わたしは嫉妬魔だった。
すきなひとが過去の恋愛話をすることを受け入れられなかった。そのひとに変な色を付けた、とか、その人の人生に何かを刻んだ、とか、わたしにはできないやりかたで、わたしのすきなひとを虜にしたんだと思い、元カノのことなんて何一つ受け入れられなかった。憎む対象以外の何物でもなかった。
夫は若い頃かなりやんちゃだった。
ルックスはそんなでもないんだけど、とにかく仕事ができた。そして、どんなに苦しくても部下をほめたり飲みにつれて行ったり、とにかく出世街道まっしぐらのモーレツ社員だった。モーレツ社員であった夫は出世し、世の中に残る仕組みを生み出して、やがて社長にまでのぼりつめた。
わたしみたいに起業して社長になるのとは違って、既存の会社で出世して社長になるのって、伝説レベルですごいこと。
そんな夫に寄ってくる女はひっきりなしだったそうです。
わたしは、そんな女たちの話を聞くたび(聞きたくなくても耳に入ってきてしまうこともあるのよ)、嫉妬に狂った。
わたしより美しく(そりゃそうだw)、わたしより社会経験が豊富で、わたしなんかと比べ物にならないほどの高学歴で知識のベースがある女たちに対し、嫉妬に狂った。
嫉妬の炎は夫(当時はまだ恋人だった)との生活を焼き尽くした。焼け跡に残った私を見て、夫はこう言った。
「うらみは捨ててこそ止む」
当時はつばを吐いて「うっせーよ」って言ってたけど、今はその意味がわかるよ。わたしは、嫉妬を手放すことができたよ。あなたのおかげだよ。
■元カノのことをどうとらえるか
当時のわたしは、夫の元カノを「自分が受ける寵愛を脅かす存在」だと思っていました。でも今は違います。夫の元カノは、夫がわたしと出会うまでの間、夫のことを大切にしてくれた方なんです。その方々に対して、わたしは感謝こそすれ、憎しみなど持つべきではないと思ったのです。
この考えになれたのは、ここ2年くらいのことです。
■愛に近づいた
ある身近な人が、深く相手を慈しむような愛を育んでいて、相手を「自身の分身だ」とまで言えるほどの関係を築いていることを聞いたとき、心が震え上がりました。ああ、これが愛なのかもしれないな、と。
少し前の嫉妬に心を燃やすわたしでは理解ができなかっただろうけど、今ならわかる。その深く慈しむ愛の形がどれほどに尊くて、お互いの人生にとってどれほどの機微を与えてくれているのかを。
そして、そんな機微はふたりにしかわからない。第三者のわたしには、きっと生涯理解することはできないのでしょう。
でも、それでいいんです。
■愛の本質
わたしは、愛というものの輪郭に少しずつ、触れ始めています。
それは、執着や嫉妬を手放すことができたからだと思います。
わたしは、夫を今この時代まで生かしてくれたすべての人に感謝しています。一番感謝しているのは、外国人の元妻さんです。彼女との間には複数人の子どもがいて、そのうち一人は日本に住んでますw 夫にそっくりな夫の子どもたちすべてが、とてもいとおしい。もちろんそんなことはなかなか直接的には言えないけれど。
だけど、夫が元妻さんと離婚して、子どもだけが日本に来ていて、その子どもとわたしがとても親しくさせていただいていることは、もうこの世の奇跡と思えるくらいの素敵な出来事で。半径50メートルに愛が満ち溢れているような錯覚をおぼえます。夫と、夫によく似た子どもと3人で英語だけで話す一風変わった家族の夜。
…幸せです。
■わたしが欲しい愛
わたしは肉欲がほしい。きれいごとじゃなく今、衝動的に求められるような愛がほしい。溺れたい。だけど飛び込めない。中途半端。わたしは愛と肉欲の狭間で揺れ動きたいのです。ビジネスと日常の繰り返しじゃ絶対得られないような世界に行きたい。
世間でこんなことを言ったら嘲笑されるでしょう。
頭の悪い女だとレッテルを貼られるでしょう。
でもね、もうだましきれないんです。自分のことを。
わたしは、執着と嫉妬を手放して、本当の愛に近づけた。だからこれからは、ひろいこころで自分の中の愛と向き合うつもりです。
これは、誰にも止められやしない。
一度きりの人生で、燃えよう燃えようという自分を押さえつけて生きることのなんとむなしいことよ。わたしは、この身がなくなったとしても、燃え尽きる方を選ぶ。
だって、愛に近づけたのだから。