ため息をついたら幸せが逃げてしまいます。
幸せを運ぶ天使は逃げ足がとてつもなく速いので、顎を引いていつだって身構えている必要があります。
屋上で幼い姉弟が下を覗いて何か話をしていました。やがて弟はつま先で立ち、そこからニジンスキーのように飛び跳ねて遊びを始めたのです。姉は心配で心配でたまりませんでした。床のない空が一歩先で待ち構えているのだから、当然のことです。なのに怒っても拗ねても宥めても、飛び跳ねる弟を止めることはできませんでした。
私がブログを書く理由はきっと、姉と同じ気持ちになるからです。
世界中のあちこちで、夜中にスマホを眺めている人はいったいどれくらいいるのでしょうか。彼らは液晶に指を滑り込ませたらすべての情報を得ることができると錯覚しています。
しかし寝ている人が脳に沈み込んだ記憶という情報を浮かび上がらせることに比べたら、スマホに突っ込んだ指など大したことではありません。ディスプレイに指を入れるよりも、記憶の中をかき混ぜるほうが明らかに膨大な資料と向き合っています。
だから眠るべきです。
なのに私はここ数日、眠ることがどうしてもできません。同じ夢を何度も見るから、それが私にとりついて離れないから、それとも私が決して手放そうとしないから、あくびをしながら目頭を懸命に踏ん張って二重瞼をなんとか維持しているというのが真相でした。セピア色に色落ちした夢の舞台は、JR弁天町の駅のホームです。時計の針はまだ、木製のベンチが壁に埋め込まれているような古い時間を指しています。
そこで私は生涯、忘れられないものを見て、ふがいない自分を死ぬまで悔やむ結果を突き付けられたのです。
先日、100人くらいのとても懐かしい人と会ってきました。
その中のたった一人は、実は私にとって七十億分のたった一人の存在です。けれどももう、その人は私に視線をくれるどころか顔を向けることさえありませんでした。
私の考えの中心にはいつも私がいるので、決定するのはいつだって私だということになります。このブログのカテゴリーの中で、できれば隠しておきたい記事がかなりの数、存在します。「ルーツ」「駅前第四ビルが愛した植樹」「わるぢえ」「別の世界に住む家族」これらについては、不特定多数の人にあまり読んでほしいとは思っていないのです。
私はそこに痛いことを痛いと正直に記しています。痛いことには必ず理由が存在し、ときたま高揚した私の指は書かなくてもよいことまで残してしまうのが、それこそ最も痛い行為です。確かに言われてみれば、書かなくてもよいこともたくさんあります。しかし書くとかなり気持ちが良くて、なのに自分ではほとんど読み返すことができなくなってしまいます。自分でも読み返せないような記事なので、できれば他の方には読まれたくない、まるでガムテープで体をぐるぐる巻きにされて鞭うたれる気分を味わうさまは、どう考えてもMの所業と言えますが、だけど私はそれらの記事を断じて消したくはないのです。
それこそ正真正銘のMの証明です。
ひょっとすると私が見ている夢は、幻覚だか妄想だかわからない、私自身が私に対して都合よく作り上げた言い訳なのかもしれません。
私の中にある記憶を混ぜるときに生まれた不具合である可能性も否定できません。つまりは私が私自身に向かってついた嘘だと断定しても、それほど間違ってはいないはずです。それこそが真相にもっとも近い解説だと考えるほうが無難です。
それらを総合して考え抜いた結果、これから書くことはひょっとすると現実ではないのかもしれません。卑怯な言い訳だとは思いながらも、最初に断りを入れさせていただきます。
私は今までに、何度か幻覚を見た経験があるので、根拠のないこじつけではないと今回は言い切ります。
高校の卒業式の日です。私は誰かを見送りに弁天町の駅まで行きました。誰を見送りに行ったのか、そのあたりのことについては曖昧で、もうほとんど覚えてはいません。おそらくそれほど重要ではないと判断された記憶はその都度その都度、脳が地球の自転と共鳴するかのように切り捨てられていくのでしょう。
とにかく送ったあと私は学校へ戻り、まだまだみんなとわいわいやるつもりでいたのです。一生に一度しかない高校の卒業式の日です。そうやすやすと家に帰るような学生ではありませんでした。そして私は改札口のほうへ歩き出します。すると向かいのホームにその人がいたのです。その人は制服ではなくて、赤いワンピースを着ていました。その人の家は学校の近くだったので、家で着替えてからきたのだろうと予測をつけました。
その人はこちらに向かって歩いて来ます。ただし私たちの間には線路が横たわっていました。こちらのホームと向かいのホームの距離はおそらく、十メートルもなかったはずです。私たちは歩きながら互いを確認しました。そのはずです。確かに目と目が合ったのです。
しかし私たちの間には十メートルの距離と、すれ違ったあとは遠ざかるだけの結末しかありませんでした。
それが私の夢です。何度も何度も見る夢です。ひょっとすると妄想とか幻覚のたぐいかもしれない夢です。でもその人が赤いワンピースを着ていたのだけは、鮮明に覚えています。決して私から取り上げることのできない、私だけの記憶だったからです。
バタフライ・エフェクトというSF映画を観たことがあります。
初めのすれ違いがどんなに小さくても、時間の経過や組み合わせによっては大きな影響が現れる。だからどんな未来が訪れるかは誰にも判らない。曖昧さを回避するために時間を行き来する作品なんて、それほど珍しいジャンルではありませんが、なぜか高い評価を得ている作品です。ストーリーそのものに目新しさはなくとも、主人公が最後の最後に選択する行為がたくさんの人から支持されているのではないかと思います。
主人公は彼にとってのその人をラストに見送ります。私もやはり先日、その人の後ろ姿が遠ざかる時間を経験しました。
なぜあの日、駅のホームにその人はいたのか。しかもそのときしっかりと、私に視線を向けたはずです。私はなぜ向かいのホームに駈け出さなかったのか。いまだに夢を見てうなされているというのに、なぜ階段を上ろうとしなかったのか。
言い訳はいりません。だけど結果的に私があの日、向かいのホームへ行かなかったほうが、その人には幸せだったような気がします。先日会ったとき、いまだにきれいな姿を見て、私はなぜか誇らしく思いました。これまでの人生がきっと、幸多いものだったに違いないと確信しました。
だからバタフライ・エフェクトのラストのように、とても満足な気持ちで見送ることができたのです。もう二度と会うことはありませんが、どうかこれからも穏やかな人生を送ってほしいと願うのみです。赤いワンピースのその人が、向こうのホームを歩く姿が鮮明に私の記憶に焼き付いています。それは私にとっても、とても幸福な妄想であると最後に記しておきます。
最後まで読んでくれて、本当にありがとうございました。
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などがあります。時間があれば、ぜひ読んでください。よろしくお願いします。