前回の続きです。
元ネタは2011年東大入試から。
(2011年東大入試より)
つぎの表は,室町幕府が最も安定していた4代将軍足利義持の時期(1422年)における,鎌倉府の管轄および九州をのぞいた諸国の守護について,氏ごとにまとめたものである。この表を参考に,下の(1)・(2)の文章を読んで,下記の設問A〜Cに答えなさい。
氏 | 国 |
赤松 | 播磨,美作,備前 |
一色 | 三河,若狭,丹後 |
今川 | 駿河 |
上杉 | 越後 |
大内 | 周防,長門 |
京極 | 山城,飛騨,出雲,隠岐 |
河野 | 伊予 |
斯波 | 尾張,遠江,越前 |
富樫 | 加賀 |
土岐 | 伊勢,美濃 |
畠山 | 河内,能登,越中,紀伊 |
細川 | 和泉,摂津,丹波,備中,淡路,阿波,讃岐,土佐 |
山名 | 但馬,因幡,伯耆,石見,備後,安芸 |
六角 | 近江 |
(1) 南北朝の動乱がおさまったのち,応仁の乱まで,この表の諸国の守護は,原則として在京を義務づけられ,その一部は,幕府の運営や重要な政務の決定に参画した。一方,今川・上杉・大内の各氏は,在京を免除されることも多かった。
(2) かつて幕府に反抗したこともあった大内氏は,この表の時期,弱体化していた九州探題渋川氏にかわって,九州の安定に貢献することを幕府から期待される存在になっていた。
設問
A 幕府の運営や重要な政務の決定に参画した守護には,どのような共通点がみられるか。中央における職制上の地位にもふれながら,2行以内で述べなさい。
B 今川・上杉・大内の各氏が,在京を免除されることが多かったのはなぜか。2行以内で説明しなさい。
C 義持の時期における安定は,足利義満の守護に対する施策によって準備された面がある。その施策の内容を,1行以内で述べなさい。
解答としては、Aについては三管領、四職の有力守護大名がいずれも機内周辺を含む複数の国を持っていたことを指摘すれば十分でしょう。
ところで、B,Cの答えを考える前提として、前回の記事で書いたことを再度ここで考えてみます。
booktravelhistory.hatenablog.com
鎌倉幕府が抱えていた矛盾というのは、結局のところ、関東にいる各御家人に全国各地の荘園の支配権を認めたため、結果的に地方に対し支配が行き届かなくなったというものでした。
そこで、室町幕府がなぜこのような体制になったかは、この問題を解決する方法を考えてみるとわかりやすいです。
この問題への一番の解決策は、中間支配層を作ってしまうことです。
各御家人が直接幕府に奉公するという体制を放棄して、幕府→各国の守護→各国内の荘園という支配体制を構築してしまえば、幕府は各国の守護を統制するだけでよく、後のことは各守護に任せてしまえば、間接的ですが地方に対しても影響力を及ぼすことができます。
そのため、幕府としては、京都周辺を支配する守護には在京させて幕府の監視下に置き、一方で地方の守護には、度々在京を免除して地方の支配を任せる、といった政治体制がをとったと見ればわかりやすいでしょう。これがBの答えでしょう。
かつ、(2)を見ると分かる通り、地方支配にあたったのは、「幕府に反抗したこともある」大内氏でした。
つまり、室町幕府は、敵を滅ぼすのではなく、力を弱めた上で(領国を削減して)支配体制の中に取り込んで、地方支配に利用していたことがわかります。
室町時代に守護の力が強かったことについては南北朝の動乱の中での妥協の産物、という見方もありますが、むしろ守護の力をうまく利用する、という理由が幕府の側にもあったのではないか、と考えると、このような体制が取られた理由がわかります。
そうなると、Cの答えとしては、よく教科書に書かれているような、守護大名の力を弱めた、というだけではなく、その後幕府の体制に取り込んで支配の強化に利用した、というところまで指摘することが求められているのではないでしょうか。
ただ、このやり方というのは、結局幕府の力が守護の力に依存することになるので、いったん幕府の権威が弱まって守護への統制が効かなくなると収拾がつかないことになります。
その結果がその後の応仁の乱から戦国時代に続いていくわけですが、その話はまた次の機会に。
※前回記事は多くの方に読んでいただけたようで、ありがとうございました。今回の記事も気に入っていただけた方はシェアよろしくお願いいたします。