を発揮した場面を解説する。
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日本人は外交下手という一般的な評価は残念ながら存在する。確かに中国や韓国にはやられっぱなし、「南京大虐殺」でも「従軍慰安婦」でも、あまりにも日本外交は後手に回っていることは事実である。
しかし過去をさかのぼってみればそうでもない。日本も外交は得意だった時代はちゃんとある。
その最初はやはり聖徳太子に象徴される対中国外交であろう。日本にとって対中関係はずっと頭痛の種ではあった。なにしろ国土も人口も日本の数倍ある大国である。しかも、自分たちこそ世界の中心であり文化の中心であるという中華思想の塊でもある。そうした国家を相手に日本アイデンティティーを主張していくのは並大抵のことではなかった。
それは朝鮮半島の国家と比べてみるとよくわかる。7世紀に中国大陸で最盛期を迎えた超大国・唐は、当時3国に分かれていた朝鮮半島の「三国志」に強い影響を与え、結局唐の軍門に下った新羅が、高句麗、百済を倒して朝鮮半島を統一した。しかしその統一には高い代償を払わねばならなかった。これ以後、朝鮮半島の国家は常に国王が統治する王国となった。
しかし東アジアにおける国王とは「中国皇帝の臣下である周辺国家の首長」を意味するから、この時点で朝鮮半島の国家は、中国の属国少なくとも衛星国に成り下がってしまったのである。かつては中国の侵略を何度も自力で撥ね退けた高句麗の乙支文徳(ウルチムンドク=*注)のような英雄もいたのだが、そうした独立心は近代に至るまで朝鮮半島の国家からは失われた。
【*注/高句麗の将軍。隋に攻撃された際、隋側に虚偽の降伏を申し入れて内情を探り、食糧難であることなどを把握。引き寄せてから反撃し、隋に勝利を収めた。】
◆中国皇帝に「タメ口」
日本も、かつて日本列島を統一する強力な勢力がない頃は、九州の奴国の国王のように、あるいは邪馬台国の女王卑弥呼のように、中国皇帝に貢物を捧げて国王に任命してもらった権力者もいた。
だがそのうち朝鮮半島と違って、わが国の人々は、われわれは中国の家来ではない、独立した国家だというプライドを持つようになった。そのプライドを形にあらわしたのが、聖徳太子の「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す」という、中国皇帝に対して「タメ口」つまり対等の言葉遣いで出した国書である。
当時の中国は唐の前の隋だが、これを受け取った隋の皇帝は激怒したという。「このような無礼な国は許せぬ」ということだ。しかし中国大陸と地続きの朝鮮半島と違って、日本列島と中国大陸の間には深い海がある。いかに大国中国とはいえ、この海を越えて日本を攻めることは難しい。聖徳太子はそれを読み切って、この「独立宣言」を中国に叩き付けたのである。
最近は聖徳太子の実在を疑う人もいるが、こういう国書が送られてきて皇帝が激怒したということは、日本の書物ではなく中国の史書に書かれているのである。仮に聖徳太子は実在でなかったとしても、日本の皇室の誰かがこうした外交を展開した歴史は動かない。東アジアの中で、こうした独立宣言をしたのは日本だけである。これも日本外交の勝利であろう。
ちなみに日本という国号は、中国を強く意識している。日本とは「日の本」つまり「日出る処」であるが、本来西や東という方向は起点があってこそ決まるものである。「名古屋は東か西か?」という問いには答えられない。東京あるいは大阪という基点を定めてこそ、「東京よりは西、大阪よりは東」と言える。われわれの国が「日出る処」(東)と言えるのは、中国という西の大国があるからである。天皇という称号も国王(中国皇帝の臣下)ではないということだ。これも中国に対する自己主張である。そういう意味では中国は日本の永遠のライバルかもしれない。
もっとも、日本人はこの原則にこだわり例外を認めなかったわけではない。室町3代将軍・足利義満は天皇家に対抗し自己の権力を確立するため、中国(当時は明)に頭を下げて、日本国王に任じてもらった。中国は対等な貿易は認めないが、周辺の王国が貢物を捧げてくればその何倍もの「返礼」をする。それを利用して義満は「エビで鯛を釣る」貿易を展開した。今も京都に残る金閣寺は、義満が膨大な貿易の利益をつぎ込んで建てたものである。
※SAPIO2015年12月号
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